ある事務系のアルバイトに入ったときのことだ。そこは、子会社を作って親会社に派遣されるという形の仕事だった。事務系といっても、ホワイトカラーとブルーカラーの境のような単純作業と呼ばれる仕事だった。
チケットを封筒に手作業で封入したり、ベルトコンベアー式の機械を使って封入していったりする。
そこは女性の職場だった。十代から40代くらいまでの女の人たちが、中高年の男性の上司に仕えていた。男性たちは、親会社からの出向組みと思われたが、正社員だった。女の人たちはみな派遣会社を通じたパートかアルバイトだった。
そこでの十代おわりから二十代半ばくらいの女性たちは、彼氏と結婚に非現実的なまでの幻想を抱いていた。
朝の8時または9時から夜の5時~11時までの勤務。単調な仕事。絶対にないと予想できる昇進。何よりも、細切れの雇用。そこは一週間~二週間程度のあいだ、とても忙しい時期だけ女性に来てもらう職場だった。それに低い賃金に保障。社会的に尊重されない立場。
なぜか彼女らは余裕があり、流行の服やアクセサリーで身をかざっていた。わたしとちがって京阪神圏の実家から通えたり、父親福祉も使える人が大半のようだった。
お昼時には、資格試験やスキルアップの話はなく、彼氏と結婚の話題でもちきりだった。彼女らじゃほおをバラ色に染めてお金持ちの彼氏や社会的な地位の高いスマートな男性との結婚について語るのだった。
それは、フリースクールで自立が大切だと育てられたわたしにとっては理解しにくい話だった。私にとっては彼女らは、あまりにも受身で無責任で依存的だと思えた。それは一種の「罪」のように感じられた。みなが同じことをしゃべるのも不気味だった。職業や人生を豊かにする経験を自ら選択せずに、どうして実存ができるのか? 十代のころに図書館で読んだボーヴォワールの「人間について(新潮文庫)」を思い起こした。
彼女らの自我のなさには、正直言って吐き気さえ覚えた。彼女らは「企業戦士の銃後の妻」としての「「やまとなでしこ」を作る学校教育を無批判に受け入れているように見えたからだ。フリースクールにはそういうおかしなタイプの専業主婦予備軍はいなかった。そのように日本の伝統にそむくことをするものは、「明治以降たかだか百年」といって小バカにされた。
彼女たちは男性、彼氏、結婚についてあまりに幻想が大きすぎる。ちょうどそのころ彼氏がいることを伝えると、「どうしてベンツの送り迎えがないの?」、「なぜブランドものの服や化粧品やバッグを持ってこない?」と質問責めにあって困ったことがある。
そんな風に高望みをするから彼氏ができないんじゃない? と言ってしまえば嫉妬が恐ろしいので、笑ってごまかしておいた。沈黙は金だ。
わたしは学校教育の問題に関心を持って、十代おわりのころから文化社会学を独学で学んでいる。そこで、結婚相手を選ぶときには、だいたいにおいて同じ階層を選ぶという知識を手にしていた。なので、過剰な幻想はない。十代半ばからのイリイチの「エネルギーと公正」を翻訳とはいえ読んでいることもあって、車よりも電車が好きだし。
どうやら、彼女らは暗黙の前提として、結婚すればもう働く必要などなく、いわばシロガネーゼのような優雅な暮らしができると信じているようだった。だが、気づかないのだろうか? 同じ職場で既婚の女性が安い賃金と細切れの雇用で働いていることを。男性の上司が本来なら禁煙のルールの場所で喫煙をしていて、自分もタバコの煙のニオイが嫌いであっても注意できない低い身分を見て聞いて、それが自分たちの近い将来のありうる姿だと考えたことはないのだろうか?
多分、彼女らは王子様を待っているのだ。自分を一挙にお金持ちの世界に連れていってくれるやさしくてカッコいい王子様を。だけど、自分で彼氏をつかまえるために動かないでどうするのだろう? 女性は動物であって植物ではない。まだ若くてエネルギーの有り余っている時期にそういった生き方は窮屈だとか味気ないとか感じたことはないのだろうか?
