恐怖の中国シリーズ

2013年09月30日 10時19分40秒 | Weblog

 

   恐怖の中国 http://youtu.be/NioVrmjGaus

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錯覚美術館

2013年09月30日 09時07分08秒 | Weblog


突然だが、
みなさんは目の錯覚というものを体験したことがあるだろうか?

同じ大きさなはずなのに、こっちのほうが大きく見える!
とか、どう見ても○○のように見えるのに!?とか
そんな錯覚を体験できるのが、こちらの錯覚美術館。

RIMG0414

この錯覚美術館。単なるトリックアート美術館ではなく、
明治大学の研究施設の研究発表の場なのだ。
そのため、土曜日しか開館していない。
月に4回~5回しか開いていないと考えると、なかなかレアだぞ。


RIMG0413

入口からして凝っている。
なんだかところどころ欠けている看板だが…


RIMG0411

自動ドアがスライドするとこのとおり!
無いはずの棒が頭の中で補われる。
こういうのを空間補完効果というらしい。



RIMG0368

中にはところ狭しと展示物が並ぶ。
正面に展示してあるのはトラの絵と猫の絵。
しかしよく見てみると…


RIMG0372 RIMG0373

それぞれビルの絵と車の絵に変わる。
ネコは近くで見てもちょっと無理があるかもしれない(笑)


RIMG0374

ちょっと分かりづらいが、フルーツの絵。


RIMG0377 RIMG0379

実はこれ、マントヒヒと女の人の絵を重ね合わせて出来たもの。
色の濃い部分と薄い部分を重ねて、先ほどの絵を作り出したらしい。
この技術を応用して秘密文章が作られているんだとか、いないんだとか。


RIMG0380

続いてはこちらの2つのボールが乗ったレール。
パっと見たところ、左から右へ転がっていきそうだが、
実は右から左へと転がり上がる!(動画を撮り忘れた、ごめんなさい!)


RIMG0382

実はパースがついているため、登っているように見える。
逆から見るともっとよく分かる。


同じような原理を使ったのが以下の動画。
メッチャすごいから見てみて!!



その1、どこからも登っているように見える滑り台




RIMG0384

お次は、この女の子の絵。
どう見ても右目と左目は違う色だと思うでしょ?
右目の色と髪飾りの色が同じ色だって思うでしょ?


RIMG0388

ところが、目以外の部分を隠してみるとこのとおり。

実はなんと全く同じ色をしている!!

黒目の部分を隠すともっと分かりやすいだろうね。


RIMG0390 RIMG0391

青いバージョンもあった。
こっちのほうが同じ色だってことが分かりやすいかも。

まぁ、要するに頭の中で「赤・青のフィルターがかかっているから、
元はこの色なんだろう」って感じで勝手に色を変換するらしい。

理屈では分かっていても、目が黄色にしか見えないから不思議!!

RIMG0393

続いて、明暗差を使った錯覚。

中心の白い部分と外側の白い部分は同じ白。

黄色い花びらのような部分に色の濃淡があるから、
それに合わせて白い部分にも濃淡があるように錯覚してしまうらしい。


RIMG0397

続いては、揺れているように見える絵。
実はどの線も真っすぐなのだ。

何がすごいって、写真を見ても揺れているように見えるのが凄い!!


RIMG0398

続いては、縦断勾配錯視。
急な下り坂のあとに緩やかな下り坂があると、
登っているかのような錯覚を覚える。



RIMG0399

実際にラジコンに積んだモニターでそれを体験することができた。

どうでもいいけど、東京の多摩境にある小山内裏トンネルって、
どっち側から入っても下っているように見えるんだけど、
それもこの原理なのかもしれない。


RIMG0401 RIMG0406

錯覚現象を利用した新しい看板表現。
どちらも同じ形をした矢印なのだが、色の違いや、
ライトの当たる角度によって凹んでいるように見えるものと、
出っ張っているように見えるものがある。

左の写真なんかは完全にライトの角度が錯覚の補助をしている。


最後はこちら

RIMG0402

文字列傾斜錯視。
どう見ても斜めになっているように見えるのだが、
「一」と「十」の横棒の高さの違いからこのように見えるらしい。





というわけで、錯覚美術館。
冒頭でも述べたが、単なるトリックアート美術館ではなく、
きちっとした学術研究の成果発表の場なので、
1つ1つの展示物の説明がしっかりとなされている。

明治大学の大学院生さんや教授が説明をしてくれるので、
錯覚について何も知らない人でも全然気楽に行ける。

本当に小さな展示スペースの美術館だったが、
気づいたら2時間近くいてしまった。
ここは本当にオススメだぞ!!




 店名 錯覚美術館
 住所 東京都千代田区神田淡路町1-1 神田クレストビル2階
 電話番号 03-5577-5647
 営業時間 10:00~17:00
 定休日 土曜日のみ開館
 関連URL 公式HP






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錯覚美術館2

2013年09月30日 09時06分49秒 | Weblog

 

28日(土)東大本部食堂(定食に大満足)訪問者が多数食事していた・総合研究博物館・生協・鉄138億年の宇宙謎展・錯覚美術館と見て回り 新たな発見でした



錯覚美術館の見どころ

 2011年5月14日(土)から、毎週土曜日の10:00~17:00に 明治大学錯覚美術館を一般公開しています。
 場所、行き方などについては、 錯覚美術館ホームページ をご覧ください。
 以下は、私の個人的視点からの見どころの紹介です。



