六甲ケーブルの南、神戸灘区の高台に、そのお寺はありました。
大阪から堺、須磨、一の谷までを一望のもとに見下ろすことができた
このお寺は、平清盛のころが最も栄えたといわれています。
長い歴史の中で、明治の初年、廃寺となった寺は、
昭和2年、神戸の大商社、「鈴木商店」の社長、いや、「お家さん」と呼ばれた
「鈴木よね」さんや政・財界人の喜捨によって、
臨済宗妙心寺派(禅宗)の寺として、ここに、再建されました。
そのお寺の本堂西側、「鈴木よね女史像」と刻んだ大きな石の上に
同女の胸像が乗っていました。
石の側面には、「昭和貮年五月 建之」と刻んであります。
この像の横には、鈴木商店を実際に動かし、大きくした、大番頭の「金子直吉」翁と
同商店の発展に尽くした「柳田富士松」翁の「頌徳碑(しょうとくひ)」も建っています。
頌徳碑は、「人の功徳を記した記念のための石碑」を言うそうです。
「鈴木よね」が姫路から神戸に出てきたのが明治10年、25歳のとき。
当時、バツいちだった彼女は、神戸で商売をしていた兄の友人、鈴木岩治郎と再婚。
主人の岩治郎が明治27年に、54歳で死亡したあとも、「よね」は、
神戸で商売を続け、大番頭の金子直吉や柳田富士松とともに、
会社を大きくしていきます。
大正の時代、「鈴木商店」は、三井、三菱財閥をもしのぐ
日本の大商社に育ちました。
このあたりは、ドキュメンタリー作家、「玉岡かおる」さんの「お家さん」を
読んでいただければ、「鈴木商店」と「鈴木よね」の成長の過程が、
よくおわかりいただけるとおもいます。
新潮文庫の「お家さん」読後感は、私のもう一つのブログ、
「春夏秋冬 75」にも記載しますので、あらためてご覧ください。
大商社に駆け上がった神戸の鈴木商店も、昭和2年、資金難から、ついに破綻。
波乱万丈の商売、人生を送った人たちも、やがて、世を去ります。
お寺の境内から、神戸の港を一望におさめた「鈴木よね」の胸像も、
いまでは、海も見えないくらい住宅が建てこんでいました。