LUCERNA PEDIBUS MEIS (Omelie varie)

足のともしび(詩編119)
Luce ai miei passi (Salmo 118)

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聖霊降臨の主日 A 野の百合会

2011-06-12 17:15:42 | Weblog
聖霊降臨の主日 A 野の百合会
ヨハネによる福音(20:19-23)

あいさつ・招き
皆さん、聖霊降臨の祝日にあたり、私たち一人一人の歩みの上に、また野の百合会の歩みの
上にも、神の霊が注がれますように、特に賢明と知恵の霊(賜物)が送られますように、今
日のミサを捧げることといたしましょう。

インドのタイガーという動物は、絶滅に瀕していることはご存知ですか。そのために保護区域を作ってタイガーの住み易い環境、繁殖し易い環境を整えています。そして、管理人は危ないジャングルに住んでいるタイガーをこの保護区域の中に写すわけです。どうやってそうするかというと、ドキュメンタリー映画で見たことがあります。管理人は睡眠薬の入った弾(たま)をライフル(銃)に入れてタイガーを撃つわけです。映画を見ている私たちからすれば、それは明らかにタイガーのためになされている、タイガーという動物類を救うためになさられているとわかります。けれども、考えて見ましょう。タイガーの立場に立って見ま
しょう。タイガーの観点からみたらどうでしょうか。銃を持った人間は自分のためにやっていると思えるでしょうか。銃で撃つ弾に睡眠薬が入ってるというようなことはわかるでしょうか。前もってタイガーに分かるように説明してあげるということはできないですね。タイガーにとっては人間というのは餌食か敵か、それ以外はなにもない。タイガーにしてみれば、自分を救おうとする人間と、自分を撃って殺そうとする人間は何の変わりもない。タイガーの世界と人間の世界の間にそれだけ超えがたい開きがある。人間と神様もそうです。神様は人間を救おうとしているが、人間がそれがわからない。人間の世界と神様の世界は、タイガーと人間の世界のように全く通じないこととなっています。猫と犬は5・6千年前から人間の生活に慣れて、そのよさが分かったというか、人間と一緒に住む方が楽だし、安全ですね。いわゆる人間のペットになったわけです。2千年前から、神様の世界、神様の生活、生き方に親しむ道が開かれました。それが、イエス・キリストという方です。その道は聖書に書かれています。聖書をよむと、私たちはいわゆる神様のペットになれるようになりました。
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人間が犬に「お座り」を教えますね。皆さん、小さいときに、何もしゃべれないときにお母さんから、お父さんからいろいろ、食べ方、トイレなど、教えてもらいましたね。親の「霊」をもらって大きくなりましたね。神様も私たちに「お座り」を教えようとしています。それだけではなく、投げたボールを追いかけて持ってくるように教えています。神様は私たちといろいろな遊びをしたい。
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聖書の言葉は、学問と関係なく、私たちの心にすっとはいってくる面もありますが、同時に
、なかなかわかりにくい奥深いものでもあります。やはり、私たちはまだタイガーの部分が
結構残っているからね。 現代社会は、何でも早分かりの時代、インスタントの時代です。本でも「何々のすべて」とか「何々の早分かり」というような類のものがもてはやされます。聖書という書物は、いかにもそうした時代にそぐわないものであるかも知れません。しかし私は、本物というのは、そう簡単なものではないと思います。簡単なものはそれだけ薄っぺらいものです。「わかった」と思った途端に、私たちを通り過ぎていく。しかしそうしたものと違って、深い味わいがあり、私たちを根底から生かしてくれる書物、それがみことば、聖書であります。私たちは、そうした思いで、この聖書に取り組んでいただきたい、そのようにしてご自分の信仰を深めていただきたいという思いが生じれば、それは聖霊の賜物であると言えると思います。聖書をもっていて、宝の持ち腐れをしているクリスチャンも結構多いと思います。
教会に行きますと、そこで私たちは罪の赦し(の秘跡)、ご聖体の秘跡を受けて、聖霊・神様がいつも共にいるようになる。それは不都合だとか、窮屈だとか、自由が奪われる。そんなふうに感じる人がいるかもしれません。しかし神様は、決して拘束し、見張り、罰したりしません。私のことをすべて知り尽くした上で、それでも愛してくださろうとして下さる神です。 幼い子供は親が自分を知り尽くしているからと言って、やりづらい、堅苦しいと思うでしょうか。かえって遠慮なく甘えて安心するのではないでしょうか。知られていることは安心でもあります。 人間は、本当は自分のことすべて知ってほしいと願っているのです。外見・表面上の自分だけでなく、隠れた自分、他人に出せない自分、自分の弱さも、寂しさも、むなしさも、罪もすべてひっくるめて分かってくれる方を待ち望んでいるのです。しかもそれらすべてを分
かった上で、すべてそのまま、ありのままに受け止め、それでも良いと言って次の一歩、成長につなげてくださる方を求めているのです。神様こそ、そのような方です。 だからこそ、いつも私を大切に、時にハラハラしながらも見守り、たえず回心の助けの手を差し伸べようとしてくださる神様・聖霊の働き。それに答えて、私たちは自分自身を、また同じように聖霊の宿っている他人を大切にする必要があるのです。こうしてイエス様の生き方を、生活の中でいつも表していくのがキリスト者の使命です。

参考ブリージ・マッケナ「祈り 恵みの泉」(聖母の騎士社1995)
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信徒でもわかることは、司祭・司教が理解できていない不思議

2011-04-11 10:36:48 | Weblog
                                       2010年9月16日
日本に於ける福音の宣教を省みる
                                         夙川教会 河野定男

以下、日本のカトリック教会のあり方について、日頃、疑問に感じていることを綴ってみました.

1.主日のミサを大切にする
「典礼は教会の活動が目指す頂点であり、同時に教会のあらゆる力が流れ出る源泉である」(典礼憲章10項)とあるように、あらゆる教会生活と宣教の源泉と頂点は感謝の祭儀(ミサ)にあることを教会は教えている.
ベネディクト16世は使徒的勧告「愛の秘跡」で次のように主日の大切さを説いておられる.「・・シノドス参加司教は、すべての信者にとって主日のおきてが大事であることを再確認しました.主日は、『主の日』に記念したことを守って毎日の生活を生きることができるようになるための、真の自由の源泉だからです.実際、復活の勝利を記念する感謝の祭儀にあずかる望みを失うとき、信仰生活は危険にさらされます.・・(中路)・・日曜日は主の日であり、聖別された日です.この感覚の喪失は、キリスト信者の自由、すなわち神の子としての自由に関する本来の感覚を失ったことを示す徴候です.・・」(73項)
 日本の教会、特に大阪教区は、この主日のミサの重要性を信徒に教えるのにあまり熱心でないように私には思える.大阪教区に於ける福音の宣教が停滞しているなら、それはこのことと深く関連しているのではなかろうか.司祭の人数が減少し、すべての小教区に司祭を常駐させることが出来なくなるに伴い、司祭不在のときの集会祭儀が強調されるようになった.司祭が不在であるため主日のミサを行うことが出来ない場合には、信徒たちが集会祭儀を行い、主を賛美すること自体は大変すぱらしいことであり、使徒的書簡「愛の秘跡」も75項でこれを薦めているのは確かである.しかし、大阪教区ではこれを安易に取扱い、信徒に誤解を与えてしまい、集会祭儀が主日のミサの代替となるという漠然とした観念が蔓延している.大阪教区の都市部でも常駐司祭のいない教会では一ヶ月に」回とか二ヶ月に1回は、主日のミサが行われず、集会祭儀が行われるのが常態化しているのは、少々異常な状態である.
使徒的書簡が75項で教えているのは「たとえそれがある種の犠牲を求めることになっても」「信者は教区の中で、司祭がいることが保証されている教会に行って」ミサに写るべきであり、共同体として主日に集会祭儀を行うことが薦められるのは、「距離がきわめて遠いために主日の感謝の祭儀に参加することが物理的に不可能な場合」だけだ、ということである ベネディクト16世のこの指針を真筆に受け止めるなら、大阪教区の信徒の大多数が住む大阪・神戸などを中心とする都市部では、優れた交通網が発達しているのであるから、主日のミサの代わりに集会祭儀に参加せざるを得ないという事態は起こりえないことになる.このことを司教、司祭、信徒ははっきりと認識すべきであろう.ミサ(感謝の祭儀)が教会生活と福音宣教の源泉と頂点であることを本当に信じるなら、主日のミサの重要性を教える信仰教育を徹底して行うべきである.司祭は、小教区の枠をこえ、主日には信徒はミサの行われる教会に行くべきことを繰り返し教え、主日を守って生きる喜びを伝えるべきである.ところで、使徒的書簡が指摘する「距離がきわめて遠い」「物理的に不可能」とは大阪教区では具体的にどのような地域に当てはまるかを良く研究する必要があると思う.また、ミサに写るために信徒にある種の犠牲を求める」とはどの程度のものかを考えることが特に大切である、もし仮に信徒たちが「日ごとの糧」を得るために払っている程度の「犠牲」(つまり通勤のために費やす程度の距離と時間)を主日のミサのために「求める」とすれば、大阪教区のカテドラルや神戸の中央教会など、足場の良い、大きい聖堂の教会を数カ所定め、それらの教会で主日には10回程度のミサを行うことにすれば、大阪教区の大多数の信徒は主日のミサに写ることができるということが、少なくとも理論的には成り立つのではなかろうか.そして信徒は主日にミサに行くために払うこの「犠牲」を、「神がみ心に従って聖なる司祭を送ってくださるよう祈るための貴重な機会」(「愛の秘跡」'75項)と捉え、叙階の秘跡を受けた司祭の主日に果たす中心的役割を正しく認識する出発点としなければならない.