展示のキーワードは「計算」

 錯覚作品を計算によって作るときには、錯覚の効果を予測できますから、それを自由にコントロールする こともできます。特に錯覚効果を最大化することによって、あなたの目は混乱するでしょう。





入り口ドアに仕掛けられたロゴ

 錯覚美術館のロゴマークが水平線とそれ以外に分解されて、入り口の二つの ガラスのドアに描かれています。自動ドアが開くと、それらが重なってロゴが 浮かび上がります。





床に埋め込まれた錯覚図形

 静止図形なのにゆらゆら動いて見える浮遊錯視の代表作「トゲトゲドリフト」(北岡明佳作)が 錯覚美術館の床に埋め込まれています。なにげなく足元を見てこれを見つけたとき、腰を抜かさない でください。





2010年ベスト錯覚コンテスト優勝作品の実物とトロフィー

 2010年5月に米国フロリダで行われた第6回ベスト錯覚コンテスト (6th Best Illusion of the Year Contest) で優勝し、初めてアジアにトロフィーを 持ち帰った不可能モーション立体を展示しています。手作りの素朴な紙細工ですが、 その素朴さと国際大会優勝との落差も楽しんでいただけるかもしれません。
 また、映像モニターには、不可能モーション新作集「不可能モーション3」も 流れています。



  何でも吸引四方向滑り台 (ビデオ)



自作の「エッシャー風タイリングパターン」を絵ハガキに

 オランダの版画家エッシャーの「空と水」(1938)という作品は、 空を飛ぶ鳥と水中を泳ぐ魚が「図と地の反転」錯視を利用して組み合わされた素敵な タイリングアートです。あなた自身が与えた二つのパターンをもとに、 「空と水」と同じ構造を持つタイリングパターンを自動生成するシステムを開発しました。 自由に図形を与えてあなた自身の作品を作ってみてください。それを絵ハガキに印刷 してお土産に持ち帰っていただけます。





写真家/デザイナーの高津央氏の写真とともに展示された不可能立体

 不可能図形のだまし絵を立体化した不可能立体も展示しています。立体のそばには、 高津央氏による幻想的な写真とイラストも添えてあります。





錯視デザイナー北岡明佳の作品がタペストリーに!

 数々の錯覚作品を世に出している北岡明佳の代表作を、タペストリーにしました。 錯覚美術館の中央に飾ってあります。大画面の作品から生み出される錯覚の迫力に酔ってください。





錯覚効果を自由に操作

 数学者の新井仁之は、計算で錯覚を自由に操ります。図形から、錯視成分を抽出し、 それを加工してからもとの図形に埋め込むという方法で、錯視量の最大化・最小化が できるだけでなく、どんな図形も(無地でさえなければ)加工によって錯視図形に 生まれ変わらせることができます。





画像を手品のように

 山口泰は、カード手品のように、画像を使って情報を出したり隠したりします。1枚の 画像が複数のものに見えるハイブリッド画像、2枚の画像から第3の画像が 現れる視覚復号型暗号画像などを体験してください。





道路傾斜錯視を解明して渋滞緩和へ

 友枝明保は、ドライバーから見た道路の傾斜の誤認(縦断勾配錯視)を、 道路模型を使って調べています。この錯視は、高速道路の自然渋滞のひとつの原因と なっていることがわかりつつあります。この錯視の仕組みを解明し、 ドライバーが傾斜を正しく知覚できる道路の設計法を確立することによって、 渋滞緩和へ貢献することをめざしています。





錯覚の日常生活での利用をめざして

 宮下芳明は、錯覚を日常生活やエンタテインメントに生かす 道を探っています。 たとえば、贈り物を包む包装紙に折り目の情報をいれて ラッピングの失敗を防ぎたいとき、主観輪郭線によって折り目を表す方法を 提案しています。これによって、包装紙のデザイン性を損なうことなく 折り目情報が表現できます。





色の不思議をコマで体験

 植田一博と福田玄明は、物理的はない色が見えてしまう色錯視を、 研究しています。この二人が発見した新しい色錯視を 卓上扇風機に取り付けたコマで体験してください。




CREST「数学」領域「計算錯覚学の構築」

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山口組武器庫

2013年09月30日 08時39分50秒 | Weblog

 

衝撃事件の核心・手練れマル暴刑事も驚愕した、ダイナマイト21本…小学校、介護ルームの隣に 山口組武器庫

   
暴力団関係者が契約していた大阪市内のトランクルームで見つかった拳銃や実弾、ダイナマイト。欧米各国を代表する拳銃が並ぶが、ダイナマイトは年代物だった。暴力団担当の刑事たちもさすがにダイナマイトには驚いたという(大阪府警提供)

暴力団関係者が契約していた大阪市内のトランクルームで見つかった拳銃や実弾、ダイナマイト。欧米各国を代表する拳銃が並ぶが、ダイナマイトは年代物だった。暴力団担当の刑事たちもさすがにダイナマイトには驚いたという(大阪府警提供)

 「拳銃を隠している」。場所も定かでないおぼろげな情報の先には、手練れの「マル暴刑事」たちも初めて見る予想外のシロモノが待っていた。大阪府警捜査4課が12日に摘発した、指定暴力団山口組傘下組織の大規模武器庫。使われた大阪市内のマンション1階にあるトランクルームからは拳銃や実弾がゴロゴロ。そのうえ一次情報にはない“秘密兵器”も眠っていた。捜査員も一見して気付かなかったというそれは、21本のダイナマイトだった。

「3桐」の印字

 

