ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

30日主日の朝です。

2019年06月30日 | 教会のこと
おはようございます。梅雨真っ只中の今朝の空です。でも嫌っては要られません。雨は重要ですから〜
しかし降りすぎないように、災害に至りませんようにと祈ります。
 
 
今朝の船橋キリスト教会の主日礼拝は、勤労市民センター第二音楽室ですから、オンラインで同時には礼拝ができません。
地階にはWi-fiか環境無し。電波が届きません。
 
午後1時半頃には、録画していつものようにFacebookより視聴できます。
共に恵みで満たされますように〜
 
ドルカス
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忘れ物〜

2019年06月29日 | 食べる
今朝の事!
どうして忘れたんだろう。
お弁当とポット2本はテーブルに並んで置いたの。
送り出してから気がついた。テーブルに忘れていった。え〜〜🙀どうしてこれだけ忘れたんだろう。ポットは持ったのよね〜
と、慌ててLINE送った。お迎えのコースこっち方面だったら、その近くまで届けようかしら〜まだ雨降ってないから🚲で行けると思ってたら😸
ピンポ〜ンと、ドアホンが鳴った。
すぐ近くまでだったから取りに来たと。
さらに幸いなことに今日は一人で身軽。
良かった。無駄にならなくてね。
主に感謝と、一人ではしゃいだ朝です。
今日はこの小さな🚙で、男子学童を迎えに来たと。
 
よかったよかった。昨夜から用意始めたたんだものね。
ちなみに今日のお弁当は
メーンは、手作りハンバーグ。2日ほど前の作り置きを冷凍庫から出して入れます。昨夜のかぼちゃの甘辛煮も一切れ入れて
そしてチャチャっと、卵焼き、ウインナーとピーマン炒めて、レタスミニ🍅トマトも入れて、🍌パナナも4分の1ほどね、入れました。
 
満足してもらえたかな〜
 
 
ドルカス
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障害を持つ子どもたちと

2019年06月29日 | 使命
私は今、放課後等デイサービス(略して放ディ)に勤めている。そこは「知的障害、ADHDやLDなどの発達障害を含めた子どもたちの学校後の預かり施設と言える。学校ではないのである意味、気が楽だ。子どもたちは小集団の中の最低限のルールを守った上で、のびのびとした時間を過ごしている。
ここは家庭でも学校でもない中間的な施設で、子どもたちにとってホッとするを目指している。そこで私は主に小学生の子どもたちと遊び、膝の上に飛び込んでくる子どもたちと、疲れを感じる間なく楽しんでいる。年齢的には孫に近いが、感覚的には子に近い。30分の学習の時間やソーシャルスキル学習の時間は、何となく昔の教師らしくなるが、それ以外は子どもと遊んでいるか、または子どもたちを送迎する車をいつも走らせている。(写真は他の放課後デイで公開さるているもの。だいたいこんな感じ)
施設でいつも思うことだが、子どもたちの障害は子どもの性格と兼ねあって皆違う。A君に通じたことがB君にはできない。一人一人がスペシャルな存在で、教師時代の枠にはめなければ進められなかった画一的な集団指導とは全く異なる。その中で神はどのような御心があって、この子たちをおつくりになったのであろうかといつも思う。一人一人が皆異なることを強く思わされるからこそ、そう思う。
 
本当に愛する子どもたちなのだが、時にわがままを言ったり駄々をこねたり、奇声を上げているのに他の子どもの奇声は極端に嫌がる。集団的な一斉行動は難しい面があっても、実は互いの行動にかなり影響を与えあっているのが面白いし興味をそそられる。子どもなのに人間味が豊かに見えることも驚きだ。
ある意味それは逆に、健常児では当たり前のちゃんとできるべきことが、少しでもできていることを見つけるならば、そのことに感動を覚えることにもなる。かつて教師をしていた時は、出来ることに目を向けず、出来た結果だけを問題にしていたことを思い知る。
 
それに感動を覚え「おおっ、すごいじゃないか」と感動する。出来て当たり前の規格品作りの世界から、百八十度の転換である。 この子たちは確かに言葉をうまく使ったり、嘘をつくことはバレバレの下手だ。しかし、本当の姿と少しの、それこそ天にも昇る喜びで見ることができる。
 
たとえ言葉をほとんど発せられない子であっても実際上は問題はない。しばらくすれば、目と表情や動作でコミュニケーションの不自由さを感じなくなるのが不思議だ。私はそれで子どもたちの内面を知ったり、「手伝って!」と必要にされるのが楽しくてしょうがない。
でもふっと時に思う。何だか以前担任していた子どもたちに申し訳ない気持ちさえ湧いてくる。こんな風に見てあげたことが無かった、ほめたことがなかったと。
 