2.「信条」の勝手な改変
日本の司教団は2004年2月に新しい口語訳の信条を発表した.その「ニケア・コンスタンチノープノレ信条」を見ると、「われは一、聖、公、使徒継承の教会を信じ」となっていたところが「わたしは、聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会を信じます」と改められている.この改変は口語にするための単なる翻訳上の問題ではなく、明らかに「内容」の変更にあたる.ニケア・コンスタンチノープノレ信条は公会議の公式文書でるから、一、聖、公、使徒継承という教会の特性を示す伝統的な順序を日本の司教団が勝手に変更することは許されることではない.司教団はこの改変の理由を何も説明していないから、その真意はわからないが、四つの特性のうち、一番員に掲げられていた「唯一」を四番目に変更するという行為は、常識的には、「唯一という特性は、今まで考えられてきたような重要性はなくなった」というシグナルを送ることになる.つまり、キリストの教会は一つであることにあまりこだわる必要はないという、誤った教会観を生じさせることになりかねない問題である.教会が唯一であるのは「教会の起源と原型が三位のペルソナにおける唯一の神の単一性にあるからです. 設立者であり、頭であるキリストは、ただ一つのからだにおいてすべての民の一致を再建なさいます.・・」と「カトリック教会のカテキズム要約(以下『要約』と路)」161が教えている通り、教会の一番目の特性が「唯一」となるのは当然の二とである.エキュメニズムとは、人間の犯した罪のために不幸にして分裂してしまった神の民が、再びキリストにおいて一つの(唯一の)民になりたいというキリスト教徒全体の願いのことである.

3.日本のカトリック教会にカトリックの聖書がない不思議
現在の日本のカトリック教会ではミサの聖書朗読をはじめ、カトリック出版物の聖書引用なども、すべて新共同訳聖書が使われるようになった(例外はミサの答唱詩編で歌う詩編で、カトリック中央協議会の典礼委員会訳を使用)。これは大変すぱらしいことで、カトリック、プロテスタントを問わず、神のことばを、同じ表現の日本語で聞き、読むことができる便宜ははかりしれない.啓示憲章も「分かたれた兄弟たちとの協力による訳が必要であり、教会当局の承認を得て行われるならば、すべてのキリスト者はそれを利用することができる.」(22項)と共同訳を推奨している、ところで、日本のカトリック教会が使用している「聖書一新共同訳旧約聖書続編つき」であるが、この聖書の旧約は旧約聖書(39文書)と旧約聖書続編(13文書、ダニエル書補遺を一つの文書とみるなら11文書)に分かれており、合計52の文書から成っている.『要約』は「聖書は神ご自身が聖書の作者であり、霊感を受けたものといわれ、わたしたちの救いに必要な諸真理を誤りなく教える」と解説し(18項)、「使徒伝承によって教会が識別した、聖なる
書物の完全なリスト、すなわち正典は旧約聖書では46文書である」と教えている(20項)ので、続編つきの新共同訳聖書は、カトリック教会の聖書とは云えないことになる.聖書は聖伝と共にカトリック信仰の源泉であるから、この問題は大変重要である.
一方、新共同訳聖書は、カトリックとプロテスタントの共同事業としてなされた日本のキリスト教にとって画期的な成果であることも事実である.そして、プロテスタントの諸教会も、続編つきの新共同訳聖書以外は使わないのであれば、エキュメニズムの観点から、カトリック教会の聖書とは云えない続編付聖書を、日本のカトリック教会が採用するのもやむを得ないと思う.しかし、実際には、プロテスタントの教会ではほとんど続編付聖書を使用していないのが実情である.この現実を踏まえるなら、新共同訳に基づいた、カトリック教会が当初から採用してきた伝統的な46文書から成る旧約聖書を早急に作成すべきだろう.

4.インカルチュレーション(福音の文化内開花)への視点
インカルチュレーションには「教会から世界へ」と「世界から教会へ」の二つの方向があるという(「カトリック教会の教え」181頁).日本の教会は、後者の方向に沿って、日本の文化・伝統と教会の典礼を調和させた「葬儀」の儀式書を典礼のインカルチュレーションの第一歩として作成している.
このような具体的成果とは別に、日本文化の特色の原点はどこにあるかを、日本の教会がよく理解し、それをインカルチュレーションに活かすように努力しなければならないと思う。
日本文化の特色を探るに最も手っ取り早い方法は、第一に日本国憲法に何が書かれているか知ることであり、第二には日本の宗教事情はどうなのかを見ることであろう. 日本の憲法の第一条に「天皇は、日本国の象徴であり、日本国民の統合の象徴」とあり、日本は天皇を大切にする国であることが解る.事実、天皇にたいする日本人の敬愛の念は幅広く旦つ奥深いものであり、毎年1月2日に行われる皇居の一般参賀に何万という人々が訪れるし、日本の色々な改憲論に皇室(天皇制)を廃止しようというものは皆無である.日本の皇室は2000年の伝統を持ち、しかも単一王朝(万世一系)で継承されている.このような国は世界で日本以外にはない.なぜ、このようだ国が現代世界に存在するのかを研究することが日本に於けるインカルチュレーションの第一歩だろう.
日本の天皇の最大の特色は、「祭祀王」であることだと云う説があるが、私はこの説に注目したい. 天皇陛下の日々のお務めに新嘗祭(11月)を初めとする宮中祭祀が重要な位置をしめている.日本の天皇は「国平らかに民安かれ」(国中が平和で、人民が安らかに暮らせる)を祈る祭り主としての任務を第一としてきたと云われている.この天皇の国民に対する日々の祈りを、キリスト者はどう受け取るべきか.天皇の存在と日本人の天皇に対する敬愛の念を、日本の福音宣教上、どのように位置づけるのが適切なのか、考えなければならない.
第二の日本の宗教事情に著しい特色がある.文部科学省の2006年の宗教統計調査によると、日本 の人口が約127百万であるのに、宗教人口は208百万人であり、その内訳は神道系106百万、仏教系89百万、キリスト教系3百万、諸教系10百万となっている.つまり、大多数の日本人は仏教徒であると同時に、神道の信者(神社の氏子)であるということである.神道は体系的な教義もないし、宣教(布教)もしないので、異なる宗派の信仰をもつ個人個人を共同体として一つの儀礼・儀式に参加させるには、神道の形式によるのがもっとも摩擦が少ない.このことに着目して、すべての日本の戦没者を慰霊するために設立されたのが靖国神社である.人間は本質的に宗教的存在であるから、国や公共団体が慰霊などの儀礼を行う際、何らかの宗教色を伴うことは当然で、日本の場合は神道の国であるから、神道による儀礼となるのは自然である.アメリカの大統領就任式がキリスト教の形式に則って行われるのと同様である.日本の司教団は、1980年頃から信教の自由を守る立場から厳格に政教分離の原則を貫くことを政府に要求しはじめ、首相や閣僚の靖国神社参拝反対を表明してきた.最近では(2009年)、正月の恒例である首相の伊勢神宮参拝に対し、カトリック正義と平和協議会が抗議文を出すまでに至っている.
これはどう見ても異常ではなかろうか.日本の首相や政府の高官が神社に参拝したからといって信教の自由が侵されるわけでは決してない.日本は信教の自由が完全に保証された国であり、これが危険に曝されるような事態は殆ど予測しがたい.それにもかかわらず、なぜ、厳格な政教分離を要求するのか、人間の本源的な宗教性を否定することにならないだろうか.日本のカトリック教会が憲法20条の厳格な適用の主張(これは宗教否定論者の主張につながる)を見直さないかぎり、日本の天皇制度をも否定することになりかねず、これではインカルチュレーションどころか、日本文化の破壊となってしまうのではないか.
以上
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四旬節4主日 A   今福教会

