不合理ゆえに我信ず

文(文学・芸術・宗教)と理(科学)の融合は成るか? 命と心、美と神、《私》とは何かを考える

手塚治虫「火の鳥(復活・羽衣編)」

2005-08-05 01:09:29 | 哲学
漫画「火の鳥」の初出は、かの有名な「COM」です。作者の手塚治虫は、その1967年2月号(なんと38年前)で、こう書いています。

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人間は何万年も、あした生きるためにきょうを生きてきた。あしたへの不安は死の不安であり、夜の恐怖は死後の常闇の世界の恐怖とつながっていた。人間の歴史の、あらゆるときに、生きるためのたたかいがなされ、宗教や思想や文明のあらゆるものが、生きるためのエネルギーにむすびついて進歩した。「火の鳥」は、生と死の問題をテーマにしたドラマだ。古代から未来へ、えんえんと続く「火の鳥」―永遠の生命―とのたたかいは、人類にとって宿命のようなものだ。
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読んでいない方のために、ものすごくザックリと「火の鳥(復活・羽衣編)」のあらすじをお伝えしましょう。

西暦2482年、青年レオナは空中を飛ぶエアカーから転落して、全身を強打し、脳死状態になりますが、ニールセン博士の最先端医療技術(サイボーグ技術)によって生き返ります。脳は、ごくわずかな部分以外は、ほとんどすべて人工頭脳に取り替えられてしまいます。意識を回復したレオナは、しかし錯乱状態になります。なぜなら、人間が人間に見えないからです。土くれのお化けや、ボロ雑巾の人形のようにしか見えない。犬の鳴き声も、風がゴウゴウ鳴っているようにしか聴こえない。母親がやってきてレオナに抱きついても、ブォーブォーと変な声で話す化け物にまとわりつかれているようにしか感じない。

すっかり生き続ける意欲を失ったレオナは、うつろな目でビルの上から街をぼんやりと眺めます。すると、化け物人間の人ごみのなかに、たったひとりだけ、人間のすがたをした美しい少女が、歩いているのを発見します。驚いたレオナは、全速力でその少女のところまで突っ走っていきます。そしてすぐに一目ぼれしてしまいます。レオナにしてみれば、ようやく見つけた「本物の人間・本物の女性」だったのです。でも人間から見れば、その少女(名はチヒロ)は、企業のなかで働くただの事務ロボットで、細身ではあるけれど、金属のゴツゴツした無個性の体しか持っていないのでした。

チヒロは、最初はレオナが愛を告げても、「私には仕事があります。頭のなかには会社の機密情報がいっぱい入っているので、仕事以外の行動はできません。夜はエネルギーを止められて倉庫に入れられます」と答えるだけでした。でもレオナの情熱に接して、しだいに精神的な変化を起こしはじめます。仕事の能率が落ちてきて、監督者に注意されたチヒロは、こうつぶやきます。

「苦しい・・・いたい・・・とても苦しいんです」
「新しい感情が私を支配して・・・消すことができません・・・」
「私の頭脳に、不条理な再生出力が発生して停滞しています・・・消去不可能です・・・作業が停滞します・・・ああ・・・」

二人は美しい公園で、逢引を重ねます。(美しいといっても、レオナがそう感じるだけで、実はそこは、製鉄工場のようなところなのでした。そして人間の作業員に「邪魔だ!」と言って、追い出されてしまうのです。)

二人は街を逃げ出して、そのあとなにやかと、いろいろな事件が起こるのですが、結局どうなるかというと、二人は結ばれるのです。

どうやってかって? チヒロの体は機械なのに?   それが、実に感動的なのです。

レオナは、悪徳臓器商人の女ボスに、肉体を取られることになります。そしてレオナは手術の直前に言います。

「肉体はお前たちにくれてやる。そのかわり頼みがある。頭脳の情報を全部吸い上げて、あのロボット(チヒロ)の脳に入れてくれ」

手術を担当する悪者医者はレオナの要求をかなえてやります。

麻酔をかけられて全身を切り刻まれたレオナは、やがて暗い海の上空をさまよっている自分に気づきます。「ああ、このまま死んで、本当の無、本当の闇の世界へ、消えていくのだなあ」と思っていると、光の穴が見えて、そこから、美しいチヒロがやってくるのです。二人はよろこびの再会をして、深く、強く、抱き合い、天の光の方向へと、ゆっくり飛んでいきます。

「あそこが出口だ」

ひとつになった二人の精神は、「人間味のあるロボット」として、ロビタという名で、人々に親しまれ、大量コピーされて、全世界に普及していきます。

ここからまた話がいろいろと展開するのですが。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *

「火の鳥(復活・羽衣編)」の文学作品としてのモチーフを考えた場合、それは次のようなものではないかと思います。
 
(1)愛することを知らないロボット(でなくてもいいのですが)でも、愛されることによって、人を愛する人になる。(心の誕生)
(2)心と心は(魂と魂は)融合して、新たなひとつの心(魂)となる。生死をくりかえすなかで、心(魂)は、融けあい、混じりあう。
(3)心(魂)は永遠の存在である。

もうひとつ加えると
(4)感性認識は、自分の形成秩序や生存条件と異なるものを、異形と感じ取る。自己に親和的なものは「美」と感じ、自己に親和的でないものは「醜」と感じる。すなわち「美」「醜」(ついで善・悪も)は、自分や自分の仲間の生命を、守り、育むものであるかどうかによって、わかれる。

(2)と(3)は、こりゃもう、オカルト思想といっていいものです。でもこれが文学のミソ(うまみ)ですからね。これを否定したら、世のほとんどの文学や芸術は、鑑賞に耐えなくなります。

これは人間のはかない願望のあらわれなのでしょうか? それとも真実なのでしょうか?

■死んでみたら、まだ生きてた。新たな苦難の道の始まりだった。

これって、うれしいような、悲しいような・・・

でも

■死んだら、本当に何もかもなくなって、すべてが無に帰する。生まれ変わりはない。心(魂)という体験は、たった1回こっきり。宇宙が終焉して、別の宇宙が、もし誕生するようなことあっても、そんなことは知ったこっちゃない。というか絶対知りえない。死はすべての消滅と同じだ。どんな人生を送ろうとも、死んでしまえば、すべてが終わりだ。ナッシング。

というのもなあ。現代人が深い深いニヒリズムの底に突き落とされているのも、この思想のせいだしなあ。

かと言って、死後生や生まれ変わりを、まともに信じてしまうと、オウムみたいなことをやらかすしなあ。

「霊性の低いヤツは殺してやったほうが、本人のためだ。どうせ生まれ変わる」 なんてね。

人間てヤツは、・・・

本心では、いったい何を望んでいるのですかねえ。困ったもんだ。

※この記事はちょうど2年前に「知の森」に投稿したものです。


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