不合理ゆえに我信ず

文(文学・芸術・宗教)と理(科学)の融合は成るか? 命と心、美と神、《私》とは何かを考える

嗚呼「インターナショナル」(その三)

2005-07-07 17:51:19 | 哲学
安保闘争や東大紛争(安田講堂での攻防戦)のとき、私はまだ小中学生でした。17、18歳になって”社会的反抗期”になり、クニを出て東京の地に立ったとき、自分が「遅れてきた青年」であると感じないわけにはいかなかった。

そのころすでに左翼運動は下火になっていて、日本共産党も暴力革命路線を放棄し、議会制民主主義のなかで政権を獲得していくことを宣言していた。

私たちの組織は、そんな日本共産党を批判した。その若者組織である民青をも侮蔑した。フォークダンス倶楽部じゃあるまいし、と。

革命理論からいけば、労働者・農民・学生が団結して暴力的に政権を奪取し、プロレタリア独裁(なんと懐かしい言葉であるか)を実現しなければならないのだ。プロレタリアート以外の階級が権力を握る可能性を残せば、反革命を招き、社会主義社会が実現できないのだ。

先輩活動家は、戯れによくこんなことを言ってました。

「俺たちは革命後の世界を見ることはできない。前線に立って弾に当たって死ぬのが、俺たちの役目だ。」

(ね、右翼的でしょ。)
(あ、でも我らは、ヘルメットかぶってジグザクデモはやりましたけど、火炎瓶闘争なんかはやりませんでしたよ。もちろん内ゲバも。おとなしいもんでした。)

若者の反体制志向には、死への渇望があると思う。故意に命を危うくする行動をする。(いまの平和大事・いのち大事のこの時代に、こんなこと言うと袋叩きにされますが。)

三島由紀夫は明らかに”反時代的な死”を美化していました。長生きして、よぼよぼになって、文化勲章なんぞをもらって、そして病院で死ぬなんて、絶対に嫌だと言っていた。尾崎豊が若くして死んで、”反時代的・反社会的な英雄”のように偲ばれているのも、私にはうなずける。

ところで第四インターは、まだしぶとく生き残っているのですね。

しかしその組織目的が、

「プロレタリア民主主義に基づく労働者農民評議会世界社会主義共和国を樹立」
(なんという長い国名だ)

というのは、やはり非現実的ですね。フランスでもこれを支持しているのは有権者の5%程度らしい。

”プロレタリア民主主義”では、アメリカを中心とする資本主義(ひと握りの大富豪と多数の貧乏人を生む体制)に勝てないのですよ。それに”科学的計画経済”なんて、絶対にうまくいかないのは、歴史的にほぼ完全証明されました。

議会制民主主義というのは国家や集団の意志決定のひとつの手段であって、それ自体が、”理想の政治思想”であるわけではない。

天皇を守るべきか、廃止するべきか。そういう問題に対して議会制民主主義という”主義”が結論を決めてくれるわけではない。われわれは、左翼になるか、右翼になるか、コスモポリタニストになるか、あるいは完全無関心派になるかを、一人一人、自分で決めねばならない。

そういえば2・26事件のころの青年将校たちだって、東北の貧しい農民たちを救おうとして決起したのでした。腐った政治家や実業家どもを殲滅してクーデター(革命)を起すために。やはり右翼と左翼は同じだ。天皇を担ぐかどうかだけの違いだ。

うーむ、論がまとまらなくなってきた。また次回。


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4 コメント

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右翼・左翼というmoriさんの視点、参考になります。 (きすぎじねん)
2005-07-10 00:42:22
右翼・左翼というmoriさんの視点、参考になります。
ただ、「左翼主義」のために死ねるのか、「左翼主義が本来守ろうとしたもの」のために死ねるのかというところですかね?

>「俺たちは革命後の世界を見ることはできない。前線に立って弾に当たって死ぬのが、俺たちの役目だ。」
>(ね、右翼的でしょ。)

といったとき、moriさんはどういう点に「右翼的」と感じたのでしょうか?

右翼も左翼も極端な側への暴走は暴力・破壊という「共通の」行動に向かってしまうというのは、よく言われている。

moriさんは、その共通部分を提示しているのだと思います。

革命後の世界に彼らが夢見たものが、知的切断面(夢)として共有可能であったがために、かれらは一致団結できた。

その「夢」は彼らのものであって、彼らのものではなかった。
なぜなら、その理想郷は、何の支配も受けない「個」が重視されるべき世界であったろうから。。。

なぜに「農民・労働者」が解放されなければならないのか?
上下関係を破壊して並列の世界を夢見たのではないでしょうか?

その視点を共有できるのは、ある程度の年齢を超えた大人の視点であって、自身を周囲から分断可能な年代になろうかと思います。なぜに左翼主義に走りがちな年齢層にいたものが、年を重ねるにつれ、そういった「左翼的思想」から脱却できたのか?

子供を育む過程を経験し、社会との繋がりを強く持つにつれ、極度にゆれていた「左翼への傾倒」は、ゆり戻しを受けるのではないでしょうか?