2011-04-04 10:32:42 | Weblog
四旬節4主日A
【ヨハ9:1,6-9,13-17,34-38生まれつきの盲人をいやす】

生まれながら目の不自由な人とイエスとの出会いは、ドラマチックな展開で紹介されいます。
まず、物語は生まれながら目の不自由な人がイエスの力によっていやされることからはじまり、イエスの力を正しく評価できないユダヤ人が、イエスを陥れようとする試みに発展します。
いやされた男は、ユダヤ人と真っ向こうから対立し、確信にみちて一歩も退かず、軽蔑されてもゆるがないで、イエスをメシアとして信仰宣言します。この物語の結びとして最後にイエスはこのように言われました。
「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
この結びの言葉にあるように、このエピソードには、まことの光がなんであるかというテーマが隠されています。見えていると思う人はたしかに光に恵まれていますが、それがまことの光であるかどうかという問題が、提起されています。福音書には、このエピソード以外にも、イエスと目の不自由な人とのいくつかの出会いが報告されています。どれをとっても、こうした人々とイエスとの出会いには、健康な人々との出会いにはみられない、はりつめた火花を散らすような真剣さがあります。必死になってイエスさまに訴えかけていく迫力がみられます。
なぜでしょうか。なぜ、目の不自由な人、病んだ人、社会に取り残された人々の方が、健康で、すべてに恵まれた人々よりも、真剣にイエスを求めていったのでしょうか。
そのなぞを、イエスは今日の福音書のエピソードを通して示そうとされたのです。つまり目の不自由な人たちには、健康な目に恵まれた人々にはなかなか見えない世界が見えていたということなのです。
確かに、目が不自由であるということは重い苦しみです。人生に大変大きな負担を背負うことになります。
こうした人びとは、自分が今おかれている世界のようすがわかりませんから、その心はたえず不安におびやかされています。また、どこに向けば安全であるか定かではありませんから、確かな歩みを運ぶことはできません。一歩踏みまちがえれば、自分の身を危険にさらすことにつながりますから、つねに神経をはりつめて、緊張し、不安をもったままやみのなかにおかれていることになります。従ってまた、健康な人のようにのびのびと自由に生活を楽しみ、目標めがけてしっかりとすすんでいくことができません。生命のはつらつとした躍進への道はとざされています。
これは、健康な目に恵まれなかったということからくるどうしようもない現実であるとしても、この現実を通して、こうした人びとは、人間の存在のもろさ、限界をしっかりとみえているのです。健康な人が容易に気づかない人間の弱さ悲しさ、救いに渇いている現実に、直接にふれてしまっているのです。
従ってこうした人びとには、光があるのです。自分の有限性(限界)をみつめる光があるのです。それこそ、まことの光がであるとイエスさまはいうのです。まことの光のなかで自分の弱さ、限界を見、真の生命に飢えているのです。「恵みの力は弱さの中に全うされる」(2コリ12,9)からです。
ところが逆に、見えていると思うひとは、つい、自分の力を過信して、自分の真の姿をみつめることができにくいので、自分の真実の弱さ、限界に直面しないまま、日々の生活をおくっている場合のうほうが多いのです。
「見える」と思っていても、もっとも大切な現実に気づいていませんから、真理の上に土台をおいた人生にとはいえません。それこそもっとも深いやみの中にいることになります。

それはまさに、「自分は健康だ」と思っている人が医者に行かないのと同じです。どんなに自分の体の中で病気が進んでいても、気がつかないで、「自分は健康だ」と思っている限り、医者の所に行きません。同じように、「自分は見える」と思っている人は、イエスさまの所に行かないのです。
すなわち、「自分は罪人ではない」と思う人は、主イエス・キリストを必要と思わないのです。だから「罪が残る」のです。しかし自分が見えない、そして罪人であるということに気がついた時、イエスのもとに向かうのです。イエスさまの十字架のもとに向かうのです。そして赦しをいただくのです。

私たちは、物事を客観的・公平に判断しているつもりでも、実は「先入観」や「思いこみ」によって、大きく左右されているということがよくあります。
ある新聞によれば、過去三〇年間で、米国の一流オーケストラの女性団員の数は、五倍にもなったそうです。その理由は、オーディションの時に、演奏者と審査員の間にスクリーンを置いて、演奏者が誰であるのかを分からないようにしたことにあるそうです。目から入ってくる情報が遮断された結果、純粋に演奏だけで音楽家の実力を判定するようになったのです。つまりそれまでは演奏者が見えるので、同じ演奏の技量があっても、審査員は無意識のうちに男性を選んでいたことになります。

イエスに出会うために、真実の自分の姿をみつめる目を養うべきなのです。自分の無と弱さに近づくこと、自分のやみに目覚めることこそ、真の光、真の生命に近づくことことになるのです。

主イエスは、私たちが本当に見えるべき事を見えるようにして下さる方です。安息日の祝福を与えて下さる方です。元盲人の人が、「彼(イエス)が私の目の上に泥を塗った。そして私が洗った。そして私は見えた」と単純に証ししているような、そういう御業を、私たちにも同じようになさって下さったし、これからもなさって下さるのです。どうか見えるべき事が見えるように、主が導いてくださいますように。

神は肉眼の目で見ることはできません。イエスさまも、天国に行くまでは目でみることはできません。しかし神さまは、信仰によって見ることができます。
聖霊なる神さま。それは目で見ることはできません。しかし、風は目で見ることができなくても、風が吹いた結果を見ることはできます。風が吹いてカーテンが揺れるのを見て、風があることが分かるように、神さまもそのように見ることができるのです。そのように、神の恵みを見る喜び。‥‥神さまの世界が見えてきた、というのはそういうことです。
もちろん、今だって見えなくなることがあります。「自分は見える」「自分だけは見える」と、傲慢になった時に、何もかも見えなくなります。それゆえ、「罪人の私をあわれんでください」とへりくだりながら、主を礼拝する毎日を送りたいと思います。神の恵みを見て歩むためです。

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四旬節3主日A 藤井寺  

2011-03-27 15:55:10 | Weblog
四旬節3主日A
【ヨハ4:5-42サマリアの女】


サマリアの女

きょうの聖書で、私たちはキリストによって全く新しく変えられた人を発見します。
サマリアの女の所を続けて読んできました。この人は名前も記されていない、全く無名の人です。この人は「ワケあり」の女性でした。真昼に町の外の遠い井戸まで水を汲みに来ている。人目を避けているのです。町の人となるべく会いたくない様子でした。それは、イエスさまがあらかじめご存知であったように、この人には人々の噂のネタにされるような過去と現実があったのです。‥‥過去に5人の夫と結婚し、別れている。普通ではありません。そして今は、夫ではない男性と連れ添っている。このような過去と現実の中にいるこの女性。
ここまで聞いただけで、聖書を読んでいる私たちでさえも、「一体どうして今までに5回も違う男の人と結婚し、そして離縁されているのだろう? 何かこの女性に問題があったのだろうか?」と興味を持ちます。ましてや二千年前のことです。人々は陰口をたたき、中傷し、ゴシップのネタとして噂していたことでしょう。
この女性が朝晩の井戸の水汲みの時間に、町の中にある井戸に行くことを想像してみましょう。この女性が水瓶(みずがめ)をもって井戸に向かう。井戸では他の女たちが賑やかに井戸端会議をしながら水を汲んでいる。ところがこの女性が近づくと、その会話がピタッと止む。そして今度はヒソヒソと、この女性を横目で見ながらささやき始める。‥‥そんなところへ毎日毎日水を汲みに行くというのは、大変なストレスを感じることでしょう。
例えばそういう事情であったかも知れない。だからこの人は、町の女たちが水を汲みに来ない町の外の井戸に、水を汲みに来たのです。人目を避けて生きているのです。

