青山学院大学の瀬尾佳美という教員が光市事件での被害者の「母と子供」をブログで「被害者1.5人」と表現していたとの記事があった。彼女の履歴を見ると阪大物理学科で学部を卒業し、私は名前を知らなかったアメリカの私立大学で文系に専攻を変えて修士取得後、文系分野での博士号を日本で取得しているようである。私が推測するに文系の専攻をもともと希望していたが、偏差値の関係で偏差値の下がってきた理系に目をつけて、興味もない物理専攻をし阪大というネームバリューを利用しての物理専攻であると思う。また、彼女程度の研究経験では理系であれば、大学の准教授に採用されることはありえない。現在の理系のポスドクの多さを考えると助手や研究員でも無理であると思う。
それらのことを全て理解しての理系から文系への専攻変更であると思う。過去の研究業績を見ると過去10年間で査読付きの英文論文は共著で1本あるのみである。このような業績で文系の准教授に採用されるのであれば、だれも苦労して理系の教員になろうと思う人はいないであろう。アメリカの経済学部の大学教員と比較しても著しく業績が少ない。これほど研究業績が少なくても博士号を取得できる大学や専攻も異常であり、日本の大学で教員として採用されていることにはさらに驚かされた。
http://blog.sipec-square.net/research-performance/k-seo/
理系の場合文科省による外部審査等で論文数や実験装置等の不備等、出身大学のかたよりまで色々と指摘されているが、あそこまで厳しい指摘は何であったのかと考えさせられる。彼女が属する学科の外部審査は過去どのようになされてたのか。たぶん分野によってどうのこうのと自分たちに都合の良い基準(決して世界水準ではない基準)を作っているのであると思う。今回のことで大学教員でありながら、文系の教員が頻繁にテレビに出れる理由を理解することができた。某テレビの女子アナが突然肩書きが関西の私大の准教授となっていたのを見たことがあるが、文科省の外部審査で大学はどう説明しているのかと思った。私立大学はマスコミ関係者を教員を採用することでマスコミに宣伝してもらえると思っているが、学生はこんないい加減な教員から教えてもらおうと思うであろうか。
青山学院大学は私立でも名門であるが、教員採用の際はキリスト教信仰は問わないようである。彼女のブログの内容は品性のかけらもなく、キリスト教系大学の教員である自覚が全くなかった。妻はカトリック信者であり、またその大学との関係もあり、彼女のブログを読んでからかなり落ち込んでいる様子であった。キリスト教信仰がなくても、キリストが言わんとしていることを真っ向から否定するような自己の考えをブログにすることに違和感はなかったのであろうか。大学教員の多くは社会での経験が少なく、幼少のころから貧しい家庭の子供と接することもなく、坊ちゃん育ちの異質な社会でのみ生きてきた人が多い。
したがって、大学教員の中には社会的な価値観を理解できない人や、人の痛みを理解できない人格の持ち主も多い。彼女のような人格は大学教員では珍しくないが、キリスト教の大学にそのような教員がいたことで話題になったのであると思う。日本には国際基督教大学があり、教員採用の際にはキリスト教信者であることが前提になっていたはずであるが、昨年セクハラで退職した教員がいたことから、教員採用の際にそれほど厳格にキリスト信仰が守られているのではないと思う。
大学のホームページにも学長の4行の短い謝罪文が掲載されていたが、この内容をみると学長や組織に本当に謝罪の気持ちがあるとは到底思えなかった。少なくとも文章にキリスト教信仰のかけらも見られなかった。いずれにしても、日本にキリスト教信仰を前提にした大学が必要なのかどうかが問われているのだと思う。キリスト教信仰をなくした大学がそのことを全面に出して宣伝している姿は、キリストをおとしめているとしかいえないと思う。
それらのことを全て理解しての理系から文系への専攻変更であると思う。過去の研究業績を見ると過去10年間で査読付きの英文論文は共著で1本あるのみである。このような業績で文系の准教授に採用されるのであれば、だれも苦労して理系の教員になろうと思う人はいないであろう。アメリカの経済学部の大学教員と比較しても著しく業績が少ない。これほど研究業績が少なくても博士号を取得できる大学や専攻も異常であり、日本の大学で教員として採用されていることにはさらに驚かされた。
http://blog.sipec-square.net/research-performance/k-seo/
理系の場合文科省による外部審査等で論文数や実験装置等の不備等、出身大学のかたよりまで色々と指摘されているが、あそこまで厳しい指摘は何であったのかと考えさせられる。彼女が属する学科の外部審査は過去どのようになされてたのか。たぶん分野によってどうのこうのと自分たちに都合の良い基準(決して世界水準ではない基準)を作っているのであると思う。今回のことで大学教員でありながら、文系の教員が頻繁にテレビに出れる理由を理解することができた。某テレビの女子アナが突然肩書きが関西の私大の准教授となっていたのを見たことがあるが、文科省の外部審査で大学はどう説明しているのかと思った。私立大学はマスコミ関係者を教員を採用することでマスコミに宣伝してもらえると思っているが、学生はこんないい加減な教員から教えてもらおうと思うであろうか。
青山学院大学は私立でも名門であるが、教員採用の際はキリスト教信仰は問わないようである。彼女のブログの内容は品性のかけらもなく、キリスト教系大学の教員である自覚が全くなかった。妻はカトリック信者であり、またその大学との関係もあり、彼女のブログを読んでからかなり落ち込んでいる様子であった。キリスト教信仰がなくても、キリストが言わんとしていることを真っ向から否定するような自己の考えをブログにすることに違和感はなかったのであろうか。大学教員の多くは社会での経験が少なく、幼少のころから貧しい家庭の子供と接することもなく、坊ちゃん育ちの異質な社会でのみ生きてきた人が多い。
したがって、大学教員の中には社会的な価値観を理解できない人や、人の痛みを理解できない人格の持ち主も多い。彼女のような人格は大学教員では珍しくないが、キリスト教の大学にそのような教員がいたことで話題になったのであると思う。日本には国際基督教大学があり、教員採用の際にはキリスト教信者であることが前提になっていたはずであるが、昨年セクハラで退職した教員がいたことから、教員採用の際にそれほど厳格にキリスト信仰が守られているのではないと思う。
大学のホームページにも学長の4行の短い謝罪文が掲載されていたが、この内容をみると学長や組織に本当に謝罪の気持ちがあるとは到底思えなかった。少なくとも文章にキリスト教信仰のかけらも見られなかった。いずれにしても、日本にキリスト教信仰を前提にした大学が必要なのかどうかが問われているのだと思う。キリスト教信仰をなくした大学がそのことを全面に出して宣伝している姿は、キリストをおとしめているとしかいえないと思う。