 暴力団が銃器を隠し持っているという情報は、毎日のように捜査員の耳に入ってくる。ただ最近は捜索して1、2丁見つかれば御の字。地道な捜査の末、ハズレに終わるケースも珍しくない。摘発を逃れるため短期間で次々と移動させたり、分散して保管したりと、暴力団がより地下に潜行しているからだ。

 山口組直系組織「極心連合会」傘下の田口総業に関するネタも、最初は色めきたつようなものではなかった。捜査4課が情報をつかんだのは昨年夏。当初は場所も分からなかったが、発見に向けて片っ端から関係者の行動を追い続けた。

 気付かれれば相手側は武器を「疎開」させる可能性もある。約1年にわたる極秘捜査の末、同課が洗い出した関係先は30カ所。9月12日午後、銃刀法違反容疑で一斉捜索に着手した。

 狙いは的中。田口総業関係者が契約していた大阪市生野区のマンション1階にあるトランクルームから、拳銃7丁と実弾約500発が見つかった。

 拳銃はいずれも真正。CZ(チェコ)▽ベレッタ(イタリア)▽ルガー(ドイツ)▽デリンジャー(米国)▽スミス&ウェッソン(同)-とメーカーや製造国もさまざま。                                             暴力団関係者が契約していた大阪市内のトランクルームで見つかった拳銃や実弾、ダイナマイト。欧米各国を代表する拳銃が並ぶが、ダイナマイトは年代物だった。暴力団担当の刑事たちもさすがにダイナマイトには驚いたという(大阪府警提供)

 これだけでも華々しい成果だが、トランクルームをくまなく捜すと、ほかにも不審な木箱が。開けてみると、ビニールに包まれた葉巻のようなものが入っていた。

 捜査員たちは最初、目を疑った。表面には赤く「3桐」と印字されている。よくよく調べると「3号桐」というタイプのダイナマイトだった。

引火していたら…メーカーによると、3号桐は主に「明かり発破」と呼ばれる作業で使われるもの。土木、採石業者が屋外で硬い岩盤や岩石を爆破する際に用いる。

 捜査関係者によると、ダイナマイトは信管が外れた状態だった。「信管がなければめったなことがないと暴発しない」(メーカー担当者)というが、そのメーカーも人里離れた場所で保管。証拠品として押収した府警も、もしもの場合に備えて保管を外部委託したほどだ。

 そんな危険なものが、住宅街のマンション1階に眠っていた。同じ階には他に介護事業所などが入居。関係者は「(利用者に)お年寄りも多く、万が一、トランクルーム内で火事でもあったらと思うと、めちゃくちゃ怖い」とおびえた。

 マンションから約200メートル東には小学校があり、教頭は「こんな近くにダイナマイトがあったなんて驚きだ。児童らに影響がなくてよかった」と話す。

 トランクルームの契約は6月から。ダイナマイトはその前の保管先から、何らかの手段で運び込まれたことになる。捜査の目を逃れるため、短期間で転々とさせていた可能性もある。

 暴力団の武器をめぐっては、福岡県大牟田市で平成23年4月、車に乗せていた手榴(しゅりゅう)弾が暴発し、車ごと炎上。乗っていた暴力団関係者ら2人が死亡したケースもある

 手練れマル暴刑事も驚愕した「ダイナマイト21本」…小学校、介護ルームの隣に「山口組武器暴力団関係者が契約していた大阪市内のトランクルームで見つかった拳銃や実弾、ダイナマイト。欧米各国を代表する拳銃が並ぶが、ダイナマイトは年代物だった。暴力団担当の刑事たちもさすがにダイナマイトには驚いたという(大阪府警提供)

 「ダイナマイトに何かの拍子で引火していたら、周囲を巻き込む大惨事になっていたかもしれない」。捜査関係者は硬い表情で語った。

入手ルートは

 今後の捜査の焦点は、各国の拳銃やダイナマイトの入手ルートだ。ダイナマイトの場合、売買や使用のたびに自治体や消防などに届け出ることが火薬類取締法で定められている。

 記録上の数と実際に保管されているダイナマイト数との照合も定期的に行うことが義務付けられ、紛失したり、盗まれたりすればすぐに分かる仕組みだ。何者かがダイナマイトを使用したと虚偽の報告をしたうえ、横流しするくらいしか暴力団サイドに流出するルートは考えられない。

 メーカーによると、今回のダイナマイトは「『3桐』の印字が現在販売しているものとは違う。かなり古いタイプだ」(担当者)という。そうなると、入手ルートの特定はさらに難しくなってくる。

 山口組は現在、他団体と目立ったトラブルを抱えておらず、これほど強力な武器を隠し持つ必要性はないようにもみえる。

 特にダイナマイトは敵対勢力の拠点を吹っ飛ばすどころか、一般市民も巻き込みかねない。これまでの抗争で手榴弾が使われたケースはあっても、ダイナマイトはないという。

 山口組は史上最悪の暴力団抗争といわれる「山一抗争」をはじめ、ときには無関係の民間人をも巻き込んだ争いを展開してきた。見つかった銃器やダイナマイトについて、ある捜査関係者は「過去の抗争に絡んで入手したものの、使われずに残った武器の可能性もある」とみる。

 一方で拳銃のうち6丁は1、2丁ずつアタッシェケース内に保管され、抗争や報復といった「いざ」というときに、持ち出しやすく、すぐに使える状態になっていた

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中国人の当直責任者逮捕

2013年09月30日 08時20分06秒 | Weblog

 

