かまくらdeたんか   鹿取 未放

「かりん」鎌倉支部による渡辺松男の歌・馬場あき子の外国詠などの鑑賞

 

馬場あき子の外国詠99(スペイン)改訂版

2015年11月20日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠11(2008年9月)【西班牙3オリーブ】『青い夜のことば』(1999年刊)P61
   参加者:F・I、N・I、T・K、N・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子
   まとめ:鹿取未放


99 西班牙のオリーブの樹人口の五倍を立てりその実の津波

     (レポート)
 オリーブと人口の具合を計数化させたものをまず据えて近代を詠っているようだ。そのスペインの近代化への分岐点はEC(現在のEU)加入であったかもしれない。オリーブ栽培を近代農法に切り替え、EC市場へ輸出をはかるのだが96番歌(ユーカリの鬱たる汚れの辺に群れて葦は考へるちから捨てたり―鹿取・注)のレポートはここにも若干当てはまる。さらに加入による援助を受ける一方で、農業技術の効率化、それに伴う農業人口削減、それらの人々の海外へ出稼ぎ、また輸入が恒常的に輸出を上回る等の事実が生じる。総合判断すれば効果大なりというところへ達していないことも考えられる。
 「オリーブの樹人口の五倍を立てり」であればその状況如何は人々の生活にたちまち影響し、時代の様相となるであろう。スペイン近代化に伴う大きな痛み、揺れの部分をオリーブの実に照準を当て「その実の津波」ととらえた一首である。(慧子)
 

     (当日発言)
★レポーターはそこまで深読みする必要があるのか。(崎尾)
★こんなに収穫できても国が豊かになれない、社会詠(T・H)


       (まとめ)
 レポーターのいうような農業技術の不足や農業政策の貧困、輸出入の問題などオリーブ栽培には問題は山積しているのだろうが、それは措いて歌に限ってみることにする。この歌、まずはオリーブの木が人口の五倍もあることの驚きをいっているのではなかろうか。オリーブの木が見渡す限り豊かに実って津波のように波打っているのだろう。実(ミ)と津波の「ミ」が弾んだリズムを生んでいる。
 スペインはオリーブ生産量で世界一だが、その七割をアンダルシア地方でまかなうそうだ。収穫は2月でジブラルタル海峡を渡ってはるかモロッコから季節労働者がやって来る。灌漑を利用して半月に一度はオリーブの根元に充分な水やりもしている。収穫したオリーブはその日のうちに工場で搾られ良質なオリーブ油になるという。(鹿取)

馬場あき子の外国詠98(スペイン)

2015年11月19日 | 短歌一首鑑賞
馬場あき子の外国詠11(2008年9月)【西班牙3オリーブ】『青い夜のことば』(1999年刊)P60
   参加者:F・I、N・I、T・K、N・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子
   まとめ:鹿取未放


98 ほつといてくれとばかりに樹なければ煙突に巣づくれり鸛

       (レポート)
 かつて伝統的農法は野生動物とよいバランスを保っていたと思うが、スペインでも近代化の為の自然破壊がすすんでいるかもしれない。ヨーロッパの伝説・童話によく登場する鸛だが、樹木が少なくなったのであろう、木のてっぺんに巣を作る習性から煙突を代用しているらしい。そこを「ほつといてくれとばかりに」と作者のユーモアと少々強気な部分がのぞく。いつかヨーロッパで農機を動かす人の傍らを鸛がゆっくり歩いている映像を見たが、当時かれらも煙突に巣を作っていたのかもしれない。(慧子)


       (当日発言)
★一、二句が面白い。(崎尾)
★この歌は鸛のつがい、97番歌は種としての鸛を詠んでいる。(慧子)


        (まとめ)
 樹木がないのでやむなく煙突に巣を作っている鸛の哀れさを、初句の俗語が和らげている。その俗語の効果で明るい歌になった。(鹿取)


馬場あき子の外国詠97(スペイン)

