かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠412(中欧)

2017年02月18日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の外国詠57(2012年10月実施)
    【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
      参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、
         藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:崎尾 廣子
     司会と記録:鹿取 未放


412 彫像に見られゐるわれは小さなる一瞬に過ぎず無視して通る

     (レポート抄)
 観光旅行であっても目にする景から常に距離を置いて見ている作者の目を感じる。5音、8音、5音、9音、7音で歌われている。2句、4句を字余りにたっぷりと表現している。旅行者として彫像を見てはいるが裏を返せば次々とその前を通り過ぎてゆく人々の中の見られている一人にすぎないと自身を見ている「小さなる一瞬に過ぎず」なのである。この3句、4句に作者の涼しげな理性を感じる。(崎尾)


     (当日発言)
★彫像は半永久的である。露わではないが人間とのかすかな対比。(慧子)
★先生は彫像のような形有るものにはあまり共感しない。だから無視して通るのだ。(N・I)
★いや、そんなことはありません。共感しないから無視して通るのでもないし、共感もしています。
 第一、旅で出会うものの大半は形があります。(鹿取)
★彫像がどこのものか特定されていないのはまあいいとして、歌のつくりがおおざっぱな気がす 
 る。「小さなる一瞬」というのはどこに掛かるのだろうか。(藤本)
★「小さなる一瞬」が掛かる部分はないが、自分が通り過ぎる時間のことを言っているのでしょう。
 彫像を無視して通る自分。(鹿取)
★自分の存在自体の小ささと、観光が一瞬に過ぎ去っていくことを言っている。(鈴木)
★作者の歌の特徴で、命のないもの、人間ではないものが自分を見ているというのがあるが、こ 
 れもその一つ。ほかの人でも彫像が自分を見ているとうたうことがあるかもしれないが、作者 
 は「無視して通る」と自意識をたてているところが面白い。私は一瞬の観光者にすぎず、だか 
 ら彫像と対峙することもないから無視して通っていくだけだと。(鹿取)
★雑な歌い方のようにみえるが、両方を振り切っていて面白い。つまり彫像の視線と、そこを通 
 るときに作者によぎった自分は小さな一瞬の存在だという思いと、両方を振り切っている。
   (鈴木)



馬場あき子の外国詠411(中欧)

2017年02月17日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の外国詠57(2012年10月実施)
    【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
      参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、
         藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:崎尾 廣子
    司会と記録:鹿取 未放

411 天井までキリストをめぐる細密画隙なしこれほどの圧倒もある

      (レポート抄)
 歌の成り立ちをみると6音、8音、5音、9音、7音である。この調べにのせて今目にしている細密画にとまどいながらも驚きが胸を占めてゆくその心のうちを表しているのであろう。この細密画の制作者の計り知れない情熱に心は動いているのであろう。筆にこめられていたのかもしれない静かな息づかいなどまで感じとっているのかもしれないと思える4句の「隙なし」の表現である。「これほどの」「ある」に作品の高度な完成度に驚嘆している作者を感じ取る。(崎尾)


      (当日発言)
★この細密画はどこにあるのでしょうか。(鹿取)
★めぐるとあるからお部屋ごとにいくつもある細密画を見て歩いているのではないか。(N・I)
★いや、この「めぐる」はキリストを巡るのであってお部屋を巡るのではない。(藤本)
★どの部屋か、どこの部分の細密画か特定できなくてもいいが、下からずっと描かれていて天井ま
 で及んでいるのでしょう。(鹿取)
★作者は息苦しさを感じたのではないか。それとここにとけ込めない感じ。ここまでやるのかと 
 いう。日本人ならここまではやらないという怖さみたいな気分。(鈴木)
★では、西洋と日本の違いをうたっているのか?(N・I)
★でも日本だってお寺に行けば恐ろしいような地獄絵があるし。大聖堂とお寺では建て方も違う 
 が。(藤本)
★まあ、東西を比べてではないかもしれないけど、東洋では余白ということを大事にしますよね。
 だから鈴木さんの息苦しさというのはよく分かる。(鹿取)
              

馬場あき子の外国詠410(中欧)

2017年02月16日 | 短歌一首鑑賞

  馬場あき子の外国詠57(2012年10月実施)
    【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
      参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、
         藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:崎尾 廣子
    司会と記録:鹿取 未放


