『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年
8 黄土文明のあけぽの
5 ロンシャン文化
いっぼう中国では、殷墟の発掘がはじめられた翌年にあたる一九二九年に、その発掘のあいまに、山東省の方面へ調査におもむいたのが、わかい考古学者の呉金鼎であった。
済南から東へ五○キロばかり行くと、ロンシャン(竜山)という町がある。
その南方の城子崖というところで、呉金鼎は新石器時代の遺跡を見つけた。
ここからは、黒色に美しくみがきあげられた薄手の土器が出土して、彼の注意をひいた。
それまで知られていた彩文土器とは、まったく違った様式、製作のものであった。
そこで中国の考古学界は一九三〇年から三一年にかけ、この城子崖にとりくんだ。
殷墟の発掘において主任となっていた李済、および梁思永は、ここでも主宰をつとめた。
城子崖の遺跡は、二層をなしている。上層は青銅器をふくんで、周代のものと推定された。
下層が石器時代の遺跡である。すでにひろい集落をいとなみ、竪穴の住居がならんでいた。
住居は炉を中心として、その床は石灰によって固められている。湿度をふせぐために違いなかった。
壁面にもまた石灰で固めたあとがあった。
住居のつくりかた、そして集落のひろさ、いずれもヤンシャオ期のものよりは進歩していた。それだけではない。
集落のまわりには、東西三九〇メートル、南北四五〇メートルの規模に、高さ六メートルにおよぶ土壁がきずかれていた。
黄土をつき固めてつくったもの(板築)である。
これが石器時代につくられたとすれば驚くべきことに違いない。
ただし学者によっては、のちの戦国時代に補修がくわえられているという説を立てる者もあって、その点では疑問がのこされている。
その住民たちは農耕をいとなむかたわら、牧畜もおこなった。
もっとも牧畜は、ヤンシャオ期にもおこなわれていたことがわかっている。
それが城子崖の場合には、豚や犬のほか、馬や牛の骨も数多くあらわれていることから、牛馬の使用もさかんになっていたことが推定されたのである。
石器や骨角器もいっそう精巧になっていた。
しかも城子崖の遺跡をもっとも特徴づけるものは、やはり黒色の土器であった。
彩文土器が彩陶ともよばれるのに対して、これは黒陶と名づけられた。色彩に富む華麗さはないけれども、黒色の光沢はべつの美しさをもっている。器形をととのえるのには、ろくろを用い、彩陶にくらべると、はるかに高温で焼いた。
そこで薄手ながら、硬質のものができあがったのである。
彩陶よりも、ずっと進んだ技術によるものと考えられるであろう。
こうした黒陶をもった文化は、その最初に発見された地名をとって、ロンシャン文化とよばれる。
そしてロンシャン文化の遺跡、すなわち黒陶を出土する遺跡は、こののちぞくぞくと発見された。
しかし黒陶と彩陶とが、どのような関係にあったものか、この段階ではわからない。
やがて殷墟の発掘が、周辺のにまでひろげられ、彩陶や黒陶を出土する遺跡も見つかった。
その出土する層をしらべると、彩陶が下で、黒陶が上になっていた。
やはり黒陶は、彩陶のあとにつくられたものらしい。それでも相互の正確な連関は、いぜんとして疑問のままであった。
さらに中国各地の発掘がすすんだ。その結果をみると、彩陶をもったヤンシャオ文化は、主として河南省から西方の黄土台地にひろがっている。黒陶をもったロンシャン文化は、山東省から河南省を中心に、主として東方の平原に分布している。
そうなると、黒陶と彩陶とは、それぞれ源流が別にあって、東西に対立したものではないかとも考えられるにいたった。
ただし彩陶にせよ、黒陶にせよ、これらはいわば特製の土器である。ヤンシャオ人もロンシャン人も、日常の煮たきには、灰色をした粗製の土器を用いていた。
鬲(れき)や鼎(てい)などの三足土器はこうした灰色の粗製土器としてつくられている。
しかものちの青銅器時代(殷代)になると、土器としては、もっぱら灰色のもの、すなわち灰陶(かいとう)が用いられたのである。
彩陶と黒陶、これにともなう粗製の土器、そして後代の灰陶は、それぞれどのような関係にあるのか。
土器だけの問題にしても、解明しなければならぬことはあまりにも多い。
またヤンシャオ人が、いまの中国人の祖型にあたることはすでに推定されている。
ロンシャン人はどうなのか。山東省の一角(両城)では、ロンシャン文化の早期と考えられる遺跡が見つかった。
しかも五十あまりの墓が発見され、そのなかから三十余体の人骨も出た。その頭骨は計測のため南京へはこばれた。
しかるに、この場合も日中の戦争によって災禍をこうむってしまったのである。
