アフリカ・ユーラシア見聞録

むかしむかしあるアフリカで・・・

灼熱と極寒の砂漠越え(ワディ・ハルファ→ハルツーム:スーダン)

2004-12-30 15:21:24 | 1st 北・東アフリカ
 スーダン




2004.12.28(火)


 次は首都のハルツームへの移動だ。

 ここでのルートはナイル川沿いに時間をかけて進むか?それとも鉄道かバスで一気にハルツームへと向かうかの2者択一だ。
 ナイル川沿いに行くと不定期なトラックを待つことになるので時間的な見積もりが立てづらい。少なくとも一週間以上はかかるそうだ。アデルに聞いてみると「ナイル川に沿っていった所で本当に何も無いよ」と言われたのでナイル川沿いはカットする。そうなると鉄道かバスどちらを選ぶかと言うのが問題だがアデルが「俺はいつもバスにしているし、バスの方が早いよ、大体24時間くらいでハルツームに着くよ」と言ってきたのでこのまま彼の台詞に乗っかる事にした。

 もう一つの砂漠の上を走る列車という選択肢は魅力的だったが所要時間はカルツームまで2-3日、また出発は明日なので1日待たなければならない。そしてワディ・ハルファは想像以上に何も無い所なのでここに1泊してから行くというのはかなりの苦痛だったからというのもバスにした理由の一つでもある。

 余談だがその時いた私以外の日本人は一人は私と同様にバスでハルツームへ。カップルの一組は不定期トラックでナイル川越え、バイカー(バイク旅行者)の2人は勿論バイクで、そして後の人は鉄道でと綺麗に分かれていた。

 ミニバスで市内に出てバスのチケットオフィスに行ってバスのチケットをアデルに押さえてもらう。
 ナセル湖を縦断するエジプトからのフェリーに併せて運行しているのこのバスの出発は夕方らしい。

 時間もあるので何もないワディ・ハルファの町を散策するが、ほぼ瞬殺といった感じだ。

 そういえばガイドブックにも「スーダンの何も無さを楽しんでください」と書かれるような国だ。北の果ての国境付近の物流のあるここであってもその期待を裏切らない何も無さだった。

 バスは夕方くらいに到着。
 ただ、これをバスと呼ぶのはちょっとおかしい、どう見てもトラックの荷台を無理矢理座席に改造しているだけだ。砂漠の上を走るので我々のイメージするような普通のバスではアウトらしい。普通のバスと区別するためにここではトラックバスと呼ぶことにしよう。

 このトラックバスは1号車と2号車があり私のチケットは後で出発する2号車の方だ。
 各バスのスタッフが降りてきて乗客の荷物を屋根に積んでいく。これが思いの他時間がかかる。

 1号車は1930時頃にようやく出発、2号車も直ぐに出るだろうと思っていたら、人は集まっているのに積込にやたらと時間がかかって出発したのは2100時頃だった。


夜、積み込みをする砂漠越えトラックバス。座席は荷台を改造している。意識せずにフラッシュを焚いてしまったら積み込んでいたスタッフに「それはやめてね~」と注意された。



 スーダン


2004.12.29(水)


 バスに乗って最初にビックリしたのはそのスペースの狭さだ。改造された木のベンチのどう考えても2人掛けの所に3人は座らされている。一列6人だが端に座った人間は半ケツ状態のまま移動を余儀なくされるのは辛い。身長が180cmは楽に越えているアデルは前に体を折りたたむようにして座っていて辛そうだ。

 そしてそれにも増して厳しいのは夜の寒さだ。冬の砂漠の夜は想像以上に寒かった。乗っているトラックバスには窓が無く、移動による冷気が窓からも入ってくるので体感温度は余計に下がる。現地人は毛布にくるまり、一緒にいた日本人は寝袋にくるまっている。私はというと車内に持ち込んだミニバックの中から着替えの全てを出してレイヤー(重ね着)にする。下は3枚、上は5枚、そしてポンチョ(雨合羽)で体を覆って風を防いで夜をしのいでいた。

 車両は途中おかしなことに大分前に出発した1号車を追い抜いたり、また抜かされたりしていながら、そしてちょくちょくスタックしながら進んでいく。
そして寒さが厳しくなり雪山遭難を思い描いて凍死を覚悟し始めた時に朝を迎えた。

 朝日が昇ると、徐々にではあるが私の体と心をホカホカと暖かく溶かし始める。
太陽の偉大さを感じる瞬間だ。
 だが、体が生き返り始めると、今度は別の問題が発生する。
 予想通りというかなんというか、「とにかく人を馬鹿にするくらい熱い」のである。真冬とはいえ明らかに摂氏40度は越えているだろう。乾燥しているので汗をそれほどかかないのがせめてもの救いだ。
朝の8時くらいには夜重ね着していた服を全て脱いで結局ズボンとT-シャツ1枚 だけで日中を過ごす事となってしまった。太陽の偉大さもここまでくると勘弁して欲しい。

乗車したトラックバス



 昼頃になったお腹もすいてきたのでアデルに『スーダンの名物は何?』と聞くと「ミート(肉)」と即答される。スーダンはいい国らしい。


日中の景色
 


 私の持つ砂漠のイメージは360度地平線が見えるような真平なものだったので、この景色は私の期待通りであった。


砂漠にどこまでも伸びていく送電線。
 



 日が翳り始めるとまた重ね着だ、昨日経験した夜の寒さは半端ではない。

 そうこうしているうちに日付変更線を越える。アデルに聞いてみるとハルツームはまだまだ先らしい。
 

 スーダン


2004.12.30(木)


