不合理ゆえに我信ず

文(文学・芸術・宗教)と理(科学)の融合は成るか? 命と心、美と神、《私》とは何かを考える

右手と左手(聖書より)

2004-09-07 00:02:55 | 哲学
寝太郎さんに「月光仮面の偉大なる母」へのコメントをいただきました。

《引用はじめ》
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聖書にもこんなことばがあります。

「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。(中略)施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない、あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことをみておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイによる福音書6章)

月光仮面のお母さんのような無名の聖者になりたいものですね。
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《引用おわり》

私もこの聖書の言葉は、とても意味深いものだと思っていました。「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」とは、どういう意味でしょうか。私の考えは、こうです。

自分の善行を人に宣伝するのはもちろん、自分がいま善いことをしているのだ、というような、内心のうぬぼれの気持ちも、持ってはいけない。そういう気持ちになるのは、自分の善行を、相手に感謝されたい、人々に賞賛されたいという、裏心があるからだ。

その場合、相手から感謝やお礼の言葉をもらえなかったり、人々が誰も気づいてくれなかったりすると、鬱憤になる。そしてその鬱憤が晴らされないと、親切にしてやった相手の悪口を言うことにもなる。悪口は悪口を呼ぶ。これは結局、人々の間に不和を生む結果となる。

不和を生むような、うその善行をしてはいけない。内心の「私は親切にしてやったのだ」というような、おごった気持ちをもってはいけない。善行というものは、無私の心で、自然体で出来なければいけない。そしてそれこそが、世を平和にし、人々を幸福にするのだ。

とまあ、こんなふうに、くだくだしく説明してしまうと、せっかくの聖書の簡潔で厳かな言葉が台無しになってしまうわけですが。 皆さんは、どう思われますか。(私の解釈は、はずれかもしれません。)

人に親切にしても、心のなかでいい気になるなとは、難しいです。私みたいな凡夫としては。

それから、「隠れたことをみておられる父が、あなたに報いてくださる」というのも、哲学的には大問題です。「隠れたことを見ている父」って誰? 「報いてくれる」ってどういうこと? そういう難問を追求したいというのが、このブログの目的のひとつでもあります。ご興味のある方は、今後ものぞいてやってください。


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12 コメント

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mori夫さまへ、 (chavele)
2004-09-07 01:37:11
mori夫さまへ、

先程は私のHPへご訪問下さいまして、有難うございました。

>「右の手のすることを左の手に知らせてはならない」・・・、内心のうぬぼれの気持ち、自分の善行を、相手に感謝されたい、人々に賞賛されたいという、裏心があるからだ。

この聖書の文句は耳にタコが出来るほど何度も聞きましたが、左手が自分の行いを知ると言う事には「うぬぼれ、感謝されたい、お返しを受けたい、賞賛されたい」などの裏心があったとは知りませんでした。ならば逆に、これって私の事じゃないの!と思い恥ずかしくなってしまいます。

もう何年間もキリスト者の生活をしていますが、精神的にも平信徒のままで成長しておらず、いつも自己中心的な考え方しか出来ない私に失望してしまいますね(自己嫌悪)。

とても勉強になりました。


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「見てもらおうとして、人の前で善行をしないうよ... (きすぎじねん)
2004-09-07 02:29:13
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないうように注意しなさい。(中略)施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない、あなたの施しを一目につかせないためである。そうすれば、隠れたことをみておられる父が、あなたに報いてくださる。」(マタイによる福音書6章)

ですが、「一目」は「人目」の間違いではないでしょうか?

ちなみに、わたしはクリスチャンではなく、私の手元にある新約聖書は「国際ギデオン協会より贈呈」というものです。YMCAにていただいたものですが、英語の原文では
"3 But when you practice charity, your left hand must not know what your right is doing,"
"4 so that your charity will be in secret. And your Father who sees in secret will reward you."
となっています。

さて、moriさんの解釈をそのまま押し通すと、「隠れたことをみておられる父が、あなたに報いてくださる」というところでは、そういった「報いを当てにして善行をする」のなら、その段階で、すでに「左の手」に知らせる以上に、問題になると思います。
場合によっては、「ヨブ記」のヨブのような状況に陥ってしまうかもしれないからです。