 

中国人の当直責任者逮捕、業過致死の疑い 貨物船衝突下田海保

 

転覆した「第十八栄福丸」の船底で打音検査をする特殊救難隊員ら=27日、第三管区海上保安本部提供

転覆した「第十八栄福丸」の船底で打音検査をする特殊救難隊員ら=27日、第三管区海上保安本部提供

 東京・伊豆大島沖で貨物船同士が衝突し、第18栄福丸の乗組員5人が死亡した事故で、下田海上保安部は29日、業務上過失致死などの疑いで、貨物船ジィア・フイの当直責任者だった中国籍の夏紅波容疑者(35)を逮捕した。

 逮捕容疑は27日午前1時25分ごろ、伊豆大島の西約11キロの海上で、ジィア・フイを操船中に注意義務を怠り、栄福丸と衝突、転覆させ、乗組員5人を死亡させた疑い。容疑を認めている。

 捜査関係者によると、夏容疑者は逮捕前の調べに「(栄福丸を)避けようとして間に合わなかった」と供述していたという。

 同保安部などによると、ジィア・フイは船首の左右にへこみがあり、左舷側のアンカーが損傷。栄福丸も左舷側に傷があり、両船の左舷同士がぶつかったとみられる。

 

 

 

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保健の先生、被災地に行く

2013年09月30日 06時48分08秒 | Weblog

 http://youtu.be/5HKJ9Pc9KlQ

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女性巡査長、仮設住宅で見たもの

2013年09月30日 06時40分59秒 | Weblog

  http://youtu.be/QMEFJFeLCCU

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被災から1年 NY1取材班が被災地で見たもの

2013年09月30日 06時31分25秒 | Weblog

 

      http://youtu.be/luejOkkWqbc

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被災地から届いた感謝の歌声

2013年09月30日 06時10分26秒 | Weblog

 

    蛇田中学校生 防衛省訪問 http://youtu.be/fJyrqd5pLsw

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震災から2年バスツアーで見るいわき

2013年09月30日 06時02分26秒 | Weblog

 

   震災から2年バスツアーで見るいわき tp://youtu.be/YJ2LkFKLf0Mht

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ネットでまで拘束の少年(中三)釈放

2013年09月30日 05時55分44秒 | Weblog

    http://youtu.be/dvJbyHWwO44

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9月29日検索

2013年09月30日 02時40分49秒 | Weblog

       訪問者 119

       閲覧数 262

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2112年度 各党の政党の支出総額

2013年09月29日 04時23分47秒 | Weblog

 

<form id="yolsearch" action="http://search.yomiuri.co.jp/index.html" method="get" name="search" target="_top"><label for="queryword">検索</label> </form>
です

交付金「余り」民主・みんな・国民新に返還命令
 

 新藤総務相は27日、2012年までに支給された政党交付金が余ったとして、民主党、みんなの党と、すでに解散している国民新党に対し、計4607万2376円を国庫に返還するよう命令を出した。

 同省によると、返還例は過去に4例しかなく、返還額が1000万円を超えたケースは初めて。返還額は、民主党が7府県の9支部(解散分含む)で計4052万9758円など。

 総務省が27日発表した2012年分の政党交付金使途等報告書によると交付金を受けた11党の支出総額は、衆院選に向けた費用などが大幅に増え、305億4000万円と前年より約94億2000万円(44・6%)増になった。

 
 
 
 

<iframe style="display: none;" name="popIniframe" src="http://api.popin.cc/retarget/uid.html?ac=getuid" width="1" height="1"></iframe>

 

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空自第83航空隊

2013年09月29日 04時00分33秒 | Weblog

 

 
 空自第83航空隊(沖縄)

 

 

空自衛隊那覇基地から飛び立つF15戦闘機 =那覇市(同基地提供)

 ■備え欠かさず最前線の空守る

 「スクランブル。スクランブル」。ベル音とともに壁のライトが点滅を繰り返すと、4人のパイロットと整備員は「アラートパット」と呼ばれる待機所から脱兎(だっと)のごとく飛び出し、数分もたたないうちにF15戦闘機は空のかなたへ飛び立っていく。

 領空と防空識別圏に入った航空機に対する航空自衛隊戦闘機の緊急発進(スクランブル)は昨年度、22年ぶりに500回を突破した。増加の原因は中国機の飛来だ。昨年12月13日には中国機が尖閣諸島(沖縄県石垣市)付近の領空を初侵犯。第204飛行隊は情勢が緊迫する南西諸島を受け持つ最前線の航空隊として、318回の緊急発進を遂行した。

 「1つの飛行隊としては突出して発進回数は多かった」と振り返るのは、当時航空隊司令だった航空総隊司令部防衛部長の増子豊空将補(50)。「緊張した日々が続いたが、全隊員が自らの任務を全うすることで乗り切れた」

 

  

年度の倍近くに緊急発進が増える中、問われたのが戦闘機の稼働率維持。訓練も含め、計画通りに実施できたのは整備補給群の献身があればこそだ。昨年2月、米豪と実施した共同訓練では夜を徹した整備で稼働率は、ほぼ100%を維持。地味で過酷な作業を続け、戦闘機を最良の状態に保った。

 中国による挑発的な行動は海だけでなく、空でも拡大の一途をたどる。だが、平和な日本の空の守護神として、1150人の隊員は今日も備えを欠かさない。

<iframe id="dapIfM2" src="about:blank" frameborder="0" scrolling="no" width="1" height="1"></iframe>

