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3-4 スパルタ教育

2018-02-12 21:54:30 | 世界史
『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年

3 尚武の国

4 スパルタ教育

 彼が定めたといわれる制度のなかで、もっとも有名なのが、スパルタの教育制度だった。
 それは狐に食い殺されても、根(ね)をあげないような少年を養成する厳しい教育制度だった。
 こういう厳しい教育制度で、強い青少年をつくりだし、スパルタを強国にしようというのが目的だった。
 このためにスパルタは、ギリシアの他のポリスからずぬけて強くなることができた。
 「うぶ湯から墓場まで」などという言葉があるが、スパルタの教育は、生まれない前からはじまっているともいえた。
 つまり優生的な考慮までされていた。
 その一つは、少女の肉体的鍛錬だった。
 ギリシアの他のポリス、ことにアテネなどでは、女は家庭に引きこもって、人前に出ぬほうがよいとされていた。
 それがスパルタでは、女の体育も奨励され、競走、すもう、円盤投げなどをした。
 またお祭りの際には青年といっしょになって裸体で行列に加わり、青年が競技に失敗したりすると、品よくではあったが、からかうことさえした。
 また青年たちの前で歌ったり、踊ったりするのも平気だった。
 こういうことは他のポリスのつつましやかな女性たちには考えられないことだった。
 こんなだったので、スパルタ女は亭主を尻に敷くと評判だった。
 テルモビュレで戦死したレオニダス王の后のゴルゴに、ある外国人が、「男を支配しているのはあなたがたスパルタの女だけですね」といった。
 すると、コルゴは「そのかわり、本当の男を生むのも、私たちスパルタ女だけです」と答えたという。
 立派な男を生むために、からだも心も強い女性をつくることが、考慮されていたわけである。
 そのうえに、優生的には、さらに極端な話まで伝えられている。
 スパルタでは姦通はけっしてないということになっていた。ある人がスパルタ人のゲラダスという者に「スパルタではもし姦通者が出たら、どういう罰をあたえるのですか」ときいた。
 スパルタ人は「わが国には姦通者はいないから姦通処罰法もない」と答えていたが、「それでも、もし万一いたら」としつこくきかれ、「タユゲトス山の向こうから山越しにエウロタス川の水を飲むような牛を罰として納めさせます」と答えた。
 質問者はあきれて、「そんな牛がいるはずがない」というと、スパルタ人は「あなたは無いものの話をしているのではないのですか」といったという。
 このようにスパルタでは姦通はないということになっていた。しかし本当になかったわけではない。
 アテネのアルキビアデスという美青年は、スパルタに亡命したとき、その王妃に子供を生ませている。
 実際にはそんな例があるのに、なぜ姦通はスパルタではないということになっていたのであろうか。
 夫が認めて、妻を他の男と寝させれば、それは姦通ではないと考えられていたのである。

 しかしなぜ夫がそんなことを認めたのだろうか。
 それは優生的な考慮からで、夫が老齢の場合とか病弱な場合には、よい子供を得るために、夫は自ら進んで立派な男をさがすのだった。
 こうした極端なことが伝えられるほど優生的な考慮をして、子供が生まれる。
 すると赤ん坊は長老が立ちあってよくからだのすみずみまで調べられる。
 そののちぶどう酒でうぶ湯をつかわせる。
 てんかん持ちのような弱い子供は、ぶどう酒のうぶ湯ではひきつけたといわれる。
 そんな弱い子供や、五体の不満足な子供などは、タユゲトス山に捨てられた。
 この話はあまりに無惨に思われるので、捨て子というのは子供を捨てる態にして、土の上に置き、物を産み育てる大地の力を吸いとらせるおまじないだったのだと、この風習を人道的に解釈しようとする学者もある。
 しかし一種の産児制限として、捨て子の風習は、古代ギリシアでは一般的に行なわれていたことで、何もスパルタのものばかり特別視することもないように思う。
 とにかく丈夫で立派な市民を得ることに、スパルタは特に熱心だったのである。
 誕生とともにはじまった検査に合格した男の子は、六歳になると、集団生活をはじめる。
 彼らは着る物は、夏も冬もマント一枚だけだった。ギリシアは温暖な地中海地方にあるが、冬はなかなか寒く、雪も降る。
 また寝具もこれといってなく、エウロタス川の岸に生える水草の穂をつんで、その中に寝た。
 それも「手でつみとって」とわざわざいわれるところを見ると、すすきなどのように手を切りやすい草だったのかもしれない。
 また食べ物は、不足がちにしか与えられなかった。
 プルタークは、これは少年たちが恰好よく、すらりと育つためと考えているが、足りない食べ物は、そっと盗んで食べることが当然と考えられていたところをみると、戦争にそなえるためだったらしい。
 戦場ではわずかの食糧でがまんしなければならないことも多いから、ふだんからそれに慣れさせ、また戦争中には掠奪して、不足を補うことは当然だと考えられていたのである。
 しかし盗みの現場がみつかることはひじょうな恥であった。
 そのため、はじめに書いたように盗みがみつかりそうになり、狐を死ぬまで押えていたような少年が出たのであった。
 少年たちの集団生活では読み書きは、日常生活のために必要な程度だけしか教えられなかった。
 彼らは肉体鍛錬、軍事教練にもっぱら従事したのだった。
 年上のものは年少者の世話をし、年少者の失敗は、年上のものの責任だった。
 そのかわり、年少者は年上のものの命令には絶対服従だった。

