アフリカ・ユーラシア見聞録

むかしむかしあるアフリカで・・・

東アフリカ最奥部の国(ブジュンブラ:ブルンジ)

2005-03-31 22:16:29 | 1st 北・東アフリカ
ブルンジ


 


2005.03.31(木)

ルワンダ

 キガリの出発は朝0700時だ。それにあわせて早く起きてバスターミナルへ向かう。

ターミナルと言うよりはバス停か?


 次の目的地はブジュンブラ、ブルンジの首都だ。

 ルワンダには世界三大虐殺記念館の一つとも言われる「ルワンダ・虐殺記念館」がキゴンゴロというルワンダーブルンジの主要経路から少し外れた所にあるのでそれに寄ってからとも考えたが、それほど興味があるわけでも無かったのでそのままダイレクトにブジュンブラへ向かう事にしたのだ。

ブルンジ


 国境の風景


 首都のブジュンブラへ到着したのは1230時、昼頃だ。一緒に乗っていたルワンダ人が「ブジュンブラはスリが多いから気をつけろ!」と言ってきたが、私はそのルワンダのキガリで未遂にあったばかりである。そこの人間が気をつけろというからには余計に警戒しなければダメなのだろう。

 それに各武装派勢力の活動も完全に止んではいなかったのでブルンジを訪れていた旅行者は稀というのも問題だった。私の場合は以前ソマリランドへ一緒に行った森田氏がネットで確認すると抜けており、通過できる事までは分かっていたが街の情報は殆ど無かったといっていいだろう。それもあるのでここではより一層の注意が必要だ。

 到着して直ぐにホテルを探す。ロンプラに乗っていたよさげなホテルは満室。中心に戻って数件聞いて適当なホテルに身を落ち着ける。

 市はキガリと比べてもさらに小さくなっている。半日もあれば観光は充分だろう。

ホテル近くの風景
 

市の中心街
 

 

 心なしか人の顔つきがルワンダと変わってきたような感じがする。目つきが危なく感じるのは気のせいなのだろうか?

 
ブジュンブラはタンガニーカ湖に面した街。道路からも湖が少し見える。
 

タンガニーカ湖。パノラマで・・・
 





マーケットエリア。
 

街の中心から少し離れると閑散とした牧歌的な景色になる。



 
 それにしてもナイロビからウガンダ、ルワンダ、ブルンジと奥に行くにつれ、街がどんどん小さくなってきている。それに伴って街の見所も減っているのは止むを得ない事だろう。



 もうこれでこの街は十分だ。次はタンザニアに向かう事にしよう・・・


ゴリラ・トレッキング(キガリ:ルワンダ)

2005-03-30 21:32:26 | 1st 北・東アフリカ
ルワンダ


 


2005.03.29(火)

ウガンダ

 ホテルをチェックアウトしてバス停へ、カンパラからキガリへはダイレクト便があるのは嬉しい。それも大型バスだ。

 これがウガンダールワンダ間の国際バス。


 バスの出発は9時。

 途中で通過したローカルの町。
 

 国境には1200時頃に到着。

 国境付近の景色


 ここでの両替商はいかさまをしてくるから注意が必要ときいていたがまさにその通り、ここで少しは両替しようと思っていたが私が聞いた全ての人間が札を誤魔化してこようと仕掛けてくるので両替を諦めて国境を越える。
 (手口は単純、例えば50ドルを両替して28000ルワンダフランを受け取れるとすると、まず5000フラン札を4枚渡してきてその後500フラン札1枚、100フラン札3枚を渡し、これで28000とやってくる。知っていればまず引っかかる事は無いだろう。)

 キガリについたらなんとかなるだろう。

ルワンダ

 国境を越えると同時にそれまで左車線を走っていたバスが右へ車線変更する。ウガンダは旧英領。ルワンダは旧仏領だ。こんなことからも国境を越えた事が体感できる。

 キガリへは夕方に到着。早速両替商を探す。両替商は悪くなかったが1996年の50ドル札のレートが低くなっていてビックリする。ここでは2000年以降の札しか良いレートを出してくれないのだ。同じ50ドルで価値が変わるのは古い紙幣は偽札が出回っている可能性が高いということからきているらしいが、どうも釈然とはしない何かを感じる。
 (私はこれ以降、どこの国で米ドルキャッシュを作るにせよ年度の新しいものだけにしている。但し怖いのは新札の米ドルが出た直後で、その米ドルの偽札検査器がないから両替できないという事態もある)

