陸奥月旦抄

茶絽主が気の付いた事、世情変化への感想、自省などを述べます。
登場人物の敬称を省略させて頂きます。

終戦の詔勅

2006-08-15 06:51:20 | 大東亜戦争
 昭和20年(1945)8月15日の正午、先帝陛下(御歳44才)の玉音放送がNHKにより日本国中に流された。<終戦の詔勅>である。当時の私は幼過ぎて、殆ど覚えていないが、皆ラジオの前に集まり、それを拝聴した。

 御了解を得て、ゼーゼマン榊氏のブログより終戦の詔勅を読むを引用;原文と、その読み下し文を拝借し下記に示す(若干訂正)。

 この原文を見ると、若い人達には分らない言葉が数多いと思う。でも、語調が素晴らしく、大変迫力がある。出来れば、榊氏の所感を併せて御覧いただきたい。

<終戦の詔勅>(「戦争終結ニ関スル詔書」全文 )

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑々帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰スル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵?朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯クノ如クムハ朕何ヲ似テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ開放ニ協力セル諸連邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳へ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
 御名御璽
 昭和二十年八月十四日
                   内閣総理大臣
                     各国務大臣

*読み下し文:

 『朕(ちん)、深く世界の大勢と、帝国の現状とに鑑(かんが)み、非常の措置をもって、時局を収拾せんと欲し、ここに忠良なる汝臣民に告ぐ。朕は、帝国政府をして、米英支ソ四国に対し、その共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり。
 そもそも帝国臣民の康寧(こうねい)をはかり、万邦共栄の楽を共にするは、皇祖皇宗の遺範にして、朕の挙々(けんけん)おかざるところ。先に米英二国に宣戦せる所以(ゆえん)も、また実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾(しょき)するに、出でて他国の主権を排し、領土を侵すがごときは、もとより朕が意志にあらず。

 しかるに、交戦すでに四歳を閲(けみ)し、朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、おのおの最善を尽くせるにかかわらず、戦局、かならずしも好転せず、世界の大勢、また我に利あらず。加之(しかのみならず)、敵は新たに残虐なる爆弾を使用し、しきりに無辜(むこ)を殺傷し、惨害の及ぶところ、まことに測るべからざるに至る。しかも尚交戦を継続せんか。ついにわが民族の滅亡を招来するのみならず、のべて人類の文明をも破却すべし。かくのごとくむは、朕、何をもってか、億兆の赤子を保し、皇祖皇宗の神霊に謝せんや。これ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れるゆえんなり。
 朕は帝国とともに、終始、東亜の開放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるをえず。帝国臣民にして、戦陣に死し、職域に殉し、非命に倒れたる者、及びその遺族に想を致せば、五内ために裂く。かつ戦傷を負い、災禍をこうむり、家業を失いたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念(しんねん)するところなり。おもうに今後、帝国の受くべき苦難は、もとより尋常にあらず。汝臣民の衷情(ちゅうじょう)も、朕よくこれを知る。しかれども、朕は時運のおもむくところ、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、もって万世のために太平を開かんと欲す。
 朕はここに、国体を護持しえて、忠良なる汝臣民の赤誠に信倚(しんい)し、常に汝臣民と共にあり、もしそれ情の激するところ、みだりに事端をしげくし、あるいは同胞排擠(はいせい)、互いに時局を乱り、ために大道を誤り、信義を世界に失うがごときは、朕もっともこれを戒む。よろしく挙国一家、子孫、相伝え、よく神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念(おも)い、総力を将来の建設に傾け、道義を篤(あつ)くし、志操を鞏(かた)くし、誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらんことを期すべし。汝臣民、それよく朕が意を体せよ。』
(御名御璽)

拳々(けんけん):うやうやしく、敬意を持って。
庶幾(しょき):こいねがう事。熱望。
無辜(むこ):罪のない人たち。
赤子(せきし):(天皇を親として)一般の人々。
五内(ごだい):五臓に同じ。心・肝・肺・脾・腎の五つの内臓。
軫念(しんねん):憂い想う事。
衷情(ちゅうじょう):まことの心。
赤誠(せきせい):全く偽らない心。まごごろ。
事端(じたん):物事の始まり。
拝擠(はいせい):押し退けたり、陥れる
志操(しそう):志を変えない事。


 この詔勅では、当たり前だが先帝陛下は宣戦布告相手国に対し全く謝罪などしておられない。戦を始めたのは自分の本意でなかったけれども、それは日本の自衛と東アジアの安定の為で、やむを得なかったと明確な御意見である。
 また、日本と共に東亜の解放に協力してくれた諸国へ(目的を達せ得ず)残念であったとも述べられた。でも結果的には、日本の戦いはインドネシア、マレーシア、ベトナム、インドの解放に繋がったのである。

 国民は、皆苦しい中を良く頑張った、これからはなお厳しい事が待っているかも知れないが、日本国に自信をもって頑張って欲しいと陛下は希望された。

 ところで、詔勅の出来た当時はどのような雰囲気であったろうか。8月10日の早朝に、御前会議で第一回目の御聖断が下った。ポツダム宣言を受諾するとの方向付けだ。この決定を受けて、詔勅草稿を迫水久常内閣書記官長(43)が執筆、陛下が発言された内容を含ませるようにした。それを漢文学者川田瑞穂早稲田大学教授に見せ、詔勅化する。その他、漢文に詳しい有識者の協力を経て語句を訂正、こうして骨格が出来た。