 またムダ口はいっさい禁止で、言葉はなるべく簡単なことが大切とされた。
 こういう教育は、すべて強い兵士を養成することが目的だった。
 どんな苦しい戦場生活にも堪えられるように、ふだんの生活がきびしいものにされていた。
 そのためスパルタ人には、戦場の生活のほうがずっと楽で、戦争になると、鍛錬休みのようにのんびりできたほどだった。
 年上のものは尊重されたが、息子をもたない老人はべつだった。
 あるとき人々の集まっているところに、一人の老人がはいって来たが、だれも席を譲ろうとしなかった。
 老人はある若い男の前に立って、「席を譲れ」といった。
 しかし男は立たず、「あなたが、わたしに席をゆずるような子供を持っていれば」と答えたという。
 スパルタ教育について伝えられている話は多いが、どれもそれは「強兵」を目的としていたことがわかる。
 この「強兵」ということは、もちろん外の他のポリスに対して、スパルタが優位に立とうという願いからではあったが、同時にスパルタのなりたちと関係があり、「強兵」は内に対しても必要だったのである。
 先に書いたように、スパルタ人は外から来て、先住民たちを征服し、彼らを国有奴隷(ヘイロタイ)にした。
 この被征服民の数のほうが、征服者のスパルタ人より圧倒的に多かった。
 そしてヘイロタイたちは、おりさえあれば反乱を起こして、スパルタ人の支配を脱したいと考えていた。
 したがって戦争はひじょうに危険だった。敵が攻めて来たとき、ヘイロタイが反乱を起こせば、腹背(ふくはい)に敵をうけるおそれがあった。
 またスパルタ人の外征中は、ヘイロタイの反乱する好機だった。
 そのため、短期決戦が必要だったし、スパルタ人は無敵だという評判が必要だった。
 こうして「強兵」が、スパルタが第一に目的とすることになったのだった。
 それでも、戦争があたりまえで、平和は戦争の一時休みだと考えられていたようなギリシアでは、戦争は避けがたかった。
 したがって外征もたびたびだった。男子の出征中は、女子だけでもヘイロタイをおさえなければならなかった。
 スパルタ女が心身ともに強い必要は、優生問題ばかりではなかった。国防問題でもあったのである。
 これに反して、ヘイロタイはなるべく弱く、いくじなくしておく必要があった。
 ヘイロタイのなかに、からだが強く、気も強い者が出ると、彼は殺されたが、そればかりでなく、その主人であるスパルタ人も罰せられた。
 またヘイロタイがその身分を忘れないように、鞭打ちされる年中行事もあった。
 ひじょうに極端な「クリュプテイア」という制度も伝えられている。
 これは青年たちの武者修行のようなもので、一定の時期に青年たちは集団を作って、国の中をめぐり歩かせられる。
 彼らは昼は身をかくし、夜歩くのだが、その際行きあったヘイロタイは、なんの理由もなしに、無条件で殺してもよかった。
 これはあまりに残酷な制度なので、プルタークなどは、リュクルゴスがこれをきめたという伝えを疑問に思っている。
 しかし、こうしてヘイロタイたちにスパルタ人をいつも恐れさせておくことが、この制度のねらいだった。
 ふだんから恐怖心を持たせておき、どんなときにもスパルタ人に対して反抗させないためだった。
 そう考えれば、この制度をリュクルゴスが定めたとしても、なんのふしぎもない。
 金銀貨の鋳造、流通を禁じ、経済的な鎖国策をスパルタがとったのは、レトラのぜいたく禁止からであることは前に述べたが、一つには、他のポリスから民主的な傾向がはいってくることを、スパルタはおそれたのだった。
 民主政のすすんだアテネでは、奴隷のほうが自由人より立派な服装をして歩いていることもあるので、服装からは見わけがつかなかったといわれ、奴隷も自由人と平等に話をすることも許された。
 こうなったのはもちろんずっとのちのことなのだが、そういうふうになる民主的傾向を持っているポリスも多かった。
 支配者であるスパルタ人市民のあいだでは、財産程度も同じ、食事も共同で同じものを食べるというほど平等の徹底したスパルタではあったが、征服者のスパルタ人と、被征服者の先住民とは、同じ人間とは考えられていなかった。
 先住民であるヘイロタイなどに、外国ふうの民主的な気風がはいりこむことなど、とんでもないことであった。
 スパルタの鎖国策は、そういう意味もあったのである。
 スパルタはギリシアの諸ポリスのなかでも例外的に自給自足の可能なポリスで 自国で産する穀物では住民の半分も養えないアテネなどとはまるで違っていた。
 そのため鎖国策も強行できたのだが、それでもやはりいろいろこれには矛盾もあり、困難もあった。
 それがやがては、スパルタの弱点となる。