410 聖堂の薔薇窓にさす朝の陽のいつかしき暗き光を見たり

     (レポート抄)
 この一首は薔薇窓にさす暗き光を歌っている。陰を意識することで光はより輝いて目に映ったのであろう。窓にさす「いつかしき暗き光」はどれほどまでにこの一瞬の薔薇窓を美しく映し出しているのであろうか。4句のみが字余りであるがその細やかな調べから聖堂を支配していると思える荘重さがしずしずと伝わってくる。キリストを太陽になぞらえて造ったとも、奇(くす)しきバラの花とも言われる薔薇窓の精巧さに、光の美しさに心を打たれているのであろうと思う。この聖堂に創り出される精神世界をも思っているのかもしれない。一つの作品として薔薇窓を見ているのであろう作者の静かな心の揺れを感じる。人の手によって造られた聖堂に太陽の力をも生かしている人間にある創造力の不思議さを思う。(崎尾)


      (当日発言抄)
★「いつかしき暗き光」の言葉につきるのかな。実感として分かる。(鈴木)
★これは塔の中に入って見ているのでしょうね。ところで、ステンドグラスと薔薇窓は違うものだ 
 けど、この薔薇窓には実際の太陽光が指している。そうすると409番歌(ステンドグラスの絵
 図にとこしへに苦しめる人ありそこに光とどかず)の苦しめる人に届かない光とは同じく太陽光
 かもしれない。もちろんどちらも表の意味は太陽光で、裏に比喩的な「光」を暗示しているとか
 重ねていることは十分にありえるけど。(鹿取)
★この窓は19世紀に作られ、直径は11メートルで世界最大、2万6千枚以上のガラスを使っ 
 ている。(藤本)


     (後日意見)(15年10月)
 聖ビート大聖堂の正面を飾るバラ窓は「天地創造」がテーマ。高さは33mで、柱と天井が一体となって美しい星型を作りあげているそうだ。(鹿取)

馬場あき子の外国詠409(中欧)

2017年02月15日 | 短歌一首鑑賞
 
  馬場あき子の外国詠57(2012年10月実施)
    【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
      参加者:K・I、N・I、崎尾廣子、鈴木良明、曽我亮子、
         藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
     レポーター:崎尾 廣子
     司会と記録:鹿取 未放


409 ステンドグラスの絵図にとこしへに苦しめる人ありそこに光とどかず

      (レポート抄)
 初句、2句はともに8音で歌われている。ステンドグラスにのびやかな響きのある「の」を使っておりその8音がゆったりと心地よく響いてくる。2句では音は低いが響きに力のある「に」を2度使っている。そこにゆっくりと引き込まれてゆくような調べがある。この「に」が効いているのであろう。4句にも「そこに」と「に」をもう一度使っている。やがてこの1首の調べが結ばれてゆく結句の表現をより深くこの「に」が導いているのかもしれない。さらにこの「そこに」と、結句からこの「人」の負う消えることのない苦しみがゆるぎないものとして伝わってくる。そのあたりには静謐ささえもただよっているのであろう。この絵図の「苦しめる」「人」の無言の苦しみは悲しくも深く美しいと作者は感じたのかもしれない。王家の「洗礼」を主題としたものであるこのステンドグラスの制作者への、キリスト教への深い理解が作者にはあるのであろう。光の届かない人々へも思いは及んでいるのであろう。「とこしへに」の穏やかな表現がこの歌の中で静かに息づいている。結句の「光とどかず」が胸に染む。(崎尾)