 目指していた中心部のホテルは満室で、少し離れた場所にあるホテルに行って泊まる事にした。



2005.03.30(水)

2日目である今日はサクッと市内を観光することにした。

高級ホテル。市域全体でも85万人程度しかいないこの街にこんなホテルがあるというのは結構ビックリさせられる。


中心のラウンドアバウト
 

ラウンドアバウト付近からの眺め
 



 余談ながらこの国から日本へ封筒小包を送った。航空便という事でA4サイズくらいの封筒一面びっしりと耳なし芳一状態に切手を貼られたが日本へ届いたのはそれから半年後、何故か船便というオチをつけられた。


市の中心
 

 


 夕方ホテルに戻ろうとバイクタクシーに乗ろうとした時、そのドライバーが斜め後ろを向いて急に「シィーッ!」と声を出す。変に思って斜め後ろを眺めると若い男が急いでそこから逃げている。何だと思って聞いてみたら私がバイクに乗るタイミングでズボンの前ポケットのチャックを開けていたのだ。ドライバーが注意して追い払ってくれたお陰で被害は無かったがアフリカで最初にスリにあったのはここキガリでだった。



 泊まったホテルからのキガリ全景




 市内に特に見所は無い。これでもう十分といった所だろう。

 後この国で何をするか?私はナイロビで会った旅行者がゴリラ・トレッキングを薦めていたことを思い出した。
この国はゴリラ・トレッキングで有名な国である。せっかくここまで来たのだから『いってみようかな』と少し考えいたのだ。
 
 だが、今日市内を観光してそれは止める事にした。値段が高い事もあったがそれ以上の理由が出来たからだ。
 それはウガンダ、ルワンダの人達がゴリラに非常に似ていたからである。そこらへんになっているバナナを食べている姿を見ているとあの厚い胸板やその仕草が実にそっくりであったのだ(この後周ったアフリカでこの2カ国以上にゴリラに似ている人を見なかった)。

 カンパラ・キガリ、その2都市の観光でこれまで見てきた現地人。
 これでゴリラ・トレッキングは十分満足だった。


 もうこれ以上ここにいる理由は無い。明日出発しよう。



ハングリーの無い街(カンパラ:ウガンダ)

2005-03-28 18:19:33 | 1st 北・東アフリカ
ウガンダ


 


2005.03.23(水)-2005.03.28(月)

 23日の朝1000時頃、ウガンダの首都カンパラに到着。
 初の夜間国境越えも経験したが、このあたりは限りなく流れ作業だった。

 到着したバスターミナルと乗っていたバス。



 カンパラに到着して宿をとる。ここはサラッと見て直ぐに出発しようと考えたが、週末にイースター祭が入ってきたので休日・祝日移動を避け、出発を遅らせる事にした。
 治安の悪い地域では休日になると平日普通に働いていた人が強盗と化し犯罪が増える傾向にあるからだ。

 カンパラではそこらかしこに小銃やら短機関銃で武装したガードマンを見かけるのでナイロビの様な危険を感じることは無い。しかし「武装したガードが多数居る」というのは本当に安全なのか?それとも本当は危険だからガードマンが武装しているのか?今一つ判断しかねるが、夜もほぼ問題なく歩けるのでまあ治安がいいと言って良いだろう。

 私はのんびりと市内を観光して周った。

 鉄道駅とその周辺。鉄道も乗りたかったが私の利用したい経路は無かった。
 

 

 ヒンズー教の寺院もある。印僑の存在を窺わせる景観だ。
 


 そういえば、ここで会ったJICAの隊員が面白い事を言っていた。野球を教えている彼によると「ウガンダ人はハングリーさが無い」ということだ。カンパラ市内であってもそこらかしこにバナナがなっている。いざとなったらこれを食べれば飢える事はないので彼らはハングリーさに欠けると言うのだ。
 私がここまで見てきた所は貧しい所が多く、ここもそれ程裕福そうに見えなかったので「ハングリー精神に欠けるアフリカ人」がいるというのは新鮮な視点だった。