 夜快適に走っていたトラックバスが急に止まる。外に出ると何か車両にトラブルが発生しているらしい。
 メカニックと話していると私を日本人と見た彼が日本車を褒めてくれる。自動車産業に関わったことは無いが日本製品がほめられるのは気分がいいものだ。しばらくするとトラブルの原因がはっきりとする。何でもこのトラックバスに使われている日本製のシャフトが外れたらしい。うーん、ほめられたばかりなのに。
そしてしばらくはここで時間がかかるようだ。
 私は不安になってアデルに『大丈夫なのか?』と聞くと彼ははっきりと

 「大丈夫だよ。おまえも先に出発したトラックバスを何度か見ただろう、あれは2台の位置を確認しながら進んでいてもしどちらかに問題があってもお互い救出出来るようにしているからなんだ。砂漠で孤立したら死しか残らないと俺たちは良く知っているから砂漠では絶対に一人(一台)では移動させないんだ。」

 と答えてくれる。そう言えば数時間も前に出発していた一号車と何故か追い抜き追い抜かれをやっていたのはそういう理由があったのか、と納得する。

 私はヌビア砂漠の上にポンチョを引いて仰向けに寝転がり星を眺める。砂漠の上には雲が無い。「満天の星」という言葉はこんな空に良く似合っていた。
 私は持っていた双眼鏡を出して星を眺める。手に届くような感覚だ。
 アデルにも渡して彼に見せると彼も感激しているようだ。

 スタックは4時間ほど、アデルの言ったようにどこからともなく支援の車両が現れて部品を修理して出発する。

 トラックバスで移動している最中にアデルが私に「さっきの双眼鏡を売ってくれないか?このクオリティーの物はエジプトやスーダンじゃ絶対に手にはいらないんだ。」と話しかけてくる。私の持っている双眼鏡はこれ一つだけだ。2000円くらいで買った物だから高くはないがこの先直ぐに同等の品質の物も手に入らないのも確かだ。私が少し悩んでいるとアデルは「ゴメン、俺のした話は忘れてくれ、君に必要な物だろう」と言ってきた。私は控え目に物事を進める人間に弱い。彼のこの一言が利いた。『アデル、いいよ、君にならあげるよ』といって双眼鏡を彼に渡す。だが彼は「買う」事を譲らず、結局私は3割くらいの値引きをして、そして2本持っていたマグライトの小さい方をそれまで(今も)お世話になっている事のの感謝の気持ちを込めてつけ、双眼鏡を手放す事にした。彼は子供にこの双眼鏡を見せてこれから楽しんでくれることだろう。

 朝になり小さな村に到着。
 例によって着ている服を全部脱いで身軽になる。ハルツームまではまだまだ時間がかかるらしい。
 皆はかるい朝食を摂っていたが私はペプシを買う。砂漠で暑い中で飲む炭酸飲料は最高に上手い。

 しばらく停車してトラックバスは出発する。

 日中になり時計は1200時を周る。ハルツームへはまだ着かない。
 乗客にも疲労の色が濃く見て取れる。アデルに『1日くらいでつくんじゃなかったの?』と聞くと、「俺もこんなに時間がかかるのは初めてだ」と答えてくる。
どうやらアフリカ大陸最初のバス移動は「外れ籤」となったようだ。こんな事なら列車にした方が良かったかもしれない等と考え始めていた。(その後列車に乗った人に聞いたらそれでもバスの方が早かったらしい、また列車も足の踏み場もないくらいにぎゅうぎゅう詰めになっていたそうだ)

 停車して出発する時に一緒にいた日本人が「もう乗りたくねぇ~」と愚痴をこぼしたのには笑ったが、確かに一回だけ乗ればいい私達は今回だけ我慢すればいいが何度も利用する現地の人は大変だろう。

 そして到着の近づいてきた最後の最後に市内で渋滞に巻き込まれ、1600時にようやくハルツームに到着。24時間の予定が実に42時間もかかる移動となっていた。

 降りて自分のメインバックを手にすると、背負うストラップの一部が切れている。試しに背負ってみると切れて短くなった分きつきつになっていて腕が締め付けられるような感覚だ。何とか背負えない事はないが、これでは直ぐに血行障害を起こしてしびれてしまう。私のはキャリー付の3-Wayバッグなので致命傷とはならないが、それでもいざという時は背負えるという安心感がこれで吹っ飛んでしまう。
 『こんなことなら荷物を載せる時にしっかりとストラップをバッグに収納しておけば良かった』
 と思っても後の祭りだ。
 旅行の最初からツイていないことこの上ない。

 ここで、お世話になったアデルと別れ、一緒にいた日本人と出入国管理局へ外国人登録(レジストリ)を行いに向かうこととなる。スーダンに入国する外国人は滞在登録をしなければいけないのだ。今日は12月30日、新年を挟んで数日官公庁は休みになるだろうから今日中にやっておく必要がある。

 2人でタクシーをシェアして出入国管理局へ向かいレジストリの申請をする。彼らの請求金額をスーダンディナールで持っていなかった相方は、「ドルなら払える」と言っていると何故か減額してくれる。領収書もあるしそれに金額もかかれていたので善意でそうしてくれているとは思うが何事もきっちりと決まっている日本と比べるとこのアバウトさは『こんなんでいいのか?』と考えさせられてしまう。(これも後で聞いた話だがワディ・ハルファで取得した人はボラれているから値引きも出来るのではと言っていた。当時経験が少なかった事も有り確認も十分ではなかったと思うので実際どうなのかは今ではもう分からなくなっている)