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青山 士

2013年09月29日 02時53分58秒 | Weblog

社団法人 土木学会

JAPAN SOCIETY CIVIL ENGINEERSEnglish
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</form>

〒160-0004 東京都新宿区四谷一丁目外濠公園内 TEL 03-3355-3441(代表)

トップページ > 土木人物アーカイブス(映像と講演記録) > 青山 士 講演記録

土木人物アーカイブス(映像と講演記録)

青山 士  青山 士

高橋 裕講演会『民衆のために生きた土木技術者たち』(2006.2.21)

(青山 士とパナマ運河)
 今からちょうど100年と半年前、日本の社会は混乱と狂喜のまっただ中にありました。日露戦争が終わったその年の3月10日、日本の陸軍が奉天の大会戦に勝利して、陸軍の戦いは一段落。奉天は、現在の藩陽であります。それから2ヵ月半経った5月27,8日には、地球を半周してバルチック海から来たロシアの第2太平洋艦隊、俗にいうバルチック艦隊が7ヵ月かかって大変苦労して、40数隻が至るところの港で石炭を積もうとしても拒否されたり、水夫たちは石炭で大変苦労して、ようやく日本にたどり着いたところで、待ちかまえていた日本の連合艦隊とのいわゆる日本海海戦がありました。おそらく世界の海戦の中でこれほどのパーフェクトゲームはないでしょう。日本の戦艦は4隻、相手は7隻。ロシアの戦艦をすべて撃沈もしくは享捕し、日本の戦艦は1隻も沈まなかった。バルチック艦隊をほとんど全滅に近い状態にした。歴史の中でもこういう海戦はないですね。

 そこで、日本国民は有頂天になりました。また、政府は、いつの時代でも、どこの政府もそうですけれども、自分に都合の悪いことは国民には言わない。日本の大勝利だと。ところが、ロシアの陸軍はハルピンに何万と控えていて、反撃の折を狙っていた。アメリカのルーズベルト大統領が仲介に入って、アメリカのポーツマスで8月にポーツマス条約が結ばれます。日本からは当時の外務大臣の小村寿太郎、ロシアからは名うての政治家ウィッテが来まして、そこでひと月近く大討論をするわけです。小村寿太郎が日本を発つとき、何千人という人が見送りに出たそうです。シベリアを全部取ってこいとか景気のいい幟を立てて、大いに期待して小村寿太郎を送り出した。しかし当時の閣僚は、帰ってくるときは出迎えに出る人はいないだろうと、大変小村に同情しました。伊藤博文は、「誰も出迎えに出なくても自分だけは出迎えに来るよ小村君」と言ったと伝えられております。

 ポーツマスの交渉は非常に困難を極めました。結論は、樺太の南半分。日本の要求はもちろん樺太全部、それから沿海州のいろいろな権利でしたけれども、樺太の半分だけ。それと、中国の東北地方、朝鮮半島に鉄道その他の権利を得た。それだけだったのですね。賠償金は一円も取れませんでした。10年前の日清戦争のときには多額の賠償金を清国から得ておりますが、それで日本の国民は大変に不満で、小村が帰るときには大変だったのですね。みんなに見つからないように。小村寿太郎の家には毎日のように脅迫状が舞い込み、「家族全員で自決しろ」とか、「この軟弱外交は何だと」、非難囂々だったようです。

 その不満が爆発したのが日比谷公園騒擾事件です。9月5日に日比谷公園にデモ隊が集まって、十何人の死者が出て、2,000人以上の逮捕者が出ております。日比谷公園だけが焼き討ちに会ったのではなくて、その頃の都心の交番はほとんど焼き尽くされたそうです。東京だけではありません。日本全国が、せっかく勝ったのに、その講和条約への不満から日本国内は荒れに荒れておりました。

 ちょうどその頃、青山士はパナマに着任して1年目で、その前の年にパナマのコロンの港に着いた青山はそれから7年半、パナマ運河工事に一身を捧げます。特に最初の1,2年は下っ端のポール持ちです。何しろ大学を出たばかりですからね。非常に苦労をしている最中でありますが、それはこの映画の冒頭に紹介があります。

 パナマ運河工事は、何と労務者の10人に1人が死んでいるのです。こんなひどい工事現場はそうはないのです。その亡くなった人は、ほとんどが病気なのです。もちろん事故とか洪水などいろいろな原因はありますが、過半は病気で亡くなっています。黄熱病、チフス、マラリアといった病気でバタバタ倒れる。

 パナマ運河は最初、スエズ運河を完成させたレセップスがかかっていますが、結局挫折してしまうのですね。次々に死者が出る、お金もなくなる。あまりの難工事にレセップスは途中で断念をする。そして、アメリカが権利を買い取って始めましたが、大変な難工事、特に死者が大勢出るということで、労務者が集まらない。そんな死亡率の高い現場へ誰が行くものか。しかも、熱帯の高温で湿度の高い所へ行く志願者はほとんどいなかった。エンジニアもなかなか希望者はいなかったようです。当時、もちろん現場の建物に冷房装置はありません。しかも大勢の死者が出るので、なかなか人が集まらない。それなのに青山は、別にパナマ運河の方で雇ったわけでもない、来てくださいと言われたわけでもないのに、何と地球の反対側から、その工事をするために自ら進んで行くというのはどういうことか。その頃は大変ですよ。飛行機はない時代で、テレビ、ラジオもないですから、情報もない時代です。それがわざわざ自ら進んで行く。それはアメリカ人やパナマの人にわかってもらえないのも当然でしょうね。