また、そういった専業主婦の生き方が大衆化したのは、特殊高度成長期的な女性のライフコースだったのではないだろうか?
彼女らは環境から学ぶ力も、ものを考える力も去勢されている。そうして子宮(選択)と卵巣
(実存)を家父長制社会に奪われてしまっているのだ。
王子様は、よほどの幸運がなければやってこない。自ら剣を持ち魔法を身につけ、ドラゴン(資本主義と家父長制)と戦え!
自分で剣や魔法が操れるほうがいいではないか。そして強く賢い男をつかまえたければ、苦楽をともにするほうが感動的ではないか。修行を通じて自らを磨き、旅を通じて見聞を広めないで、どうしていい男を見分ける目が育つだろう。
王子様はやってこない。ヘタをすると貴族やブルジョワの御曹司もやってこない。自分で自分にあった男性を探す旅に出なければ、待ってばかりではどうしようもない。
王子様(近代核家族制度)に依存せずに、生きてゆくためには去勢を乗り越えねばならない。
「どうせダメ」という「敗北主義(ボーヴォワール)」をのりこえ、権利と実存のために積極性を取り戻さねばならない。奴隷根性に陥ってスポイルされている場合ではないのだ。
それはつらく険しい道のりになるだろう。しかし、その結果自立が手に入るのなら、安いものではないか。自らが女王になるつもりで人生を送らないでどうするのだ。
何かあったら父親や夫に責任転嫁するのはやめよう。何でも彼氏まかせもやめたほうがいい。だいいち、そういった収入を確保できる男性の絶対数もどんどん減っていっているではないか。生活をしてゆくために、今の職場がイヤなら結婚に現実逃避している場合ではない。
チケットを封筒に手作業で封入したり、ベルトコンベアー式の機械を使って封入していったりする。
そこは女性の職場だった。十代から40代くらいまでの女の人たちが、中高年の男性の上司に仕えていた。男性たちは、親会社からの出向組みと思われたが、正社員だった。女の人たちはみな派遣会社を通じたパートかアルバイトだった。
そこでの十代おわりから二十代半ばくらいの女性たちは、彼氏と結婚に非現実的なまでの幻想を抱いていた。
朝の8時または9時から夜の5時~11時までの勤務。単調な仕事。絶対にないと予想できる昇進。何よりも、細切れの雇用。そこは一週間~二週間程度のあいだ、とても忙しい時期だけ女性に来てもらう職場だった。それに低い賃金に保障。社会的に尊重されない立場。
なぜか彼女らは余裕があり、流行の服やアクセサリーで身をかざっていた。わたしとちがって京阪神圏の実家から通えたり、父親福祉も使える人が大半のようだった。
お昼時には、資格試験やスキルアップの話はなく、彼氏と結婚の話題でもちきりだった。彼女らじゃほおをバラ色に染めてお金持ちの彼氏や社会的な地位の高いスマートな男性との結婚について語るのだった。
それは、フリースクールで自立が大切だと育てられたわたしにとっては理解しにくい話だった。私にとっては彼女らは、あまりにも受身で無責任で依存的だと思えた。それは一種の「罪」のように感じられた。みなが同じことをしゃべるのも不気味だった。職業や人生を豊かにする経験を自ら選択せずに、どうして実存ができるのか? 十代のころに図書館で読んだボーヴォワールの「人間について(新潮文庫)」を思い起こした。
彼女らの自我のなさには、正直言って吐き気さえ覚えた。彼女らは「企業戦士の銃後の妻」としての「「やまとなでしこ」を作る学校教育を無批判に受け入れているように見えたからだ。フリースクールにはそういうおかしなタイプの専業主婦予備軍はいなかった。そのように日本の伝統にそむくことをするものは、「明治以降たかだか百年」といって小バカにされた。
彼女たちは男性、彼氏、結婚についてあまりに幻想が大きすぎる。ちょうどそのころ彼氏がいることを伝えると、「どうしてベンツの送り迎えがないの?」、「なぜブランドものの服や化粧品やバッグを持ってこない?」と質問責めにあって困ったことがある。