2015年11月18日 | 短歌一首鑑賞
馬場あき子の外国詠11(2008年9月)【西班牙3オリーブ】『青い夜のことば』(1999年刊)P60
   参加者:F・I、N・I、T・K、N・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子
   まとめ:鹿取未放


97 突兀たる巍々(ぎぎ)たるそしてふくらなる山越えて群翔しくる鸛(こふのとり)

     (レポート)
 「突兀」は(岩、山などがつきでているさま)、「巍々」は(高大なさま)、「そしてふくらなる山」と写生されている大地。その大地にあるスペインは、ヨーロッパ・アフリカを往来する渡り鳥の通り道になっている為、鳥類がきわめて豊かである。それを示すようにイベリア図式美術というものがあって、新石器時代、青銅時代の岩面画に図式化・抽象化された動物がある。鹿、鶴、亀、鸛などが単純な線に表されているという。
 常々鳥をこまやかに象徴的にさまざまに詠ってきた作者だが、はるかな昔からこの大地をゆききしているであろう鸛の種としての生命力をたたえるように「群翔しくる」と詠いながら、山河もろとも大きくとらえて、爽快な一首だ。(慧子)


     (まとめ)
 現代ではあまり使われない「突兀たる」、「巍々たる」という漢文調の描写が、文字づらも厳めしく、険しい山の姿を読者にイメージさせてくれる。その上「ふくらなる」ときて、険しいだけではないやさしいなだらかな山容もあるところが楽しい。険しく厳しいばかりの山容では渡ってくる鸛の表情もけわしいものになるが、彼らは「ふくらなる」山の上をも飛んでくるのだ。そのあたりが馬場の鸛への優しさなのだろう。日本では日常見慣れない鸛が群れをなして飛翔してくるイメージが珍しくたのしい。(鹿取)


馬場あき子の外国詠96(スペイン)改訂版

2015年11月17日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠11(2008年9月)【西班牙3オリーブ】『青い夜のことば』(1999年刊)P60
   参加者:F・I、N・I、T・K、N・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子
   まとめ:鹿取未放


96 ユーカリの鬱たる汚れの辺に群れて葦は考へるちから捨てたり

     (レポート)
 アンダルシアなどスペイン南部大規模農園は非効率的農業の象徴であったが、近代農業へ移行されている。しかし保守的気質、資本投入不足、乾燥した荒々しい気候の影響などの諸条件で、その生産性はヨーロッパ基準からすれば低レベルである。それゆえかつて華やかだった時代の活気は見るべくもないであろう。
 そういう状態を「ユーカリの鬱たる汚れ」に託していよう。そして「辺に群れて葦は考へるちから捨てたり」と続くのだが、「葦」とはパスカルの言う人間だ。その人間へ前述の状況下で個人としての輝きを失い「群れて」「考へるちから捨てたり」と作者の見解を示している。しかし旅先の人々を「葦」に託し、寓言めいた表現をしているのは一旅行者としてあからさまな言挙げをつつしんだのであろう。(慧子)


        (当日発言)
★歴史を考えに入れた感情移入がある。(藤本)
★下の句は字義通りではないか。(崎尾)


     (まとめ)
 葦を人間ととると、土地の農民たちが、収穫も思うようにならない汚れたユーカリの木の辺りに無気力に群れているということか。作者独特の「ちから」の語を用いているが、ここではそれが発揮できない状況で、為す術もない人々をうたっているのだろうか。なんだか土地の人を蔑しているようで、あまりしっくりしない。また、こういう解釈をすると直前の歌〈アンダルシアのユーカリは汚れし手を垂れて泣けてくるやうなやさしさにじます〉のやさしさ、3首前の歌〈乾大地赫ければ半裸かがやかせオリーブ植うる南へ南へ〉の逞しさなど一連の中で見るとき、どうもこの歌だけが異質な感じになる。
 では葦を植物ととると、葦はふつう湿地に生えるものなので乾燥地のユーカリの木の周りに生えていたかどうか気になるところだ。実景ととるならユーカリの周りに群生している葦たちも力なく萎れきっているというのだろう。(鹿取)