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変えられた人

28節~29節をご覧下さい。水瓶をその場に置いたままにして町に戻り、町の人々に叫んで回っているのです。人目を避けていた人が、町の中で皆に叫んで回っているのです。‥‥「さあ、見に来て下さい。私が行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この人がメシアかも知れません」と。
すると人々は、その女の言葉を聞いて、続々と町から出てきたのです。
まず驚くのは、この女性が「私が行ったことをすべて言い当てた人がいます」と言った時、町の人々は、その言葉だけでそれが何を意味するのかが分かったということです。‥‥つまり町の人は皆、この女性がどんな女性で、5人の男性と結婚しては離縁され、そして今また本当の夫ではない人と連れ添っている。それが愛人なのか、内縁の夫であるかは知りませんが、とにかくそういうことを町の人が皆知っていたのです。この女性が「私が行ったことをすべて言い当てた」と言っただけで、すべて分かったんです。それぐらい、この女性が有名だったのです。悪い方で。
第2に驚くのは、この女性がその自分の忌まわしい過去と現実をイエスさまが「言い当てた」と、触れて回っていることです。‥‥今までは、その忌まわしい過去と現実のために、堂々と表通りを歩けなかったのです。ゴシップのネタにされていて、恥ずかしいし、皆が避けるので、コソコソと生きていなければならなかったのです。
それがどうでしょう! さっきまでコソコソと真昼に町の外の井戸まで水を汲みにやって来た女性が、今や堂々と町の中で、多くの人々と顔を合わせて、「さあ、見に来て下さい」と、喜んで言って回っているのです!

キリストとの出会いが

そして驚きの第3は、今まで誰もまともに相手にしなかったようなこの女性の言うことを聞いて、人々が町から出てきて女性の言うとおりイエスさまの所にやって来たという事実です。町の人は今まで、この女性のことを下世話な噂の対象にしていました。見下していました。まともに相手にしませんでした。ところが、この女性の言葉を聞いて、皆町から出てきたのです。39節を見ると、その町の人々は、この女性が「イエスさまが私の行ったことをすべて言い当てました」と証言した言葉によってイエスさまを信じた、と書かれています。知らないはずの女の過去と現在をイエスさまがすべて知っておられ言い当てた、ということに驚いたから信じた、とも言えるでしょう。しかしそれだけでは信じないでしょう。なぜなら、この女性のことを町の皆は見下していたからです。
それでは一体何故、町の人々は女の言うことを聞いて、イエスさまを信じ、町から出てきたのでしょうか?‥‥それは、この女性の変わりように驚いたのです。町の人がこの女性の言うことに耳を傾けて、町から出てイエスさまの所にやって来たのは、この女性のあまりの変わりように驚いたに違いないのです。
今まで、暗く、下を向いて誰にも顔を合わせないようにしていた女性が、恐らくは、明るく輝く表情で、みんなの所に来て嬉しそうに叫んで回っている‥‥。この女性のそのような大きな変化に、町の人々は驚かされ、興味を持ち、この女性の言葉に耳を傾けたのではなかったかと思います。
ものすごい変わりようです。一体何がそんなに彼女を変えたのか?
その理由はただ一つ、イエス・キリストに出会った、ということです。キリストとの出会いが、このように人を変えたのです。

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人はどうやって変わることができるか 新年の抱負

人間はどうしたら変わることができるのでしょうか?今日の聖書は、それはキリストとの出会いによるのであることを語っています。
人は誰でも、大なり小なり「変わりたい」と思うところがあるのではないでしょうか。中学生高校生の頃は「あんなほがらかな、カッコいい、快活な先輩のような人になりたい」と思ったりするものです。大人になっても、前向きな人になりたい、いつも明るく積極的な人になりたい‥‥などと思ったりします。
あるいはこの女性のようにもっと深刻で、「もう、人目を気にしてこんな時刻にこんな遠い井戸まで水を汲みに来なくてもよい生き方をしたい」という人もいることでしょう。しかしいくら自分が変わろうと思っても、このサマリアの女のように、世間が冷たい目で見ていて、世間の人々が自分に対する見方を変えてくれないのでどうすることもできない、という人もいることでしょう。そうすると、「できることなら、生まれ変わりたい。生まれ変わって人生をやり直したい」と思うようになる。しかしそれも叶わぬことです。それで仕方なく、あきらめて、下を向いて歩くしかない。
いろいろな有名な人の講演会に行ってみたりもします。そして聞いた時は「良いお話だった」と思ったりする。そして今度は自分が変わることができると思う。しかし、間もなくすると、何も変わらない自分があるのを発見する。そういうことの繰り返しが多く、やがてあきらめてしまう。‥‥変われない自分があるのです。
先週、体の自由がきかなくなる方と初めてお会いし、お話を聞く機会がありました。彼が言うには、何が嫌かというと、「頑張れ」と言われることが嫌だということでした。「頑張れ、と言われても、もう頑張っているんや!」と。「頑張ってるのに、どうしようもないんや」と。

キリストによって変えられる

人間、頑張ってもどうしようもないことはあるものです。このサマリアの女もそうでした。しかしそれが、イエス様と出会うことによって、変えられたのです。サマリアの女が出会ったイエスさまは、自分の失敗と挫折の過去をご存知の上で、そして今の厳しい立場もご存知の上で受け入れてくださる。しかもその方が、神から来られた救い主キリストであるという。そのキリストと出会うことによって、人は変わることができるのです


御言葉の中で出会うキリスト

26節で、女性の問いに答える形で、イエスさまは自らご自分がキリストであることを言っておられます。イエスさまが自らキリストであることをはっきり言われている個所というのは、珍しいことです。
女性は、最初、自分が会話をしている方がキリストであるとは知りませんでした。
私たちは礼拝し、祈り、聖書を読みます。そのような中でキリストと出会っているのです。「あなたと話しをしているこの私である」と、イエスさまがそこにおられるということに、目を開いてくださいます。
すでにキリスト者であるという方も、「昔イエスさまに出会った」というだけでは昔話になってしまいます。またもとの、力のない、不平不満で一杯の自分に戻ってしまいます。いつも「私である」と言って近づき、語りかけて下さるキリストに出会うことが大切です。そのキリストによって、また新しく変えられるのです。日々聖書を読み、日曜日には礼拝して主と出会うことを期待するのです。



このサマリアの女の心の奥には、おそらくあきらめとさびしさがただよっていたことでしょう。男たちとの出会いによって、何度も何度も傷つけられ、捨てられ、捨てられては男との出会いを求めていくどうしようもなさに、おそらく彼女自身が苦しんでいたでしょう。
イエスは彼女をおいつめ、彼女の心の奥の不毛なあきらめきった心をゆさぶり、その心からいのちの炎を掘りおこします。彼女はイエスの言葉によって、裸にされます。不毛で冷えきった心をあばかれてしまいます。
しかし、それは、彼女にとって、恵みでした。イエスは、彼女の傷ついて冷えきった心の奥底に、生命への渇きがあることを見抜きます。はげしい生命の燃焼(ねんしょう)に飢えている心がうずいていることを知っていました。
イエスは、コチコチになった心から、つきることのない生ける水をふきださせるのです。
女はイエスに向かって叫びます。「主よ、わたしが渇くことがないように、ここに水くみに来なくてもいいように、永遠の水をください」と。
彼女は、心の奥底を、イエスの前にひらきます。イエスは、固く冷えていながらも生命に飢え渇く心にふれます。
こうして、イエスとの出会いは、彼女に真の生命の燃焼を与えます。それは、うそと偽りのまじった、生命を疲れさせていく出会いとは違います。それは、真理と愛にみちた出会い、生命、輝きを与える永遠の愛の出会いです。
私たちも、自分の人生が、ぼろぼろになった生命の枯れたものとならないよう、サマリアの女と同じように、自分の心の奥底をイエスの前にひらいて、燃え上がるような出会いを求めてみたいものです。


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ホルヘ・ルイス・ボルゲス ヨハネによる福音書 一章十四節