 さらに両替をしてから市内へ向かいタクシーを降りて料金を払おうとすると明らかに高い値段を請求してくる。
 乗る前に料金交渉しなかった我々のミスもあるが、そこは相方が関係のない現地の人を上手く巻き込んで適正に近いと思われる料金で折り合いをつける。

 この後しばらくは2人で一緒にホテルを探すが途中で別れて別々のホテルに泊まる事となる。
 彼のホテルへの予算は1日10ドル以内。私はというと旅行の最初の方という事や資金がまだ潤沢に会った事、そしてそれ以上に安宿に全くなれていなかった事もありシングルのシャワートイレ付にこだわっていたからだ。
 結局現地の中級ホテルに連泊を条件に値引いて1泊20ドルくらいで泊まる事にした。

 夜、砂漠越えで埃まみれになったバックをたわしでこすり、優雅にシャワーを浴びようとする。スーダンは砂漠の地だが今は冬だ。日中こそ暑いが夜は涼しいといっていいだろう。こんな時はホットシャワーに限る。

 『んっ?』

 一つしかない蛇口をひねってみると出てくるのは水だけだ。今は「冬真っ盛り!」、「冬の中の真冬」と言っていいだろう。それなのにシャワーが水しか出ないのは辛い。
 何とかお湯が出ないものかとレセプションに行くとフロントの男は平然とした態度を崩さず、満面の笑みで
 「スーダンにはホットとベリーホットの気候しかないからお湯はいらないんだ」 と答えてくる。

 『うーん、ある意味納得だが・・・』

 値切った後だからこの答えには逆らえない。が、現地で少なくとも中級以上のランクであるこのホテルでまさかお湯が出ないとは予想がつかなかった。

 これが泊まった上級ホテルの中。うーん、上級って・・・???


 シャワーにトイレ、トイレに便座は存在しなかった。
 


 不便は感じたが背に腹はかえられない。手早くシャワーを浴びて何とか部屋で落ち着けるようになると同時に疲れがどっと押し寄せてくる。。


 今までフェリーで1泊2日、トラックバスで2泊3日、合計3泊4日の間ひたすら移動を続けていた計算だ。疲労が溜まるのも無理は無い。

 私はベッドに横たわって天井を眺める。後はゆっくりと休むだけだ。

 そして、これでアスワンから始まったハルツームまでの道のりがようやく終わったという気分になれたのだ。


 このアフリカ大陸最初の国境越え、私にとっては砂漠のハードさの洗礼を受ける、そんな移動であった。



出エジプト記(アスワン:エジプト)

2004-12-28 15:16:43 | 1st 北・東アフリカ
 エジプト




2004.12.27(月)


 今日はいよいよ国境越えへのスタートだ。

 アスワン駅からハイダム駅に向かう列車のチケットを購入し、アスワン駅で待っていると個人旅行者らしき日本人が4,5人いる。

 少しばかり会話は交わしたが彼らはお互いが顔見知りらしく私としてはなんとなく溶け込みずらい雰囲気となっていた。
 アフリカ大陸最初の国境越え、私は若干ナーバスになっていた。だが、何故か彼らと行動を供にしようとはいう考えは湧かなかった。結局少し話しただけで彼らとは別のところに座席を陣取った。

 発車してしばらくすると対面に座っている大柄な男が流暢な英語で「お前さんは日本人かい? スーダンに行くんだろう?」と声をかけてきた。

 私は『その通りだがあんたはスーダン人か?』と聞き返す。

聞けばアデルと名乗るそのスーダン人はエジプト人と結婚して現在カイロに在住。帰郷のためにこのルートをもう10数回と通っていると言うことだ。

 ここでふと頭によぎったのはガイドブックにあるスーダン人の特徴を示した台詞「とにかくスーダン人は親切! アフリカ1親切な人が住む国家。」というくだりである。

 私は躊躇せずに彼に同行を申し込む、彼も快諾してくれた。これで多分大丈夫だろう。

 ハイダム駅に到着すると彼は慣れた感じで私を案内する。
 イミグレーションは難なく通過、アフリカ大陸最初の出国という事で気合が入っていたが拍子抜けするくらいにあっさりとしたものだった。
 私が乗るのはフェリーと呼ぶのがおこがましい老朽化した貨物船だった。チケットは2等席、何のことは無い木のベンチの自由席だがアデルは的確に動いて私の分までたちどころに確保していく。心強い相棒だ。

 出発時間はあってないような物だった。船に乗り込んだのは1000時頃だったが、積み込みが中々終わらず結局出たのは夕方の1700時、イメージしていたアフリカがここにあった。

出発してからはやる事がない。
デッキの上と座席を行ったり来たりしながら時間を潰しつつ、最初の1日が過ぎて行った。




2004.12.28(水)

 朝起こされてデッキに行くとナセル湖の上からアブシンベル宮殿が見える。

貨物船から見たアブシンベル神殿


 船は順調にとろとろと進み国境線を越える。が、湖の上に国境線があるので実感は全く湧かない。こうしてアフリカ最初の国境越えは何の変化も感じないまま終わってしまった。


 スーダン


 船がワディ・ハルファに到着したのは1200時頃、アスワンのホテルを出発してから約28時間かかってナセル湖を縦断したことになる。

 パスポートは昨日の夜船の係りに預け、朝返してもらってみてみると入国審査は終わっていたのでイミグレに行く必要は無い、ただカスタム(税関)で荷物の検査を受ける必要はあったので、船から下りて簡単な検査を受け、スーダンの地へと足をつける。