 なぜ青山は、そんな難しい所に、大学を出てすぐ飛び込んだのか。それは一言で言えば彼の人生観ですね。第一高等学校にいたときに、彼はほとんど毎晩、眠れなかった。それは、自分は何のために生きてきたのか、自分は死ぬまでに何をなすべきかということで悩んだそうです。青年らしいというか、もう一言付け加えれば明治の青年らしいと言うべきかもしれません。悩みに悩んだ青山は、内村鑑三の教会に通います。その教会で内村鑑三の教えを受けた。内村鑑三はいろいろな講話をされるわけですが、その講話の中に「後世への最大遺物」という標題の講話がございます。明治27年に話されたものですが、これは岩波文庫に入っていますから、すでに読まれた方もあるでしょうし、あの内村の本を読んで土木工学科へ行ったという人も青山だけではないでしょう。

 内村鑑三は何の話をしたか。もちろん、教会ですから、人生いかに生きるべきかということを、キリスト教に鑑みて話をしました。そして、人生にとって一番大事なことは、子供や孫のためになるような仕事をすることこそ人生の生き甲斐であるというのが内村の考えでした。そのためには土木技術者になることだと。内村自身が河川工事とか土木の現場を見るのが大変好きだったそうです。河川工事もいろいろ見られたという話ですが、ただ、内村鑑三の見方は我々土木関係者とは違ったと思います。土木の人間ですとどうしても、この事業は何のために、どういう技術を使って、というようなことになりますけれども、内村はたぶん、どういう人がどういう気持ちで、どんな志でこの仕事をしたのだろうかという気持ちで土木工事を見たのだろうと想像します。そして、この工事は後世にどう役立つだろうか、あるいは現在の一般民衆にとってどういう意味があるだろうか。たぶん内村はそういう見方をしたのでしょうね。

 その教会の講話は、それで終わるわけにはいかないのですね。後世への最大遺物を作ることに参画できるから土木技術者になるべきだ。大学の土木工学科の講義ならそれで終わりでもいいのですが、しかし、土木技術者になれる人は何十万人に1人という特に恵まれた人だ。大部分の人は土木技術者になることはできない。そこで彼の結論は、勇気ある高尚な生涯を送れ。不正不義と戦うには勇気がいる。そういう人生こそ尊い。そして、それが語り継がれて人類に幸福をもたらすのだ、というのが結論です。

 それを聞いた青山士は、自分は土木技術者になろうと思えばなれる。やっと、自分は何のために生きてきたかという悩みがほどけたのですね。そして、大学の土木工学科に入学いたしました。それには内村鑑三の具体的なお勧めもあったそうです。というのは、当時の東京大学の土木工学科の主任教授が内村鑑三とは札幌農学校で同級生だった広井勇でありました。広井と内村は札幌農学校時代からの若いときからの親友です。ですから、常に交際があって、広井の仕事を内村は非常に尊敬の目をもって見ていたようです。

 「広井君がいるから、ぜひそこへ行きなさい。」

 そこで青山は土木工学科へ入りました。そこでも彼の悩みはまだまだ解けない。自分は土木技術者になれる。ただ漠然と土木技術者になれるというのでは抽象的であって、具体的にどういう仕事をすべきか。それが彼の次の悩みでした。大学を卒業したのが明治36年ですが、その頃、地球上で人類のために最も大事な仕事は何であるか、それを自分はやりたい。地球上で最も大事で人類のためになる仕事はパナマ運河であるというのが青山の結論でした。これは別に内村に教わったわけではない。自分でそう判断したわけです。

 そして、大学を出るや否や、広井勇教授からニューヨークのバー教授宛の紹介状1本を持って、パナマ運河工事に参画するために旅順丸という船に乗って、まずシアトルヘ行きます。そして、大陸横断鉄道でニューヨークヘ行ってバー教授に会い、広井教授からの紹介状を差し出します。そのとき、まだパナマ運河工事は再開されておりませんでしたが、バー教授はパナマ運河工事委員会の委員でもありました。それで、パナマ運河工事の測量のポール持ちのアルバイトを世話しております。

 大学を出たばかりですから、そう何でもかんでもできるわけではない。ただ人類のためになる仕事をしたいという一心で彼はパナマヘ行くわけです。その翌年に始まったパナマ運河工事に参画して、日本が日露戦争が終わった後の混乱の中にあるとき、彼はパナマ運河工事に懸命に立ち向かうわけです。その苦心の状況の一端は映画でご覧ください。

 そこで7年半、パナマ運河工事で働きますが、日露戦争が終わった頃からアメリカ、中南米では大変な反日運動が起こります。日本海海戦の大勝利にアメリカは脅威を感じたのですね。日本海軍恐るべし、やがて日本とアメリカの間で海軍の戦いが始まるだろうとアメリカの海軍は考えた。そして、青山はなぜパナマヘ来たのか。これは同僚は皆、よく理解しました。立派な日本人がいるものだと。ところが、一般庶民にはわからないでしょうね。しかも反日気分が高まる中、アメリカの海軍はいずれ日本と戦わねばならない、そのとき日本海軍はきっとパナマを攻撃するだろう、青山は日本海軍が送ったスパイであると疑われるのですね。そういうことが新聞にも出ました。そこで青山はパナマ運河の完成を見ずして日本へ帰ります。