2010-12-30 09:29:24 | Weblog
JUAN, 1, 14

Jorge Luis Borges, Elogio de la Sombra, 1969

No sera menos un enigma esta hoja
que las de Mis libros sagrados
ni aquellas otras que repiten
las bocas ignorantes,
creyendolas de un hombre, no espejos
oscuros del Espiritu.
Yo que soy el Es, el Fue y el Sera
vuelvo a condescender al lenguaje,
que es tiempo sucesivo y emblema.
Quien juega con un nino juega con algo
cercano y misterioso;
yo quise jugar con Mis hijos.
Estuve entre ellos con asombro y ternura.
Por obra de una magia
naci curiosamente de un vientre.
Vivi hechizado, encarcelado en un cuerpo
y en la humildad de un alma.
Conoci la memoria,
esa moneda que no es nunca la misma.
Conoci esperanza y el temor,
esos dos rostros del incierto futuro.
Conoci la vigilia, el sueno, los suenos,
la ignorancia, la carne,
los torpes laberintos de la razon,
la amistad de los hombres,
la misteriosa decocion de los perros.
Fui amado, compredido, alabado y pendi de una cruz.
Bebi la copa hasta las heces.
Vi por Mis ojos lo que nunca habia visto:
la noche y sus estrellas.
Cono ci lo pullido, lo arenoso, lo desparejo, lo aspero,
el sabor de la miel y de la manzana,
el agua en la garganta de la sed,
el peso de un metal en la palma,
la voz humana, el rumor de unos pasos sobre la hierba,
el olor de la lluvia en Galilea,
el alto grito de los pajaros.
Concoc i tambien la amargura.
He encomendado esta escritura a un hombre cualquiera;
no sera nunca lo que quiero decir,
no dejara de ser su reflejo.
Desde Mi eternidad caen estos signos.
Que otro, no el que es ahora su amanuense, escriba el poema.
Manana sere un tigre entre los tigres
y predicare Mi ley a su selva,
o un gran arbol en Asia.
A veces pienso con nostalgia
en el olor de esa carpinteria.




JOHN 1:14
This page will be no less a riddle
than those of My holy books
or those others repeated
by ignorant mouths
believing them the handiwork of a man,
not the Spirit’s dark mirrors.
I who am the Was, the Is, and the Is To Come
again condescend to the written word,
which is time in succession and no more than an emblem.
Who plays with a child plays with something
near and mysterious;
wanting once to play with My children,
I stood among them with awe and tenderness.
I was born of a womb
by an act of magic.
I lived under a spell, imprisoned in a body,
in the humbleness of a soul.
I knew memory,
that coin that’s never twice the same.
I knew hope and fear,
those twin faces of the uncertain future.
I knew wakefulness, sleep, dreams,
ignoran ce, the flesh,
reason’s roundabout labyrinths,
the friendship of men,
the blind devotion of dogs.
I was loved, understood, praised, and hung from a cross.
I drank My cup to the dregs.
my eyes saw what they had never seen-
night and its many stars.
I knew things smooth and gritty, uneven and rough,
the taste of honey and apple,
water in the throat of thirst,
the weight of metal in the hand,
the human voice, the sound of footsteps on the grass,
the smell of rain in Galilee,
the cry of birds on high.
I knew bitterness as well.
I have entrusted the writing of these words to a common man;
they will never be what I want to say
but only their shadow.
These signs are dropped from My eternity.
let someone else write the poem, not he who is now its scribe.
Tomorro w I shall be a great tree in Asia,
or a tiger among tigers
preachin g My law to the tiger’s woods.
Sometime s homesick, I think back
on the smell of that carpenter’s shop.

ヨハネによる福音書 一章十四節

(ホルヘ・ルイス・ボルゲス、 斉藤幸男訳 『闇を讃えて』 水声社 18頁以下)

この紙片が謎となるのだ、
わたしの聖なる書物の一葉一葉よりも。
そしてまた人々の愚かな口先が
聖霊の朧気(おぼろげ)な反映とはつゆ知らず
人間の手になるものと看傲しては繰り返す
かの聖なる諸節なぞよりは。
ある、あった、あるだろうわたしは
絶え間のない時であり表象である言葉へと
ここに再び立ち返るのだ。
子供を相手に戯れる者は
何かしら身近で不可思議な存在と戯れている ―
わたしの子供らと戯れようと
驚きと優しさに満ちてわたしはその中にいた。
不思議な力が働いて
奇(くす)しくも胎内からわたしは生れ出た。
魔力に搦(から)められ身体の虜となって
取るに足らぬ人間としてわたしは生きた。
その度に姿を変える硬貨 ― 記憶を
わたしは知った。
期待と恐れ 一 不確かな未来のふたつの顔を
わたしは知った。
目覚めと眠りと夢を、                
無知と肉体を、
から回りする理性の迷宮を、
人と人との友愛の心、そして              
犬たちの不可思議な献身をわたしは知った。       
愛され理解され崇められ、十字架に吊るされた。
澱(おり)まで杯をなめ尽くした。
わたしの両の眼が未だかつて見たことのない
夜と星屑とを見た。
すべすべした、さらさらの、不揃いの、ざらざらしたものを、
蜜と林檎の味わいを、
乾いた喉を潤す水を、
掌にのせられた金属の重みを、            
人の声を、小草を踏みしめる足音を、
ガリラヤに降る雨の匂いを、
鳥たちの甲高い鳴声をわたしは知った。
そしてまた苦味をも知った。
さる男に書き取るように頼んだ
もはやわたしの言いたいこととは異なって
ただその反映にすぎないものを。
これらのしるしはわたしの永遠からこぼれ落ちるのだ。
傍らにいる書き手その人ではなく別の誰かがこの詩を書き取って欲しいものだ。
明日にはわたしはアジアの巨樹となり、
虎たちに混じる一頭の虎となって、
森なかで自ら法を説くことだろう。
時には懐かしさのあまり
あの仕事場の木の匂いを思うだろう。
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御降誕祭 日中のミサ    浜寺教会

2010-12-29 11:06:03 | Weblog
御降誕祭 日中のミサ

ヨハネ1・1-18


ことばにはいろいろあります。あたたかい言葉、冷たい言葉、人を傷つける言葉、人を励ます言葉、内容のあることは、うわっつらな言葉。わたしたちの心は、この言葉によってそうとう左右されています。とげ(毒)のある言葉で心は傷つき、冷たい言葉によって、ときには失望したり、はては絶望してしまうこともあります。逆にあたたかい言葉によって、心の安らぎをおぽえ、内容(知恵)のある言葉によって、ひらめきを得たり、大きく飛躍し、羽ばたいていったりすることもできるのです。
さて、言葉がわたしたちの希望となり、言葉がわたしたちの人生を照らし、言葉がわたしたちをほんとうにあたためるとはどういうことでしょうか。そうなる言葉の条件はいったいなんでしょうか。
たとえば、ある青年が悩んでいるとしましょう。彼は、恩師(信頼できる人)のところにいき、その悩みを打ち明けます。恩師は彼の苦しみを感じ、彼の痛ましい姿を心に受けとり、その痛ましい姿を見て見ぬふりをすることができなくなります。恩師の心はやさしさにみち、この痛ましい姿に共感します。そこからこの青年をなんとかしてあげたい、という思いがわいてきて、そしてそれが助言の言葉となっていきます。当然言葉をかけるまえに、どういうことをどういってあげたらいいのか、この青年の将来のためにどうしたらいいか、考えると思います。そして、自分のいままでの人生経験に照らして、真剣に考え、自分の思いをまとめ、そしてそれを言葉にしていきます。こうしたことばは、この青年の希望となり、励ましとなるわけです。つまり、言葉が、希望になり励ましになり、その人生を照らすものとなるための条件とは、一つは愛であり、そしてもう一つはその人格の深さ、経験の深さ、これだと思います。
言葉になるまえに、相手の存在を自分の中で感じとる。そして痛ましく思う。それをほんとうに深いところで、自分の全体で感じとってしまう。そういう相手に対する思いやりがまず第一です。この思いやりのない、相手に対するやさしさのない、相手を痛ましく思うことのない心からでる言葉、それは冷たい言葉になります。相手を傷つける言葉になります。実際に役に立つことのできない言葉になってしまいます。