     (当日発言)
★レポートの「ステンドグラスにのびやかな響きのある『の』を使っており」とあるけど、これで
はよく分からない。「ステンドグラスを助詞『の』で受けており」などとすべきだろう。(鹿取)
★この歌は402番歌(ステンドグラスの絵図に悲しみの祈りあれどミュシャの光をわれは見てゐ
 る)と「ステンドグラスの絵図に」までが同じ。402番歌はミュシャに光を当てているが、こ
 の歌では絵図に描かれた人に焦点がある。「とこしへに苦しめる人」は絵そのものが題材。
   (藤本)
★光が当たらない部分が実際にあるのだろう。だから先生はそこに描かれている人はとこしえに 
 苦しめる人だと思った。(慧子)
★そうすると光が届いている人は苦しんでいない人ということになるが、そうですか?「光とど 
 かず」の部分の解釈にレポーターは苦しまれたと話されましたが、そこは物理的に光が届かな 
 い部分があるという意味ではないですか。(鹿取)
★光とはステンドグラスで強調したいところ。もともと強調したい救世主などにスポットライト 
 を当てる技法。制作者が強調していない部分が「光とどかず」で、しかし作者はそこに苦しん 
 でいる人がいることを発見したんじゃないか。英雄など讃えられる人の影としてある人が、確
 実にいて苦しんでいることを発見したんじゃないか。レポーターがいうように制作者が浮かび 
 上がらせることを意図したのではなく、制作者が気がつかなかったことを作者が発見したのだ。
    (鈴木)
★鈴木さんの意見、面白いですね。(鹿取)
★いや、みなさんの解釈のように歌からどんどん離れていくのはよくない。ステンドグラスはま 
 んべんなく光が当たるように設計されている。時間によってあたらない時もあるかもしれない 
 が。この絵にはチェコに初めてキリスト教を伝えた聖キリルと聖メトディウスが描かれていて、
 物理的には光は当たっている。しかし聖人といわれるこの人たちは永遠に苦しんでいるので、 
 その点を光が届いていないと表現している。(藤本)
★そうすると藤本さんの意見は、「光とどかず」の光は太陽光ではないということね。(鹿取)
★藤本さんの説には反対。あくまで現場詠だから、そのとき光が当たっている所と当たっていな  
い所があったのだと思う。(鈴木)
★意見が分かれましたが、並列で表記しておきます。(鹿取)


     (後日意見)(2015年9月)
 「ステンドグラスはまんべんなく光が当たるように設計されている」という意見があったが、普通のガラス戸だって外からの光はまんべんなく当たる。また「制作者が強調していない部分が『光とどかず』」だという意見もあった。ミュシャのステンドグラスの写真には例えば右下の方の暗い部分には頭を抱えて嘆いている人の姿が描かれている。その人物を眺めていると、ミュシャが英雄だけにスポットライトを当てて浮き上がらせ、重要でない人は隅の方に暗く描いているとは思えない。ミュシャは暗く描いた人の苦しみにも聖人と同等の精神性を認めているようだ。当初、鈴木さんの「制作者が浮かび上がらせることを意図したのではなく、制作者が気がつかなかったことを作者が発見したのだ」という意見に賛成したが、今はどうもそうではないように思われる。ミュシャは隅々まで入念な意図の元にステンドグラスを作ったし、作者はそれに導かれて隅に暗く描かれた名もない人の苦悩にも心打たれたのであろう。制作者の力でもあるし、鑑賞者の力でもある。(鹿取)



馬場あき子の外国詠408(中欧)

2017年02月14日 | 短歌一首鑑賞

    馬場あき子の外国詠56(2012年9月実施)
         【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
           参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:N・I(欠席、レポートのみ)
          司会と記録:鹿取 未放


408 ヤン・パラフの死に花を捧げに行きし友プラハは静かな秋の雨なり
※ヤン・パラフ=カレル大学生。一九六九年一月ワルシャワ協定による
          軍事介入に抗議して焼身自殺。

     (レポート)
 秋の雨の表現に哀しみが出ていると思います。(N・I)


     (当日発言)
★※印は「左注」で、もともと歌集についていたものです。(鹿取)
★「行きし友」は同行していた友人ということだろうから、過去の「し」を使うのは間違いでは
 ないか。しかし、「行きたる友」より「行きし友」の方が音数も合い、美しいので苦渋の選択
 かもしれない。(慧子)
★まあねえ、歌を作った時点は帰国後だろうから、そこからの回想という気分じゃないの。抵抗 
 の仕方が焼身自殺というのはとても悲しいけど、作者は軍事介入に抗議する気持ちに対しては 
 強い共感を感じているのでしょう。花を捧げに行ったのは友人だけどその行為に自分の気持ち 
 の代弁をさせている。静かな秋の雨を降らせてヤン・パラフを悼んでいます。(鹿取)
★ええ、花を持っていった人と作者とは同じ思いだったのでしょう。(崎尾)
★ここの花を捧げに行った友は吟行の旅に同行したIさんだそうだ。(藤本)



馬場あき子の外国詠407(中欧)

2017年02月13日 | 短歌一首鑑賞

    馬場あき子の外国詠56(2012年9月実施)
         【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
            参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:N・I(欠席、レポートのみ)
          司会と記録:鹿取 未放