 いよいよアフリカ2ヶ国目だ。


 金のない今、急務は両替だが、これもアデルや他の知り合ったエジプト人達が私についてくれて適正な価格で両替する事が出来た。


 改まって町を見渡すとビックリするくらいに何もない。これからの道中が少し不安になったがアデルもいることだから何とかなるだろう。

アスワン観光(アスワン:エジプト)

2004-12-26 18:26:55 | 1st 北・東アフリカ
 エジプト




2004.12.24(金)


 今日の出発はゆっくりだ。
 朝0900時頃ホテルを出ると私を客引きした男に出会う。
 彼が「ツアーはどうだった?」と聞いてきたので私がツアーは『ドライバーのチップの請求と入場料が一箇所含まれているといった所が別料金だった以外に問題は無かったよ』と答えると「それは済まなかった」と言ってくる。どうやら彼はいい奴だったらしい。

 今度の列車は2等客席だ(カイロールクソール間は一等だった)。
 チケットを買った時、1等が満席で取れなかったのだが、この購入した2等客席には1両に10人も居ずに、実に快適な移動となった。

 アスワンは客引きが悪質だと聞いていたが私が駅に到着しても誰も来ない。これにはちょっと拍子抜けだ。
 
 適当に歩いてホテルを探す。

 今日はクリスマス・イブ。

 ちょっとしたイベントをと期待しようにもここはイスラムの国。町に何の変化も無い。

 ここはせめて好きなマックでもと思い市内を探すも見当たらない。
 ルクソールでは値段こそ何故かカイロより1.5倍となってはいたがマックは当たり前のように存在していた。しかしながらこの世界的に有名なアブシンベルのある観光地、ここアスワンにマックがない。これは予想外だった。
 ローカル食堂に入る勇気がまだ無かった私には絶体絶命のピンチだ。この状況を何とか打破しようと足を棒にして郊外のドライブインでもないかと捜してみたがノーチャンス。

 『アメリカ資本主義もここで敗北するのか・・・』

 私は覚悟を決めて思い切ってエジプト発の現地ローカル食堂に入る・・・

 『うーん、いやはやこのローカル食堂の『ケバブ(串焼肉)が実にうまい・・・』

 一体今まで私は何をしてきたのだろうか?

 まあいい、ここでは『新しい勇気』を一つ、そう「ローカル食堂に臆せず入るという勇気」を手に入れることが出来た・・・



 エジプト


2004.12.25(土)


 今日はクリスマス、とは言っても私にとっては早速スーダンのワディハルファへ行くフェリーのチケットを購入する事の方が大イベントだ。
 このフェリーは1週間に一便のみ、ガイドには土曜日にチケットを買わなくてはいけないとあったのでそれに併せてアスワンに来たのだが、これはそのガイドブック通りだった。(ちなみにこの時のガイドブックは歩き方のエジプト版を参考にした)。

 鉄道駅に行きフェリーが出発するハイダム駅行のチケットも購入。

 出発は月曜日、翌日は時間があるのでここでもツアーを取ることにした。
 ホテルで予約し、後は市内を適当に散策する。


 エジプト


2004.12.26(日)


 今日はツアーの日だ。
 アスワンでのツアー出発は早い、朝0400時に出発だ。
 ツアーのコースと見る場所を考えるとアブシンベル神殿には朝一番から入ることになり、そうなるとどうしてもこの時間に出発となるのだ。

 ルクソールの時と同じ様にワンボックス、各ホテルから集まった客が乗っている。私は最後の客だったが見渡すと外国人は一人だけで後は全て日本人、それもカップルや親子というメンバーだった。
 こういった状況は何とも嫌な物だ。個人旅行者が相手ならまだ会話も出来るが彼らはグループ毎に纏っているのでこちらから話しかけずらいし、彼らも彼らだけの会話を楽しんでいる。これが欧米人ならたとえカップルで来ていてもある程度はオープンに話してくるのだが、相手が日本人となるとそうはならない。それにきついのは会話してくる内容がまる聞こえになって私には関係ないとはいえ、気になってしまう。

 結局同乗したツアー客とは殆ど会話しないまま、ツアーを過ごす事となった。

有名なアブシンベル神殿。
 



アスワンハイダム付近
 

そしてオベリスク
 

 ちなみにイシス神殿もコースに入っていたが、もうエジプトを出国する事が決まっていて、路銀が心もとなかったのでその間は外で待っていた。

 ツアーが終り、市内に戻る、バスから客が降りていき最後に残ったのは私。
 そして最後に私を降ろす時に、何故かドライバーが急にそれまで誰にも請求していなかった「バクシーシ」を私に求めてくる。

 当然の如く断ったがエジプトでは最後まで私を気分良く観光ツアーに参加させてはくれないらしい。

 まあこれでエジプトでの観光も終りだ。明日はいよいよ出発。

ルクソールの憂鬱(ルクソール:エジプト)

2004-12-23 17:01:10 | 1st 北・東アフリカ
 エジプト




2004.12.22(水)


