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6-2 デロス同盟とアテネの全盛時代

2018-02-24 03:06:12 | 世界史
『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年

6 ギリシアを二分した大戦争 ―ペロポネソス戦争―

2 デロス同盟とアテネの全盛時代

 パウサニアスをビザンティオンから追ったギリシアの連合艦隊の人々は、かわりにアテネ人のキモンと、「正義の人」といわれたアリスティデスを指導者に選んだ。
 アリスティデスは、ペルシアの支配を脱して独立をとりかえしたイオエアやアイオリスのギリシア諸市、サモス、キオス、レスボスなどによびかけて、ペルシアに対抗する海事同盟をつくることを提唱した。
 同盟に加わった諸市は艦船を出しうるものは艦船を、艦船を出せぬ市は金を出して連合艦隊を維持し、ペルシアに備えようというものだった。
 同盟の本部はデロス島のアポロン神殿におかれることになったので、「デロス同盟」とよばれた。
 供出された金は、デロス島のアポロン神殿に保管され、それを管理する十人の役人はアテネ市から出された。
 アテネはこの金を連合艦隊の維持ばかりでなく、アテネ市や外港の防備工事のために使った。
 後にはさらに、市の美観をますためにこの金を使った。
 ことに紀元前四五四年に、デロス島は海賊に襲われるおそれがあるといって、同盟の金をアテネのアクロポリスに移してから、アテネはいっそうこの金を、気ままに、自分の市のために使うようになった。
 他方同盟諸市は、艦船を供出すれば乗組員ももちろん出さねばならず、そうすれば実戦に参加することになるので、金だけですむならそのほうが良いと、船を作らなくなり、金だけを出すようになった。
 そのため艦船を出すのは、ほとんどアテネだけになってしまった。
 アテネは時がたつにつれて、同盟の分担金の割り当てを増額した。
 これをきらって同盟を脱したいという市も出てきたが、アテネはそういう市には艦船を差し向けた。
 艦船を持たないようになっていた諸市は、アテネ海軍と戦うことはできず、やむなくアテネの命に服してしまうのだった。
 アテネの民主政は、このころまでにしだいにいっそう徹底した。
 ほとんどあらゆる役人は希望者のなかから抽選で選ばれるようになった。
 そのうえ、役人には目当が出されるようになったので、無給のころには他に収入のある金持ちでなければ、役人になれなかったが、どんな貧しい者もなれるようになった。
 アテネはデロス同盟諸市の裁判権もとりあげて、裁判はみなアテネでするようになった。
 そのころアテネの裁判はおおぜいの陪審官が処理する民衆裁判だったが、その陪審官にも日当が出た。
 また民会に出席した場合にも日当が出た。
 こういう費用にも、デロス同盟の金が使われていた。
 つまり、同盟はアテネの民主政を徹底させる経済的基礎にもなっていたのだった。
 アテネはデロス同盟の盟主になることによって、全盛期に達した。
 アテネはエーゲ海第一の消費地になった。
 また工業の中心地にもなった。
 アテネの繁栄をしたって、ギリシアの各地からたくさんの外国人たちが、アテネに集まって来た。
 これらの外国人たちは土地を所有する権利がなかったので、農業はできず、もっぱら商工業に従事した。
 彼らのなかには学者や芸術家たちもいた。さきにあげたプロタゴラスやゴルギアスなどのソフィストや、歴史家のヘロドトス、詩人のシモニデス、画家のポリュグノトス、医者のヒッポクラテスなどをはじめ、当時の名のある芸術家や学者で、アテネに一度も来なかった人はなかったほどだった。
 これらの人々がアテネの学問や芸術を刺激し、アテネの文化は栄えた。
 アテネには劇が発達し、アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスの三大悲劇詩人やアリストファネスのような喜劇詩人がつぎつぎに出、傑作をどしどし発表し、上演した。


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