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最後、中途半端な言い回しで、分かりにくかったと... (きすぎじねん)
2004-09-07 02:50:35
最後、中途半端な言い回しで、分かりにくかったと思いますので、書き改めます。
キリスト教では、主は絶対的な存在のはずです。聖書に「報いがある」と書かれている以上、あるのが当然ですし、絶対にあるはずなんです。でも、moriさんのように拡大解釈していくと、「報いがない」ときに主を疑ってしまうということが生じてしまう。
すなわち、「主」の存在すら否定的に考えてしまいうる。
そんなことは、キリスト教では、絶対に許されるべきではない。
結局、「報いが無い」というように主を超えて勝手に「思い込む」こと自体が悪いということになる。(ヨブ記を相当略してしまっています)

結局のところ、キリスト教の範疇では「報いは必ずある」と信じて行動することに、何の問題も無いし、積極的にそうしているのではないでしょうか?

したがって、chaveleさんがおっしゃられる
「この聖書の文句は耳にタコが出来るほど何度も聞きましたが、左手が自分の行いを知ると言う事には「うぬぼれ、感謝されたい、お返しを受けたい、賞賛されたい」などの裏心があったとは知りませんでした。」
は、キリスト教信者であれば、むしろ、当たり前の考え方になるんではないだろうかと思ったりしています。
逆に言えば、それは裏心ではなく、キリスト教では真の心であるべきなんではないでしょうか?
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また平信徒の説明になってしまい恐縮なのですが、... (chavele)
2004-09-07 03:40:55
また平信徒の説明になってしまい恐縮なのですが、普通キリスト者は主からの「報い」を直接的な「お返し、見返り」としてではなく、黙示録の最後の審判で「天国へ行く人、行かない人」の仕分けの際に下る神からの報いと解釈します。又は死後に明らかになる報いと言いましょうか。キリスト者でも罪の程度によって報われない人もいるかも知れませんから、キリスト者ならば絶対に云々と言う訳でもないと思います。その為に生前に神からの「報い」を期待して疑ってしまう・・・ちょっと理解出来ないですねえ。キリスト者は生前も死後の主からの報いを望んで聖書と共に生活をして、修練するものだと信じているのですから(私の場合)。

>「報いがない」ときに主を疑ってしまうということが生じてしまう・・・?

>それは裏心ではなく、キリスト教では真の心であるべきなんではないでしょうか?

これは「?」が付いていますので、私の個人的な意見を言っても宜しいのでしょうか?キリスト者とは言っても、単なる人間ですし罪深いものです。私なんかはデモクリ「それでもクリスチャン」ですので、はい、キリスト者でも心の中ではそう思っています。昨年、ある日教会の前の鉄製ドアを開けてくれているホームレスの男性に私のお手製のドーナツ(大量に作り過ぎたので)を20個ほど箱に詰めて手渡しました。次の日に彼にその教会の前で再び会いましたが、彼は「昨日は有難う!」なんて私に一言も言わなかったんですね。それを不満に感じた私は悩んでしまいました、「ドーナツが不味かったのだろうか?」、「リンゴなしで粉だけで作ったドーナツに不服だったのだろうか?」と。平信徒で不信仰な私は「右手と左手を同時に出して」彼らに奉仕していたようです。だから、このドーナツは彼らを喜ばせる為ではなくて、自分を喜ばせて自惚れる為だったのかも知れません。その思いが罪ですから、主はその事についてどう判断されるのかはまだ明らかにはなりません。

ちょっと、きすぎじねんさんのおっしゃりたかった事を正しく理解していませんでしたら、お赦し下さい。

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chaveleさん、私のキリスト教に対する偏見があるか... (きすぎじねん)
2004-09-07 05:42:33
chaveleさん、私のキリスト教に対する偏見があるかもしれませんので、その折にはご指摘ください。

「最後の審判」のみを「報い」として定義されているとは知りませんでした。「最後の」なので、「それ以前の」が、たくさんあるのだとも思っていました。
日々の恵みや糧にも「報い」が影響しているんだとばかり思っていました。

私の言いたかったことは、
キリスト教徒であれば、「主を信じ、教えを守り、良いことをすれば、必ず救われる(報いがある)」ということを、積極的に信じるべきだろうということです。

でも、もし、そうであれば、最終的に報いを信じている以上、moriさんのおっしゃられるような報いを意識しない奉仕活動は、非常に困難なのではないのだろうか?
ということです。

