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聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ ◆、ついに憧れの修道生活に(6)

2017-11-08 21:40:06 | 聖リカルド・パンプーリ
『聖なる医者 聖リカルド・パンプーリ』企画:デルコル神父、文:江藤きみえ、26

◆、ついに憧れの修道生活に(6)

 リカルド修士は、若い頃から常に体が弱く、そのためにフランシスコ会にもイエズス会にも断わられたほどでした。

 しかし、聖ヨハネ病院修道会の管区長は、その聖徳を考え、喜んで入会をゆるしたのでした。かれは全力をつくし健康をとりもどそうとしましたが、一九二九年の春から病気は急に悪化しました。昌上はしばらくの間空気のよいブレシア市の支部にまわし、それから故郷に療養のために帰しました。

 次の年の一月十日もう大丈夫と思って、ブレシアの修道院に帰り、療養していました。しかし四月十八日急に病が悪化して重体になりました。叔父たちはかれをもっとそば近くおくために管区長に願ってミラノの聖ヨゼフ病院に救急車で運びました。でもそこであと十三日しか生きながらえることができませんでした。医者たちが、どんなに手厚い介抱しても効果がなかったのです。

 叔母のマリアは、ずっと付き添っていました。かれのやせおとろえた姿を見るたびに、叔母はよく泣きました。でもリカルド修士は、かえって、ほほえみながらいいました、「泣かないでください。わたしは嬉しくてたまらないのです。神のみ旨を果したからです。死は天国への道です。あとちょっとで、その天国に入れるので、わたしは仕あわせです」と。

 一年前に、かれはシスターの姉さんに次のような手紙を書きました、「イエズスとマリアこそ、天と地の最も輝かしい二つの宝石です。
 これこそ神の傑作わたしたちのすべての善であり、堆上と永遠の幸福の泉とその充満です」と。

 イエズスとマリアこそ、かれの最大の愛でした。

 亡くなる一か月前に同じシスターの姉さんに次のように書きました、

「わたしは、神のいつくしみと、あわれみだけに、よりすがり、そこにだけ希塑をおかねばなりません」と。

 もはや痛苦がはげしい高熱の中からベレッタ神父に向かってこういいました、

「神父さま、わたしを神さまは、どのように歓迎してくださるでしょうか」と。そういいながら、空を眺めてことばを続けました、「わたしは、神さまをひじょうに愛しました。今もそうです、ひじょうに愛しています」と。

 かれは深い信仰の精神をもって最後のこ聖体を受けました。

快楽の是非  聖トマス・アクィナス

2017-11-08 21:39:23 | 格言・みことば
 ついで過度の快楽は徳の道を踏み外させる。確かに快楽にもまして、徳の道を逸脱させる常軌を失った増長に引き入れるものはないのである。というのも一つには、快楽の本質は貪欲であるから、ほんの少しの快楽を得るだけでも淫らな快楽の誘惑に陥ることになる。あたかもそれは乾燥した木材が微量の火で燃え上がるようなものである。もう一つには、快楽は欲望に満足す.るものではなく、むしろいったんそれを味わってしまえばますます渇きを覚えるものだからである..それゆえ人が過度の快楽を慎むことは徳の務めに属する。実際、過度の快楽が避けられれば、容易に徳の道に至ることができるのである。

 したがって、過度な快楽に身を委ねる者は精神が軟弱になる。そしてなにか困難な事態に対処したり、苦しい仕事に耐えたり、危険を冒さねばならない場合に、かれらは臆病になる。それゆえ戦争のさいに快楽は最も害となる。ウェゲティウスが『軍事論』のなかで「わが人生に快楽少なし、と悟っている者ほど死を恐れない」と述べているのはこのためである。

 最後に快楽に溺れる者たちはたいてい怠惰である。そして必要な仕事やなすべき勤めを怠り、ひたすら快楽にのみ心を傾けて、せっかく他の人びとによって集められていた物を散乱させてしまう。そこで困窮の淵に沈んでも慣れ親しんだ快楽を思いきることはできず、自己の欲望を満足させるために窃盗や強奪までも働くことになるのである。

 それゆえ場所柄からか、もしくはその他のどのような理由のためであろうとも、快楽があまりにも過剰なことは都市にとって有害この上もないのである。

 ただし、人間の共同生活において精神を刷新させるためのいわば薬味のようなものとして、適当な量の快楽を得ることは必要である。セネカが『心の平安について セレヌスに与う』のなかで、「心に休養を与うべし」と語っているように、ほどよく快楽を用いることは精神にとって良いことなので、休息をより良くよりうまくとる人は元気を回復する。しかし煮物をするときに良い味になるように用いる塩が多すぎると、かえって味は損なわれる。さらにはまた、もし目的に充てられゐものが目的そのものとして求められるようなことになれば、自然の秩序は崩壊し消滅することになる。鍛冶屋が工具を、車大工が鋸を、医者が薬を求めるように、それらのものはかれらのなすべき目的に向かって秩序づけられているのである。

 さて王がかれの統治する都市において心がけねばならないことは、徳にしたがって生活することである。その他のものはしかし、それが目的に充てられたものとして、そしてまた目的の追求に必要なものである限りにおいて、用いられるべきである。しかるに、このことは過度の快楽に身を持ち崩す人には当てはまらない。というのは、このような快楽はすでに述べた目的に充てられないどころか、かえってむしろそれ自体が目的として追求されているように思われるからである。そして、聖書に証されているように、目的に適うこととして、「だからこそ目の前にある良いものを楽しまん」〔「知恵の書」2:6〕と記されている言葉や、あるいはひき続き記されている、「青春の情熱を燃やしこの世のものをむさぼろう」(同)とかの言葉を見当違いにも吐く不信心な者どもはこの方法を利用しようとしているだけのように思われる。青春期にままあり、そして当然のことに聖書でも非難されているように、肉体的な快楽の不道徳な使用がまさにここにあるのである。

聖トマス・アクィナス 『君主の統治について』

聖ゴデフリド司教    St. Godefridus E.