そんな風に高望みをするから彼氏ができないんじゃない? と言ってしまえば嫉妬が恐ろしいので、笑ってごまかしておいた。沈黙は金だ。
わたしは学校教育の問題に関心を持って、十代おわりのころから文化社会学を独学で学んでいる。そこで、結婚相手を選ぶときには、だいたいにおいて同じ階層を選ぶという知識を手にしていた。なので、過剰な幻想はない。十代半ばからのイリイチの「エネルギーと公正」を翻訳とはいえ読んでいることもあって、車よりも電車が好きだし。
どうやら、彼女らは暗黙の前提として、結婚すればもう働く必要などなく、いわばシロガネーゼのような優雅な暮らしができると信じているようだった。だが、気づかないのだろうか? 同じ職場で既婚の女性が安い賃金と細切れの雇用で働いていることを。男性の上司が本来なら禁煙のルールの場所で喫煙をしていて、自分もタバコの煙のニオイが嫌いであっても注意できない低い身分を見て聞いて、それが自分たちの近い将来のありうる姿だと考えたことはないのだろうか?
多分、彼女らは王子様を待っているのだ。自分を一挙にお金持ちの世界に連れていってくれるやさしくてカッコいい王子様を。だけど、自分で彼氏をつかまえるために動かないでどうするのだろう? 女性は動物であって植物ではない。まだ若くてエネルギーの有り余っている時期にそういった生き方は窮屈だとか味気ないとか感じたことはないのだろうか?
また、そういった専業主婦の生き方が大衆化したのは、特殊高度成長期的な女性のライフコースだったのではないだろうか?
彼女らは環境から学ぶ力も、ものを考える力も去勢されている。そうして子宮(選択)と卵巣
(実存)を家父長制社会に奪われてしまっているのだ。
王子様は、よほどの幸運がなければやってこない。自ら剣を持ち魔法を身につけ、ドラゴン(資本主義と家父長制)と戦え!
自分で剣や魔法が操れるほうがいいではないか。そして強く賢い男をつかまえたければ、苦楽をともにするほうが感動的ではないか。修行を通じて自らを磨き、旅を通じて見聞を広めないで、どうしていい男を見分ける目が育つだろう。
王子様はやってこない。ヘタをすると貴族やブルジョワの御曹司もやってこない。自分で自分にあった男性を探す旅に出なければ、待ってばかりではどうしようもない。
王子様(近代核家族制度)に依存せずに、生きてゆくためには去勢を乗り越えねばならない。
「どうせダメ」という「敗北主義(ボーヴォワール)」をのりこえ、権利と実存のために積極性を取り戻さねばならない。奴隷根性に陥ってスポイルされている場合ではないのだ。
それはつらく険しい道のりになるだろう。しかし、その結果自立が手に入るのなら、安いものではないか。自らが女王になるつもりで人生を送らないでどうするのだ。
何かあったら父親や夫に責任転嫁するのはやめよう。何でも彼氏まかせもやめたほうがいい。だいいち、そういった収入を確保できる男性の絶対数もどんどん減っていっているではないか。生活をしてゆくために、今の職場がイヤなら結婚に現実逃避している場合ではない。
これはいつのことですか。彼女たちの学歴はどんな感じですか。
なんだか60年代の女子社員と変わらない感じですね。ちょっと驚きました(というと自分の無知がさらけだされてしまうかな)。今でも平均的な若い女性はこんな感じなんですか。私が接している人たちが違っているのか、私の前では別の顔をしているのか。
よろしければお教えください。
あなたの質問にお答えしましょう。これは、近年のことです。2000年代初頭のできごとでした。
彼女たちの学歴についてはよく分かりません。そういった書類を見れる立場にいなかったし、たった2週間ほどの契約だったからです。
平均的な若い女性たちは? うーん、わたしは統計的に誤差の小さい調査を行える立場になく予算もないため、これも分かりません。ただし、自分なりの仮説・予想・意見を述べることはできます。
多分、自分なりの仕事をして自活しようとする層と、ベンツやブランドづくめの生活など結婚への過大な期待を抱く層とに二極分化しているのではないでしょうか?