馬場あき子の外国詠95(スペイン)

2015年11月16日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠11(2008年9月)【西班牙3オリーブ】『青い夜のことば』(1999年刊)P59
   参加者:F・I、N・I、T・K、N・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子
   まとめ:鹿取未放


95 アンダルシアのユーカリは汚れし手を垂れて泣けてくるやうなやさしさにじます

     (レポート)
 「アンダルシアのユーカリは」とは商業植林であろう。サハラ砂漠から季節風が吹き、雨量の少ない地であるから「ユーカリは汚れし」は想像できる。だが葉ではなく「手を垂れて」としている。即物的に葉を垂れてではおもしろみがないからであろうか。手を詠い込むことの多い作者の単純な比喩とも思えない。私たち日本人と違って手足の長いアンダルシアの人々を暗示させるべく「手を垂れて」と言葉を置いたように思われる。
 ここから作者の心はひそかに人々に向けられ、アンダルシアの長い時空の中のつかのまを生きる人々への目差しとなる。その陰影深い風貌、暑い地に暮らすゆえの気怠い感じ、また攻撃型よりは受動型であろう民族性などを「泣けてくるやうなやさしさにじます」と詠っている。それは対象に距離を置かない作者の心の表白であろう。
  ひまはりのアンダルシアはとほけれどとほけれどアンダルシアのひまはり   永井 陽子
  アンダルシアの野とも岩手の野とも知れずジプシーは彷徨ひゆけりわが夢に  大西 民子
                               (慧子)

     (当日発言)
★レポーターは少し考えすぎではないですか。馬場は動物にも植物にも人間のようなシンパシー
 を持つ人なので、この歌もユーカリに対して人間のようにゆかしさを感じているのでしょう。
         (鹿取)

      (まとめ)
 ユーカリの木は六年で成木になるそうだ。1メートルの成木もあるが、高いものでは100メートルにも育つという。多くの種類があるが、ここでは柳の葉に似た細長い葉を垂れる種類なのだろう。乾燥地にあって水分不足で葉が垂れているのかもしれないし、土埃で汚れているのであろう。下の句は八・八とたっぷりにうたわれて、こちらの情を誘い込むようだ。「やさしさにじます」の主語はユーカリの木であろう。(鹿取)


馬場あき子の外国詠94(スペイン)

2015年11月15日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠11【西班牙3オリーブ】(2008年9月)『青い夜のことば』(1999年刊)P59
   参加者:F・I、N・I、T・K、N・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子
   まとめ:鹿取未放


94 万の起伏の変化に沿ひてオリーブの畑うねり出すアンダルシアより

     (レポート)
 アンダルシアはスペイン南端部の地方で、行政的には一自州をなす。アメリア、カディス、コルトバ、グラナダ、ハヘン、ウエルバ、セビリヤ、マラガの八県からなる。
 アンダルシアは紀元前にタルテソス王国、八世紀にカリフ朝王国があり、十三世紀末までイベリア半島の先進地であった。農業、商業、文化いずれも発展し、高度な都市文化を築いた。その遺産としてグラナダ、コルドバ、アルハンブラ宮殿などよく知られている。地中海、大西洋、ヨーロッパ大陸、アフリカ大陸が交差する地理性、文化性からヨーロッパの玄関と呼ばれ、玄関から高い文化を持つ民族のエネルギーがうねりだしていた。その後キリスト教徒によるコルドバ奪回、グラナダ陥落によりアンダルシアは広大な地を貴族に分割され、不毛な大地所有が形成された。
 掲出歌はその歴史の変化をおもい、実際アンダルシアのおだやかにうねる丘陵の美しさを視野におさめたところの「万の」であり「起伏の変化に沿ひて」という上の句である。(慧子)


     (当日発言)
★「うねり出す」がこの歌の力(崎尾)
★結句の倒置が活きている(藤本)
★レポーターのように歴史とかに深入りしないで、ここは作者が圧倒され感嘆しているダイナミ
 ックな景が見えればよいと思う。(鹿取)


