『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年
4 ペルシア戦争
4 テルモピュレの戦い
紀元前四八〇年の春ペルシアの大軍はサルディスを出発し、海陸をギリシアに向けて進軍した(第三回ペルシア戦争)。
船橋のかけられたアビュードスまで来ると、クセルクセスは全軍を閲兵した。
インド、アラビア、エチオピアなど、ペルシア帝国の領土の各地から集まった大軍は、人種も服装もさまざまたった。
へロドトスの伝えるところによると、ペルシア陸軍の総数は百七十万あったという。
彼らは、船橋を渡るのに休みなしに、六日六夜かかったという。艦船は三千隻あったという。
陸軍は、ヨーロッパに渡ってからトラキアなどでさらに徴募(ちょうぼ)された。
これに輸送兵などを加えると、海陸総計五百万を越えたとヘロドトスは伝えている。
しかし、これは実数より、かなり誇張された数と考えられている。
これは実数というよりも、実感的数で、ギリシア人の目に、ペルシア軍は雲霞(うんか)のような大群に見えたために、このような数が伝えられたものと思われる。
とにかくペルシア軍がたいへんな大軍だったことは、確かである。
ギリシア連合軍はペルシア軍を迎えうつために、マケドニアからテッサリアヘの道にあたるテンペまで出て来た。
ギリシアの重装歩兵はおよそ一万だった。
ところがマケドニアのアレクサンドロスから使いが来て、ペルシア軍はたいへんな数で、とうていテンペなどで防ぐことはできないから撤退したほうがよいと忠告した。
当時マケドニアはペルシアに従っていたが、ギリシア軍に好意を持っていたのだった。
それにテッサリアにはいる道はほかにもあるから、ペルシア軍はそこを通るかもしれないといい出すものもあり、ギリシア連合軍は数日で、テンペを引きあげた。
ギリシア軍はつぎの守備点をテルモピュレにきめた。
そこは北部ギリシアから中部ギリシアへの唯一の通路だった。
高い山が海にせまっているので、戦車が一台やっと通れるような狭い道があるだけだった。
「テルモピュレ」というのはギリシア語で「熱い門」という意味だが、道の途中に温泉があり、それが海にそそぎこんでいたためそう呼ばれていたのだった。守備するには絶好の天険だった。
この年(紀元前四八〇年)はオリンピック競技の年だったので、それがすんだら本格的に兵を出そうと、ギリシア諸市は考え、テルモピュレは数千の先遣隊だけが守っていた。
総指揮はスパルタのレオニダス王がしていた。
ギリシア兵は広いところに出て来て、ペルシア軍に戦いをしかけ、ペルシア軍が近づくと隘路(あいろ)に逃げこむ。
これを追ってペルシア軍が隘路にはいりこむと、ギリシア兵は急に向きをかえて彼らに損害を与えた。
ペルシア軍もこの隘路では、その数にものをいわすことができなかった。
数日かかってもここを突破できなかった。
ところがたまたま土人のなかに、ペルシア軍にひそかに山越えの間道(かんどう)を教えたものがあった。
ギリシア軍はそこに少数の守備兵を置いてあったが、まさか山中のけわしい道を敵兵が通ることはあるまいと油断していた。
そこへ突然ペルシア兵が現われたので、彼らは驚きあわてたが、ペルシア兵は彼らを無視して、ギリシア軍の本隊のほうへ降りていった。
レオニダスは、間道を敵に知られたからには、隘路も守りきれぬことをさとり、三百のスパルタ兵と他の小数のテーベ人などを残し、ほかのギリシア軍はみな本国に帰らせた。
ペルシアの弓兵はどっと矢を射て、攻めかけてきた。矢は空いっぱいにみちて、そのため、太陽もくらくなったほどだと伝えられている。
スパルタ兵は槍が折れれば刀で戦い、刀を失えばあいくちや、手や歯でペルシア軍と戦い、全力をつくして戦って、ここで全員戦死した。
ペルシア軍は後方から鞭でかり立てられて、隘路に殺到したが、そこでは決死のスパルタ兵が待っていたため、混乱して、味方に踏み殺されるものや、海に落ちて死ぬ者など続出し、二万人もの戦死者を出したという。
そのなかにはクセルクセスの二兄弟もいた。
全員戦死したスパルタ兵の壮烈な戦いぶりは、のちのちまでの語り草になった。
のちに、テルモピュレには、彼らのために墓がつくられ、ケオス島生まれの有名な詩人シモニデス(紀元前五五六~四六八年)がつくった墓碑銘が刻まれた。
旅人よ
ラケダイモン(スパルタ)の人々に
行きて伝えよ
我ら命を守りて
ここに討ち死にせリと
ペルシア海軍は、マグネシアの海岸で四日間暴風にあい、四百隻以上の船が沈んだが、大多数は無事にテルモピュレの東の、狭い海峡のアルテミシオンについた。
ここにはギリシア海軍が待期していた。海戦もテルモピュレの戦いと同じころに行なわれた。
ギリシア海軍は苦戦し、アテネ艦隊などは百二十七隻の半数を失ったほどだった。
しかしペルシア艦隊は、またここでも大雷雨にあって損害をうけた。