そういう意味で、「個と全体(総体)」との関係が働いているのではないだろうか?と思うわけです。
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もし、私の言うところの「個の並列・上下関係の排... (きすぎじねん)
2005-07-11 05:23:28
もし、私の言うところの「個の並列・上下関係の排除」が、左翼の方向性であり、他の思想を排除しようとする方向性を持つのならば、それは「知」の「情」に対する絶対優位性への方向性でもあると思います。
逆に、「知」の優位性をもつからといって左翼的であるとは言えませんが。。。
現代社会では、「知」の優位性思想からの脱却に向けて「情」をも主体とする方向へと向かいつつあるように思われますが、「情」の優位性を主とする思想に「右翼的」な側面が存在すると思います。
私の言うところの「総体の尊重・上下関係の受け入れ」が、右翼への方向性であるならばです。。。
tokiさんの論における、人の陥りやすい二者択一として、上記に示した「知・情」、「固体・総体」、「左・右」という方向性があると思っており、これらは互いに相互に関連していると思っています。
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アイゼンクの図式というものがありまして、その人... (norge)
2005-07-11 06:48:53
アイゼンクの図式というものがありまして、その人はイデオロギーの右左の軸に加えて、心のハード(強硬)、ソフト(柔軟)の軸を設けました。
面白いことに、思想の右左の転向はハードの人には起こりやすいが、ソフトの人には起こりにくいようです。思想の転向はあってもパーソナリティの変化は難しいということらしいです。共産主義者、ファシストのようなハードな人たちの場合は、主義主張より重要なもののために戦っているのかもしれませんね。右も左も同じだというのは極端なこういった人たちについては言えることなのでしょうか。
しかし逆にソフトな人たちの転向というものは起こりにくい。思想の内実としての左右の差異は無視できないと思います。
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きすぎじねんさん、コメントありがとうございます... (mori夫)
2005-07-30 15:56:20
きすぎじねんさん、コメントありがとうございます。レスが遅くてすみません。

●<moriさんはどういう点に「右翼的」と感じたのでしょうか?>

「仲間のために」・「仲間と共に」、「闘って死ぬ」という志向性が、右翼的だと思ったのです。(右翼は理論より人情を大切にする。)

●<右翼も左翼も極端な側への暴走は暴力・破壊という「共通の」行動に向かってしまうというのは、よく言われている。>

体制や権力の外にいる人間にとって、反体制・反権力の行動は、快感なのだと思います。(これを「エロスの感覚」と言った人もいる。)これが自らの生に充足感を与える。これには右も左もない。

●<なぜに「農民・労働者」が解放されなければならないのか? 上下関係を破壊して並列の世界を夢見たのではないでしょうか?>

左翼も右翼も、思想の上澄みの部分は、そのような平等思想でしょうね。だから特定の権力者が、自分や自分の属する層のために政治を行うのを許さない。

●<なぜに左翼主義に走りがちな年齢層にいたものが、年を重ねるにつれ、そういった「左翼的思想」から脱却できたのか? 子供を育む過程を経験し、社会との繋がりを強く持つにつれ、極度にゆれていた「左翼への傾倒」は、ゆり戻しを受けるのではないでしょうか?>

私の例で言えば、社会に出て企業で働くようになって、学生のころ思っていたほど、”体制”も”権力”も、悪ではないということがわかったからですね。それから、自分が管理職になってみて、文句を言う若い社員こそ、何も知らないのに、自分勝手な権利主張ばかりすると、気付いたからですね。

学生時代は、日本の政府与党や大企業やアメリカ帝国主義が、日本人民を搾取・支配して、不当な利益をあげていると、本気で思いこんでいました。しかしそんな状態は、とうの昔に脱していたのですね。逆に左翼勢力のほうが国民に迷惑をかけていた。国鉄の労働組合は、ならず者の集まりになっていたし、革マルと中核は殺し合いに明け暮れていた。大手町のビル街で爆弾を破裂させたり、連合赤軍事件のようなものも起した。

●<私の言うところの「個の並列・上下関係の排除」が、左翼の方向性であり、他の思想を排除しようとする方向性を持つのならば、それは「知」の「情」に対する絶対優位性への方向性でもあると思います。>

左翼も”情”的だと、私は経験的に思っています。皆で肩を組んで「インターナショナル」を歌ったりするので。”情”的でないのは、個人主義・アナキストではないでしょうか。そう言えば学生時代、「オレはあらゆるものからの支配や干渉を拒絶する」(国家当局はもちろん左翼学生にも右翼学生にも説教されたくない)と鋭い目つきで語っていた友人がいました。

●<tokiさんの論における、人の陥りやすい二者択一として、上記に示した「知・情」、「固体・総体」、「左・右」という方向性があると思っており、これらは互いに相互に関連していると思っています。>

知と情、個体主義と総体主義、左と右は、仰るように、二者択一すべきものではなく、つねに牽制し合っていなければならない、二大勢力なのだと思います。でも両者が目指している目的は共通です。いかにして崩壊しない良い社会を築くかということにおいて。どちらかがどちらかを駆逐してしまったら、おそらく国家も社会も崩壊します。

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norgeさん、コメントありがとうございます。レスが遅くてすみません。

●<面白いことに、思想の右左の転向はハードの人には起こりやすいが、ソフトの人には起こりにくいようです。思想の転向はあってもパーソナリティの変化は難しいということらしいです。共産主義者、ファシストのようなハードな人たちの場合は、主義主張より重要なもののために戦っているのかもしれませんね。右も左も同じだというのは極端なこういった人たちについては言えることなのでしょうか。>

興味深い話ですね。宗教信仰にも似たようなことが言えると思います。教義をそっくりそのまま固く信じている人ほど、その宗教を捨てるのも容易だと。「主義主張より重要なもの」というのは、私は逆に「ソフトな人」について、言えることではないかと思います。だからソフトな人は転向しない。

●<しかし逆にソフトな人たちの転向というものは起こりにくい。思想の内実としての左右の差異は無視できないと思います。>

きすぎじねんさんへのレスにも書きましたけど、右翼も左翼も、崩壊しないよりよき社会を築くという目的において、同じだと思います。天皇を担ぐか共産イデオロギーを担ぐかという、大きな違いはありますが、社会のことなどどうでも良い・干渉されずに自由に生きたいという個人主義ではない。自分が良いと思うことを、周囲にも押し付けてくる。口やかましく政治宣伝する。そういう全体主義性を、右翼も左翼も持っています。
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