      (まとめ)
 整然とオリーブの木が植えられている情景の写真をよく目にするが、日本の茶畑のような単純な丘ではなく、起伏に富んだダイナミックな地形なのだ。その地形に沿って植えられた見渡す限りのオリーブの木、「うねり出す」という表現でみごとに情景がとらえられている。(鹿取)


馬場あき子の外国詠93(スペイン)

2015年11月14日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠11【西班牙3オリーブ】(2008年9月)『青い夜のことば』(1999年刊)P59
   参加者:F・I、N・I、T・K、N・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子
   まとめ:鹿取未放

93 乾大地赫ければ半裸かがやかせオリーブ植うる南へ南へ

      (レポート)
 「乾大地」とは92番歌のラマンチャをも含むメセタの乾燥型大地を指していよう。さらにこの地方の写真の赤い大地を、代表的景として紹介している。それを「赫ければ」と詠っているのだが、その正体は次のように説明されている。
 イベリア半島は、〈石灰岩、泥灰岩、粘土など海底堆積物〉が変動により半島内部のメセタをなし、〈石灰岩、泥灰岩、粘土など海底堆積物〉が激しい風化をうけたことによる石灰岩中の不純物に由来していると。
 また「赫」は、(勢い盛んなさま、明らか、かがやか、怒る)という意味を持ち、赤の(あきらか、あらわ、緋・紅・朱などの総称)の意より力が強く、作者の大地への畏敬をこめたこだわりの方言であろう。
 一方「半裸かがやかせオリーブ植うる」とは高温乾燥の大地に働く人々へ涙ぐましい思いを起こさせ美しい賛歌となっている。その賛歌は「南へ南へ」の結句に収斂されている。(慧子)


      (当日発言)
★スペインという土地の宿命(崎尾)
★(慧子さんの評「涙ぐましい思いをおこさせ」に関して)どのフレーズがそうなのか、自分は
  そういう感想を持たない。(藤本)


    (まとめ)
 この歌も明るい牧歌的イメージなのか、貧しさゆえに苦労している農民の姿なのか意見が分かれた。私は赫い大地と人間が対峙している力強い風景をうたっているように思う。「南へ南へ」は大地の広さと移動のダイナミックさを伝えて躍動感がある。半裸をかがやかせて乾大地と格闘している人間の姿は、慧子さんの評のように、ある意味で涙ぐましいともいえる。 (鹿取)
  行けど行けど乾く山々頂きを占めて列よしおさなきオリーブ
                      影山美智子



馬場あき子の外国詠92(スペイン)改訂版

2015年11月13日 | 短歌一首鑑賞
馬場あき子の外国詠11【西班牙3オリーブ】(2008年9月)『青い夜のことば』(1999年刊)P58
   参加者:F・I、N・I、T・K、N・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
   レポーター:渡部慧子
   まとめ:鹿取未放


92 ラ・マンチヤはゆけどもゆけども向日葵の黄の荒寥に陽の照るところ

        (レポート)
 ラ・マンチャはメセタと呼ばれるスペイン中央高地にあり、アラビア語で「乾いた土地」という意味。そこは「ゆけどもゆけども」「向日葵の黄」がひろがっている。黄はあらゆる色の中でももっとも光に近く存在しているとは画家の言葉だ。一方陰陽五行論においては黄を最高の色として讃えている。
 そういう黄の思想に、また実際の黄の広がりに、精神を深くして向き合ったであろう作者がとらえた「黄の荒寥」とは見事な措辞だ。黄の明るさの背後にひそむものを作者は露わにしてみせた。「ラ・マンチャはゆけどもゆけども」とは、かのドン・キホーテの遍歴を彷彿とさせ、またそれは私達の人生にもかさなるのだが、彼の分別と狂気、夢と絶望等は「黄の荒寥」という抽象概念に帰納されてゆく。一度「黄の荒寥」へ帰納させながら作者は結句において「陽の照るところ」とどんでんがえしとも思える言葉を置いている。何がどうであろうと神のてのひらのようだと言ってはいないか。(慧子)