それでは、こういった面でキリストはどうだったでしょう。キリストは神の愛からでてきたかたです。天のおん父はおんひとり子を与えてくださるほどこの世を愛されたとあります。天のおん父は、わたしたちの痛ましい姿をごらんになり、その痛ましい姿をしっかりと受けとって、見て見ぬふりをすることがおできにならない。そういうところからでてきたキリストの誕生です。キリストにはまず愛があります。キリストの姿の背後にはまずわたしたちに対する限りのない愛があります。思いやりからでる言葉、わたしたちをほんとうに痛ましいと感じることからでてくる言葉、これは、やはりわたしたちの希望になるはずです。キリストは、まさにそういうかただったということです。
しかもそれは、たんなる思いつきからでてくる言葉でもありません。人間をほんとうに育てるためになにが必要なのか。人間をほんとうに導くためには、どんな光が必要なのか。人間を罪の病からほんとうに解き放すためには、どのような恵みが必要なのか。じっくりと考え、しっかりと人間をみつめながら、わたしたちのために父なる神様が心をひらいてくださった、それがキリストだというわけです。キリストの中には、わたしたちへの神の愛がこめられています。そしてキリストの中にわたしたちの人生をいやし、照らし、導き、完成しようとする神の思いがすべてこめられているのです。キリストはまさに神の最高の言葉といっていいのです。
そしてもう一つ、忘れてはならないことは、言葉はいのちであるということです。言葉にはその人の内面のいのちがすべてこもっているということです。恩師の言葉、その中には恩師のいのち、その人生がすべてあるということなのです。言葉には、恩師の生きてきたいのちそのものがこめられているはずです。そこで、恩師の言葉をすなおに心から受けとれば受けとるほど、恩師の人格が伝わってきます。恩師のいのちが伝わってきます。いのちを伝承することができるわけです。
ですから、神の言葉には、神のいのちそのもの、神の内面の生命そのものがこめられていると考えてもまちがいではありません。つまり、キリストはわたしたちに向かって神のいのちを伝えてくれるかたでもあるのです。たんに、わたしたちのための神の愛というだけではない。わたしたちの人生を照らす光というだけではない。神のいのちそのものをわたしたちに伝えてくださる、そういった言葉であるということです。このようなキリスト、神の言葉としてのキリスト、それをわたしたちはしっかりとみつめなおす必要があると思います。キリストの中に神のわたしたちに対する光がある。わたしたちに与えようとする神のいのちそのものが、生きているということです。

JUAN, 1, 14
No sera menos un enigma esta hoja
que las de Mis libros sagrados
ni aquellas otras que repiten
las bocas ignorantes,
creyendolas de un hombre, no espejos
oscuros del Espiritu.
Yo que soy el Es, el Fue y el Sera
vuelvo a condescender al lenguaje,
que es tiempo sucesivo y emblema.
Quien juega con un nino juega con algo
cercano y misterioso;
yo quise jugar con Mis hijos.
Estuve entre ellos con asombro y ternura.
Por obra de una magia
naci curiosamente de un vientre.
Vivi hechizado, encarcelado en un cuerpo
y en la humildad de un alma.
Conoci la memoria,
esa moneda que no es nunca la misma.
Conoci esperanza y el temor,
esos dos rostros del incierto futuro.
Conoci la vigilia, el sueno, los suenos,
la ignorancia, la carne,
los torpes laberintos de la razon,
la amistad de los hombres,
la misteriosa decocion de los perros.
Fui amado, compredido, alabado y pendi de una cruz.
Bebi la copa hasta las heces.
Vi por Mis ojos lo que nunca habia visto:
la noche y sus estrellas.
Cono ci lo pullido, lo arenoso, lo desparejo, lo aspero,
el sabor de la miel y de la manzana,
el agua en la garganta de la sed,
el peso de un metal en la palma,
la voz humana, el rumor de unos pasos sobre la hierba,
el olor de la lluvia en Galilea,
el alto grito de los pajaros.
Concoc i tambien la amargura.
He encomendado esta escritura a un hombre cualquiera;
no sera nunca lo que quiero decir,
no dejara de ser su reflejo.
Desde Mi eternidad caen estos signos.
Que otro, no el que es ahora su amanuense, escriba el poema.
Manana sere un tigre entre los tigres
y predicare Mi ley a su selva,
o un gran arbol en Asia.
A veces pienso con nostalgia
en el olor de esa carpinteria.

Jorge Luis Borges, Elogio de la Sombra, 1969



JOHN 1:14
This page will be no less a riddle
than those of My holy books
or those others repeated
by ignorant mouths
believing them the handiwork of a man,
not the Spirit’s dark mirrors.
I who am the Was, the Is, and the Is To Come
again condescend to the written word,
which is time in succession and no more than an emblem.
Who plays with a child plays with something
near and mysterious;
wanting once to play with My children,
I stood among them with awe and tenderness.
I was born of a womb
by an act of magic.
I lived under a spell, imprisoned in a body,
in the humbleness of a soul.
I knew memory,
that coin that’s never twice the same.
I knew hope and fear,
those twin faces of the uncertain future.
I knew wakefulness, sleep, dreams,
ignoran ce, the flesh,
reason’s roundabout labyrinths,
the friendship of men,
the blind devotion of dogs.
I was loved, understood, praised, and hung from a cross.
I drank My cup to the dregs.
my eyes saw what they had never seen-
night and its many stars.
I knew things smooth and gritty, uneven and rough,
the taste of honey and apple,
water in the throat of thirst,
the weight of metal in the hand,
the human voice, the sound of footsteps on the grass,
the smell of rain in Galilee,
the cry of birds on high.
I knew bitterness as well.
I have entrusted the writing of these words to a common man;
they will never be what I want to say
but only their shadow.
These signs are dropped from My eternity.
let someone else write the poem, not he who is now its scribe.
Tomorro w I shall be a great tree in Asia,
or a tiger among tigers
preachin g My law to the tiger’s woods.
Sometime s homesick, I think back
on the smell of that carpenter’s shop.
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主のご降誕 (夜半のミサ)  岸和田教会

2010-12-29 10:56:16 | Weblog
主の降誕(夜半のミサ)
【ルカ2:1ー14】 

宿屋には彼らのために泊まる場所がなかったからである。
ルカ2・7参照


クリスマスおめでとうございます。
世界中の国では、クリスマスとなると、なにをおいても、このときばかりはと、それぞれ家族のもとに帰り、一家団欒(いっかだんらん)の大切なひとときを、ともにするのが慣わしです。家族や肉親が久しぶりに再会し、ともども主の降誕を祝い、感謝し、親子・兄弟の絆を強めるとともに、そのような善意と平和が、くまなく全世界に広まっていくことをキリスト教徒たちは祈り願っています。日本では、年の瀬、大晦日に除夜の鐘とともに、しんみりと、この一年を、あるいは、これまでの自分の人生を回想し追憶します。そこに、至らぬ自分、あるいは逆に、満ち足りた自分の姿を見るのかもしれません。いずれにせよ、このシーズン、感謝と希望のうちに一人でも多くの人々が、古い自己を脱却し、遠大な思想にたち帰り、「いと高き天においては神に栄光、地においてはみ心にかなう人々に平安」という聖書のこの言葉が一人一人の心に響きわたります。

