不合理ゆえに我信ず

文(文学・芸術・宗教)と理(科学)の融合は成るか? 命と心、美と神、《私》とは何かを考える

運命愛・人間の領域・神の領域

2005-04-24 16:53:14 | 哲学
私は、遺伝子の研究結果を基にした医療行為のすべてを、生命倫理違反として批判しているわけではありません。微生物の遺伝子に操作を加えて、薬品を作るための媒介として利用するなどは、何も問題ないと考えています。(本心は少し違うけど、最後で明らかにします。)

私が反対したいのは、「人間の遺伝子に操作を加えて新しく人間を作る」というようなことです。「人間の胎児の遺伝子を調べて問題があれば殺す」というようなことも同様です。

夫婦が自分たちの遺伝子を医者(科学者)に提供して、その遺伝子を変更してもらい、自分たちが望むとおりの性別・容貌・体質・才能を持つ子供を作ってもらうなども、「新しく人間を作る」行為であり、生命倫理違反です。

私が「個体生命論・語り得ぬもの」というblog記事のなかで、

「人の生き死には神の領域に属することだ。人間が操作してはいけない」

と主張したら、数人の方から、次のような意見をいただきました。

「男女が性行為によって子供を作ることだって生命操作ではないか。(作りたいときに作る。)また自然界には自然の放射能があって、遺伝子変化にも影響を与えている。自然による変異も、人為操作による変異も、本質的な違いはない。人工と工は、区別がつかない。人間によるヒトの遺伝子操作を否定する有力な理由はない。いったいどこからが、神の領域なのか」

私は少し安易に「神」という言葉を持ち出してしまったようです。

私はクリスチャンでも、仏教徒でも、何かの新興宗教の信者でもありません。神が人間の外部に超越的な者として存在していて、宇宙のどこかから人間の行いを監視し、その生き死にを決めている、などとは思っていません。

人間が人間の欲望に基づいて恣意的に操作してはいけない部分、という意味で、「神の領域」と表現しました。(文学的な表現です。)

私が、ヒトの遺伝子操作に反対な理由は、大きくふたつあります。

一つは完全な安全性が保証されないこと。ヒトの人工遺伝子技術が完全に確立されるまで、実験的な人工人間が、何人も、生まれさせられることになる。これは人間の実験材料化です。ネズミなど(人間以外の動物)ならば、いくらでも実験材料として使えるが、人間をそのように扱うことは倫理違反です。(本人同意を事前にとることもできないし。)

もし奇形児が生まれてきたら、どうするのか。誰が責任を持って育てるのか。誰が親としての愛情ある責任を果たすのか。

サリドマイド児などは、非常に重い障害を持って生まれてきたわけですが、どの親も、親としての愛情ある責任を果たしています。わが子として、いかに大切に育てられたかは、写真集などを見てもわかります。そのような覚悟が、人工人間を作る医者(科学者)にあるのか。それがないまま、実験に対する興味や野心だけで事を行うのは、不道徳ではないか。あるいはまた、科学者に人工人間の作成を依頼した人は、「失敗作」ができてきたとき、それを責任と愛情をもって、きちんと育てる覚悟はあるのか。(こういう問題があるから、法律で人工人間製造を禁止しなければならない。)



二つめは、人間の性別や容貌や才能や体質(病気への脆弱性など)の決定に、人間のエゴを介入させてしまうからです。

遺伝子操作によって何でもできるとなれば、多くの人は、わが子の性別や容貌や才能や体質を、自分が望むとおりのものに、したがるでしょう。頭が悪くて、病気に弱い子供が生まれてくることは、誰も望まない。先天的な障害など、まったく望まない。

しかしそれは人間のエゴです。エゴによって、人間の命を操作してはいけない。これは生命倫理の根幹です。

男女が結婚して、性行為によって子供を作るのは、命の操作ではない。(生まれてくる子供の、性別や容貌や才能や体質を自由に操作できないから。)

人間が偉大なのは、もって生まれた運命を受け入れて、それを克服していくからです。本人も周囲の人々も。ここに生きる姿の美しさがある。医療技術によって障害を取り除くのは、克服ではなく、除去です。運命からの逃避です。

障害をもっていても、病弱でも、頭が悪くても、人間としての心の自由や豊かさを失わない。周囲の人々も差別しない。そういうことこそが、望まれるべきことです。

近代科学をベースにしている医学は、障害や病弱や頭が悪いことを、根絶すべき(あるいは改善すべき)悪と見る。そして技術の力で、それをなくそうとする。ここに私は、現代文明の退廃を見ます。

