不合理ゆえに我信ず

文(文学・芸術・宗教)と理(科学)の融合は成るか? 命と心、美と神、《私》とは何かを考える

埴谷雄高かく語りき

2005-07-10 02:59:59 | 哲学
私は若いころから埴谷雄高を愛読してきました。(彼も私も同じ種類のテツガク病と言うべきか。)

埴谷雄高(はにやゆたか 1909~1997)は、戦後まもなく、ほとんど誰にも理解できない難解なアフォリズム集「不合理ゆえに吾信ず」を発表し、以後、長編哲学小説「死霊」を、半世紀近くに渡って、死の間際まで書き続けた文学者です。(「死霊」は未完に終わりました。)

立花隆による埴谷雄高へのインタビュー記事(「太陽」1992年6月号)から、埴谷の言葉の一部を引用します。(埴谷はこのとき82歳) < >内は立花の言葉です。( )内は私が前後の文章を要約したもの、または意味内容を想像して補足追加したものです。

■引用はじめ■
●僕は明治42年に台湾で生まれました。この植民地体験が、まず決定的です。(日本人が台湾人に何かを命令するときに、必ずと言っていいほど殴っていた。それは日常光景だった。)子供ながら、それを見るのはいやですね。日本人が横暴であるという感覚です。きわめて幼く、素朴なものですが、これが日本人嫌い、遠くひいては、生物嫌い、存在嫌いにまで飛躍する素地を植えつけたのですね。

中学四年のときに結核にかかりました。(当時は死の病だったが、患者自身にはそれほど苦痛はなかった。)静養しながら文学書や哲学書をずいぶんと読みました。結核の最大の収穫はニヒリズムです。結核がどうしても死を考えさせるのです。そしてスティルネルの『唯一者とその所有』に出会った。これが思想的な影響としては決定的です。

スティルネルの「エゴイスト」は普通のエゴイストとは意味が全然違って、「創造的虚無」というのかな、虚無の中に浮いてるエゴであって、この「唯一者」のエゴを国家も宗教も人類も理想も、あらゆるものが支配できない、という考え方ですね。それが結核の僕にぴったり入って重なってしまった。ニヒリズムから、スティルネル的アナーキズムへ移行したというわです。

●パスカルは 「我々は、我々が生まれてきた根源も、やがて入りゆく究極も、見ることはできない」 と言うけれども、刑務所で壁ばかり眺めていると、どうしてもその思考は、「根源」とか「究極」を覗きたくなるのでした。生と存在の、根源と究極について、いろいろな妄想が出てきた。(埴谷は22歳のときに治安維持法違反によって起訴され、約1年半、牢獄にいた。)

大学ではドイツ語科だった僕は、刑務所のなかでも語学の勉強を続けようと思って、カントの『純粋理性批判』をいきなり読みました。そのなかでカントは
「自我の誤謬推理」「宇宙論の二律背反」「神の存在証明の不可能性」
を「仮象の論理学」として、哲学では触れてはならぬ領域であると警告していた。しかし僕は、これだ、と思った。哲学では不可能であっても、文学なら「生と存在の革命」を一冊の本の中だけに封じ込められると思ったのです。

●僕の書く小説は全てフィクションで(日本的な私小説ではなく)、しかも究極の相手は「存在」です。

●科学が素人の私たちに残している領域がありますね。それはパスカルの言う「根源と究極」に類するものであって、ひとつは宇宙ですね。ここはある程度まで思考実験ができる領域です。天文学者やホーキングはもちろん、僕が考えてもいい領域なんだ。

そしてもうひとつは精神なんです。まだ脳細胞がわかってきただけで、本当の精神の働き、眠りも夢も完全には説き明かされていない。

●(普通は「お前が好きだ」と言ったら、その言葉どおりに解釈されるけれども)、文学では、嫌いだからそう言っているんだというふうに掘り進むこともできる。

僕の妄想実験では、無限の相の下にすべてを見る。そうすると、存在宇宙のほかに無限宇宙があって、さらに出現しようと思って出現しなかった、未出現宇宙が、これまた無限にある、というようなことも考えられますね。

まったく見たことのないものが夢の中には出てくる。これは妄想実験の小説を書く支えにもなっています。僕が夢で見る以上、それは白紙の上に出現しても不思議ではないと。

ドストエフスキーは、自殺も夢も幽霊も、非常にうまく使っています。自殺は価値がある、夢は価値があるというようなことは、事実の世界では通じなくても、文学の世界では、使いよう次第で、驚くべき深さまで達しますね。