 ホテル朝0600時にチェックアウトしてラムセス中央駅に。プラットフォームは駅のツーリストインフォメーションに聞いて分かったが、どれに乗ればいいかなんて検討もつかない、そこらへんにいるエジプト人に聞いて何とか自分の車両の自分の座席に辿り着く。

 こうして慣れ親しんだというよりは全く不慣れなまま終わってしまったカイロを後にして次なる目的地の「ルクソール」へ向かう事となった。

 ちなみにルクソールへ行くのにはバスもあったのだが、ホテルの近くに駅があり、また「レールの上を走り脱線さえしなければ目的地に着く」電車の方がどう考えても安全に思えていと言う事もある。

 そして何より当時の私には「バス亭を探し当てる」等というウルトラCに挑むだけの技量も経験も不足していた。

 見た感じボロくて不安になったがアフリカ大陸最初の陸路移動は何事もなく目的地へと到着する。

 ただ列車に乗って目的地に到着しただけだがなにやら大仕事を終えた様な感覚となる。
 何事も初めてというのは思いで深くなる。

 だが、感慨にふけるまもなく改札口から出た瞬間早速3人の男に取り囲まれた。ホテルのガイド達だ。

 私はこの客引きというのはどうも好きになれない。それに宿泊するホテルは地球の歩き方で既にめぼしをつけていたのでこのガイド達に付きまとわれながらもテレカを購入して、早速電話をかけようとするとガイドの一人がこう話しかけてくる。

 「俺がお前のかけようとしてる宿のオーナーだ...」

 『・・・』

 畜生、これじゃあテレカを買ったのにこれじゃ意味がない。もう1軒ほかのホテルに電話しようとすると別のガイドが話しかける。

 「俺がお前のかけようとしてる宿の客引きだ....」

 『・・・・・・』

 人が折角なれない外国でテレカまで買ってホテルに電話しようとしてるのに・・・

 これが「ルクソールの憂鬱」の始まりだった。

 こうなったらもうコイツらで決めてしまおう。私は電話をあきらめてガイドの言い分を聞くと上中下ときれいに予算わけされている。テレカの使い道はまた後で考えるとして、結局予算が真ん中のルクソール神殿が見えると言うシャワートイレ朝食付、約900円のホテルに泊まることとする。

 チェックインした直後に何となしに翌日のツアーに申し込む気にさせ、予約させてしまうあたりは〈流石は世界に冠たる観光地ルクソール、恐るべし〉と言った所であろう。

 ちなみに今日の夕食はまたしてもマック、カイロと同じメニューを頼んだのに料金は1.5倍くらい高い。何故同じマックで同じメニューなのに価格が違ったのだろうか?

 これも「ルクソールの憂鬱」と言えよう・・・


 エジプト


2004.12.23(木)


 昨日予約した0800時発のツアーは0830時に出発。
 時間厳守の日本人である私と彼らの時間感覚は違うのだろう(この先アフリカ諸国を周るにつれ「Time is no money in Africa」と言うのが合言葉のようになっていた。それを考えるとたった30分しかずれていないエジプトは時間に正確といえるだろう)

 私の泊まっているホテルからだけでなく他のホテルからも参加者がいる。合計で8人のツアー客に現地人ガイドとドライバー、それが一台のワンボックスに乗ってルクソール近郊の見所を周る。 

 観光した結果はいうまでもない。元々気分は消化試合。何の感銘も受けることなく終わってしまう。

ハトシェプスト葬祭殿とその上からの眺め。
  

ハトシェプスト葬祭殿付近の景色
  

 観光が終わって戻る時、一人のオーストラリア人女性がなにやら現地ガイドに抗議している。会話を拾い聞きしたらどうやら彼女は泊まっていたホテルから受けたツアーのコースと違っていた(様は訪れると言われていた場所をカットされていた)らしい。
 ガイドは「ゴメン、それは俺の問題でなくホテル側に責任があるからホテルに言ってくれ」と喋っている。
 オーストラリア人も「しょうがない」といった感じでガイド達に責任を追及するのはやめたが、こういうトラブルを聞くと何とも嫌な気分になってくる(私は前日訪れる場所全てを私を勧誘した客引きに書いてもらい、ツアーに出る前にそれをガイドに見せて間違いないかどうかを確認していた。そして私の場合は聞いたことと訪れた場所に間違いは無かった)
 
 バスが市内へ戻り客をそれぞれのホテルへ戻す、その時ドライバーから「バクシーシ(喜捨、様はチップの事)」と声が、最初の客が断るとドライバーはドアを乱暴に閉じる。昨日客引きに聞いた時チップは込だと聞いているので彼のこうした態度というのはいい気はしない。この後数人客が降りたが彼の態度はいつも一緒だった。
 
 私は明日移動する鉄道チケットを買うために駅で降りた。この時もドライバーは私に「バクシーシ」と言ってきたがそれまでの態度を見ていると払う気など起きようもない。背後で「バタンッ!」と大きな音でドアが乱暴に閉められる。
しかし最後まで気持ち良く観光させてくれないとは・・・

 「ルクソールの憂鬱」はまだ続く。

 チケットを買ってちょっと市内を散策する。

 するとカイロでは分からなかったがここルクソールで気づいたことがある。
それは商店が客に対して変動相場制を取っていることが多いと言うことである。

 例えば歩いていてちょっとコーラを見かけ「うーむ」と考えていると「5エジプトポンド(100円ぐらい)」と声をかけられる。
 ちょっと高いなと迷っていると。4,3,2と下がり
 「エジプシャンプライス!」
 と得意げに言ってくる。
 