黒陶の文化は大きな疑問をのこしたまま、戦後をむかえた。
8 黄土文明のあけぽの
5 ロンシャン文化
いっぼう中国では、殷墟の発掘がはじめられた翌年にあたる一九二九年に、その発掘のあいまに、山東省の方面へ調査におもむいたのが、わかい考古学者の呉金鼎であった。
済南から東へ五○キロばかり行くと、ロンシャン(竜山)という町がある。
その南方の城子崖というところで、呉金鼎は新石器時代の遺跡を見つけた。
ここからは、黒色に美しくみがきあげられた薄手の土器が出土して、彼の注意をひいた。
それまで知られていた彩文土器とは、まったく違った様式、製作のものであった。
そこで中国の考古学界は一九三〇年から三一年にかけ、この城子崖にとりくんだ。
殷墟の発掘において主任となっていた李済、および梁思永は、ここでも主宰をつとめた。
城子崖の遺跡は、二層をなしている。上層は青銅器をふくんで、周代のものと推定された。
下層が石器時代の遺跡である。すでにひろい集落をいとなみ、竪穴の住居がならんでいた。
住居は炉を中心として、その床は石灰によって固められている。湿度をふせぐために違いなかった。
壁面にもまた石灰で固めたあとがあった。
住居のつくりかた、そして集落のひろさ、いずれもヤンシャオ期のものよりは進歩していた。それだけではない。
集落のまわりには、東西三九〇メートル、南北四五〇メートルの規模に、高さ六メートルにおよぶ土壁がきずかれていた。
黄土をつき固めてつくったもの(板築)である。
これが石器時代につくられたとすれば驚くべきことに違いない。
ただし学者によっては、のちの戦国時代に補修がくわえられているという説を立てる者もあって、その点では疑問がのこされている。
その住民たちは農耕をいとなむかたわら、牧畜もおこなった。
もっとも牧畜は、ヤンシャオ期にもおこなわれていたことがわかっている。
それが城子崖の場合には、豚や犬のほか、馬や牛の骨も数多くあらわれていることから、牛馬の使用もさかんになっていたことが推定されたのである。
石器や骨角器もいっそう精巧になっていた。
しかも城子崖の遺跡をもっとも特徴づけるものは、やはり黒色の土器であった。
彩文土器が彩陶ともよばれるのに対して、これは黒陶と名づけられた。色彩に富む華麗さはないけれども、黒色の光沢はべつの美しさをもっている。器形をととのえるのには、ろくろを用い、彩陶にくらべると、はるかに高温で焼いた。
そこで薄手ながら、硬質のものができあがったのである。
彩陶よりも、ずっと進んだ技術によるものと考えられるであろう。
こうした黒陶をもった文化は、その最初に発見された地名をとって、ロンシャン文化とよばれる。
そしてロンシャン文化の遺跡、すなわち黒陶を出土する遺跡は、こののちぞくぞくと発見された。
しかし黒陶と彩陶とが、どのような関係にあったものか、この段階ではわからない。
やがて殷墟の発掘が、周辺のにまでひろげられ、彩陶や黒陶を出土する遺跡も見つかった。
その出土する層をしらべると、彩陶が下で、黒陶が上になっていた。
やはり黒陶は、彩陶のあとにつくられたものらしい。それでも相互の正確な連関は、いぜんとして疑問のままであった。
さらに中国各地の発掘がすすんだ。その結果をみると、彩陶をもったヤンシャオ文化は、主として河南省から西方の黄土台地にひろがっている。黒陶をもったロンシャン文化は、山東省から河南省を中心に、主として東方の平原に分布している。
そうなると、黒陶と彩陶とは、それぞれ源流が別にあって、東西に対立したものではないかとも考えられるにいたった。
ただし彩陶にせよ、黒陶にせよ、これらはいわば特製の土器である。ヤンシャオ人もロンシャン人も、日常の煮たきには、灰色をした粗製の土器を用いていた。
鬲(れき)や鼎(てい)などの三足土器はこうした灰色の粗製土器としてつくられている。
しかものちの青銅器時代(殷代)になると、土器としては、もっぱら灰色のもの、すなわち灰陶(かいとう)が用いられたのである。
彩陶と黒陶、これにともなう粗製の土器、そして後代の灰陶は、それぞれどのような関係にあるのか。
土器だけの問題にしても、解明しなければならぬことはあまりにも多い。
またヤンシャオ人が、いまの中国人の祖型にあたることはすでに推定されている。
ロンシャン人はどうなのか。山東省の一角(両城)では、ロンシャン文化の早期と考えられる遺跡が見つかった。
しかも五十あまりの墓が発見され、そのなかから三十余体の人骨も出た。その頭骨は計測のため南京へはこばれた。
しかるに、この場合も日中の戦争によって災禍をこうむってしまったのである。
黒陶の文化は大きな疑問をのこしたまま、戦後をむかえた。