学問空間

【お知らせ】teacup掲示板の閉鎖に伴い、リンク切れが大量に生じていますが、順次修正中です。

「巻六 おりゐる雲」(その7)─亀山殿造営

2018-01-19 | 『増鏡』を読み直す。(2018)

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月19日(金)12時59分9秒

『増鏡』に戻って続きです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p41以下)

-------
 かくのみ所々に御幸しげう、御心ゆく事ひまなくて、いささかも思しむすぼるる事なく、めでたき御有様なれば、仕うまつる人々までも思ふことなき世なり。吉田の院にても、常は御歌合などし給ふ。鳥羽殿にはいと久しくおはします折のみあり。春のころ行幸ありしには、御門も御鞠に立たせ給へり。二条の関白<良実>あげまりし給ひき。内の女房など召して、池の御船にのせて、物の音ども吹き合せ、さまざまの風流の破子、引き物など、こちたき事どももしげかりき。
-------

「春のころ行幸ありしには」とありますが、具体的な年次は分からないようですね。
「二条の関白」良実(1216-70)は仁治三年 (1242)正月から寛元四年 (1246)正月まで関白を勤め、ついで弘長元年 (1261)から文永二年 (1265)まで再度関白となりますが、上記文章は前関白であってもおかしくない書き方なので、行幸の時期の手掛りにはなりそうもありません。

-------
 また嵯峨野の亀山の麓、大井河の北の岸にあたりて、ゆゆしき院をぞ造らせ給へる。小倉の山の梢、戸無瀬の滝も、さながら御垣の内に見えて、わざとつくろはぬ前栽も、おのづから情けを加へたる所がら、いみじき絵師といふとも筆及びがたし。寝殿の並びに乾にあたりて、西に薬草院、東に如来寿量院などいふもあり。
 橘の大后の昔建てられたりし壇林寺といひし、今は破壊して礎ばかりになりたれば、その跡に浄金剛院といふ御堂を建てさせ給へるに、道観上人を長老になされて、浄土宗を置かる。天王寺の金堂うつさせ給ひて、多宝院とかや建てられたり。川に臨みて桟敷殿造らる。大多勝院と聞こゆるは、寝殿の続き、御持仏すゑ奉らせ給へり。かやうの引き離れたる道は、廊・渡殿・そり橋などをはるかにして、すべていかめしう三葉四葉に磨きたてられたる、いとめでたし。
-------

亀山殿造営に関する記述は『五代帝王物語』に拠ったものと言われています。
『百錬抄』によれば、亀山殿に「移徙」(わたまし)の儀があったのは建長七年(1255)十月二十七日です。
参考までに『五代帝王物語』の関連部分も載せておきます。(『群書類従・第三輯』、p440以下)

-------
さて院は西郊亀山の麓に御所を立て、亀山殿と名付。常に渡らせ給ふ。大井河嵐の山に向て桟敷を造て、向の山にはよしの山の桜を移し植られたり。自然の風流求ざるに眼をやしなふ。まことに昔より名をえたる勝地とみえたり。殊更に梅宮に事由を申されて、橘大后の御願壇林寺の跡に浄金剛院を建られて、道観上人を長老として浄土宗を興行せらる。又大御所の乾角に当りて、西には薬草院をたてられ、東には如来寿量院を立て、御幽閑の地に定らる。是法花の本迹二門を表せらる。事に触て叡慮のそこ思食入ずといふことなし。又大御所に大多勝院と云御持仏堂を造て、天台三井両門の碩学を供僧になされて、春秋の二季、止観の御談義あり。山の経海僧正を御師範として、止観玄文の御稽古、上代にも超てや侍らんと覚き。されば南北の碩徳、我も我もと先をあらそふ。ゆゆしき勧学の階となれり。上の好処に下したがふ習にて、観道の法門などは、近来無下にすたれたりしを、此御代には昔にかへりてこそ聞侍りしか。毎日、いかにも、本書十丁をば叡覧あるよし仰ありけり。当道の学徒だにも、日をへて本書などを、さ程に見る事は有がたくこそ侍らめ。後白川院文治の御修行の例をたづねて、亀山殿仙洞にて、如法写経の御願をはじめらる。彼は御法体の後なり。此は御俗体也といへども、三衣をかけさせ給て万機諮詢の御隙はなけれども、たびたび此御願をはたさる。四ヶ年の御修行のうち、三度は俗体の御体にてぞ有し。又上東門院の佳例を追て、大宮院も妙経に伴ひまいらせ給ふ。簾中にわたらせ給て、六時の御懺法御写経などはありけり。十種供養の儀はまことに菩薩聖衆もかけりくだり給らんとみえき。文治の御経を霊山左大弁宰相定長卿奉行して侍けるが、御賀の儀に准ずべしなど記録にもかける。誠にさりと覚侍き。円宗の教法、此御時に再興する成べし。
-------

このように『五代帝王物語』の方は亀山殿の造営だけでなく、そこで後嵯峨院・大宮院が行なった仏教行事についても詳しく書いているのですが、『増鏡』は造営の部分だけを利用しています。