 帰ってきて、まずした仕事が荒川放水路です。これは現在、何百万人の人間を荒川の洪水から救っております。明治43年(1910年)に利根川、荒川で大洪水がありました。利根川も荒川も堤防が切れて、東京の東3分の1くらいが水没したのですね。これではならじ、当時は帝都といいましたが、帝都を守るには荒川に放水路を掘ることだというので、その大工事に青山は参画します。

 その最中、信濃川の大河津で大きな事故が起こります。それは昭和2年6月24日のことです。その大きな事故で青山は内務省の新潟土木出張所長、現在でいいますと北陸地方整備局長ですが、新潟土木出張所長に任ぜられて大河津修復の最高責任者となり、その現場の主任、今でいうと信濃川上流工事事務所長でしょうか、それが宮本武之輔でありました。青山・宮本のペアで大河津分水という大放水路工事が仕上がります。

 お手元に今日の映画のための年表(別添参考資料参照)がございます。これは、今日の登場人物、青山、八田、宮本が生きていたのはどのような時代だったか、下には歴史上の重要な出来事が載せてありますのでご参照ください。

 一番上に広井勇があります。この映画の共通項は広井勇です。主人公は青山、八田、宮本ですけれども、いずれも広井勇のお弟子さんです。お弟子さんというか、広井勇の精神をよく体して生涯を送った典型的な人物です。

 ですから、この映画を通して流れているのは、広井勇の技術者精神あるいは人生観、責任感というべきものでありましょう。実は、先ほどご紹介いただきました映画『日本の近代土木を築いた人々』(平成13年 企画:大成建設、監督:田部純正、制作:日映企画 第75回キネマ旬報文化映画部門第一位、第20回土木学会映画コンクール会長特別賞)で紹介した5人(古市公威、井上 勝、田辺朔郎、沖野忠雄、広井 勇)は、今日の3人より一世代前、江戸時代末期に生まれた人たちです。今日の3人は全部、明治に生まれた人たちで、そして日露戦争と何らかの関係があります。

 というのは、日露戦争との時間的な関係は、青山については申し上げたとおりですが、八田與一が金沢の第四高等学校に入った年に日露戦争が始まっています。その後に来るのが宮本武之輔ですが、いずれも広井が東京大学の土木工学科の主任教授のときです。

 広井の若い頃の大きな仕事として、小樽の北防波堤があります。そういう共通項があるので、この映画の冒頭、パナマ地峡の空撮、タイトルに続いて、広井の紹介があります。小樽の北防波堤は荒波の中で非常に苦労した工事でした。その荒波と出来上がった北防波堤が映ります。それは詳しいナレーションはありませんけれど、広井勇の若い頃の業績です。この小樽の北防波堤というのは、アジアで初めて、外海の荒海に耐える堤防です。それまで、明治になってからいろいろ防波堤を作ろうとするが、次々に失敗します。特に、野蒜港などは大失敗するのですね。大久保利通が日本は貿易立国で行かねばならない、それにはアメリカに渡れるような大きな船が出入りできる立派な港を作るべきであるということで野蒜に港を作って、貿易立国日本の象徴にしようと思ったけれども、作った翌年に暴風雨でやられてしまう。広井の小樽の防波堤をもって、やっと日本の近代港湾技術は確立します。

 コンクリートの防波堤を作るために、広井は100年先までのテストピースを何万本と作るのです。当時、防波堤にコンクーリートを使うのは初めてのことです。したがって耐久力がわからない。5年後は大丈夫だろうか、100年経っても大丈夫だろうか、全くわからない。しかし、広井には100年後まで自分が作ったものには責任を持たなくてはいけないという強い責任感があったのですね。したがって、100年間のテストピースを作って、今なお小樽ではそのテストピースを昔の機械で壊してその耐久度を測っております。

 重要なことは、土木事業というのは、それこそ後世への最大遺物とするには、100年経ったら壊れたというのでは何にもならないわけで、100年後にも大丈夫かということが広井の頭にはあったのですね。初めて作る大防波堤ですから、工事中にも彼は心配だった。ですから広井は、冬の季節風の荒れ狂うときには、夜中にも起きて、工事中の防波堤へ行って、それをしげしげと眺めた。心配で心配でたまらなかったそうです。そのような自分の仕事の意義、そして責任感ですね。

 広井は北海道大学から東大(*工科大学学長古市公威が抜擢したと云われる)がスカウトしまして、明治32年から大正8年まで東京大学におりますが、その間もちろん土木工学の最新知識を教えました。小樽の経験がありますから港湾工学、初めてコンクリートを使いましたから日本で最初の鉄筋コンクリートエ学の講義、関門海峡に吊り橋を設計していますから橋梁工学、河川工学。今は専門分化していますから、そんなにいろいろなことができる人はいません。明治はそういう時代でした。また、在任中には不静定理論の大論文も書いていますが、論文を書くとか講義をするのは大学教授としては当たり前のことで、広井が偉かったのは技術者とはどう生くべきであるか、技術者の持つべき責任感のあり方を教えた。そこが一番重要なことだったと思います。それは講義室で講義するようなものではないですね。講義室で「責任感を持て」などと言っても、当たり前の話で、どうしていいかわからない。たぶん、彼の生き方でしょう。