さて、最初のクリスマスはどうだったでしょうか。
母マリアは、生まれたばかりの赤ちゃんを飼い葉おけに寝かせたと書いてあります。なぜなら、宿屋には彼らのいる場所がなかったからです。ということは、人々の心に場所がなかったということでしょう。私たちの心は自分のことで一杯で、人のことを考える余裕はありません。とくに自分の苦しみの時はそうです。
二千年まえのこの時も、皆それぞれ自分のことに忙しくて、この貧しいヨセフとマリアに、かまっているひまはなかったのです。私たちはまず、自分のことを最優先します。それから、自分に関係の深い物事に関心がいき、もし時間があれば神のことも考えるのです。つまり、神の場所はいちばん後回しになりやすいのです。神は、文句を言いませんから。
ところで、私たちが生きるために、物理的な場所と同時に心理的、精神的な心の場所も必要です。赤ちゃんでさえ、母親のおなかに物理的に存在したにもかかわらず、母の心に自分の場所がない時に、大きなショツクを受けるといいます。私たちも周りの人々の心の中に場所がないと感じる時、大変つらくなります。いじめというのは、その人の心の場所を奪うことでしょう。
イエス様が人間としてこの世に入られる時、受胎することをマリアが承知しました。つまり神の子のために、物理的な胎内という場所のまえに、マリアの心に場所があったということでしょう。次にイエス様はヨセフの心に場所を見いだし、馬小屋の中でこの世に物理的な場所を持たれ、次いで羊飼いたちの心、三人の博士たちの心にも場所を広げられました。
私たちの心が自分のことで一杯で、他人の場所がない時、他の人の心にも自分の場所がないことを表します。他の人だって、自分のことで一杯なのですから。自分の心に他の人の場所をつくらないで、人にだけ私の場所をつくれとは無理な相談です。私がまず、私の心に人の場所をつくる時、人も私の場所をつくってくれる可能性が生まれます。心に人の場所をつくれるということは、その人の心の広さを表し、その人の人格のすばらしさを示すのです。逆に自分で一杯ということは、その人の心の狭さを示します。
いちばんかんたんでよい方法は、人を愛することでしょう。自分のために人を愛するのではなく、その人のために愛する時、いつの問にか私の心をその人が占領します。しかも私は少しも損だとは思いません。愛していない時に自分の時間、場所を少しでも犯されると腹が立ち、損をしたと思ってしまいます。
では神の場所は、どうでしょう。ついつい神の場所は後回しになって、困った時や苦しい時ぐらいしか、神を思い出さないこともあります。私たちが神を忘れても、神は私たちを忘れませんけれど。私たちが神の場所を設けなくても、神の中の私たちの場所がなくなることはないでしょう。しかし私たちが物理的、時間的に私たちの心に神の場所を設けないなら、神の中の私たちの場所を、自分で閉ざしているのです。

親の心には子どもの場所がいつもあります。しかし子どもが親のことを無視していれば、そこにある自分の場所をも無視していることになりますし、場所があることに気づかなくなるのです。子どもが心から親を敬う時、親の心の中にある自分の場所を、いちばん大切にしていることになります。
ですから神のために、一日のうち五分でも十分でも、場所をあける必要があります。しかしそれはこの五分間に、神を閉じこめることではありません。私の狭い場所に神をおしこめて、私の願いを聞いてもらおうとすることではありません。神は私の召し使いではないのです。神は私の一部分をほしいのではなく、私全部をほしいのです。つまり私の場をご自分の場にしたいのです。
神を私の場に閉じこめることではなく、私の場が、神の場の中に開かれることを望むのです。
私の心を神にあけ渡す時、神が私の場となられるのです。そのことを表現する手段として、物理的に時間的に一日のうちの五分を神にあけ渡すのです。神こそ私の全部の場なのだ、ということを忘れないため、五分をささげるのです。
神の国は物理的でも心理的精神的な場(スペース)でもありません。まったく霊的な場を持つ国なのです。ただ私たち人間は、それを物理的時間的に表現する必要があるのです。神の国は武器の力によって獲得する国とは違い、愛の力によってのみ成立する国です。私たちが神を愛する時、その国の愛の支配の中に入るのです。心に神の場所を設けるということは、その人の心がとてつもなく広いということを表します。他人のこと考えられる人は、すばらしい人です。だったら神のことを考えられる人は、何とすばらしい人てしょう。
このクリスマスにあたって、私たちの心に幼子イエス様の場所を作りたいと思います。それはイエス様の場の中で私たちが生きるためです。私たちが狭苦しい場から、イエス様の広い場へ移るとき、私たちは本当に自由になるでしょう。狭い自分の広場から飛び出て、広大な神様広場、イエス様広場、愛の広場に開かれるとき、私は私から自由になって、お互いにこころから兄弟姉妹を愛せるでしょう。神様広場、イエス様広場では、すべての人間がまったく平等なのですから。今晩、世界中の人々と心をあわせて、幼子キリストの誕生をともに心から祝いたいと思います。クリスマスおめでとうございます。

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待降節 第4主日A年  野の百合会

2010-12-20 11:46:17 | Weblog
待降節第4主日A年  野の百合会 (説教時間:約20分)
マタイによる福音書1章18~25節
恐れず迎え入れなさい

I あきらめと仕方なさ

今年一年変革を求めて日本社会は動いたのかもしれません。しかし、現在のところ格段に良くなったという成果は現れてはいないようです。 そして、わたしたち個人のことを考えてみても、心のどこかで不安や恐れをみんなが抱いているのではないかと考えることがあります。 失業率の上昇にははどめがかからず、円高や株価の安値も伝えられている通りです。わたしが子どもの頃思い描いていた未来は、もっともっと暮らしやすい世の中でした。言い方を変えれば「バラ色の21世紀」が訪れるはずだと思っていました。でも、そうはなっていない現実があります。 何が悪くてそうなっているのか、単純な理由ではないでしょう。が、大人も子どももどこか変化してきているような気がしています。 普段子どもたちに接している方々の話を聞くと、無気力な子どもたちが増えてきたと感じています。 やるべきことをやろうとしない。例えば、いついつまでに宿題をしなければならないのに、提出期限を過ぎても出さない。教師から請求されても、言い訳をしてまだ出さない。やらないで逃れようとするのです。その中には勉強する習慣がない子どももいるようです。「めんどくさい」「だるい」「やりたくない」「何とかなる」。そういう言葉の中に深いあきらめや虚無があるような気がします。子どもたちにとって人生はこれからなのに、素晴らしい
可能性を秘めているはずなのにと思うとすごくもったいないと思います。 先日、何気なくテレビを見ておりました。マイケル・ムーアというアメリカ人のドキュメンタリーの映画監督のインタビュー番組だったのです。その中に「政治家やマスコミが恐怖や不安をあおることで人々をコントロールしやすくなる」という言葉があったのです。 「なるほど」と思わされました。不安や恐れを何度となく伝えられることで、みんながど
こかであきらめムードになってしまっているのかもしれないと思えたのです。大人は悪くならない程度にこのままの生活が何とか続いていけば良い。子どもたちはどうせ努力したって自分の能力はたかが知れている。そんなふうに考えるように操作されて、みんなあきらめとか仕方なさの中に生きざるを得なくなっているのではないかと思わせられました。

II 不安と恐れ

けれども、イエス・キリストが生まれた2000年前のユダヤというところもまた人々が不安や恐れを感じながら生きていたのではなかったかと想像するのです。 第一朗読に「もどかしさ」ということばがありました。これも大変興味深いことばですが、今日は朗読されたマタイによる福音書の物語はイエスの父であるヨセフという人に焦点をあてたものです。マリアという婚約者と間もなく結婚するというある日、まだ結婚前に、マリアの妊娠が発覚するのです。
マリアと婚約中であったヨセフにとって、いいなずけのマリアが子を宿したと知った時、ど
のように思ったことでしょうか。たいへんなショックだったに違いないのです。「聖霊によ
って身ごもっていることが明らかになった」と聖書には書かれていますが、ヨセフからして
みれば、いったいそれが聖霊によって宿ったものだということがどうして分かるはずがあり
ましょうか。「マリアは私という婚約者がいながら、他の男性と関係を持って子を宿したの
だ」と考えるのが当たり前です。  婚約者マリアの妊娠を知ったヨセフはマリアと別れることを決心しました。 しかし離縁したらしたで、今度はほかの問題が起こってきます。それは、ヨセフと別れた
マリアが妊娠していたことが分かると、今度は婚約者を妊娠させたにもかかわらず離縁した
ということで、ヨセフが世間の非難をあびることになるのです。
ヨセフの心の中には不安があったでしょうし、恐れがあったことでしょう。幸せな結婚を
しようとしているのに、どうしてこんなことが起こったのだという怒りもあったことでしょう。

