ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

神の愛〜そのかたち

2017年09月12日 | 
今日、高円寺の歯科医院に行った帰りしな、日比谷のスバル座で映画「アメージングジャーニィ〜神の小屋」を観た。
平日の昼下がり、観客は少ないのでみんな思い思いの席に座り放題だ。こんな閑散とした入りでは、きっと早めに打ち切られるかも知れない予感がする。だから券を持っている方、観たい方は少しスケジュールを早くされた方が良いかも知れない。

ところでこの映画は、どのように判断しようと、今後のクリスチャンの話題に必ず上る必見作品だと思う。それをDVDで観るより、今大スクリーンで観れるのだから、ぜひ鑑賞して欲しいと思う。
もちろん三位一体とか、実際に人となって世に来られたイエス様は別として、これまでタブー視されてきた神・聖霊を俳優が演じること・・・それははたして偶像崇拝につながるのか、私なりに聖書的見地での問題意識を持って観た。

私が今回一番心引かれたのは、映画のテーマである「裁かない」「許す」と言うことだけではない。愛することは「交わる」ということだ。愛していると言いながら、一緒に時を過ごそうとしなかったり、たーくさんの会話のキャッチボールを、めんどくさがったりすることは、決して有り得ないことだ。

愛の極地はキリストの十字架である。それは何と、神が私たちと交わるためのものだった、その愛を信じ受け取りなさい、と。十字架で人間の罪を赦し、聖霊様を内住させる=いつもいつも神さまと私たち人間とが交われるためであった。

神の究極の愛の具体化、それは十字架を通しての聖霊の内住なのだ。この交わりは、神・聖霊がはるか天の方から神々しく人に語ったりしたのでは表せない。その意味で俳優が演じることは理解できる。そう、この映画の真価は、日々喜びの中で、聖霊様との交わりに生きているのかどうか。善悪の裁きの座に自分が座り、どんな罪人をも愛する神を裁いているのか、で異なってくるだろう。

もう一度、ぜひ上映期間中に観に行かれることをお薦めする。




ケパ





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