2017-11-08 21:38:10 | 聖人伝
聖ゴデフリド司教    St. Godefridus E.     記念日 11月8日


 洗礼者聖ヨハネ誕生の次第はルカ聖福音書に詳かであるから、ここに贅するまでもないが、、聖ゴデフリドも同様に、長い間子なきを憂えた両親が、涙の中に熱烈な願掛けをしてようように恵まれた天主の申し子であった。その上聖寵に充ち満ちた点でも頗る洗者聖ヨハネに似通い、天主が特別に彼を寵愛加護し給う徴は既に幼少の頃から認められたという。
 それはさておき彼は1070年フランスのソアソンに生まれ、学齢に達するやベネディクト会の有名なサン・カンタン修道院に預けられて教育を受ける事となったが、一度主と共に在る平安と幸福とを味わったゴデフリドは、いつまでも之を失いたくないものと思い、父母の同意を得て修道者となり、全く我が身を天主に献げた。
 25歳を迎えるや、学徳共に秀でた彼はいよいよ叙階の秘蹟を受けて司祭となり、次いで長上の命令によって病者及び修道院執事の役を勤めたが、その間に手腕を認められて今度はノージャンのベネディクト大修道院の院長に選ばれるに至った。
 名こそ大修道院と呼ばれるものの、当時そこには僅か6人の修道者した居なかった。そしてその一事からも察せられる信仰に冷淡な時代精神の感化を受けて、その人々の修道に対する熱情も余程衰えているようであった。そこでゴデフリドは之が刷新を思い立ち、熱心に祈り、厳しい苦行をし、率先して改革の実を挙げようと努めた。
 その善き影響は思いの外早く現れ。弛緩頽廃していた修道者の精神と意気とは、間もなく見違えるように旺盛となった。それはいわば枯れ木に花を咲かせたようなものであった。人々はこの奇蹟的革新を成就したゴデフリドに舌を捲いて感嘆したが、その成功は彼が口を以ての訓戒よりも、身を以ての実践によって勝ち得たものであった。
 ゴデフリドの名声は今や天下に隠れもなかった。1104年ノージャンに程近いアミアン市の司教が没するや、同教区の聖職者信徒は一致してその後任に彼を推す事とし、修道院まで迎えに来り、行列歓呼して之をアミアン司教館に送り込んだ。彼は寧ろかような栄職に就くことを望まなかったが、天主の思し召しと認めて之を受諾し、その重任を辱めざらん為熱心に主の御助けを求め、さていよいよアミアン市に乗り込む時は裸足で歩行したという。謙遜の状、以て見るべきである。
 司教となってからも彼は決して思い上がらず、峻厳極まる克己修道の生活を続けた。そして大修院長にも心がけた貧民病者救済等の慈善事業に、今は全力を挙げて当たった。1106年大火災があって全市殆ど灰燼に帰した時など、彼はどれほど多くの人を救い、どれほど多くの人に恩恵を施したか知れない。それにも拘わらずアミアン市民は、後日この恩人に報いるに仇を以てする非道を敢えてした。それは彼等と権勢ある公爵インジェルラムとの間に紛争が起こった時の事である。ゴデフリドがその調停に立ったが、正義を重んずる彼は市民側の無法な要求にどうしても同意する事が出来なかった。すると市民は昔日の恩も忘れ果て、彼に様々の侮辱讒言を加え、之を非難攻撃して遂に一時司教が町を去らねばならぬまでに苦しめたのである。
 1114年亡命のゴデフリドが身を寄せたのは、シャルトルーズの修道院であった。彼はそこに隠れて忘恩のアミアン市民の上に主の御祝福を祈り、その罪を償う為苦行を怠らなかった。そして一方かような事態を引き起こしたのは自分の不徳の致す所と、司教辞任を願い出たが、ボーヴェイの大会議に列席した司教達は之を却下し、却って今一度アミアン市に帰るよう彼に勧めた。そこでゴデフリドも気を取り直し、身を犠牲とする覚悟で帰任したが、又種々の苦しみに逢うこと約一年、1115年11月8日、平和にして尊い大往生を遂げた。
 ここに於いて司教に辛かったアミアン市民も漸く目が覚め、深くその罪を後悔するに至ったが、正義なる天主の懲らしめの鞭は後年彼等の上に下らずにはいなかった。それは今なお歴史にも書き残されているアミアン市の様々な不幸災厄に外ならない。

教訓

 我が身に仇なすアミアン市民の為に、却ってその罪の赦されん事を祈り、且つ之が償いの苦行を献げた聖ゴデフリドの寛大さは、十字架上から敵の為に祈られた聖主に似て、飽くまでも人の心を動かさずには已まない。我等も及ばずながら聖人に倣い仇に報ゆるに恩を以てするよう努めよう。そうすれば相手の「頭に燃炭を積んで」その改心を促し得ると共に、「我等が人に赦す如く我等の罪を赦し給え」という主祷文の聖句により。わが罪を赦される恩寵をも確実に得る事が出来るのである。