 広井勇は、1928年に亡くなっております。私はその前の年に生まれておりますから、もちろんお目にかかってはおりません。お目にかかっても、こっちは1歳ですから、わけがわからなかったでしょうけれど。私が若い頃、東京大学の助教授の頃、長老教授は広井先生に教わったので、広井先生の噂は随分聞かされました。何も広井さんだけが教授であったわけではないのですが、大勢の教授がおられたけれど、その頃の長老教授が昔の話をするともっぱら広井さんの話でした。やはり印象が強かったのでしょう。恐かったとか厳しかったとか、一面大変優しかったとか、講義に遅れてくるような学生がいると、講義室からさっさと出ていったそうです。それから、講義中の私語は最近では当たり前の現象になったようですが、広井先生は怒って大学の講義は寄席ではないと言って出ていったそうです。そうすると、学生が懸命に追いかけていって、申し訳なかったといって呼び戻した。今ですと、先生が出ていくと休講だと言って喜ぶかどうかわかりませんが、何せ100年も前の明治のことですから現在では当てはまらないことが多いと思います。

 そして、広井教授は毎日、寝る前にはベッドに正座して、明かりを消して一日を振り返って、今日は一日精魂込めて学生を教育したか、小樽の工事のときは今日一日の工事に誤りはなかったかと反省をして、翌日の生活の糧にしたそうです。凡人はベッドの上ではすぐ寝るのが当たり前で、考えようとしても考える種がないのではないですかね。そういう生き方が映ったのですね。

 たとえば、青山士は昭和11年に内務省の技監で退官され磐田で過ごされましたが、大きな台風がやって来ると心配になって、磐田から夜行列車で荒川放水路に駆けつけて、自分が作った放水路をじっくり眺めていたそうです。これはやはり、広井が小樽港を作ったときの精神、責任感ですね。自分が作ったものには自分が生きている間は責任を持たねばならないという責任感。そういう技術者のあり方を広井は弟子たちに教えた。その典型例として、この3人が紹介されるわけです。

 私は助教授時代の1961年、青山さんの亡くなる2年前、磐田の青山さんのお宅をお訪ねしてお話をする機会を得たことは大変幸いなことですし、若い頃の私の人生観に強烈な印象を与えられました。青山さんに、パナマ運河のこと、あるいは大河津分水の記念碑のこと、いろいろなことをお伺いいたしました。青山さんの後ろの書棚には、シュバイツァー全集、内村鑑三全集がずらっと並んでいました。シュバイツァー全集にしろ内村鑑三全集にしろ、青山さんの書棚にあったことは幸福だったでしょうね。これらの全集は、まさに所を得たというような顔をして青山さんの後ろに並んでおりました。

 私はこの映画の関係で、去年の1月、パナマ運河に行きました。パナマにパナマ運河博物館があるのですが、そこには青山士コーナーがございます。青山士の写真が飾られていて、パナマ運河工事に日本からはせ参じてくださった立派なエンジニアがいたということで、パナマでの青山士の知名度は大変高い。そして、パナマの日本人学校へ行きました。日本人学校で青山士を題材にした演劇を生徒さんたちがやったということを聞きましたので、そのビデオを拝見しました。日本人学校のそういう演劇は在留邦人を集めるそうですから、パナマの日本人の間では青山士の知名度は高いですよ。その日本人学校の演劇の指導は三宅雅子さんがなさったそうです。

 私は常々思うのですが、先ほど細見河川部長(中部地方整備局)もおっしゃっていましたけれども、一般の日本人で青山士とか八田與一とか宮本武之輔を知っている人がどれほどいるだろうか。残念に思いますね。せめてパナマにおけるくらいは青山士の名前が日本人の常識になってほしい。

 実は私、明日、静岡県磐田市でこの会を開きます。この映画を作った後、磐田市の方からメールが入りまして、青山士という立派な人が郷里から出たことを初めて知った、磐田市の大部分の市民はジュビロの選手はよく知っているけれども青山士を知らないということなので、それは残念なことだと思いますので、少し運動を起こさなければと思っているわけです。

 大河津分水の現場を担当した宮本武之輔は青山士と同じく優れた上木技術者ですが、生き方とか人生観は青山とはかなり異なったようです。青山は敬度なクリスチャンで、内村・広井の精神を受け継いで、それを人生観にしていた人ですから、非常に清潔な一生を送った方です。ただ、昔部下だった方に伺いますと窮屈だったようですね。そして、部下の就職など細かいことは世話しなかったようです。ですから、部下にとってはある意味では近づき難い存在だったようです。

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青山 士 略歴(関連事項を中心に抜粋。 詳細はこちら pdf 20kb)

1878(明治11)年 静岡県磐田市に生まれる。
1899(明治32)年 東京帝国大学工学部土木科入学。
1903(明治36)年 同校卒業後、渡米し1年滞在。
1904(明治37)年 アメリカがパナマ運河建設に着手。
パナマ地峡運河委員会に採用され、末端測量員としてジャングルの地形測量に従事。
1905(明治38)年 測量技師補に昇進。
1907(明治40)年 測量技師となり大西洋側の港湾建設に従事。
1910(明治43)年 設計技師に昇進しガツン閘門の重要部門を設計。
同年、ガツンエ区の副技師長に昇進。
1911(明治44)年 帰国。
1912(明治45)年 内務省入省。東京土木出張所にて荒川放水路建設工事に従事。
1914(大正3)年 パナマ運河開通。
1915(大正4)年 土田むつと結婚。
1924(大正13)年 荒川放水路完成。
1927(昭和2)年 内務省新潟土木出張所長となり信濃川大河津分水路改修工事に従事。
1934(昭和9)年 第5代内務技監に就任。
1935(昭和10)年 土木学会会長に就任。
1936(昭和11)年 内務技監を退任。
1963(昭和38)年 逝去享年84歳。

 

 

 

 

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