 定価の国から来た観光客としては気分のいい物ではない。それに最後の「エジプシャンプライス」という台詞、同じ物を売るのに売る対象で値段を変えているというのは人を馬鹿にしやがってと思っても仕方ない事だろう。
 
 まぁこれも「ルクソールの憂鬱」の一つというものだろう。
 
 こういった事が会ったのでこの後は私は何かを買う時はまず数件周って相場をつかみ、最初からきちんとした価格を示してくれる所からしか買わない事にした。(最終的に値段を下げても最初にボロうとしてくる事が嫌だったからだ)


 だが、悪い事ばかりではなかった。

 私は一日20から30本吸うプチヘビースモーカーだ。煙草対策も抜かりなく、満タンのバックの他に煙草1カートンの入った免税店の袋を持ってエジプトに来ていたわけだがそろそろその命運も尽きようとしていた。
 私の論理的な考えでは煙草のような嗜好品でこのエジプトでは1本1本ばら売りまでしている。
一本づつ買わなければいけないというのは一箱となるとかなり高い値段となるのはロジックの帰結としてはまあ順当なところだろう。

 そうは言ってもなくなる前には買い足さなくてはいけない。
 とりあえず中級っぽい煙草の値段を聞いてみる

 『いくらだ?』 

 「この煙草は6エジプトポンド(120円)、こっちは5(100円)、これだったら3(60円)」

 『・・・』

 いやちょっと待て・・・なんだその安さは?

 こちとらもうバッグに入らないから嫌々ながらに目立つ免税店の袋に煙草をいれて『僕、ツーリスト、海外初心者ですう!よろしくっ!!』という雰囲気丸出しで過ごしてきたこの1週間の意味は?

 免税店より安く売りやがってと言うより免税店のほうが高いなんて・・・

 まあこれは思いもかけない幸運だ。私はワンカートン即買いして今後の旅行に備える事にする。

 明日はアスワンへ。予定ではそこがエジプト最後の都市になる。


ホテルから眺めたルクソール神殿、中には入らず・・・
 

わざわざ歩いて夜景を見に行ったカルナック神殿。中には入らず・・・




追記:記事のタイトルは某コミックから引用。
 しかし、勝手につけたこのタイトル通りの気分をこうも何度も味わうとは思ってなかった。

カイロ近郊観光(カイロ:エジプト)

2004-12-21 15:09:01 | 1st 北・東アフリカ
 エジプト


2004.12.21(火)


 ホテルで朝食を摂り終えてから払い戻しの交渉をする。
 実を言うと旅行人の情報を鵜呑みにしていてカイロ滞在を一週間と決め予め全額前払いしていたのだ。
 明日出発するという私の急な変更にホテルは快く応じてくれた。

 私が今泊まっているホテルは1300円くらいする中級ホテルだ。
 カイロにいるのは今日一日、時間も限られているのでこのホテルでカイロ近郊を周るタクシーをチャーターすることにした。

 ただ、この時ピラミッド等にそれ程興味があったわけでは無い。
 日本にいると何時でもどこでもといっていい程テレビで放映され、パンフレットやガイドブックには必ず載る名所だ。
 過剰に情報を与えられているので「興味を持って見に行く」というよりも「写真や映像で見たものを目で確認する」というのがスタンスだった。

 タクシーのチャーター料は100エジプトポンド(以下ポンド)、約2千円。1日チャーターでこの値段というのは安く感じる。(後で聞いたらこれでも高い方の料金だった)

 タクシーはこちらから見ると「無謀」としか思えない運転をしながら目的地へ向かう。

 最初はギザのピラミッド。到着すると同時に客引きがやってきて「ラクダの勧誘」を始める。
 「ラクダに乗ったら楽だ~」
 と、ずっこけるようなフレーズで誘ってくる。
 日本人の多い世界有数の観光地ならではの事だろう。
 だが、私はラクダに乗ることに全く興味がなかった。

 そこでやんわりと断ったが、それでもしつこくこちらに絡んでくる。
 私はとにかく「断っても勧誘する」という男が大嫌いだ。一応相手の顔を立てて「悪いけど・・・」としてやっているのにこの男のしつこさはうっとおしい事この上ない。

 最初は敷地内くらいまでは入ろうかと考えていたがこのうっとおしさに辟易して外から見ただけで満足する事にした。

外から眺めたピラミッドにスフィンクス。


(後で思えば一人でタクシーをチャーターして来るような観光客は彼らにとっては絶好のターゲットだった)



次はサッカーラのピラミッドへ。ここは人が少なくのんびりと出来た。



 そして最後にメムノン神殿等を見て周ったが・・・

 よくよく考えてみると「王家の紋章」の愛読者と言うわけでもないので消化試合と化し、とりあえず行ってきただけとなってしまった。


 夕食はホテルで。実を言うとローカルの食堂に行く勇気が全く湧かず、朝食はホテル、後はマックかホテルという生活となっていた。今日は奮発してステーキを食べる。
 
 いよいよ明日は出発。アフリカ大陸最初の陸路移動だ。
鉄道のチケットが読めなかったのでホテルの人に聞くと列車の名前や座席の種類、番号等を教えてくれた。

 これで何とか準備が整ったと言っていいだろう。

はじめてのおつかい・・・(カイロ:エジプト)