すなわち
「人々に賞賛されたいという、裏心があるからだ。」
というところは、右手・左手のレベルを超えたとしても、
「主に賞賛されたいという、真の心があるからだ。」
ということにそっくり裏返ってしまうのではないのでしょうか?ということです。
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きすぎじねんさん、ありがとうございます。 (mori夫)
2004-09-07 09:58:55
きすぎじねんさん、ありがとうございます。

いきなり急所ですね。
あいたたたたたたた。
じつにじつにじつに、鋭いコメントでございます。

これは人間の、人類の、永遠の問題だと思います。
(2000年以上、考え続けてきた)

chaveleさん、すぐにお返事を返そうとなさらなくていいと思いますよ。
(きすぎじねんさんは、数年おつきあいいただいていますけど、たいへんな論客です。)
この問題に簡単に答えられる人は、地球上にそんなにいません。(と思います。)

ゆっくり、いきましょう。
私も、じっくり考えます。
(これは、一生かけて考える問題です。)
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この問題については、ドストエフスキーも格闘して... (mori夫)
2004-09-07 10:43:48
この問題については、ドストエフスキーも格闘していました。「カラマーゾフの兄弟」もその一例です。あれだって未完です。
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ものすごーーーーーーく、安直な回答です。こんな... (mori夫)
2004-09-07 10:54:38
ものすごーーーーーーく、安直な回答です。こんなこと書いていいのかどうか、わからないけど、書きます。
キリスト教の神様も、仏教の仏様も、その他の神様も、本当の神様は、こう言っているんです。

「私には何もできません。あなたが神様になりなさい。そして苦しんでいる世の人を救ってあげなさい。あなたが世を照らす希望の光になりなさい。」と。

そして、そういうふうに私たちを導いてくれる、「本当の神」が、私は実在すると思っています。月光仮面の母のような方が、この世に現れるというのが、その証です。
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いや。。。そんなに激烈に議論しあうというつもり... (きすぎじねん)
2004-09-07 20:34:24
いや。。。そんなに激烈に議論しあうというつもりはないんですけど。。。^^;

chaveleさんへ
私の知りたいのは、私の発した問(何千年も昔から繰り返されてきた問かどうか、するどいかどうか、答えが出ないのか出るのかは問題ではない)に対して、chaveleさんが、どのようにお考えになっておられるのか?ということです。ほんとの意味で、純粋なお答えを期待していただけです。

別に、お答えを強要しようとは思っておりませんが、クリスチャンであるならば、自分なりの答えがすぐに出るはずだと思っておりますので、お聞きしました。それをもとに、さらに突っ込むつもりはありません。(念のため)

moriさんへ
私(きすぎ)は、クリスチャンではない。
したがって、キリスト教徒の立場では考えることができない。
すなわち、キリスト教徒という枠(境界線)の外側から見てしまうので、キリスト教徒の立場に立って考えようとしても、どうしても神の絶対性を相対的にしか見ることができない存在です。
そういう立場で物事を見ていくということと、鳥親子に秘められた真実を受け入れるということと、非常に強い関連性があると思っています。さらにいえば、テロリスト問題にも関連するんではないだろうかと思っています。

キリスト教の持つ博愛主義は、キリスト教徒であるから故に博愛主義足るべきものなのだと思っています。その「いいとこどり」をして、キリスト教の外部に持ち出したとたんに問題が発生するのだろうと思っています。要するに「汎化」ないし「相対化」がもたらした問題と思うわけです。「鋭いコメント」とmoriさんが感じられるのは、moriさんが、キリスト教の外部からこの問題を見ようとしているからだと思います。

おそらく真のキリスト教徒であれば、「何のこと?」
といった話にもなるような、たわいの無いことになるはずだと思っています。
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で、 (きすぎじねん)
2004-09-07 21:04:49
で、
moriさんがおっしゃられるところの「本当の神」は、「汎化」していく方向にある以上、存在し得ないと思っています。というより、「報い」を与えることが不可能になってしまう(すなわち「何もできない」)
それゆえ、moriさんは、個々の人々の心の中に神々を見出そうとしておられる。
最終的には、私もそう感じています。
月光仮面の母親は、「母親」という「仮面」をかぶることで、真の母親になっている。その「仮面」(他人にはかぶることのできない真の仮面)を通してこそ、母子の(互いの)神的なものへの「方向性」が重なりあって、相対することになるのだろうと思うのです。
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