III 恐れを超える希望

ところが、ヨセフが眠っていると、その夢の中に天使が現れたというのです。《ダビデの
子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい》と天使は語ります。 「恐れず」というのです。不安の中にある。恐れを感じている。そんなヨセフに「恐れず」と天使は語るのです。 わたしも含めて人間は不安や恐れを感じているときには、積極的に行動することができません。動けなくなるのです。硬直するとでも言うのでしょうか。そして、恐れているときには、幸せや喜びを感じなくなるのです。 不安や恐怖とは、人間の中で自分を守るために一番敏感にしておかなければならない感覚です。この感覚がないと人間は自分の身に危険が及ぶのを察知し回避することができなくなります。でも、この感覚が働きすぎると、逆に何もしないとか何もできなくなるとかいうことが起こるのです。 犯罪にまきこまれ、被害を受けた人に心ない人が言うことがあります。「どうして抵抗しなかったの?」と。人間の心理を全くわかっていない発言だと憤りを感じることすらあります。人間は本当に恐怖を感じたら、動けなくなるのです。何もできなくなるのです。 ヨセフはとりあえずマリアを石打の刑にするのは嫌だった。だから表ざたにせず《ひそか
に縁を切ろうと決心した》わけです。自分の恐怖を取り除き、マリアから離れることで自分
の生活を取り戻そうとしたわけです。 それに対して、神は天使の言葉を通し《恐れず妻マリアを迎え入れなさい》と語るのです。恐れを超えなさい、動きなさいと語っているのです。恐れを超えたその先にイエスの誕生という喜びがあることを示そうとするのです。 そしてさらに、この出来事は「インマヌエル(神は我々と共におられる)」ということなのだと説明しているのです。 さらに、ヨセフの不安のただ中に、ヨセフが恐れを感じるそのそばに、神は共にいるのだということを示しているのです。
「夢」ならば私たちも見ます。もちろん「正夢」(正夢(まさゆめ)は、夢に見た通りのこ
とが現実になる夢のこと)というのもあるが、全く荒唐無稽(こうとうむけい、でたらめ)
な夢もある。いちいちそういう夢の通りにしていたら、きりがありません。 それこそ夢
物語になってしまいます。子どもが「テレビのタレントになる夢を見た」からと言って、そ
うなるわけでもないのです。 けれども、フロイトを待つまでもなく、人類は昔から夢にイ
ンスピレーションを得てきました。
神はわたしたちにも同じことを語りかけているのではないでしょうか。クリスマスとは喜
びの訪れです。希望の象徴です。一人のいたいけない赤ちゃんがこの世の救い主としてわたし
たちに遣わされる。この世を愛の力によって変えようとする神の意志の表れだと思います。 この世界はあきらめや虚無によって支配されるものではないのです。不安や恐怖が渦巻いて何をやっても無駄だという仕方なさの中にあるのでもないのです。 確かに、わたしたちの中にはあきらめや虚無があります。不安や恐れがあります。それでもなお、わたしたちには希望が与えられるのです。 イエス・キリストはこの世界に希望をもたらすために、一人の赤ちゃんとしてやって来たのです。 クリスマスという出来事はわたしたちを信じ、わたしたちを愛する神が、これまでも今もこれからもわたしたちと共におられるという確かなしるしなのです。

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待降節第3主日 A   武庫之荘

2010-12-12 17:42:35 | Weblog
待降節第3主日 A

【マタ11:2ー11】


あいさつ:

降誕祭をまじかにひかえて、今年のクリスマスは私たちにとって信仰、希望と愛を育てる機会となるように祈りたいと思います。


今日の日曜日は、古くから「喜びの主日(dominica de gaudete)」と言われてきました。それは、入祭唱が、パウロの手紙の喜びへの招きのことばから始まるからです。パウロは、「主にあって喜べ、かさねていう、喜べ」と、喜びに私たちを招きます。イザヤ書も、荒れ果てた大地と病に打ち倒された人々に向かって、よろこび踊る時が訪れてくることを告げます。このように今日の聖書と典礼の基調は喜びなのです。
  その喜びは、クリスマスを前にした喜びですが、「主にあって」の喜びであり、「いつも」喜べとあるように、失われることのない、持続可能なよろこびへの招きなのです。
「喜びとは、私たちの願い求めるものが与えられたときの充足感である」と、ある心理学者は、喜びをこのように定義しています。逆に、願い求めたものが与えられないときには、悲しみとなります。
  それでは、喜びと悲しみと、どちらを多く私たちは体験するでしょうか。また、どちらの方が長く持続するでしょうか。
厚生労働省の最近のデータによれば、年間の離婚件数は3万件近くになっているそうです。約2.8組に対して1組が離婚するという、たいへん多い数だということができます。ここ10年は、毎年戦後最高を更新し続けているのです。結婚当初は、アツアツの新鮮な、希望に燃えたカップルが、いつしか現実の生活の中で、熱が冷め、すれ違いが生じ、小さな不平不満が蓄積していく。「こんなはずではなかった」ということになり、そして妻あるい夫から三行半(みくだりはん)を突きつけられる。そういうことが数字の背景に見えてきます。
このように、私たちの体験からしても、喜びに満ちた人生をおくれる人よりも、悲しみにおおわれた人生を歩む人が少なくないのです。
喜びよりも悲しみの方が多いというのは、それは人生だという人もいます。確かに人間というのは、からだは疲れやすい、油断すると病気になるのです。どんなにすばらしい青春をした人にも、徐々に老いが忍び寄ってきます。人と人との交わりも、持続できる場合は比較的まれです。「会うは別れの始まり」というように、愛する者同士の心からの喜びも恒常的なものではありません。転勤がある、事故が起こる、病気になる、そのようなことで分かれてしまいます。複雑な社会の流れに巻き込まれて、木の葉のように、小さな人間の喜びは吹き飛ばされてしまいます。
思いどおりにならない人生、そこに人間の小ささ、無力さがひそんでいます。私たちは年をとって、現実の人生に踏み込んでいくにしたがって、自分の才能の足りなさ、力のなさ、現実に対する自分の無力感を体験していきます。
自分自身も、他人も、世界も、思いどおりにいかないものだという現実を、くりかえしくりかえし体験することによって、私たちの心には悲しみや、やるせなさがしみついていきます。たとえ家庭生活に喜びがあるとしても、無条件に私たちが喜びにひたることはできないと悟ります。悲しさや無力感が生きる姿勢にしみこんで、そして深まっていって、私たちの心を疲れで満たして、さびしい絶望みたいなものの中に追い込んでしまう場合もあります。

「よろこびおどれ」というイザヤの招き、「主にあってよろこべ」というパウロのことばは、こうしたギリギリの人間のもろさの中で、愛の神からさしのべてくる手を感じとることへの招きなのです。ほうっておけば完全に喜びは消えうせた世界に落ちてしまう私たちを、根底から支え、みたしてくれる神が、訪れてくることへの自覚を促すことばなのです。
  ただ、そうした神の訪れが喜びとして受け取るためには、心の中に、神以外のどんなものも自分をみたし、支えてくれるものはないのだという、神への渇きを前提としているのです。自分の無力感、自分の弱さを十分知れば知るほど、それを支えるために近づいてくる神の姿が、私たちにとってより大きな喜びとなるのです。医者の存在を真実に喜べる者は病人であるように、神の訪れを心から喜べるものは、自分の貧しさ、無力を知る人です。(森)


私たちはどういうキリストを待っているのでしょうか? どういうキリストを期待しているのでしょうか?
 福音書5節、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」 ここを読むと、前半は分かります。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り」。だとするとそれに続くところは、「貧しい人はお金持ちになっている」と続いてよさそうなものです。だとしたら、世の中の多くの人は、もっとイエスさまのところに殺到することでしょう。しかしそこは、「貧しい人は福音を告げ知らされている」となっている。たとえば、そんなことにつまづく人もいることでしょう。「なんだ、イエスさまは私をお金持ちにしてくれないのか」という具合です。
 人間が期待するキリストの姿と、実際のイエスさまとが違う。私たちが期待するイエスさまと、実際のイエスさまが違う。‥‥それで、クリスマスはちょっとした馬鹿騒ぎにしか「見えない人々がたくさんいるのです。 ある人は、イエスに革命家であることを期待します。この世を変革して、問題を取り除いて良い世の中にするイエスを期待します。またある人は、慈善事業家であるイエスを期待します。またある人は、単なる奇跡的な医者としてのイエスを期待したり、便利屋のようなイエスさまを期待します。しかしそのような人は、結局みなつまずくのです。そして去っていくのです。 クリスマスの意味もありがたさもわからない。
 
 主イエスは言われます、「私につまずかない人はさいわいである」。 しかし私たちはつまずきやすい者です。キリストにつまずかないことは何か、今年のクリスマスはせめてそれを悟れるように祈りたいと思います。
テレビのグルメ番組を見ていると、おいしい料理を食べているテレビタレントが、「うまい」を連発し、それがどううまいかを解説する。見ている私たちは、いくらそのうまさを解説されても、意味がありません。実際にそれを食べてみなければ。
キリストがもたらした喜びは同じだと思います。

皆さん、よいクリスマスをすごしてください。

父と子と聖霊のみ名によって







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