     (当日発言)
★(慧子さんの評「神のてのひらのようだ」に関して)みなさんが納得できるかどうか、私は違う
 と思う。(崎尾)
★違和感がある。(T・K) 
★向日葵が枯れかかっていて真っ黄色ではないから「荒寥」(N・I)
★「向日葵の黄の荒寥」の語の働きがすごい。(藤本)
★この歌の意図がどこにあるのか分からない。(T・H)


     (まとめ)
 評者の「神のてのひらのようだ」に関して議論が沸騰した。深読みではないかという意見が多かった。また、「黄の荒寥」の解釈を巡って、あるいは「陽の照る」との関係についてさまざまな意見が出た。私自身は、教会の尖塔や遣欧使節、西洋の絵画等を扱った「西班牙の青」の一連と違って、ここでは神にまで思いをはせていないように思う。広大な荒れ地に植えられた向日葵が黄色く張ったみずみずしさを失っているのを「黄の荒寥」ととらえているのではなかろうか。
 同行した「かりん」の作者達が同じ場所をどう詠んでいるか調べてみた。

  農の子のわれはさびしむ広けれど荒き粒子のラ・マンチャの土地
                  松本ノリ子
  しおれ咲くひまわり畑ラ・マンチャの乾期まだまだ続く六月

  広大な向日葵畑にひまわりは皆痩せて立つ雨を待ちつつ
                   田中 穂波

 これらの歌を読むと、向日葵は荒れた土地にしおれ痩せて咲いていたことが分かる。陽光は恵みではなく雨を待ち望む植物にむごく容赦なく照りつけていたわけだ。その情景をなすすべもなく見ながら通り過ぎる旅行者たち。そしてまもなく忘れてしまうのだ。(鹿取)


馬場あき子の外国詠91(スペイン)

2015年11月12日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠10【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P55
    参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:T・H
     まとめ:鹿取未放

  
91 母たちは巨鯨 娘はガレの蝶 あした西班牙の陽にひかりあふ

     (レポート)(2008年7月)
 ガレ:(1846~1942)フランスのガラス工芸家。アール・ヌーボー様式の代表者の一人。
 スペインの母親達は食べ物のせいか巨鯨のようだ。それに比し娘達は何と華奢で繊細な曲線を持ちスマートなことだろう。ガレの蝶細工のように美しくスペインの陽光の下、光り輝いている、と馬場は街を行き交う人々を眺めながら感慨にふけっている。(T・H)

      (まとめ)(2008年7月)
 娘を「ガレの蝶」ととらえたのが的確である。若い女性はきゃしゃで美しく華麗なのである。豊かな体躯の母ときゃしゃな娘がお互いに陽光のもと輝いているのもよい。蝶のような美だけを肯定せず、あくまで母と子が等価であるところがよい。(鹿取)
 

馬場あき子の外国詠90(スイス)

2015年11月11日 | 短歌一首鑑賞
 馬場あき子の外国詠10【西班牙 2 西班牙の青】『青い夜のことば』(1999年刊)P55
   参加者:N・I、M・S、崎尾廣子、T・S、藤本満須子、T・H、渡部慧子、鹿取未放
    レポーター:T・H
    まとめ:鹿取未放

90 胸や肩や寛(くつろ)かに着て街をゆく巨鯨のやうな母の貫禄

     (レポート)(2008年7月)
 スペインの女性は、若い時はスマートだが年をとると貫禄満点の姿に変貌する。今、街頭を胸や肩に広いストールを巻いて、子供を抱え、悠然と女性が行く。凄いなあ、母は強いなあ、と馬場も感心して見ている。(T・H)


     (まとめ)(2008年7月)
 「寛かに」がゆたかな体躯にひらひらとうすものをひっかけている西洋の婦人の様を見事に言い得ている。「巨鯨のやうな」も微笑ましい。悪意や揶揄ではなく、優しい視線が感じられる。(鹿取)