407 粗末なる青い家の一間に書いてゐしカフカの『判決』のかなしみ思へ

      (レポート)
 プラハはカフカの街である。人間に疑問を突き返してくる街の造り。「判決」の本を探したのですが見つからず「かなしみ思へ」が定かではないのですが、「審判」によれば、ある日突然無実の人が逮捕される内容だったと思いますが、その関連からすれば、何となく分かる気がします。
(N・I)


     (当日発言抄)
★実際のカフカは若いとき司法の勉強をしたが、「判決」は「審判」とは違い司法の話ではない。
 一晩で書き上げたそうだが、「夢の形式」といわれるカフカの作風が確立された作と言われて 
 いる。父親との葛藤が主題で、判決とは父親が息子に下す死の命令のことを指している。女の
 色香に迷って家族や友人をないがしろにしていると息子をなじった父親は息子に溺死を命じ、 
 息子は家族を愛していると呟きながら橋の上から身を投げるという話である。(鹿取)
★「判決」の内容が分かればこの歌は難しくはない。カフカの実人生ではお父さんは小説を書く
 ことに反対だったり、どの恋人も父に気に入ってもらえなくて生涯独身だったり、葛藤があった。
 この小説にも「変身」などにも父との葛藤が色濃く反映している。小説だけ読んでいるとカフカ
 は実人生でもうまく生きていけなかった人のように思えるが、実は有能な会社員として出世もし 
 ている。それでもカフカは小説を書きたかったし、その時間が欲しかった。そのため二交代制の 
 会社に勤め、早番で仕事を切り上げると残りの時間を小説書きにあてた。もっとも、この「青い 
 家」では「判決」は書いていないようだ。(鹿取)


      (追記)(12年9月)
 勉強会で思い出せなかったカフカが勤めた会社名は、半官半民の労働者障害保険協会。カフカは仕事も出来たがテニス、水泳、ボートなどを好むスポーツマンでもあった。「判決」(「変身」も同年筆)が書かれたのは「青い家」に住む4年前の1912年のことである。その時住んでいたのはカフカ自身が借りたパリ通りのアパートであるが、今は壊され、五つ星のインターコンチネンタルホテルとなっている。彼が次々と仕事部屋を替えたのは騒音が気になったからのようで、「青い家」は静かで気に入っていると恋人への手紙に書いている。ちなみにカフカは結核で1924年41歳の若さで没した。父母も30年代に相次いで亡くなり、カフカと同じユダヤ人墓地に葬られている。その後39年プラハはナチスに占領され、借家を提供してくれた3人の妹たちは全員ユダヤ人強制収容所で亡くなったという。(鹿取)



馬場あき子の外国詠406(中欧)

2017年02月12日 | 短歌一首鑑賞

    馬場あき子の外国詠56(2012年9月実施)
         【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
           参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:N・I(欠席、レポートのみ)
          司会と記録:鹿取 未放


406 カフカ棲みし青い家ふと覗けども小さな白い花が棲むのみ

     (レポート)
 黄金の小道と呼ばれて金細工師たちが住んでいた処にカフカも半年ほど住んでいたらしい。この町は夢遊病者のように歩き回れる迷路が多い。青い家と白い花はそのことをさしているのではないでしょうか。(N・I)


     (当日発言)
★レポートの「夢遊病者のように歩き回れる迷路」って、意味がとれません。(鹿取)
★黄金小路は昔、金細工師達が住まわせられていた狭い通り。まっすぐな道だからレポーターの
 いうような迷路ではない。(曽我)
★調べたらプラハ城の一角に黄金の小路と呼ばれる道があって、そこにカフカの仕事部屋が在っ 
 たのではないか。鹿取さんから見せてもらったNさんの旅行記によると、1945年までユダ
 ヤ人居住地があり、カフカ家もユダヤ人だったのでこの地に家があった。平屋の家を覗いたこ
 とをNさんは書いているが、仕事部屋として借りていたものではないか。(藤本)
★作者の頭には「変身」があって、カフカの住んでいた家を覗く時も何となく主人公が変身した 
 虫を想像していたが、実際は虫ではなく花がすんでいたわ、ということで「棲む」という文字 
 を使ったのではないか。(崎尾) 
★カフカのお父さんは貧しいユダヤの出身だが、商売に成功して裕福だった。お金が出来る度に 
 どんどん広い家に引越をしたし、カフカも小説を書くために何度も家を借りた。ここもその一 
 つだろう。観光名所となった「青い家」を覗いたら白い花が棲んでいたわという。カフカの創 
 造の苦しみはあとかたもなかった、ということを言いたかったのではないか。(鹿取)