 そういえばここの物乞いはしつこくない。



 中心のメインストリート、近代的な建物
 

 混み合うバスターミナル


 マーケットエリア。目の前の大きな建物の2階に床屋があって100円で散髪してもらった。





 世界遺産にも登録されているカスビのブガンダ歴代国王の墓。
 入場料が3000(約200円)から2000ウガンダシリング(約120円)へ何故か値切れた。
 

 東アフリカで有名なエリート大学であるマケレレ大の構内
 


 またカンパラは丘の多い街でもあり、それぞれの丘からのんびりと街を眺めるのも楽しい。

 街が一望出来るポイントにあるナミレンベ教会


 その近くからみたカンパラの全景。



 このほかにも街の中心にはチェーンのピザショップがあったりちょっとしたショッピングセンターもある。それに日本の中古車が日本語を消さないでそのままつけて走っているのも結構いい見物だ。(日本語がペイントしてあった方が確実に日本製となり高い値段がつくらしい)

 イースター祭と重なったこともありちょっと長い滞在となったが、そう悪い街では無かった。

 だが、街そのものとしては小さいしので飽きてしまうしユーゾウ氏との約束もある。

 明日出る事にしよう・・・


その後のナイロビ(ナイロビ:ケニア)

2005-03-22 17:13:09 | 1st 北・東アフリカ
ケニア





2005.03.10(木)-22(火)


 ファルコこそ殺られたものの(くどいようですがファルコは死んだわけではありません)、私のその後のナイロビでの生活は予想以上に長いものとなった。

 森田氏は10日にウガンダへ出発したがユーゾウ氏はバイクの修理待ち。そして私はというとフライトチケットの確認をしていたのだ。
 以前マダガスカルに行くにはナイロビからが安いと聞いていたことがあり、ついでにとその周りのコモロ、セイシェル、モーリシャスといった島を訪れようと考えていたのだ。
 とはいいつつもやる事は旅行代理店に聞きにいっただけ、結果が出るのに10日ぐらいかかり、予算オーバーと分かり断念。
 じゃあ直ぐ動くかというと気分も乗らない、ナイロビは治安こそ悪いものの今まで見てきた首都の中ではダントツで都会だ。この先動いてもしばらくはしょぼい首都の連続になるのも見えている。

 私は久しぶりのショッピングセンターであるヤヤセンターにいったり、市内の本屋(エチオピアであれだけ探しても見つからなかったロンプラが簡単に手に入る)を周り、それに併せて次に予定している国のビザを次々と取得しているうちにいつしか3週間が過ぎようとしていた。

 これまでに挙げた唯一の成果といったらホットメイルのアカウントを初めて作ったことぐらいだろうか?今までネットとは全く無縁だったがこれで少しは何か変わるのかもしれないだろう。



 20日、昼頃にバイクの修理を終えたユーゾウ氏が出発。随分と長く一緒に居た彼とはタンザニアでの再会を約束する。私もこのままではいけないと思ってウガンダ行きのチケットを買う。いい加減動く時だろう。

 そして21日・・・

 朝から熱を出して寝込んだ・・・

 食あたりで下痢も酷い。せっかく出発しようと思ったのに・・・


 バスのチケットは親切なイスラエル人シモンが私の代わりにチケットオフィスに行ってくれて、日付をブランクにして貰って事なきを得たのがせめてもの救いだった。

 そして22日。体調は完全に回復しなかったが動けないほどではない。

 出発は夜の7時、私を心配してホテルのスタッフの一人がバス停まで付き添ってくれる。歩いて5分もかからない距離だがナイロビの治安を考えると心強い。

 いよいよ出発だ。次はウガンダ。

 また気を新たにして挑んでいこう・・・

激闘の記録第4話「ファルコの殺られた夜」予告編

2005-03-09 17:11:11 | 1st 北・東アフリカ
ケニア


 「激闘の記録」に「第4話 ファルコの殺られた夜」をアップ


2005.03.09(火)


