その昔、この袋井宿に50軒もの旅籠が軒を連ね、人の往来が激しかったのでしょうか。?
歌川広重(1797~1858)は、62歳で亡くなりました。
36歳のとき、幕府のお馬献上の行列に加わって、東海道を
往復したと言いますから、当時をスケッチしていたのかも
知れません。
ということは、江戸時代の後期、徳川家斉の時代の描写
である可能性があります。
袋井の東隣は「掛川宿」(現掛川市)。西隣は「見附(みつけ)宿」(磐田市)です。
掛川と袋井のあいだが、見附宿との間より、少し長いので、東から来た人たちは、袋井宿で宿をとったり、ひと休みを
した人が多かったかもしれません。
東京2泊、浜松2泊の予定で旅に出た私たち。
家内の姉が袋井に住んでいるので立ち寄った街です。
往時の面影を残すのは、このお茶屋だけかもしれません。
広重の画をよく見れば、出茶屋の先に海が見えます。
現在では、太平洋に面しているとは言っても、海は見えません。
ちょっとした休憩所だったかも知れません。
現在の「どまん中茶屋」は、よくできていました。
なかなか趣のある建物で、模写した浮世絵を飾り、土産品を売る傍ら、立ち寄る観光客にお茶や饅頭を出して接待して
くれました。
接待役は、街から選ばれた数人の女性が「交替で当番を決めて接客に当たっている」とのことでした。
この日の当番は、たまたま、その中でも代表の方で、
「こんな天気なので、お客さんは、ないとおもっていました。それが、4人も来ていただけて、うれしい」。
と喜んでくれました。
茶屋を後にした私たちは、市内の新鮮な野菜市をのぞいて、
親戚の家を訪ねました。
最後にここで買ったお土産をお見せして旅の終わりにします。
「丸凧」の模型です。表現は、丸凧でよかったので
しょうか。
この地方では「凧あげ」が盛んと聞きました。
それは、風が強いからかも知れません。
遠州灘をわたる強い風を、笠と蓑合羽で避けながら、
先を急いだ旅人たち。
「袋井茶」の一服も、待ち遠しかったかも知れません。
「その一」、「そのニ」で取り上げたコピーは、
いずれも「袋井市の観光パンフレット」を複写した
ものです。
(東海道五十三次 終わり)