●立花さんの『宇宙からの帰還』の中に、シュワイカートというアポロ9号の乗組員が、撮影カメラの故障のせいで、5分間ほど宇宙船の外で、待っていなくてはならなかったという話がある。その時、音のない宇宙空間を、宇宙船の窓越しじゃなくて、はじめて自分の目で見たのですね。それこそ大宇宙が広がっていて、自分が孤独でひとりぼっちで浮いている。あの5分間というのはすごい経験だと思うんです。あの人が文学者なら、あの時間を独特なかたちで書いたと思うんですよ。

『宇宙からの帰還』を読んでいて、僕は、宇宙飛行士の多くがキリスト教に帰っていくのが解せなかった。宇宙に出てキリスト教という枠を外れたはずなんですよ。神を感ずるのはいい。しかし、これまでの人類にない体験をしたわけですから、地球での神の概念とは違う新しい宇宙教の内実を自分で感じたはずだ。

●アインシュタインが、「死ぬことは怖いですか」という問い答えて「自分は粒子のひとつだから死は関係ない。死んだって自然の中の粒子だ」と言いましたね。それに対して、僕は、(生を)根源までさかのぼれば生の単細胞に、あるいは宇宙の鉄にまでたどりつくけれど、死ねばそれっきり、あとに何も続かない、という考え方です。

ただ観念の刺激(の継承)は、ある。「自同律の不快」の刺激は、(継承されて、つながっていく。)これを僕は「精神のリレー」と称している。タレスやデモクリトス、ヘラクレイトスが考えたことを引きついで、僕も考えているわけです。

●ギリシャの哲学者は、万物の根源を、原子にいくまでに、水、火、空気、土というふうに言ってきました。ギリシャ人は総合的に、うまく言ったと思いますが、直感的には、水も、火も、空気もいいけど、土はダメですね。僕は土がいちばん向上性がないと思っている。

九州の雲仙が噴火して、溶岩が出てきていますね。溶岩というのは火であって水であって土なんです。全部備えている。しかしそれが固定しちゃったら、どうしようもない。残骸という感じだ。活動しているときはよかった。噴煙を吐き、人類に脅威を与えていた。三原山に行った時に僕は言ったんです。 「溶岩、最後存在よ。お前は絶望を自覚しているか、動きなき敗残者よ」 とね。

人間にとって一番の痛恨事は、土に足が着いているということ。大地の重力に引かれているということですね。

人間の無意識的願望で、自分も宙を飛びたい、宇宙飛行士になりたいというのが、イカルスの時代から夢だったわけです。大地から離れたい、という観念にとらわれてきた。「母なる大地」と言うけれど、母から離れたくてしょうがなかった。

●人類は手の動物、技術の動物であるとともに、(観念の)動物でもあって、観念が人間を支配している。ある観念が人をとらえると、それを実現しなくちゃいけないと思うようになるんです。

たとえばロシア革命にプラスがあったとすれば、そういうことなんです。あれほど党が悪かったにもかかわらず、階級の廃絶、国家の死滅という観念を提示しえたのですから。

それはさかのぼれば、フランス革命の「自由・平等・博愛」が証明しているんですよ。フランス革命の後は、本当は反動時代なんです。フランス自身が植民地をうんと収奪している。にもかかわらず、自由・平等・博愛の観念は、世界に広まっていった。これは不思議なものですね。

いまは、存在が意識を決定するのではなくて、意識が存在を決定する、という「未知創出」の思索時代、そういう新しい存在論の時代に入りつつある。何かを考えることが、何かを存在させること、になった。カント的に、主体の考えるごとくに客体はあることになって、自然淘汰から人為淘汰の世界に移りつつある。

●「詩と論理の婚姻」が僕の出発点ですが、それは到達点でもある。僕の「自同律の不快」 (「私は私である」と言い切るのは不快だという感覚) が、すでにそういう分裂を表しています。

自同律は論理の根源、不快は感覚、感情であって、ほんとは「自同律の不快」なんて成り立たないんですよ。「ほかに異なった思惟形式がある」というテーゼだって成り立たないんです。「存在の罰則」だって成り立たない。でも、そう言うことによって、あるかのごとく暗示してしまう。この分裂もドストエフスキーが教えてくれた。ドストエフスキーは分裂してる人こそ、本当の人だと示した。

●人間が生まれて一番初めに執拗に聞くのは、「なぜそうなの?」 です。絶対、大人は答えられないですよ。「いかに」は答えられるけど、「なぜ」には答えられない。しかし人類が 「なぜ」 を意識の中に入れたということはやはり、満たされざる魂、自同律の不快があるということなんですね。

●コンピュータは質(意味や価値)を扱えるか。100年後に最高の頭脳のコンピュータに問いたいのは、「お前はオレを愛してるか」です。(笑)