           (追記)(2012年9月)
 カフカの父はカフカが小説を書くのに反対だったが、3人の妹たちは小説書きを応援していた。プラハ城内の黄金小路(=錬金術師通り)にあった「青い家」は末妹が借りていたもので、1  916年11月から翌年4月までカフカが仕事部屋として使った。また1914年夏には上の妹の借りていた部屋を、その秋から冬には中の妹の借りた家を仕事場にしていたそうだ。
 一家は8回転居しており、最後は1913年から住んだ家で、中世の面影を遺す旧市街地に在る。辺りは古くから商業の中心地で、最後の家の斜め向かいの旧宮殿の一階には父が高級ブティック「カフカ商会」の店を構えていた。「青い家」へは自宅からカレル橋を渡って毎日夜食持参で通ったという。「青い家」は現在、本屋となっている。カフカの生家も最後の家のすぐ近くにあったが、現在は一部を残して別の建物となり「カフカ記念館」が置かれている。外壁にはカフカのレリーフが掲げられているという。(『となりのカフカ』(池内紀)等を参照) (鹿取)



馬場あき子の外国詠405(中欧)

2017年02月11日 | 短歌一首鑑賞

    馬場あき子の外国詠56(2012年9月実施)
         【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
           参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:N・I(欠席、レポートのみ)
          司会と記録:鹿取 未放


405 人体はなまなまとして苦しげなりカレル橋いつ雪に埋もれむ 

     (レポート)
 カレル橋は城下町と旧市街地を結ぶために造られた石橋。両側の欄干には30もの聖者の像があり、フランシスコ・ザビエルを担ぐ東洋人の中には日本の武士の姿もある。多くの戦いを経験した橋故の聖者とはいえ生々しい人間くささを感じたのではないか。せめて清浄な雪が降って一刻でも苦しさを消したい願望なのではないでしょうか。(N・I)


     (当日発言)
★レポートの「フランシスコ・ザビエルを担ぐ東洋人の中には日本の武士の姿もある」については、
 そう断定していいのかなあという気がします。(鹿取)
★人体とは橋を渡っている人のこと。それはカレル橋でもあるがもっと抽象的な頭の中に存在する
 橋でもよい。お能の橋がかりのようなことも考えられたのじゃないか。そして人体は何となまな 
 ましいんだろうと。良い歌だ。(慧子) 
★慧子さんがいうまでは聖像のことだと思っていた。服をまとってはいるが通る人に見られてなま
 なまと苦しそうだと。(崎尾)
★人間か聖像か迷ったが、下の句の関連からすると聖像。また「苦しげ」という言いまわしは観察
 者のもの。人間の内面をリアルに表した結果、苦悩を背負った多くの像がカレル橋には建つこと
 になった。「いつ雪に埋もれむ」は直訳すれば「いつ雪に埋もれるのだろう」だけど、苦しげな
 像たちを雪で覆ってやりたいっと思ったのではないか。(鹿取)
★前の歌からの関連で読むと当然聖像。たとえばザビエルひとりとっても苦しい生き様だったわけ
 だから。(藤本)
★なまなまを活かすと歴史を負った苦しみというのは違う感じ。(崎尾)
★私も藤本さんも歴史を負った苦しみとは言っていないです。人間の内面をリアルに彫った結果、
 聖像といえどもなまなまとした苦しげな様子で立っている、というのです。(鹿取)
★聖像だったらなまなましいとは書かないのではないか。(曽我)
★生々しいのはやはり歩いている人だと思う。頭の中には別の抽象的な橋があって、そこにも人が
 歩いている。現実のカレル橋を渡る人と、想像上の橋を渡る人とその両方の上に雪が降って包ん
 でくれないかなあと思っている。(慧子)
★慧子さんの解釈はよく分からない。なぜ抽象的な橋が出てくるのか。雪に埋もれさせるのは、聖
 像でしかありえない。(藤本)
★では、両方の意見があったということを書いておきましょう。(鹿取)
   


馬場あき子の外国詠404(中欧)

2017年02月10日 | 短歌一首鑑賞

    馬場あき子の外国詠56(2012年9月実施)
         【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
           参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:N・I(欠席、レポートのみ)
          司会と記録:鹿取 未放