ただ、そういう人たちはかえって彼氏を作れないようですけど(苦笑)。
わたしにとって彼女たちは、まるで幽霊のように見えます。選択も実存もないからです。自我がない。自意識過剰に対する自意識過小問題がすさまじいですね。自信過剰に対する自信過小です。とにかく、あまりに自立に対する希望がなさすぎる。悲惨な現状です。
彼女たちにそうさせているのは、職場を男性で固め、社会の周辺に女性をおいやる男性中心社会なのです。客観的な半追放状態が、主観的な意識混濁を招いているわけです。
なお、2002年12月に、竹信三恵子さんという労働問題に詳しいジャーナリストの講演会を聞きにいったときにも、ちょうど同じ話が出ていました。「事務職の女性のフリーターや派遣の人たちの結婚妄想がものすごい」といった意味のことを彼女は語っていました。
そういう幻想に生活条件グループがどさっとはまるというのは、とってもヤバイです。
そういえば、あなたが結婚したいと思ったとき、という調査で、「仕事でいやな思いをしたとき」といった回答が多かったというのをどこかで見たおぼえがあります。
学力とかやる気とかだけじゃなくて、そういう方面も2極化しているんですね。
多元的な自由な社会の対局にあるのは一元的な社会だけでなく、二極化した社会もそうだとつくづく思います。
ところでちょっとそっち方面にも手を出してみたいとおもっているのですが、どうぞ今後ともよろしくお願いいたします。
筋違いなんてとんでもない、
私の書くアフリカンアメリカンのIssueは
人類の全てのストラグルと繋がり共通するものがあると思います。
ところでこの記事は近年ということで
驚きました。
私も約20年前同じ類の女性たちを多く見てきましたが
一部は変わってないのですね。
男に依存する家父長制社会はこちらアメリカでも
保守的な地域に未だ多く見られます。
>ところでこの記事は近年ということで
>驚きました。
そうなんですよ。記事を書く段階から絶対言われると思っていました。
>男に依存する家父長制社会はこちらアメリカでも
>保守的な地域に未だ多く見られます。
情報提供ありがとうございます。
日本でそういう目にあわずにすむのは、東京や大阪の偏差値の高い学校・大学を出た人たちに限られます。
それ以外は数年でリストラされる一般職。それさえも近年では、派遣等に切り替えています。
実はわたしは今京阪神圏にいますが、実家の愛媛県は〝保守王国〟。小さなころの記憶をたどっても、近所を散歩するおばあさんはおじいさんの3歩あとをついてゆく、といった土地柄です。強姦は被害者とそれをかばう側がすさまじい攻撃を受けます。そういうところにいると、少しでもリベラルな環境を知った人間はおかしくなりそうになります。で、中にいれば睡眠薬が手放せなくなるか、何かきっかけをつかんで外に出ることになります。
少し後に別のエントリーで書こうと思っているのですが、保守的なマッチョな気風の強いところほど、マイノリティは生き難いのをどうすればよいのか問題は実存もからむ問題です。
多分アメリカから見れば、日本の東京と大阪の偏差値の高い一部の学校以外は「保守的な地域」に見えるのではないでしょうか?
>筋違いなんてとんでもない、
>私の書くアフリカンアメリカンのIssueは
>人類の全てのストラグルと繋がり共通するものがあ
>ると思います。
そうおっしゃっていただけると思っていました。とても嬉しかったです!
eccehomo@hotmail.co.jp
ワタリさんや知人の方々の体験と見聞を聞かせてください。
いよいよ大人の問題に入ろうと思います。
よろしければ上記にメイルをお願いいたします。