「御心は何だろうか?」と。
例えばAくん。言葉はできないけれども、実は運動神経抜群である。人なつっこくて、目と目で会話できる。しかし言葉ほど発することは、今のところ見られない。しかしながら、私は確かにAくんの知性をかなり感じる。
そしてこの子を抱きながら「この子の御心は何だろうか」と祈りながら思う。もしかしてこの子への見方は、家庭とか学校に行けば、かなり違うかも知れない。あるいはもう少し時が必要なのかもしれない。しかし欠け替えのない、大きな存在感を感じている。神様がAくんを造られた意図は大きく、それが分かることを心から楽しみにしている。
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されどイス

2019年06月27日 | 示されたこと
船橋聖会の事は、既にお伝えしましたが、
その時、用意したこのディレクターチェア
 
翌週から今週にあった全国の聖会では、
講師のために用意される椅子が、ブログを通してチラチラと見えました。
沖縄での会場で
今週は九州聖会でしたが、鹿児島で
この会場でも
熊本
長崎
各地では講師をされるP牧師の腰痛が、少しでも軽減されるのならと、座り良い椅子を用意します。
 
このディレクターチェアを持ち運び、5月の横浜聖会で使用したのを、聖会blogで見つけ聞いて来られた地方教会牧師がありました‥‥
 
この椅子は軽くて座り良さそう。何処でもすぐ用意出来からと。何処で購入できるの?と
さらに、その椅子を用意する必要がなくなることを願い祈りながら、です。
このように、愛の行動される教会を、主に感謝しました。気づきを感謝しました。
 
この椅子はケパさんが、知人から譲り受けた物でしたが、椅子の座り心地が良い事を自身で知っていたケパさんは、それを会場に持ち運びました。
その時、私はそこまでするの?と言う思いを持っことを恥じました。貧しい心を悔い改め、主に感謝したのでした。
 
いつも愛を持って主に祈る、それが主が喜ばれる事をすると言うことね。
そして示されたならそれを行う。それが
聞き従うと言うことね。
その事が分かりさらに私は、喜んでいます。
ハレルヤ〜
 
 
ドルカス
 
 
 
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聖書と信仰

2019年06月27日 | 信仰
私は二十歳から30年近く、福音派と呼ばれる教会に属していた。それは濃淡があっても、いずれも聖書中心主義であった。特に最も長く居た教会は特に聖書をよく学んでいた。例えば日曜日も朝十時から全年齢対象対象の年齢別聖書教室があり、幼児から老人まで全員が45分間、聖書を学ぶ。次に全員が移動して十一時から礼拝堂で一時間余りの礼拝をしていた。だから学校のような立派な校舎が、教会堂に隣接して建っていた。
 
私といえばさらに聖書好きで、ほとんど成人科教師としてあるいは校長として過ごしたが、CS校長とは牧師に次ぐ立場だった。
この長い時代を通して実は感じ続けていた一つの大きな疑問があった。それは【自分たちに、なぜ(信仰の)力が無いのか?】と言う疑問であった。まるで濡れた紙を壁に貼っているようで、貼っても貼っても、紙は落ちて行き、徒労感だけが蓄積したことだった。
 
三位一体を信じるほとんどの正統的なプロテスタント信仰の教会は、聖書中心主義である。それは何の異存もない。問題は力がないことである。どうしてか? 聖書を知的理解に留めてしまい、人間の有限な知を超えた、神の言葉の力を封じ込めてしまったからではないか。
なおも言えば、聖書を信じると言いながら、聖書を自分たちの知的な理解可能な範囲内で受け入れることだ。聖書に明確に書かれ、その力である力、奇跡、癒やし、異言や預言などの賜物を否定するのである。これは第1コリントやその他の書にも明確に記されているが、これらは初期の時代のもので、今は聖書が完成したから終わったとするのだ。しかし「終わった」なんて、聖書のどこにも書いてないのだ。自分たち被造物である人間に過ぎない存在なのに、神の言葉を判定するのだ。
この聖書の霊的な力の核心部分(これを信仰と言っても言い過ぎではないかも知れない)の拒否は、三位一体を信じると言いながら、その一つを否定するに等しいものだ。つまり神のことばを骨抜きにし、立派なお飾りの書に棚上げするのには十分であった。
 
私の体験上から言えることは、聖霊によって書かれた霊的な書である聖書を読むのに、その聖霊様に頼らなくてどうしてちゃんと読めて理解できるのだろうか? またその言葉の力を見るのだろうか? これが実は疑問に思っていた「力が無かった」原因なのだ。
驕りを悔い改め、人間の知恵という混ざりものなしに、み言葉をすべて信じよう。
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花壇の植え替え