小林秀雄は、ニーチェの思想について、次のように書いています。「悲劇について」から部分引用します。

■引用はじめ■
悲劇は、人生肯定の最高の形式だ。人間に何かが足りないから、悲劇は起るのではない。何かが在りすぎるから悲劇が起るのだ。否定や逃避を好むものは悲劇人たり得ない。何もかも進んで引き受ける生活が悲劇的なのである。

不幸だとか災いだとか死だとか、凡そ人生における疑わしいもの、嫌悪すべきものを悉く無条件で肯定する精神を悲劇的精神という。こういう精神のなす肯定は、決して無智から来るのではない。そういう悲劇的智慧を掴むには勇気を要する。勇気は生命の過剰を要する。

幸福を求めるがために不幸を避ける。善に達せんとして悪を恐れる。さような生活態度を、理想主義というデカダンスのはじまりとして侮蔑するには、不幸や悪はおろか、破壊さえ肯定する生命の充実を要する。そういうディオニュソス的生命肯定が、悲劇詩人の心理に通ずる橋である。とニーチェは言い切るのであります。

彼(ニーチェ)は、遂に運命愛という非常に難しい思想に到達した。必然的なものに目を覆ってはならぬし、単にこれに耐えるだけでもいけない、進んでこれを愛さなくてはならない、そういう考えに達した。

もちろんこういう思想には、合理的な説明は不向きである。ニーチェもやってはいない。凡そ究極的な問題は、直覚によって掴む他はないもので、直覚の率直な表現が、しばしば逆説と見えるということは、ニーチェの作でいつも経験することです。
■引用おわり■

もちろん私は、障害や病気に対する医療を、運命からの逃避だからやめろ、などと主張したいのではないです。自分や自分の家族が病魔に冒されたら、現代の医学技術にすがりつくでしょう。

しかし医学技術に不自然な生命操作は望まない。もし最愛の家族の生命が失われても、その家族をクローン人間として再生させようなどとは、思わない。(私も弱いので、なってみないとわかりませんが。)

生命操作はエゴのなせる業です。他のものならば、どんなものも、エゴによる操作が許されるとしても、生命だけは、許してはならない。生命に対する畏怖心を失ってはいけない。

それを失ったとき、社会からは、良心も道徳も失われるでしょう。それはつまり、人間が生まれてくる意味や、人間が生きている意味を、完全に失ってしまうのと同じです。

ディズニーアニメの「アラジン」でも、テーマとして訴えられています。

魔法の力によって、人を殺してはいけない、死んだ人を生き返らせてはいけない、その気のない異性を好きにならせてはいけない。

遺伝子操作技術が、人間の存在基盤(人生に意味と価値を与えるもの)を崩壊させる魔法になってはいけない。

人智を超えた生命とその進化の歴史に、「知識」や「技術」という衣をまとった人間のエゴの介入を許してはならない。

エゴは水の低きに流れるがごとくの”不自由なるもの”であり、それが生命進化を支配して、生命を滅亡や退廃の袋小路に追いやってはいけない。


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3 コメント

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はじめに断っておきます。 (きすぎじねん)
2005-04-25 01:33:53
はじめに断っておきます。
わたしも、「人による人の遺伝子操作」には、反対です。

で、moriさんは、その理由を2点挙げられております。
1点目:安全性
2点目:人のエゴ
1点目の安全性に関しては、人智の及ぶ範囲が「操作対象としての遺伝子と知りうる限りの影響」でしかないからです。世の中に、人間が操作するに当たって「完全に予測可能な」行為ってあるでしょうか?
「全知・全能の」という言葉でもって「神」という定義をするのであれば、まさに「神」の足元にも及ばない「浅はかな人智」でもって、生命操作をするわけです。この点に関しては「倫理規定」は重要な論点では無いように思われます。

2点目、この点における「人のエゴ」という概念が重要に思われます。
世の中、様々な状報(森 鴎外らの定義する状報であって情報ではないが、現在では情報と同義)で、あふれかえっています。それを利用する人々の心のエゴというものには、どうやら「倫理規定」が必要だということです。そうして、moriさんが再三このblogで取り上げようとしておられる根本問題に深く関わっているように思われます。
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> 人智を超えた生命とその進化の歴史に、「知識... (きすぎじねん)
2005-04-29 04:28:06
> 人智を超えた生命とその進化の歴史に、「知識」や「技術」という衣をまとった人間のエゴの介入を許してはならない。

ですが、それでは「人間否定」的な発言に思われます。

前述したコメントでも書いておりますが、「人間のエゴ」というものをもっと掘り下げることが必要かと思われます。moriさんのおっしゃられる「エゴ」は「情」と密接に絡み合っているように思われます。それを「忌み嫌う」という「情」でもって切り離そうとするのはいかがなものでしょうか?