※訂正(2018.1.23)
後嵯峨院・大宮院の如法写経については、「巻七 北野の雪」に記載されていました。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4f0d2366083b1be772fe08f628ac7a49

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土御門顕定の弟・顕親の出家

2018-01-19 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月19日(金)11時24分47秒

脱線ついでに土御門顕定(1215-83)の弟・顕親(1222-?)の出家についても少し書いておきます。
『尊卑分脈』には顕定に「母承明門院女房〔源成実女〕、建長七四十二出家、号高野入道」とあり、顕親には「母平義時女『建長七四十二出家』契円」とあって、更に頭注に「〇契円、同上在顕定項、恐拠園城寺伝法血脈非是」とあります。
既に考証がなされているように、顕定・顕親兄弟の同日出家は明らかな誤りですね。
母が北条義時の娘であり、当時の状況では父母ともに非常に恵まれた出自の顕親は、七歳上の兄・顕定が出家する八年も前、宝治元年(1247)六月二日に二十八歳の若さで出家しています。(『公卿補任』)
父親の土御門定通は同年九月二十八日に死去していますので、父親が存命中の出来事ですね。
そして顕親の出家の様子は『弁内侍日記』にかなり詳しく出ています。(『新編日本古典文学全集48 中世日記紀行集』、p175以下)

-------
六月一日、土御門中納言<顕親>の夜番なり。その日は院の御所のも夜番なりけるにや、いと疾く、昼程に参りて、「かく」と勾当内侍殿に聞えさすれば、「珍しくこそ」とてあひしらひ給ふを、切簾のもとにてのぞけば、直衣の色華やかに、ことに引きつくろひて匂ひ深く見ゆ。「今の世にはこれ程の人もありがたし」など人々も聞ゆ。「番にも懈怠なく参り、さらぬ奉公も怠るまじき由」など、こまやかに聞えて立ちぬる、名残も何となくとまる心地す。「滝の口より出でむを、広御所にてや見るべき」など言ふ程、殿上に久しくたたずみて、日給の御簡・着到など見て、主殿司に物いひ、着到つけてもなほ出でやらず。鳴板の程に立ちて、何にも目とまる気色なるを、「いかなる事にか。先々は院の御所に心のひまなき人にて、おぼろけには番にも参らぬに、あやしくこそ」など言ふ程に、次の日聞けば、「はやこの暁、霊山にて世にそむきぬ」と聞くも、昔物語を聞く心地して、あはれさ限りなくおぼえて、弁内侍、
  そむき得て心も風の涼しさの岩の懸路を思ひこそやれ
-------

岩佐美代子氏の訳によれば、

-------
六月一日、土御門中納言<顕親>の夜番である。その日は院御所でも夜番に当っていたのか、大変早く、昼のうちに参上して、「出仕しました」と勾当内侍殿に挨拶なさるので、「まあお珍しい」と応対しておられるのを、切簾の所からのぞくと、直衣の色が華やかで、特別気を配った様子がたしなみ深く見える。「今の世間では、これぐらいすぐれた人もなかなかいないのですものね」などと皆さんも言われる。「これからは番にも怠けずに参り、それ以外の御用も怠らずに勤めましょう」などと、懇切に話して立ち去ったあとまで、なぜか名残惜しい感じがする。「滝口の方から退出するでしょうから、広御所からのぞきましょうか」などと言っていると、殿上に長い間立ち止まって、日給の御簡や着到などを見て、主殿司に何か言い、着到にも名を記してもまだ退出しない。鳴板の辺りに立って、何を見ても目にとまって懐かしげな様子なので、「どうしたんでしょう。先頃までは院の御所にばかり熱心に出仕していて、めったに内裏の番にも来なかったのに、おかしいこと」などと言い合っていたが、次の日に聞けば、「いやもう、この暁に霊山で出家してしまいましたよ」という話であったのも、まるで昔物語を聞くような感じで、この上なく感動的な悲しい思いがして、弁内侍、
  そむき得て……(世を背いて出家することができて、心も爽やかに、
  風の涼しい岩山の道を歩いて行く姿を、思いやることよ)
-------

ということで、顕親は容姿も人柄も優れていて、女性に人気のあった人のようですね。
顕親の出家の理由は分かりませんが、宝治元年六月一日というと鎌倉では宝治合戦の直前で、既に相当不穏な空気が流れていたころです。
あるいは母の縁で鎌倉情報が詳しく入ったため、武家社会の粗暴・陰険さや、そうした鎌倉との関係が立身出世につながっている自分の身が疎ましく思われたようなことがあったのでしょうか。
ま、それは小説の世界に入ってしまいますが。
さて、『弁内侍日記』には更に若干の続きがあります。

-------
八日、「今日は昼番に参らましものを、熊野の道の程にてやあるらん」とあはれにて、大納言殿に、弁内侍、
  旅衣たちて幾日になりぬらんあらましかばと今日ぞ悲しき
 時嗣の弁参りて、台盤所にて神今食の御神事の事申し侍りしついでに、「土御門中納言の事、あはれさ、心ある人の賞でぬはなし。うき世を知らぬ人は、畜生に人の皮を着せたるとこそ聞き侍れ」と言ふも、げに悲しくて、弁内侍、
  かく聞けばさすがに身の毛も立つものを鳥に劣らぬ心なれども
-------

