高橋哲哉 東京大学大学院教授「死刑廃止に向けてのメッセージ」から引用します。
http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_takahashi.html
■引用はじめ■
戦争と死刑は国家が「合法的」と称して行なう殺人行為である。
人権という観念がなかった時代、国権が人権に優越していた時代には自明のものに思えたその「合法性」は、いまや化けの皮を剥がされた。いくつかの「大国」がいまだにその権利を容易には手放したがらないとしても、戦争の違法化と死刑の廃止は確実に歴史の潮流になっているからだ。
戦争も死刑も、じつはその自称「目的」を達することは稀である。拘置され自由を奪われた犯罪者に、そのうえさらに死をもたらしたところで得られるものなど何もない。国家権力が―血塗られた―国家権力であること、この空虚なトートロジー(同語反復命題)を確認するだけの死刑は、ただちに全廃されるべきなのだ。
■引用おわり■
この考え方は正しいだろうか。私は理想論としては正しいが、現実論としては間違っていると思います。私たちが生きている実社会は、理想と現実が折り合わさって、動いている。理想のみで法律を作ることはできない。
この学者は、ことさら国家というものを「悪」視して、「血塗られた権力」などと言いますが、本当に血塗られた、どす黒い闇をもっているのは、ひとりひとりの人間の心です。
憎くて憎くて相手を殺したくなる気持ち。金のためだったら人殺しも平気な冷血さ。こういうものが、死刑を廃止すれば、同時に人間の心からも消えてしまうならば、私だって死刑廃止大賛成です。
しかし実際は違う。死刑が廃止されたら、殺人事件は、増えこそしても、決して減りはしないでしょう。人を殺したら、自分も処罰されて同じ目にあうという掟は、私は人間社会には必須だと思う。これが殺人犯罪の抑止力にもなる。きれいな理想論では片付けられない。
この観点に立てば、日本国憲法は矛盾しています。日本の外側から攻撃してくる外国人に対しては交戦もできないのに、日本の内側から日本人を殺す日本人に対しては、死刑を許している。戦争放棄と死刑廃止は、ふたつそろっていないと、あるいは、交戦権と死刑が両立していないと、法律としては矛盾してしまう。(憲法九条護持派は、たいてい死刑廃止論者なので、筋は通っているが。)
核兵器も同じですね。核を持っていることが、相手に核を使わせない抑止力になる。
国家も生物です。そして生物とは因果なものです。自分を脅かす相手を殺す迫力を失ってしまえば、自分の生存力も、衰えてしまって自滅してしまうのだなあ。
この高橋氏が、私には平和主義者には見えません。この人のいくつかの書物に見られる論説には、敵を切りつける冷血さがある。容赦なく善悪を切り分けて、悪を抹殺しようとする人です。その論理構築上の整然とした「正しさ」に、誰もまともに反論できない。極端に言えば、氏は「平和」や「人権」という武器を手にした、「戦争屋」なのです。
氏の言論は、極右のそれと同じく、社会に平和をもたらすものじゃない。国を大事なものと考え、守ろうとする人々を悪玉視し、国内の対立を先鋭化させるだけの思想。そしてこれは、こういう学者の権力欲(あるいは権力へのコンプレックス)からきている。氏の鋭い目つきがそれを物語っている。私にはそう思えてなりません。
それにしても、高橋氏といい、上野千鶴子氏といい、こういう反国家論者が、東大という「国立大学」の頂点にいて、給料をもらってるとは、どういうことなんだか。
たぶんこれも、アメリカの核や在日米軍に保護されているのに、「自力で平和と平和憲法を守ってる」みたいに勘違いしている「戦後民主主義」の、甘えと欺瞞からくる自堕落と、同じ構造なのだろう。
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