2004-12-20 15:06:52 | 1st 北・東アフリカ
 エジプト


2004.12.20(月)

 ここカイロで最初にやるべき事は「スーダンビザの取得」である。

 時計回りにアフリカを一周する為の第一関門はここから始まるのだ。

 生まれて始めての海外でのビザ取得
 
 持っているガイドブックの「旅行人」を入念にチェックする。
 どうやら(ビザ代は約60ドル、取得には3-5日)ぐらいかかり、日本大使館からの推薦状が必要となるようだ。

 この推薦状(以下レター)は昨日日本大使館に申請を出している。
 そう言えば昨日は日曜日だったが、ここはエジプト、イスラムの国だ。祝日は金曜日になる。日本から来るとどうも不思議な感覚だ。

 申請していたレターを受け取り、すぐ近くにあるスーダン大使館へ向かう。

 彼らには英語が通じず、四苦八苦した物の何とか書類を書いて提出すると3階に通される。
 恐らく査証の担当官なのだろうか?彼は私に料金は「100ドル」と告げ午後にまた来るようにと伝えてきた。

 旅行人では3,4日かかると書いてあったが時間が見積もりよりもかからないのは幸運だが情報との料金差の40ドルは痛い計算ミスだ。

 午後彼らに示された1330時に再度訪れるとあっけなくVISAシールの貼られたパスポートが手元に返される。

 『・・・うーん・・・』

 ボラれている訳ではないのだが、今一つ釈然としない何かがある。

 改まって旅行人を紐解いてみると・・・

 「ビザ情報 99年」

 と、記事に追記が・・・

 どうやらこのたった6年の間にビザ料金が値上がりしてたらしい・・・というよりも今年買ったこの旅行人が6年前の情報に基づいていたとは・・・

 この私を持ってしても予測できない値上げをしてくるとは「スーダン恐るべし・・・」

 いや6年前の情報をそのまま乗せて店頭に並べて売っていた「旅行人こそ恐るべし・・・」

 いやいや99年の情報だという事に今の今まで気づかなかった「この私のボーンヘッドこそ恐るべし」
 というのが正解だろう。


 何にせよビザは取得出来た。カイロの観光はまだ終わった訳ではないが気持ちは先へ急いでいる。
 私はラムセス中央駅に行き、次の観光地と決めていたルクソール行の鉄道チケットを買いに行く事にした。

 その途中、横断歩道を渡ろうとしている私にやけに親切に話しかけてきた男がいた。
 4回日本に行った事があるといい、「家にちょっと寄っていけよ」と言われて付いていくとそこは香水屋。
 壁にはモハメドアリ等の有名人と一緒に写った写真や日本人と一緒に写った写真等がある。
 こんな物を見せてどうするつもりかと思っていたら“ようは香水の勧誘”だ。全く興味が無いので『じゃあ』と出ようとすると「コインを集めているから日本の硬貨をくれないか?」と言ってくる。
 この先アフリカを一周するから私には当分日本のコイン等必要ない。1円と5円の端数を渡すと「もっと大きい額はないのか?」と言ってくる。
 ちょっと悩んだが別にいいやと思い50円玉を一枚追加する。
 しかし「日本に4回行っている」そして「コインを集めている」なら『もう日本のコインに不自由している訳などありはしない』という所に全く気付かなかったのはこの時の私の経験の無さなのだろう。

 そうこうしつつラムセス中央駅に到着、数字の表記がほぼアラビア語だったので良く分からず、ガイドブックを参考にして窓口を3回も代えてようやくルクソール行のチケットを入手。

 これで次の移動も決まった。

 明日1日はカイロでも観光しよう。

アフリカ最初の首都(カイロ:エジプト)

2004-12-19 15:05:30 | 1st 北・東アフリカ
2004.12.19(日)


 エジプト




カイロは大都市だった。

 それまで私が持っていたアフリカへのイメージ「未開の地、死の荒野が広がる大陸」等というネガティブな物だったがここは全く違っていた。

 街中にはかなりの人間が携帯電話を持っているし高層ビルがこれでもかと乱立している。西洋型の大ホテルチェーンであるヒルトンやシェラトン等もナイル川沿いに立ち並ぶ。
そして昔ながらの旧市街、歴史的なモスクや教会。

 何もかも整って見える東京に比べるとここは猥雑さと喧騒を併せ持つ混沌とした乱雑な都市と言っていいだろう。

それに中でもビックリしたのは交通マナーの悪さだ。
「交通法規があってないようなもの」と言うのが私の印象だ。
 信号はお構いなし、歩行者も車線がいくつあろうが交通量の多い通りを平気でバンバン渡っていく。

現地人でない私は少々面食らったが「エジプシャンスクリーン」という必殺技を生み出して対応する事にした。
 それは横断を試みる道路でエジプト人を探して自分より車の向かってくる側に立ってもらい。一緒に渡るというテクニックだ。これなら先に轢かれるのは奴らだし、あわよくばクッションにもなってもらえるという高等(ある意味姑息な)技術である。
 この時はここで身に着けたテクニックをこの先の旅行のありとあらゆる所で駆使し続けることに成るとは予測もつかなかったが、最初にこれを覚えたことによってその後も色々な場所で応用が利いたので是非取得をお勧めする。


写真はカイロタワーとそこからの夜景。エレベータボーイが「オカムラ、オカムラ」と自分を指してPRしていた。
最初は何の事か分からなかったがナインティナインの岡村氏に似ている事に後で気付いた。