404 聖なるもの観光として見ることに疲れゐつ荘厳(しやうごん)のビート聖堂

      (レポート)
 大型聖堂の広い部屋にはそれぞれ名前の付いた20の礼拝堂がある。素直に観光客の心境を表していると思います。時間があったらその荘厳なるものと対峙したいとの思いが隠されている。(N・I)


      (当日発言)
★荘厳なるものの目の前にいるのだから、N・Iさんの評はおかしい。自分の思想とはかけ離れ
 ているビート聖堂ということだと思うが。自分が担当した「マリアはこちらを見ない」という意
 味の歌に通じる。(藤本)
★「観光としてわが見るマリアわれを見ず初秋のやうにさびしきその瞳(め)」ですね。見るこち
 ら側の人間の質を問うている。信仰というものを突き詰めて考え(といって信者になるという 
 ことではないが)もっと裸の人間として向き合いたいが慌ただしく観光で来ている今はそれが 
 できない。聖なる対象との間にどうにもならない距離を感じていてじれったく、そのことが作 
 者を疲れさせているのだろう。自分自身が変革されたかたちでしか荘厳なるものとの本質的な 
 対峙はできないというのだろう。時間があればというN・Iさんの評もそこを補うとよかった。
     (鹿取)
★でも実際は観光として見る以外になくて、こちらが疲れ果ててしまうような重々しい聖堂だっ 
 たのだろう。(K・I)



馬場あき子の外国詠403(中欧)

2017年02月09日 | 短歌一首鑑賞

    馬場あき子の外国詠56(2012年9月実施)
         【中欧を行く カレル橋】『世紀』(2001年刊)P116~
           参加者:K・I、崎尾廣子、曽我亮子、藤本満須子、渡部慧子、鹿取未放
         レポーター:N・I(欠席、レポートのみ)
          司会と記録:鹿取 未放


403 ビート聖堂にミュシャの光と影ありて聖者さびしげに瞑目したり

      (レポート)
 天を突く鋭いゴシック様式の教会。窓はミュシャらの美しいステンドグラスで飾られている。その明るさの中に陰影の内面を見つめている様に作者は感じ瞑目のさびしさと捉えたのだと思います。(N・I)



       (当日発言抄)
★レポーターのN・Iさんには前回の曽我さんのレポートを送った。しかしN・Iさんの批評はそ
 れを踏まえて書かれていない。これでは困る。(藤本)
★鹿取さんが毎回渡すレポーター用の注意書きには、①まず歌の解釈をする②自分の考えはそれか
 ら述べるとあるが、N・Iさんの批評には歌の解釈がない。(曽我)
★前回の402番(ステンドグラスの絵図に悲しみの祈りあれどミュシャの光をわれは見てゐる)
 ではミュシャの光を、この歌ではミュシャの光と影を見ている。聖者は前回曽我さんが調べてく
 れたキリルとメトディウスで、チェコにキリスト教を伝えた二人。彼らが寂しそうに目をつぶっ
 ているという意味。(藤本)
★前回のまとめにステンドグラスの一部を拡大した図を入れた。拡大するとミュシャの特色がよ 
 く見て取れる。ステンドグラスが大きすぎて聖者が瞑目している部分はよく分からないが、現
 地では見えたのだろう。前の人々が述べた意見をよく聞いてそれを踏まえた発言をするのは大切
 なことで、支部にはそれをしない人がいると佐々木実之さんがよく苦言を呈していた。旅の歌の
 鑑賞は同じ国が何ヶ月も続いているので、以前の意見を踏まえることが特に大切だ。(鹿取)
★この歌はビート聖堂とミュシャに頼っている。「さびしげに」も私たちが使ったらアウトでは 
 ないか。(慧子)
★私も慧子さんと同じ意見です。(崎尾)
★でもビート聖堂とミュシャのステンドグラスは目の前にある事実だから頼っているとはいえな
 い。「さびしげに」が活きているかどうかの判断は鑑賞者によるかもしれないが、私は活きて
 いると思う。また「さびしげに」は作者の感情を直接表現したものではない。(鹿取)
★ステンドグラスそのものも陽光を受けて美しく輝いているだろうが、絵そのものに光と影があっ
 て、影の部分の一つに目を瞑った聖者がいる。光と影はもちろん精神のそれでもあるのだろう。
    (鹿取)
★キリスト教そのものが変遷している。時には迫害されたりもする。そういう哀しさを秘めて聖
 者は瞑目しているのかもしれない。(藤本)