ギリシア艦隊は、テルモピュレが落ちたときいて、アテネに向かって撤退した。
4 ペルシア戦争
4 テルモピュレの戦い
紀元前四八〇年の春ペルシアの大軍はサルディスを出発し、海陸をギリシアに向けて進軍した(第三回ペルシア戦争)。
船橋のかけられたアビュードスまで来ると、クセルクセスは全軍を閲兵した。
インド、アラビア、エチオピアなど、ペルシア帝国の領土の各地から集まった大軍は、人種も服装もさまざまたった。
へロドトスの伝えるところによると、ペルシア陸軍の総数は百七十万あったという。
彼らは、船橋を渡るのに休みなしに、六日六夜かかったという。艦船は三千隻あったという。
陸軍は、ヨーロッパに渡ってからトラキアなどでさらに徴募(ちょうぼ)された。
これに輸送兵などを加えると、海陸総計五百万を越えたとヘロドトスは伝えている。
しかし、これは実数より、かなり誇張された数と考えられている。
これは実数というよりも、実感的数で、ギリシア人の目に、ペルシア軍は雲霞(うんか)のような大群に見えたために、このような数が伝えられたものと思われる。
とにかくペルシア軍がたいへんな大軍だったことは、確かである。
ギリシア連合軍はペルシア軍を迎えうつために、マケドニアからテッサリアヘの道にあたるテンペまで出て来た。
ギリシアの重装歩兵はおよそ一万だった。
ところがマケドニアのアレクサンドロスから使いが来て、ペルシア軍はたいへんな数で、とうていテンペなどで防ぐことはできないから撤退したほうがよいと忠告した。
当時マケドニアはペルシアに従っていたが、ギリシア軍に好意を持っていたのだった。
それにテッサリアにはいる道はほかにもあるから、ペルシア軍はそこを通るかもしれないといい出すものもあり、ギリシア連合軍は数日で、テンペを引きあげた。
ギリシア軍はつぎの守備点をテルモピュレにきめた。
そこは北部ギリシアから中部ギリシアへの唯一の通路だった。
高い山が海にせまっているので、戦車が一台やっと通れるような狭い道があるだけだった。
「テルモピュレ」というのはギリシア語で「熱い門」という意味だが、道の途中に温泉があり、それが海にそそぎこんでいたためそう呼ばれていたのだった。守備するには絶好の天険だった。
この年(紀元前四八〇年)はオリンピック競技の年だったので、それがすんだら本格的に兵を出そうと、ギリシア諸市は考え、テルモピュレは数千の先遣隊だけが守っていた。
総指揮はスパルタのレオニダス王がしていた。
ギリシア兵は広いところに出て来て、ペルシア軍に戦いをしかけ、ペルシア軍が近づくと隘路(あいろ)に逃げこむ。
これを追ってペルシア軍が隘路にはいりこむと、ギリシア兵は急に向きをかえて彼らに損害を与えた。
ペルシア軍もこの隘路では、その数にものをいわすことができなかった。
数日かかってもここを突破できなかった。
ところがたまたま土人のなかに、ペルシア軍にひそかに山越えの間道(かんどう)を教えたものがあった。
ギリシア軍はそこに少数の守備兵を置いてあったが、まさか山中のけわしい道を敵兵が通ることはあるまいと油断していた。
そこへ突然ペルシア兵が現われたので、彼らは驚きあわてたが、ペルシア兵は彼らを無視して、ギリシア軍の本隊のほうへ降りていった。
レオニダスは、間道を敵に知られたからには、隘路も守りきれぬことをさとり、三百のスパルタ兵と他の小数のテーベ人などを残し、ほかのギリシア軍はみな本国に帰らせた。
ペルシアの弓兵はどっと矢を射て、攻めかけてきた。矢は空いっぱいにみちて、そのため、太陽もくらくなったほどだと伝えられている。
スパルタ兵は槍が折れれば刀で戦い、刀を失えばあいくちや、手や歯でペルシア軍と戦い、全力をつくして戦って、ここで全員戦死した。
ペルシア軍は後方から鞭でかり立てられて、隘路に殺到したが、そこでは決死のスパルタ兵が待っていたため、混乱して、味方に踏み殺されるものや、海に落ちて死ぬ者など続出し、二万人もの戦死者を出したという。
そのなかにはクセルクセスの二兄弟もいた。
全員戦死したスパルタ兵の壮烈な戦いぶりは、のちのちまでの語り草になった。
のちに、テルモピュレには、彼らのために墓がつくられ、ケオス島生まれの有名な詩人シモニデス(紀元前五五六~四六八年)がつくった墓碑銘が刻まれた。
旅人よ
ラケダイモン(スパルタ)の人々に
行きて伝えよ
我ら命を守りて
ここに討ち死にせリと
ペルシア海軍は、マグネシアの海岸で四日間暴風にあい、四百隻以上の船が沈んだが、大多数は無事にテルモピュレの東の、狭い海峡のアルテミシオンについた。
ここにはギリシア海軍が待期していた。海戦もテルモピュレの戦いと同じころに行なわれた。
ギリシア海軍は苦戦し、アテネ艦隊などは百二十七隻の半数を失ったほどだった。
しかしペルシア艦隊は、またここでも大雷雨にあって損害をうけた。
ギリシア艦隊は、テルモピュレが落ちたときいて、アテネに向かって撤退した。