 

 またここが海外最初の地でもある私には食事という問題も発生した。

 旅行人曰く「生ものに注意」「水道水に注意」等と食事からくる病気をどう予防するかが記載されているが何せ食べなければ行動することすらおぼつかない。
 「現地の食を探し、未知の食べ物を味わう」
 事は旅行のの醍醐味の一つではあるが食には細心の注意を払わなければならないというのは自明の理だ。

 色々と考えはしたが泊まっているホテルの近くにあった事もあり、ここではマクドナルド等のファーストフードへと逃げの一手を走ることにした。これなら感染症等は先ず大丈夫だろうし現地食はいずれローカルに行った時にでも食べざるを得なくなるだろう。

 いずれにしても私のアフリカは始まったばかりだった・・・

エジプト入国(カイロ:エジプト)

2004-12-18 15:01:57 | 1st 北・東アフリカ
エジプト入国(カイロ:エジプト)

 エジプト





2004.12.18(土)


 12月17日に日本を出国。目的地はエジプトのカイロ。

 思い起こせば最後に海外に行ってからもう10年近く経過している。その時に周ったのはヨーロッパだけだ。

 今回行くアフリカ大陸は私にとって全くの未知の場所だ。期待と不安、緊張と興奮、様々な感情が私の中を駆け巡っていたが、日本を出国して10時間、モスクワ空港に着くまでの間は準備の疲労もあって食事以外は殆ど寝てしまっていた。

 利用している航空会社はアエロフロート、奇しくも以前日本に帰国する時に使用したのと同じ会社となる。
 モスクワでのトランジット、おぼろげながら記憶が蘇る。
 『またこの場所に足をつけているんだ・・・』
 3時間のトランジット時間を経て飛行機は出発、カイロに到着した時には既に日付は18日に変わり、深夜0030時となっていた。

 空港で簡単にビザが取得出来るのだが私はわざわざ日本で取得していた。
 金額は7000円、マルチ(複数回入国可能)が欲しかったのだが発効日から有効になる1ヶ月ビザ。
 これなら空港で15ドルだして一ヶ月ビザを取れば利口なのだが知らなかったのでしょうがない。

 イミグレーションを通過して空港に出る。いよいよアフリカの第一歩が始まったのだ。

 当座の金を空港の銀行で両替する。レートは良く分かってないが、取り敢えず額面通りにきっちりと渡される。
 
 『さて・・・』

 空港のロビーに出た時はもう0100時を回っていた。

 私の姿を目にすると数人エジプト人がやってきて、タクシーやシェアバスの勧誘をしてきたがそのつもりは無かった。
 深夜に見知らぬ、それも初めての地で動き回るのは得策とは思えない。朝一番のバスで市内に出てホテルを探すつもりだった。
 私の出発した次期は学生の休みの次期と重なりまたカイロもメジャーな観光地である為、同じ様な考えをもった日本人の旅行者が3人いて彼らと一緒にロビーでそのままバスを待つことにする。最初の段階で仲間がいるのは心強い。
待つ時間は暇なので荷物の監視の事もあるから容易にお互い打ち解けあう事が出来た。

 旅の初日からこうして仲間と巡り会えるとは幸運だ。
 私はふと思う。
 (人との出会いは不思議なものでこうして偶然であった年齢も経歴も違う4人が終生忘れえぬ友となっていくとは・・・)
 やはり人生は不思議に満ちている・・・

 4人で街まで始発のバスで行きタフリール広場のバスターミナルで降立った時、3人からこう問いかけられる。

 「日本人宿で世界一有名なサファリホテルに行って情報を集めてから行こうと思うんですけどご一緒にどうですか?」

 『そんなホテルがあるんですか・・・』

 見知らぬ土地に降り立って情報収集は急務だ!
 アフリカ周遊の第一歩にエジプトを選んだのもここなら色々と情報が取れるだろうと考えていた事もある。
 渡りに舟といった提案だったが・・・

 私には一つ引っかかることがあった。


 『何故日本を離れた直後に日本社会に行かねばならんのか?』


 という事である。

 情報収集は確かに必要だが・・・この時はどうしても日本人宿に行く気が起きなかったのだ。
 申し出を丁重に断り、私一人別のホテルへ向かう。

 結局名前交換すらしないで別れたので我々は終生の友などにはなりようもなかった。

 やはり人生は不思議には満ちていなかった・・・
 ちなみにもう顔すらも覚えてませんごめんなさい。写真1枚皆で撮っていたのに・・・・

 かくしてこれからの長いかもしれないが良く分からないアフリカでの旅路が始まったのだ・・・

激闘の記録「ビックサイフ作戦」予告

2004-12-16 17:12:52 | 1st 北・東アフリカ
 日本


 アフリカ見聞録前の記事としては「激闘の記録」

第1話 ビッグサイフ作戦

 を参照。

あらすじは

 10年に渡る間"組織"に勤めていたためにこの「東城史上かつてない金額」を手にし、それを元手に長期旅行の計画を立ち上げる。名づけて≪ビッグサイフ作戦≫。何故か出国前に不可解な1ヵ月半という長期の準備期間を設けて緻密(稚拙?)な計画を練り上げる[プロフェッショナル、デューク東城]、しかしその[デューク東城]に予想だにしなかったしょぼいトラブルの数々が襲い掛かる。  

         果たして無事に日本を脱出することは出来るのか?

            どうする!ゴルコサーティーワン!!



です。