岩佐氏の訳によれば、

-------
八日、「今日は昼番に参上するはずの日なのに、今頃はきっと熊野に入る道の途中でしょうか」とあわれに思いやられて、大納言殿に申し上げた歌、弁内侍、
  旅衣……(旅衣に着替えて出発して、もう何日になったでしょう。
  俗世にあったら内裏の番の日なのにと、今日改めて悲しく思われますこと)

 時継の弁が参って、台盤所で神今食の御神事延期の事を申し述べたついでに、「土御門中納言の出家は全く感動的で、心ある人で賞賛しない者はありません。世のはかなさに気づかぬ人は、畜生に人間の皮を着せただけだと承っています」と言うのも、本当に悲しくて、弁内侍、
  かく聞けば……(そんなことを聞くと、さすがに身の毛もよだつほど恐ろしく
  思われますこと。鳥畜生と変わらないぐらい愚かな心ではありますけれど)
--------

ということで、平時継の言うことはちょっと極端な一般論のような感じがしないでもありませんが、顕親は女性に人気があっただけでなく、男性からも高く評価されていた人だったようですね。

土御門顕親(1222-?)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%BE%A1%E9%96%80%E9%A1%95%E8%A6%AA
平時継(1222-94)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%99%82%E7%B6%99

平時継は顕親と同年の生まれの実務官僚ですが、本郷和人氏の『中世朝廷訴訟の研究』の「廷臣小伝」に若干の解説があり、また本郷氏はネットで読めるエッセイでも時継とその子孫について言及されています。

本郷和人「平宗経の一流について」
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/kazuto/taira.htm
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土御門顕定の出家

2018-01-19 | 『増鏡』を読み直す。(2018)
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 1月19日(金)09時34分16秒

>キラーカーンさん
私は後に清華家・大臣家として家格が固定する家柄の人々が、鎌倉時代中期において相互の家格の違いについてどのように意識していたのかを知らないのですが、少なくとも絶対的な家格の違いは「超越」という反発は呼ばなかったと思います。
例えば摂関家の人は実務官僚の家の人がトボトボと階段を上るようにして官位官職を上げて行くのを横目で眺めながら、自身はエスカレーターに乗るような、あるいはエレベーターに乗るようなスピードで急上昇していく訳ですが、別に貴族社会の人々はそんなことに腹を立てたりしません。
せいぜい、若年なのに偉くなりすぎた摂関家のお坊ちゃまが儀式や会議の運営の仕方を間違ったりすると、日記に「未熟者め」みたいな不平不満をブチブチ書く程度です。
「超越」に激怒して出家するような事例は個別に事情を見て行く必要がありそうですが、土御門顕定の場合は自身が「超越」を重ねている点が興味深いですね。
『公卿補任』仁治三年(1242)には「源顕定<二十八>四月九日任(超資頼道嗣)」とあり、顕定が権大納言になったことは葉室資頼(四十九歳)、近衛家庶流の藤原道嗣(年齢不記載、『尊卑分脈』によれば二十六歳)を「超越」したものと評価されています。
また、翌仁治四年(1243)には「閏七月廿七日正二位(臨時。超親俊為経良教等卿)」とあり、顕定は葉室家庶流の藤原親俊(三十七歳)、吉田為経(三十四歳)、近衛家庶流の藤原良教(二十歳)を「超越」しています。
しかし、その後は出家する建長七年(1255)まで十二年間も昇進がストップしていますね。
ま、仁治三・四年の顕定の急激な昇進は、客観的には父親の土御門定通が機敏に立ち回って後嵯峨践祚に貢献したことの恩賞に過ぎないものですが、本人は自意識過剰となり、その後十二年間も昇進がストップしたためにストレスがたまって、建長七年(1255)に爆発した、ということですかね。
こうして見て行くと、顕定が三条公親に執念深くライバル意識を持っていたというよりは、後嵯峨院から実際に大将にするとの内諾をもらっていたのにそれが裏切られたことが怒りの原因であって、『増鏡』のエピソードは面白い作り話ではなく、それなりに根拠があるもののような感じもしてきました。

※キラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

駄レス 2018/01/19(金) 00:25:15
>>年齢を考えれば、実質的に三条公親が上と言ってもよいと思います

土御門顕定が頭中将⇒宰相中将⇒中納言
三条公親が三位中将⇒中納言直任

となっているので、現実には土御門家は既に村上源氏での嫡流争いに負け、
清華家はもとより大臣家の家格すら危うい状況のように見受けられます。
清華家嫡流としての昇進ルートに乗っている三条公親に土御門顕定が
抜かれるのは時間の問題だったのでしょう。
それと、個人的に「村上源氏嫡流」としての閑院流嫡流との同格意識を
持ち続けるのは別なのでしょうが
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする