Sweet Dadaism

無意味で美しいものこそが、日々を彩る糧となる。

聖林寺(十一面観音)

2004-09-05 | 仏欲万歳
 まだ人間より怪獣のほうが怖いと信じていた幼い頃、ロボットとか怪獣とか恐竜とか好きだった人は決して少なくないはず。今でも「恐竜展」は黒字万歳の展覧会代表格と聞く。
私は比較的少年的趣向だったにも関わらず、そういう系には見向きもしなかったのだけれど、ただの遅咲きにすぎないこと判明。
今まさに、好きなのです。異形系。
十一面観音、愛染明王、如意輪観音、多面千手観音などなど。

 「夜目遠目ちょっと見、人間。よく見ると、おい違うじゃん。」
ていうのがどうやら私のフェティッシュ心をくすぐるらしい。

さて仏像テキストには「木心乾漆像」の代表例として取り上げられることの多い聖林寺の十一面。
蛇足覚悟だが、観音菩薩は海のような広く美しい心を持つ女性の例えともされるが、実際のところ性別はない。という訳で、女性的な観音と男性的な観音と、仏師のイメージによって偏りが発生する余地がある。
聖林寺のそれは、明らかに男性的な人である。しっかりした肩幅からゆるりと撫で肩のカーブが丸く流れて、ぱつんと張り出した若々しくまだ丸い筋肉を感じさせる胸板。さらに下方へゆくにつれ、不自然な程にくびれたウエストへ到達し、そのアンバランスに一瞬感じた躊躇を吹き飛ばすかのように腰から下と袖下の天衣が風に舞う。更に、全身を覆っていたヒビだらけの金箔が残っているために、若い男性的躍動感と滅びと侘びの美学がそこに同居することとなる。

注目すべきはその指先。初めて彼と対面した際に私は記録代わりのスケッチブックに、その宝瓶をそっと柔らかく持つ(というより支える)指先の繊細なカーブと、この像を見るのに最も美しく見える角度とポイントを明記していた。そこだけはもうどうしようもないくらい女性的で、どんな女でも、この彼よりも艶っぽく煙草をくゆらせることはできない。断言していい。

彼に逢うには、本堂を出て左手に伸びる赤絨毯に導かれて一段高いところの収蔵庫へゆく。くすんだ白い鉄の、重い重い扉を力を込めて引く。ぎぃ、という鉄に相応しい重い音が響き渡る。
すると、真っ暗の収蔵庫内に、私の立つ背後から日差しが一条に差し込む。
彼の姿が日に明らかになるにつれ、目に見えない一条の光が、今度は逆に私を刺し貫くように伸びるのが感じられる。
「ひさしぶり。」「またきたよ。」
いつも、そんな言葉を最初に掛ける。それほどに、暗く冷たい収蔵庫内を想像すると苦しい。
淋しいことに彼の光背は破損して失われてしまっているうえ、正面からしか見ることのできない構造の収蔵庫であるため、折角露出している暴悪大笑面を見ることはできない。背景の壁の白さ、見上げる自分の座る赤じゅうたんの暗さ、その間にぽつんとひとり立つさまが悲しくてたまらない。
最初にここに来たとき、無心で筆を執ったのはそのせいだ。
何年ぶりに逢う友人、次は何年後に逢えるか判らない友人の写真を急かされるように撮ってしまうように。
好きだけれど多分もう逢えない人の笑顔や仕草をひとつでもたくさん覚えておきたいと願うように。

「また、ぜったいくるからね。」
そして再びの暗闇。

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