 素案を見せられた大東亜省顧問の陽明学者安岡正篤(当時47)は、これに添削加筆して殆ど完成する。更に8月14日11:00の御前会議で第二回目の御聖断が下り、そのお言葉を含めると共に、なお閣僚ら政府要人によって部分変更された。

 最終案を安岡が見て、「時運の趨く所・・・」はまずい、これでは他人任せの言い方になるから、「義命の存する所・・・」と変えるべきであると強く忠告する。「義命」は<春秋左氏伝>からの引用で、国の運命は義によって造って行かねばならない、道義の命ずるところにより終戦の道を選ぶのであると説明した。だがこの部分は修正されなかった。安岡は、これをとても残念に思い、暫く時間が経過してから迫水に戦後政治に倫理や道理が無く、行き当たりばったりになっているのは、終戦勅語で「義命の存する所・・・」を入れなかったためであろうと述べた。

 小堀桂一郎氏の労作[2]によって、時系列的に<終戦の勅語>が出来る迄を振返ってみる。

8月9日  04:00 ソ連、不可侵条約を破り、満州へ侵入
      11:00 鈴木首相(77)最高戦争指導者会議(6名)召集
            テーマ:ポツダム宣言を受け入れるべきか否か
            米内海相(65)と阿南陸相(58)の意見対立
            12時間を経過しても、意見まとまらず。
      11:02 長崎原爆投下
      23:30 鈴木首相、御前会議開催を奏請
      23:50 御前会議開始 宣言受諾に関し意見別れる[3]
8月10日 02:00 第1回目の聖断下る(直ちに受諾案採決)
      04:00 閣議で受諾案を決定
      06:45 ポツダム宣言受諾との公電を出し、質問を伝える
        夕刻  阿南陸相全将兵へラジオ訓示
8月11日       下村宏情報局総裁(70)新聞談話
      11:00 詔勅素案出来る
8月12日 00:45 海外放送局から連合国の反応を傍受
      03:00 外務省、海外放送情報を分析
      08:30 梅津参謀総長(63)、豊田軍令部長(60)、
            天皇に拝謁、ポツダム宣言受諾拒否を奏上
      10:00 安岡、終戦詔書原案を修正(1回目)
      10:30 東郷外相(63)、鈴木首相と相談
      11:00 鈴木首相、連合国の回答状況を天皇へ奏上
      11:30 米内海相、豊田軍令部長と大西次長(54)を叱責
      13:00 平沼枢密院議長(87)、鈴木首相へ宣言受諾反対の
            意見を述べる
      18:00 連合国から回答公電受領
            外務省内で回答を検討
8月13日 09:00 最高戦争指導会議(6名);回答に関する意見で揉める
      16;00 閣議;全会一致得ずして散会
        夜   安岡正篤、2回目の原案修正
8月14日 08:00 阿南陸相、鈴木首相へ面会;2日間の猶予を乞う
      08:40 鈴木首相、木戸内大臣拝謁;再度御前会議召集を願う
            B29によるポツダム宣言に関するビラ散布
      11:00 御前会議 阿南陸相、梅津参謀総長、豊田軍令部長は
            回答受諾・即時停戦案に反対意見
            天皇、第2回目の聖断を下す;明確な終戦決意
      13:00 臨時閣議:終戦詔書文案の検討
      16:00 文案を内々で安岡が最終吟味
      20:30 閣議、詔勅了承;天皇に奉呈
      23:00 大臣副書、渙發諸手続き完了
            ポツダム宣言受諾をスイスの加瀬公使へ伝える
            阿南陸相、鈴木首相へ再度面会、謝罪と暇乞い
8月15日 04:00 鈴木首相、私邸で国民神風隊に襲われる(私邸焼失)
      07:00 阿南陸相自刃:遺書「一死以て大罪を謝し奉る」
      11:30 枢密院本会議:鈴木首相の経過報告
      12:00 終戦詔勅の玉音放送
      15:50 閣僚辞表奉呈
      夕刻    鈴木首相談話
8月16日 大本営、全戦線に停戦の大命を発令

 8月10日未明の御聖断(1回目)でポツダム宣言受諾が決まったのに、国体護持と停戦時期などで再び政府内は揉め、8月14日午前の御聖断(2回目)でようやく決着を得たのである。陛下と鈴木貫太郎首相の強い終戦への意志があって、始めてそれが可能であったと思わざるを得ない。
 なお、半藤一利氏の作品[4]は、御前会議などの生々しい姿を描いて大変参考になる。

【参考】   
[1] 塩田潮、「安岡正篤-昭和の教祖」(新潮文庫、1994)
[2] 小堀桂一郎、「宰相 鈴木貫太郎」(文春文庫、1987)
[3] このメンバーは、鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外相、阿南惟茂陸相
    米内光政海相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部長である。
    この内、東郷外相と梅津参謀長がA級戦犯有罪となり、それぞれ禁固20年、
    無期懲役の判決を受けた。
[4] 半藤一利、「聖断-天皇と鈴木貫太郎」、(文春文庫、1988) 
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