あぜ道日記

田舎暮らしの中で、自然や季節の花々、時々お出かけを、写真で綴ります。

長谷寺・高野山参拝の旅(その6)

2017年12月13日 | 旅行記

金剛峯寺の縁起はなかなかむずかしいので、HPから引用しました。

高野山は、平安時代のはじめに弘法大師によって、開かれた日本仏教の聖地です。
「金剛峯寺」という名称は、お大師さまが『金剛峯楼閣一切瑜伽瑜祇経(こんごうぶろうかくいっさいゆがゆぎきょう)』というお経より名付けられたと伝えられています。
主殿(本坊)をはじめとした様々な建物を備え、境内総坪数48,295坪の広大さと優雅さを有しています。

総本山金剛峯寺という場合、金剛峯寺だけではなく高野山全体を指します。
普通、お寺といえば一つの建造物を思い浮かべ、その敷地内を境内といいますが、高野山は「一山境内地」と称し、高野山の至る所がお寺の境内地であり、高野山全体がお寺なのです。

高野山の本堂は、大伽藍にそびえる「金堂」が一山の総本堂になり、高野山の重要行事のほとんどは、この金堂にて執り行われます。

高野山は2004年、熊野・吉野大峯と共に「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録されていますが、弘法大師空海が開創した一大宗教都市であることを改めて感じました。


さて、金剛峯寺の正門まで来て、中を見ました。









金剛峯寺の建物の中で一番古く、文禄2年(1593年)に再建されて以来、今日まで建っています。








主殿は江戸末期文久3年(1863年)に再建された、東西54m 南北63mの書院造建築です。
主殿の持仏の間には1680年検校文啓の支持で制作された本尊弘法大師座像が祀られ、2015年4月2日~5月21日に16年ぶりに開帳されました。
2年前はちょうどご開帳の時に来ましたが、あまり時間がなく、外から眺めただけで、あまりよく見えなかったと記憶しています。


屋根は檜の皮を何枚も重ねた檜皮葺(ひわだぶき)になっています。
その屋根の上に、桶が置かれています。これを天水桶といいます。
これは普段から雨水を溜めておき、火災が発生したときに、火の粉が飛んで屋根が燃えあがらないように桶の水をまいて湿らし、少しでも類焼を食い止める役割を果たしました。









右側に突き出ている部分は大玄関です。
天皇・皇族や高野山重職だけが出入りされました。









精密な彫刻が施されています。
















主殿の内部に入り、廊下から正門を見ました。









金剛峯寺の前身である青巌寺の鐘楼です。
その構造形式から万延元年(1860年)に大火(たいか)で類焼後、大主殿などの建物と共に鐘楼も元治元年(1864年)に再建されたものと考えられます。









廊下の天井の曲線は説明がありましたが、波をかたどったものだったか、はっきり記憶していません。









前回に来たときは主殿周辺だけが金剛峯寺と思っていましたが、実はとても広い格式のある部屋がたくさんありました。
赤い矢印で見学しました。
さらに新別殿でお茶のお接待と講和を聴くことができました。
写真は撮れないのでHPで振り返っています。









弘法大師御入定1150年・御遠忌大法会の際に造園された蟠龍庭(ばんりゅうてい)です。
京都のお寺を思わせるようなお庭です。









一般公開されていない奥殿ですが、住職さんと金剛峯寺さんとのご縁で、内部を見せていただきました。









最後は江戸期以降、実際に大勢の僧侶の食事を賄ってきた台所を見学しました。
















ブラタモリで取り上げていた二石釜ですが、画像がピンボケのものしかありませんでした。
三つのお釜で一度に2千人分のご飯が炊けるということです。





金剛峯寺の記事はちょっと大変でした。
次はいよいよ奥の院に向かいます。
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