さて、作ったおやきを食べながら、このおやきはどこかで食べたことがあるような、、、と既味感(既視感ならず)におそわれていたら、思い出した。ちょっと皮のバイトは重めだが、ロゴスキーというロシア料理店のピロシキのようだ。そう野菜でなく肉に中身を替えればピロシキ。
自分の作っているのはおやきのようでパンのようでもあり、でもその実はピロシキなのかもしれない。
ウーヴリエ 300g
塩 5g
にがり 10g
水 195ml
赤サフ 3g
こねて発酵。70~80g 程度に分割して中身(今回は切り干し大根の煮たもの)をつめる。
スキレットに油を投入してその中で表面をかりっとさせる。投入する油の量はスキレットの中でおやきの厚さの半分ぐらいの厚さになる程度。片面を適当に揚げてもう片面を揚げる。
180度15~18分程度で焼成。
本当はポーリッシュ法で一日ほどライ麦だけで予備発酵した種を作っておきたかったが、このところ忙しくて焼成当日、時間が取れるかどうかわからないので当日、ライ麦発酵は2時間ほどで作った。
急速に予備発酵を進めるためにイーストを大量投入した。
ライ麦を使ったのにもかかわらず、この方法で時間をそれほど取らずに外はしっかり、中はふわふわ、それでいて味わいのあるパンが焼成できた。
ライ麦 100g
水 100ml
赤サフ 7g
モルト 大匙1
以上を混ぜて2時間ほど予備発酵
1CW 1020g
水 640ml
全粉乳 20g
砂糖 54g
塩 14g
にがり 10g
赤サフ 6g
以上を混ぜて捏ね、ある程度グルテンが出たところで
バター 56g
投与し、さらに捏ねる。
一次発酵、分割、ベンチタイム、成形、二次発酵、
焼成コールドスタート 200度15分 180度25分
A
卵黄 6個分
牛乳 110ml
グレープシードオイル 90ml
薄力粉 120g
B
卵白 8個分
グラニュー糖 120g
卵黄に牛乳を入れてかき混ぜ、ついで油を少しずつ分離しないように加えて乳化させる。その後、2度ふるった薄力粉を加えてよくまぜる。Bでメレンゲを作り、Aに混ぜて型に流し込んで焼成180度30分。 焼成後、さかさにして冷却し、ケーブインを防ぐ。
先日、久しぶりにマドンナのLike a Virgin を聴いた。当時、日本でもアメリカでも過激な詞の曲として認識されていたが、よく詞の意味を吟味して聴いてみるとこの詞の裏にはキリスト教的な内容が隠されているのではないかと直感した。そう直感したのは “ wilderness “ という単語が耳に入ったからだ。そして、もし冠詞がちょっとだけ違っていたら、、、、、a virgin じゃなくて the Virgin (Mary) だったら、と思った瞬間、この詞にはやはりキリスト教的な裏の意味があるのではないかとどうしても思わざるをえなかった。詞を読んでいくと該当する聖書の部分が浮かんでくる。
Like a Virgin
私は荒野を彷徨い、道を失い、疲れ果て不完全な存在だった。
でも、あなたは私を輝かせ、新たにしてくれる。
あなたの鼓動がそばにある時、初めて触れられた時のように、私の恐れは早くも消え去る。ただ愛だけが永遠に続く。
あなたは私を強く、恐れない者としてくださる。恐怖と寒さのもとを溶かしてくれる。
あなたは私のものであり、時の終わりまで私はあなたのもの。私はあなたに隠すものなどなくなる。
以上 概訳
以下 聖書 新共同訳より
詩篇23 4節
死の陰の谷を行くときも私は災いを恐れない。あなたが私とともにいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける。
詩篇27 1節
主は私の光、私の救い、私は誰を恐れよう。主は私の命の砦。私は誰の前におののくことがあろう。
力を与えてくれる源泉は違うが、旧約聖書の詩篇と同じ構造ではないか?
列王記 上 19章 4節
彼自身は荒れ野に入り、さらに一日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り、自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ、もう十分です。私の命をとってください。私は先祖にまさる者ではありません。」彼はえにしだの木下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ」見ると枕元に焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったのでエリヤはそのパン菓子を食べ、水を飲んでまた横になった。主の御使いはもう一度戻ってきてエリアに触れ「起きて食べよ。この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」と言った。エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。
ルカ福音書
4章1節~
イエスは荒れ野の中を霊によって引き回され四十日間悪魔から誘惑を受けられた。その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた。そこで悪魔はイエスに言った。「神の子ならこの石にパンになるように命じたらどうだ」イエスは「『人はパンのみで生きるのではない』と書いてある」とお答えになった。(中略)悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた。イエスは霊の力に満ちてガリラヤに帰られた。
荒れ野を彷徨い、力尽きようとしたとき、救いの手が差し伸べられる、あるいは荒れ野での試練に耐え、新しく生まれ変わる、この構図も同じだ。
第一コリント人への手紙 13章 8節~
愛は決して絶えることがありません。(中略)完全なものが現れたら、不完全なものはすたれます。(中略)いつまでも残るのは信仰と希望と愛です。この中で一番優れているのは愛です。
そしてその愛は永遠である。
ところでエルヴィスのゴスペルソングに“He touched me ”という歌がある。これはBill Gaitherという南部のゴスペルシンガー・ライターの作った曲で、彼は聖書の中にあるtouchという表現が重要な意味を持っていることに気づいてこの曲をつくったらしい。詞の内容では「重荷を背負った自分」が「神のみ手」に「触れ」、「浄化され、完全なものになる」。同様にLike a Virgin でもこのtouchが重要な意味を持っている。
Like a Virginでは前半の部分で「なんとか荒野を抜け」たが、「道を失い lost」「不完全な」存在である自分がいるが、コーラスの部分でこの自分は変化する。「初めてtouchされたように感じ」この自分は浄化されていくのだ。He Touched Me Elvis Presley
"He Touched Me" By The Gaither Vocal Band/Mark Lowry
Like a Virginの作詞家が意図してキリスト教的な裏の意味を入れたのかどうかはわからない。しかし、「何かに触れて重荷と罪から解放され、力を得て新しいものになれる」というテーマ、構造は影響を与えるのが神という大きな存在か人という小さい存在かの違いはあるが、He touched Me もLike a Virginまったく同じである。多分、これは背景にキリスト教文化を有する社会において共通の構造、認識なのかもしれない。
飛躍してしまうが、パンも同じかもしれないと思った。こねて(touch)発酵させて(変化)、焼成する(完成)。この一連の流れが「洗礼(水)や聖霊光臨(炎)によって新たな自分へと生まれ変わる」というキリスト教的なモチーフを連想させる。いや、反対に原始キリスト教信者はパンの製造過程を見てそう思いついたのかもしれない。キリスト教ではパンは「キリストの体」というではないか。以前「フィリップ・ビゴのパン」という本でビゴ氏がパンはキリストの体であり、自分にとって神聖な物、と書いていたが、その意味がマドンナのLike a Virginをきっかけに色々考えて少し理解できたような気がする。