2019年06月25日 | 生活
ギリギリになったけれど、ようやく梅雨空の雨の間に昨年埋め込み、春先楽しませてくれていたチューリップの🌷球根を掘り上げた。
 
パンジーの花も出来るだけ見たくて、摘み取り
洗面所の鏡前
キッチンのシンク側に
玄関と、至る所に飾り、
更に住人が通ると、誘って花を摘んでもらった。
 
今日は、プロガーデナーがお二人。
低木の手入れ、芝生などの草刈り、消毒、そして花壇は、夏バージョンね。
 
掘り上げた球根は干して、来春また咲く様に晩秋まで預かろう。
今年から秋にも植栽があるので、空いてる大型プランターに植えこもうと、密かに計画中。
 
地面に埋め込むまでが私のする事。後は天の父にお任せしよう。
来春の楽しみが増えるから🌷🌷
 
 
ドルカス
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御心の結婚〜6月24日の朝の示し

2019年06月24日 | 信仰
今朝は雨音で目が醒めて、カーテンを開けなくてもわかる梅雨そのものの朝だった。ベランダに出ると、船橋らしい風が雨と寒い空気をかき混ぜていた。早々と退散し部屋で黙想の時を持つ。
 
 
その時思い出されたのは、昨夜の結婚セミナーだった。三人の証しを聴きながら、私自身は結婚を二回しているが、三人とは全く別のパターンだった。クリスチャンの結婚に関し、すべてに共通しているのは「御心(みこころ)の結婚なのか」だ。
 
P牧師は以下の御言葉を毎回用いる。大前提として、結婚とは一体となる事だから、互いに永遠のいのち、霊が一つとなって働かなければ半身不随となる。
ーーーーーーーーーーー
「神は人を一体に造られたのではないか。そこには、霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、自分の霊に注意せよ。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。」(マラキ215節聖書 ©2017
  ーーーーーーーーーーー
私の場合は、創世記の以下の御言葉が響いていた。
ーーーーーーーーーーー
「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」(創224©2017
 
「妻よ。あなたが夫を救えるかどうか、どうして分かりますか。また、夫よ。あなたが妻を救えるかどうか、どうして分かりますか。」(1コリント716 ©2017
ーーーーーーーーーーー
考えるだけでも、一体とされたのであれば、クリスチャンの場合、離婚は明確な背きであり祝福を失いかねない。であれば、私は最低限、クリスチャン同士でなければならないと決心していた。クリスチャン同士であれば、何の問題もない、そう単純に考えていた。その時はまだ、たとえクリスチャン同士であっても、P牧師の言う御心のものであるかの吟味は、その時は考えてもいなかったのだ。
 
それで、御心を知らず、ただ自分の夢にこだわり続けてどうなったのか?結局は七年の後、私は念願通りこだわり続けた人とクリスチャン同士の結婚ができて有頂天になったいた。しかしそれは全くの無知であったのだが、相手は精神の病を内に秘めていたのだった。
 
ガンで最初の妻を送って、私が心から祈ったのは【御心の人】と結婚することだった。それには痛切な悔い改めがあって、一切の選択権を主に委ねることにしたからだ。主は最良の導きをされる方で、私は主を信頼した。ある意味、神に任せないクリスチャンは、主を信頼してはいない。
隠さずに言うが、今の妻、ドルカスは結婚するまでは私の好みでなく、普通なら対象と思わない相手だった。実はこれはドルカスも同様らしい。ところがある方法で、それが主からだと確認できる方法でドルカスと示された。それで結婚することに決めたのだ。
 
正直、この結婚は神と結婚した思いだった。そして今、最高に幸せを感謝することに。今ではどうして彼女だったのか、その御心と神の知恵が分かるし、さすが全知の神の最善を褒め称えている。取り返しのつかない選択を、有限で愚かな自分の目や嗜好で選ぶのは実に愚かである。結局、痛い目にあいながら刈り取りをすることになる。
主を信頼せよ。主は最善をしてくださる。それは信仰の試しである。またそれは決して裏切られない。
ーーーーーーーーーーーー
あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」(詩篇375©2017
 
 
 
 
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今日も恵み満載でした

2019年06月23日 | 教会のこと
(賛美の導き知れているケパ牧師)
録画撮りスムーズに撮れました。
さらに、Facebookへのアップも、速やかに対応しました。
今日は特別賛美を、m姉妹と2人で立ちました。
風のひびき6集から 〜♫ 栄光は神に〜
 
今日のメッセージは、聖書ガラテヤ 2:20 から
「もはや私が生きているのではなく」をテーマに語られました。
メッセージの内容は、ホームページの礼拝(YouTube)に、UPされてます。
今週中にメッセージ要旨も、UPします。
夜は只今、Officeに集まり、アンテオケ教会第7礼拝。オンラインで視聴で礼拝してます。
 
主日の1日は、恵みで満たされました〜
 
 
ドルカス
 
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6月23日主日

2019年06月23日 | 教会のこと
おはようございます。
今日の船橋教会の礼拝は、第二音楽室です。
この部屋オンライン不可能です。
録画で、午後一時半後にはFacebookでアップいたします。よろしくお願いします。
 
 
ドルカス
 
 
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土曜の夜は

2019年06月22日 | 教会のこと
リクエストがあり、お茶ではなく
コーヒー飲みたい〜 って淹れるのは、
わたし?
 
この時間のコーヒーでも、ぐっすりと寝れる私達です。
メッセージ、あと一踏ん張りは最終チェック段階では?
 
 
ドルカス
 
 
 
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