他界からの手紙:回心への誘い

2018-02-12 07:34:34 | 天国・地獄
ミカエル・モスカ神父訳『わたしは亡びた』、9

 悪魔とは、世の初めにルチフェルと共に地獄に落ちた悪霊たちのことです。その数は、数えきれないほど多いのです。あなたたちが気づかないように、群をなして地上をさまよっているのです。悪魔が霊魂を地獄に引きずり込むごとに、ここでの苦しみは積るばかりです。苦しみとは、こんなにも恐ろしいものです。

 わたしは、神から遠く離れた道を歩いていましたが、神はわたしをお見捨てにはならなかったのです。わたしが生来の傾きのままに歩いていた悪の道から救われる準備をしておられたのです。何回か神は、わたしをお聖堂に導かれました。その度に、わたしは懐しいものを感じていました。

 母が重い病いに倒れて、会社の勤めと母の看病という負担に耐えていた頃、神のおん手はわたしを強く捕えようとしておられたのです。いつか昼休みにあなたと行ったことのある病院のお聖堂で、わたしは、今の生活を改めなければいけないという強いゆさぶりを覚えたのです。

 わたしは泣きました。でもわたしは、この世の快楽を振り切ることができませんでした。たちまち、目芽えようとした恵みの種は茨におおわれてしまったのです。

 わたしは、信仰は単なる感情に過ぎないという口実をつけて、恵みの招きを退けてしまったのです。この同じ罠に、どれほど多くの人たちがかかっていることでしょう。いつかあなたは、お聖堂で敬度にひざまつかないわたしを戒めたことがありました。そのときわたしはもう、ご聖体にイエズスが現存されるということを信じていなかったのです。でも、ここではそれを信じているのです。ちょうど嵐があったことを信じるように、ごく自然に信じているのです。


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罰を縮小して貰う方法   聖マキシミリアノ・コルベ

2018-02-12 07:31:59 | 格言・みことば
汚れなきおとめ聖マリアは、煉獄の霊魂の女王でもあり、そのお取りなしによって罰は縮少される。これは、聖母を愛し、その祝日を祝った者には特にそうである。

聖マキシミリアノ・コルベ

聖ユリアノ看護人

2018-02-12 07:26:02 | 聖人伝
聖ユリアノ看護人     記念日 2月12日

 旅人と渡し守の守護者とされているユリアノは若いときに、普通の常識で考えたらあり得ないような大罪を犯した。それはある日彼が自分の城に帰り寝室に入った時、二人の人が寝台に寝ていたので侵入者と思ってその場で切りつけて殺してしまったのであった。ところがその二人はユリアノの両親であったのである。彼らは外出先から帰ったときにあまりに疲れていたのでユリアノのベットに入ったが、ベットにかけてあった布が両親の身体を覆っていたのであった。
 その瞬間ユリアノが抱いたもう一つの疑いは、どこかの男性がユリアノの妻と寝ていたのではないかということであった。しかし彼女は教会に行っていたのである。彼女が帰って来るなり、取り乱した夫が出てきて、自分はもはや立派な人々といっしょに暮らすことはできないから、彼女と別れて城を出ると告げた。しかし彼女はそれを拒絶した。二人で彼の罪を償うことを決め、城から出て、流れの急な川のそばに行き、貧しい人々のために病院を建てた。そのほかにユリアノの罪の償いの為に、急流を渡る旅人たちを助けることにした。

 それから数年の後、ある寒い夜にユリアノは河の向こうから助けを求める声を聞いたので、行ってみると、一人の男が凍死しかけていた。ユリアノはその者を連れて帰って自分の床に寝かせ暖めて生命を取り戻させた。その者はらい病者であったが、ユリアノはかまわずに彼を看護した。
 彼が回復したときに分かったことは、神がこの人を遣わしてユリアノの親切を試されたということだった。「ユリアノさん、神様はあなたの償いを受け入れられました。私は神様からこのメッセージをあずかって来ました」と、その男は言った。


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