25時間目  日々を哲学する

著者 本木周一 小説、詩、音楽 映画、ドラマ、経済、日々を哲学する

宗教の最終的な姿

2017年05月29日 | 文学 思想

 今日は良いことがあった。六人の人がささやかな喜びを感じたことだろう。

 それで祝というこじつけをして、毎日、バリ島の風景を思い起こしていることから、ハイビスカスを買ってきた。黄色のものと朱色のものである。大きめの鉢を買って、ハイビスカスが大きく成長しても耐えられるようにした(つもりである)。

 昼、科学は宗教を越えるか、と題する項目を読んだ。岡本裕一朗の考え方と違うところがあって、ぼくは宗教についても段階論を導入した方がよいと思う。段階論というのは時間軸のことだ。

 宗教の始まりはおそらくどこも同じである。ところが経済や地理的環境等によって、段階が違ってくる。例えば、キリスト教で言えば、カソリックとプロテスタントを比較すると、プロテスタントの方が資本主義と合致し、最も先に進んだ段階であり、今や倫理、道徳化したというべきである。儒教が宗教から倫理観化、道徳化したようなものである。

 キリスト教とて、現在のイスラム原理主義適用な段階があった。世界のイスラム教国も原理主義ではやっていけず、世俗化していくのだろう。

 日本では仏教や神道もすでに世俗化している。僕の家は永平寺系の曹洞宗であるが、ぼくは曹洞宗の内容などは知らない。形式的には仏教の檀家であっても、こころの内実は仏教の一宗派である曹洞宗についてまるでしらないし、ありがたみもない。

 宗教の最終の姿想像すると、宗教歴史的最前線は民衆間に溶けていうのではないか。イスラム原理主義も、同じイスラム教徒が豊かになっていけば色を失って行くのではないか。

 ぼくのような戦争を知らない世代はづでに敗戦時から72年が経ち、宗教色は薄まり、宗教を俯瞰してみることができる。

 親鸞が行ったように、宗教は鎌倉時代に解体され、その後、隆盛もないまま葬式仏教になり、ある部分では道徳になっている。そこに輪をかけるのは伝統である。ようするに仏教は伝統で生きている。

 思えば、訳のわからない経典をどのように信じろというのか。「なみあみだぶつ」と生涯に一度言えればいいのだ、という極端なパラドクスが親鸞が仏教を終わらせたもので、現在ある浄土真宗は親鸞が起こしたものでもなんでもない。

 すでに仏教もプロテスタントのようになっていると言えると思う。それが宗教の最終的な姿なのではないか。