> エゴは水の低きに流れるがごとくの”不自由なるもの”であり、それが生命進化を支配して、生命を滅亡や退廃の袋小路に追いやってはいけない。

ですが、「エゴ」は「不自由なるもの」でしょうか?
「エゴ」の根源は、「知・情・意」という区分を行うならば、「意」(自由意志)にあるように思われます。「エゴ」を完全否定しようとすることは「自由意志」を否定することにならないでしょうか?

「エゴ」とはまさに「不合理」なものではないでしょうか?

前述したコメントで「moriさんが再三このblogで取り上げようとしておられる根本問題に深く関わっているように思われます。」と申し上げたのは、この点にあります。

更に突っ込んでいえば、
「魔法の力によって、人を殺してはいけない、死んだ人を生き返らせてはいけない、その気のない異性を好きにならせてはいけない。」
ですが、
これは
「なぜ人を殺してはいけないのか?」
という有名なセリフに合致します。

まさに、「意」における「エゴ」(そして両者に絡み合う情と知)の「善と悪」の揺れ動く境界を垣間見るようです。

尊厳死問題は、まさにこの境界上にあります。
だからこそ、「倫理問題」になるわけです。「技術・知・現代文明」が倫理問題の対象になるわけではない。あえていうならば、それらは「大自然」の一部でもある。
「倫理問題」を必要とし、その対象となっているのは「人の意(自由意志)」であり「エゴ」なわけです。

参考URL
http://www.sal.tohoku.ac.jp/~shimizu/euthanasia/euth5.html

http://www.sal.tohoku.ac.jp/~shimizu/euthanasia/
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きすぎじねんさん、いつもコメントありがとうござ... (mori夫)
2005-04-29 17:40:10
きすぎじねんさん、いつもコメントありがとうございます。

●<moriさんのおっしゃられる「エゴ」は「情」と密接に絡み合っているように思われます。それを「忌み嫌う」という「情」でもって切り離そうとするのはいかがなものでしょうか?>

私はエゴを否定していません。忌み嫌ってもいません。エゴは自我の欲望のことだと私は解釈しています。エゴがあるから、我々は自分の身を守るし、明日を生きていく目標も生まれてくる。エゴが社会を活性化もします。ただ私は、そういう人間の欲望が、生命までをも操作することに対して、反対しているわけです。

しかし私がこのことを力説しなくても、「クローン人間禁止」は世界の趨勢です。
http://www.asahi.com/health/news/TKY200503090141.html
日本はこの宣言採択に反対したようですけれども、それは「クローン人間を作ってもよい」という意味でではなく、「医療目的のクローン胚研究を認める道を残そう」ということのようです。

●<「エゴ」は「不自由なるもの」でしょうか?「エゴ」の根源は、「知・情・意」という区分を行うならば、「意」(自由意志)にあるように思われます。「エゴ」を完全否定しようとすることは「自由意志」を否定することにならないでしょうか?>

「自由とは何か」というのは、哲学的にも非常に深い問題です。自分の狭い視野からの欲望の命ずるがままに行動する人は、「自由な人」とは言えないです。私は、真の自由意志は、動物的なエゴから自由になることにより、発揮されると思います。これについては、何度か書きました。
http://mori0309.blog.ocn.ne.jp/mori0309/2004/10/post_1.html
http://mori0309.blog.ocn.ne.jp/mori0309/2004/08/post_5.html

人間は、普通、エゴの欲望のままに行動してもあまり問題は発生しません。誰もそれをとがめません。しかし他者を傷つけたり、他者の迷惑になるような結果につながる場合は、良心が働いて、その行動が制止されます。ここに私は人間の自由を見ます。人間の本我は、エゴ(欲望)の奴隷ではないのだと。

●<「魔法の力によって、人を殺してはいけない、死んだ人を生き返らせてはいけない、その気のない異性を好きにならせてはいけない。」ですが、これは「なぜ人を殺してはいけないのか?」という有名なセリフに合致します。まさに、「意」における「エゴ」(そして両者に絡み合う情と知)の「善と悪」の揺れ動く境界を垣間見るようです。>

●<尊厳死問題は、まさにこの境界上にあります。だからこそ、「倫理問題」になるわけです。「技術・知・現代文明」が倫理問題の対象になるわけではない。あえていうならば、それらは「大自然」の一部でもある。「倫理問題」を必要とし、その対象となっているのは「人の意(自由意志)」であり「エゴ」なわけです。>

これについては、新しくblog記事を立てて、私の考えを書いてみようと思います。
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