あらすじ

時は2005年、地球は核の炎に包まれた・・・

 という事実は特に無かったが旅人にとってここアフリカは修羅の大陸と呼ばれ、都市の治安の悪さはしばし漫画「北斗の拳」に例えられる。

中でも「トップスリー」と言われる都市があり、第一位「カイオウの支配するヨハネスブルグ(南アフリカ共和国)」、第2位「羅将ヒョウの支配するラゴス(ナイジェリア)」、そして私が今滞在する第3位「第3の羅将ハンの支配するナイロビ(ケニア)」というのが定説となっていた(現在では多少異なるが)。

救いの無いのが「拳四郎無き北斗の拳の世界」と呼ばれていることであり、「チキン無双」、「比類なきチキン」を売りにするこのプロフェッショナル・デューク東城は「東城史上最高のビビリ方」をして入国を果たしたのだが、そこに一人の「漢」が現れた。


 「ファルコ」を名乗るこの漢、果たして拳四郎無きこの世界の救世主足りうるのか?

         何もしない!ゴルコサーティーワン!!!


舞台マップ




 です。

 以前書いた記事に若干写真を付け足しています。どうぞよろしく。



ブラックアフリカ突入。(モヤレ→ナイロビ:ケニア)

2005-03-02 21:55:15 | 1st 北・東アフリカ
ケニア





2005.03.01(火)

 エチオピアの旅が終りケニアへと入国する。
 サハラ以南をブラックアフリカと捉える場合が多いがエチオピア人は見た目も我々の想像する黒人とはちょっと違うので、あまりそうは感じなかったがこの先は俗に言う縮れ毛の黒人世界へと突入する本格的なブラックアフリカが始まるのだ。

 これから突入するブラックアフリカのイメージとは何だろうか?
 政情不安定、劣悪な衛生環境、絶えざる内乱、腐敗に賄賂、貧困等色々な物がある。

 中でも旅行者にとって最も気になるのはブラックアフリカ諸国に於ける都市部の治安の悪さだろう。
 「トップスリー」に挙げられるのは、「ヨハネスブルグ(南アフリカ共和国)」、「ラゴス(ナイジェリア)」、そしてこれから私が向かう「ナイロビ(ケニア)」であった。

 国境町であるモヤレからナイロビまでいくには大雑把に行って3つのルートがあるが、その内のメジャーな2つのルートは武装強盗団が出ることで有名だ。ナイロビという危険な都市に行くまでにまずこれを心配しなければいけないのは頭の痛いことでもあるが私にはどうすることも出来ない、これから乗るコンボイ(トラックの悌隊、武装強盗を避けるために車列を組んで移動する)が武装強盗団に遭わないように願うぐらいが限界だ。そして私のコンボイはマルサビット国立公園を経由するルートとなっていた。(注:コンボイのルートはこのメジャーな2つのルートのいずれかでおり、それは一つのルートをしばらく使っているとそこに武装強盗団が襲いかかってくるのでそうなるともう一つのルートに移すという繰り返しだった。私の時期ではマルサビットルートは安全と言われていた。)

 泊まっていたホテルをガイドと一緒に出て国境を越える。

 モヤレの街並


 手続きは昨日すでに終っているのでただ通り抜けるだけだ。

 トラックの発着場につき、昨日ガイドが調整していたブローカーに残りの代金を渡す。

 このトラックは前座席と後ろの荷台という2つの選択肢がある。
後ろだと移動中はずっとフレームに摑まらねばならず、また地面の悪さからしょっちゅう跳ねたり、また道路脇の木の枝を避けたりしなければならないので身をかがめたりすることとなり、その乗客の動作から“スーパーマリオ・トラック”と呼ばれている。また荷台の荷物も当り外れがあり豆ならまだしも牛となると最悪と言う事で有名だ。
 多くの旅行者は安いことやこれを一つのアトラクションととらえてチャレンジするのだが私にはそんなメンタリティーは露ほども無い。何よりもしがみつくことで精一杯になり道中の景色が楽しめないではないか!

