"四季折々 この一枚″

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「鈴木よね」と神戸

2012年10月11日 14時07分35秒 | 紀行

六甲ケーブルの南、神戸灘区の高台に、そのお寺はありました。

大阪から堺、須磨、一の谷までを一望のもとに見下ろすことができた
このお寺は、平清盛のころが最も栄えたといわれています。

長い歴史の中で、明治の初年、廃寺となった寺は、
昭和2年、神戸の大商社、「鈴木商店」の社長、いや、「お家さん」と呼ばれた
「鈴木よね」さんや政・財界人の喜捨によって、
臨済宗妙心寺派(禅宗)の寺として、ここに、再建されました。

そのお寺の本堂西側、「鈴木よね女史像」と刻んだ大きな石の上に
同女の胸像が乗っていました。

石の側面には、「昭和貮年五月 建之」と刻んであります。

この像の横には、鈴木商店を実際に動かし、大きくした、大番頭の「金子直吉」翁と
同商店の発展に尽くした「柳田富士松」翁の「頌徳碑(しょうとくひ)」も建っています。

 頌徳碑は、「人の功徳を記した記念のための石碑」を言うそうです。

「鈴木よね」が姫路から神戸に出てきたのが明治10年、25歳のとき。
当時、バツいちだった彼女は、神戸で商売をしていた兄の友人、鈴木岩治郎と再婚。

主人の岩治郎が明治27年に、54歳で死亡したあとも、「よね」は、
神戸で商売を続け、大番頭の金子直吉や柳田富士松とともに、
会社を大きくしていきます。

大正の時代、「鈴木商店」は、三井、三菱財閥をもしのぐ
日本の大商社に育ちました。

このあたりは、ドキュメンタリー作家、「玉岡かおる」さんの「お家さん」を
読んでいただければ、「鈴木商店」と「鈴木よね」の成長の過程が、
よくおわかりいただけるとおもいます。

新潮文庫の「お家さん」読後感は、私のもう一つのブログ、
「春夏秋冬 75」にも記載しますので、あらためてご覧ください。

大商社に駆け上がった神戸の鈴木商店も、昭和2年、資金難から、ついに破綻。
波乱万丈の商売、人生を送った人たちも、やがて、世を去ります。

お寺の境内から、神戸の港を一望におさめた「鈴木よね」の胸像も、
いまでは、海も見えないくらい住宅が建てこんでいました。

 

もう一つの「春夏秋冬 75」も更新しています

 


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