<アハハ、コンピュータのプログラムいかんで、どうとでも答えてくれますよ。>

いや質の問題は重要ですよ。科学は快・不快の問題をオミットしてきた。100年後のコンピュータがそれを入れてくれるかどうか、ですよ。超人間になるためには、お前が好きか嫌いかということは、はじめのはじめの原始的本能です。会った途端に惚れたり惚れなかったり。なぜこの女が好きで、あの女が好きではないか。なぜでしょう。

<コンピュータに「お前はお前か」って聞いたらどうですか。>

そうですね。「自同律の不快」を聞いてみましょう。(笑)

●僕は『死霊』で「虚体」というものを宇宙に投げ出しただけで、満足している。「虚体」というものがある文学者の妄想だけなのか、無限の中で「存在」に対立し得るのか、僕としてはそういう問題提出をした。「実体」を考えれば「虚体」を考えるのも当たり前です。そして僕自身の存在についての「自同律の不快」をなんとか意味拡張して、存在にもなんとなく不快を気づかせているだろうと思っているのです。

<「あり得たけど起こらなかった過去」という表現が『死霊』に出てきますね。これは「虚体」ですか。>

そうですね。僕はそれを未出現と言うんです。出現と未出現の両方ともにわたるのが「虚体」です。だから非常に範囲が広いけれど、未出現のほうが多い。なぜかというと、これは『死霊』の特徴ですけど、やはり存在することはいやなんですね。「自同律の不快」なんです。存在することがいやなのに、無理やり出現させられたものだけが宇宙になった。自分で自己判断できるものは宇宙にならなかった。

●僕は、自分が生まれてきた意味をはっきりさせようとしているんです。僕自身の問題、一生の課題がここにある。
■引用おわり■

次回は、これをもとに ”自己と自由・「自同律の不快」とは何か” を書きます。


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1 コメント

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>僕は『死霊』で「虚体」というものを宇宙に投げ... (toki)
2005-07-13 21:51:04
>僕は『死霊』で「虚体」というものを宇宙に投げ出しただけで、
>満足している。「虚体」というものがある文学者の妄想だけなの
>か、無限の中で「存在」に対立し得るのか、僕としてはそういう
>問題提出をした。

 埴谷さん曰くの、このくだりに答えがすでに見えている気がしま
す。『死霊』で「虚妄と真実が混沌たる一つにからみあった」その
場所を、彼は「底知れぬ灰色の領域」だと作品中で表現しているの
ですが、いやね、まったくの最初から、実は灰色しか無いのだと無
意識の内に答えたかったのではないか? と、彼は日頃から漠然と
考えていて、陽に当たれば白みがかかり、陰になれば黒ずむ世間の
灰色の魂に、ある時、自分で光を当てて見ることを思いついた。

 確か、『死霊』とはそんな物語だったと思う。不確かさに明瞭を
与えようと考える哲学者たち。肉眼で見たところでは色彩豊かに見
えるこの自然にさえ、やがて彼らは疑いを抱き、太陽よりも強力な
光源に故意に晒してみようとする。当然、全ての色彩は剥げ落ち、
白熱する閃光に色彩の一切が奪い去られる。
 哲学者たちの『知』とは、まさしく白色の閃光にも似た真実の輝
きに他ならない。『知』とは全てを真っ白に塗り潰すものであり、
反面、その陰にあたる夜の色に『情』を見るのは不思議でない。強
力な閃光の背後に開いた、深淵たる闇。その証拠に『情』とは決し
て目に見えず、明らかにはされない。
 ところが、今さらその黒い闇を白さと対比して何か言ってみよう
と思ったところで、これは! と思えるような表現はあらゆる角度
からすでにやり尽くされていて(例えばイタリアを思えば良い)、
そればかりかそのような表現に文学的だなどという、評価が与えら
れた時代は神話とともにすでに過ぎ去っていた事情があった。

 この小説の根底に横たわっているのは、要するに彼が生まれ得な
かった時代へのやっかみなんじゃないだろうか? と僕は、以前読
んだ時に思った。要するに、まるごと時代が嫌だったのだろう。あ
の作品を読んで、「自分で光を当てて見ることを思いついた」彼は、
ある種の幼児帰りをしているのだろうと僕は思った。

 世界は、確かに虚だろうと思う。けれど、未出現の虚を嘆いてい
るとか、その虚の中から無理やりに存在させられた宇宙に絶望してる
とか、彼の問題はそんな程度のもんじゃなく、もっとずっと質の悪い
ものだと思います。それは、そのまま文章を並べていると、否が応に
も作品に終わりがやってくるという事を彼自身、よく知っているとい
う事であり、だからといって途中で絶対、投げ出せない事情があって、
にっちもさっちも行かない状態に置かれているような質のものです。

 幸か不幸か途中で死ねて良かったなぁと思ったりしますが、近代国
家は、そう簡単には死なせてもらえないだろうと予測します。埴谷さん
のように、亡びる事が許されたかつての国家は、幸せだろうと思います。
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