 と、言い訳して前座席を取っていた(トラックは前座席は2列で運転手と同じ列の後ろにもう一列ある。私が取ったのは前座席の前)。窓際には先客がいて残念ながら中央だがまあ悪くは無いだろう。

 なにやら人が来て私になにやら話しかけてくる。エチオピアと違ってケニアは英語圏だから話が早い。
 なんでも私の荷物をくくるのにロープを買わなければならず、その代金とくくりつけるお金がひつようだそうだ。

 『・・・』

 うーん、毎度の事ながら何故あらかじめ言ってくれないんだろうか?ブローカと押し問答したが向こうは折れる気配も無く、一応の説明はされたので仕方なく支払う。(後で聞いたら後ろの荷台に乗る人も自前のロープがなければ払う仕組みになっていたのでボラれた訳ではなかったようだが・・・)

 しかし、これで昨日から併せて乗車代2100ケニアシリング(約3000円、以下シリングという)にこのロープ代に作業代で200シリング(ロープは1本50で私の荷物には3本使っていた)の合計2300シリングの出費だ。

 それにしても予算が最初の予定通りに収まらないのは気分が悪い。

 一連のごたごたを終えて私をここまで案内していたエチオピア人ガイドにガイド代としてチップとして残っているエチオピアブルを渡そうとしたらもう消えている。エチオピアブルはもうとっていても仕方なかったのに彼には間の悪いことをしてしまった。

 そこで一時間ぐらいは待ったのだろうか?エンジンがかかっていよいよこれから出発だ。と、いう時に急にポリスが助手席に顔を入れ、私になにやら言ってくる

「おいっ、パスポートを見せろ、それとイエローカードだ」

 私は彼に従い両方提示する。ケニアは黄熱病の予防接種を受けていないと入れないのでそれも確認したかったのだろう。
 だが、彼は予想もつかない一言を放ってきた。

 「イエローカードはこれじゃないぜ。お前きちんと見せてみろ」

 イエローカードといったら私にはこれしかないし世界中でも常識な筈だ。彼の言い分が良く分からず私は聞き直す。

 「入国した時にカードを記入しただろう。それの事だ」

 『???』

 確かに記入した。そのカードの色は黄色だ。だがそれは入国カードとしてイミグレが保存するもので私が持つものではないはずだ。私は彼にその旨を説明する。

 「あれはお前が持ってなければダメなんだ、だからきちんと提示しろ」

 『見せたくてもそれは無理だ、あれはもうイミグレが持っている、どうしてもというならイミグレに一緒に行ってくれ』

 私は抗弁する、これから出発だという時に厄介なこ事だ。すると後部座席に座っていたおばさんが小声で私に「200シリング(約300円)払えばOKよ」と言ってきた。

 『!』

 謎は解けた、ポリスが賄賂欲しさに私にいちゃもんをつけてきただけだったのだ。そうなれば話は早い。
 私は急に声を荒げて彼にこう告げる。

 『あんたが要求している物は俺の持つべきもんじゃないしその必要もない。それに俺のパスポートに何の問題もないぜ』

 彼はそれでもゆずらず押し問答になる。

 そんなことでしばらく時間を費やしていると急に彼はトラックを降りて私の前からいなくなる。
 『どうなるんだ・・・?』
 やや不安な気持ちになったが、ポリスが消えるのと同時に降りていたドライバーが戻ってきて、「さぁ、出発だ」と声をかけてきた。どうやら彼が上手くやってきたらしい。

 出発直前のこのドタバタに旅行最初の賄賂請求。
 これからブラックアフリカが思いやられた瞬間だった。

 だが、そんな出足とは関係なくトラックは順調に進む。

 道中の景色
 

 休憩中に後ろに乗っていた人を見たが埃まみれになっていた。
 私は真ん中とはいえ助手席で快適。彼らを見たときに本心から『前に乗れてよかった~』と思っていた。

 マルサビット国立公園。動物は見れなかった。




2005.03.2(水)

 日付が変わってしばらくたったころ、トラックはイシオロに到着。
 今日はここで休むらしい。
 私は助手席でそのまま寝ようとしたらスタッフから「そこでは寝れない」と告げられる。『なんでだ?』と思ったが見ていると車両の整備を始めたのでこれでは無理だろうと諦める。
 そうなると野宿するかどうかになるが危険と噂のケニアでそれもちょっと避けたい。しばらく思案にくれていると荷台に乗っていたケニア人が私に話しかけてくる。地方でミリタリーポリスをやっているというナフタは好青年だった。
 彼によるとこのままトラックに乗っていけないから荷物を降ろしてここでバスに乗り換えなければいけなくなるらしい。

 『ハァ・・・』

 そんなこと出発前に教えてくれればいいのにと思ったがそれならば仕方が無い。
 ナフタが手伝ってくれて私の荷物を降ろす。次は宿だ。
 と、2人ばかり、そこにいた人間が猛烈に我々に話しかけてくる。ホテルガイドだ。あてがあるわけでもないのでトラックの目の前にあるホテルに案内されるがままいって2人で部屋をシェアする。一人150シリング(約200円)。
 しかし海外初相部屋はケニア人になるとは思わなかった。

 朝0400時頃、私は急に起こされる、トラックのドライバーだ。「出発するから乗れ」と言っているらしい。
 ナフタは「乗客は降りなければいけない」といっていたが、それは荷台に人を積んでナイロビ市内に入ることが禁止されているという意味で私は助手席だったのでそのまま市内まで乗っていけたのだ。
損をした気にはなったが、この時の私は眠かった。『いいよ、ここからはバスで行くよ』と告げて彼の誘いを断る。

 朝0500時頃起きてナフタの先導でバスへ向かう。チケットは難なくとれ2人でバスに乗込む、エチオピアで見ていたぼろぼろのバスではなく、これなら普通のバスと言って通用しそうだ。
 そして出発を待っていると昨日夜我々にホテルを案内した(といってもそのホテルは停車したトラックの目の前にあったのだが)ガイドが2人やってくる。チップの請求だ。彼らはナフタとなにやら話し始めて揉めている、私は見ているとナフタの手から幾らかのお金が彼らに手渡されているのが見えた。

 ナフタがバスに戻ってくる。彼は何もいわなかったので私は『幾ら払ったの?』と聞くと「200」と力ない答えが。一人150でホテルに泊まってそれでガイド一人に100というのも酷い話だが面倒な交渉もナフタ一人に押し付けてしまった私も悪い。ナフタに『じゃあ半分』と100渡す。しかし、ナフタはミリタリーポリスと言っている割には外見は優男だし、押しも弱いので大丈夫だろうかと心配になる。まあそこが彼を信用できる所なのだが・・・

 バスは思いの他に快適だ。途中ケニア山の頂を見て一路ナイロビへ。

 到着は1100時、だがどう考えても私の持っている地図の外の場所だ。周りの建物の様子から郊外だと分かる。
 『無事に市内に出れるのか・・・?』
 私の緊張は高まるばかりだ。

 そんな私を見てとったのか?バスの運転手が親切に「お前どこに行くんだ?」と聞いてきて、その地区を走っていたマタトゥ(市内を走るミニバスのケニアでの呼び名)を呼び止める。そして「こいつは俺の友達で市の中心に行くからそこで
降ろしてやってくれ!」と伝えてくれた。いい奴はどこにでもいるもんだ。
 私はこれまで一緒にいたナフタと別れてマタトゥに乗る。それにしても危険と言われる所で今どこにいるかさっぱり分からないと言うのは何とも気が重い。15分ぐらいは乗ったのだろうか?久しぶりに見る高層ビル、マタトゥのスタッフが「ここでいいかい?」と聞いてくる。どうやら市の中心部へ到着したらしい。

 私は降りて、少し歩いてから人から見えない所で地図を開く、危険な所でどうどうと地図を開くとターゲットになると聞いていたからだ。そして建物のセキュリティーらしき人に道を聞いてダウンタウンの入口にある日本人宿へ向かう。ここへ向かったのはソマリランドに一緒に行った森田氏と再会場所として約束していたことと、それと情報の少ないアフリカで情報ノートもあり、他の日本人旅行者とも出会いやすいので色々と聞けるだろうと考えたからだ。

 しかし、初めて泊まる日本人宿がよりによって危険なナイロビの危険な場所の入口にあると言うのは泣かせてくれる。
 
 正午でなので大丈夫だろうと思いながらもビクビクしつつ、なんとかお目当てのニューケニアロッジに到着。無事に宿を取る事が出来てホッとする。

 だが、油断してはいけない。これからブラックアフリカ最初の首都、危険都市ナイロビが始まるのだ・・・