主の降誕(夜半のミサ)
【ルカ2:1ー14】
宿屋には彼らのために泊まる場所がなかったからである。
ルカ2・7参照
クリスマスおめでとうございます。
世界中の国では、クリスマスとなると、なにをおいても、このときばかりはと、それぞれ家族のもとに帰り、一家団欒(いっかだんらん)の大切なひとときを、ともにするのが慣わしです。家族や肉親が久しぶりに再会し、ともども主の降誕を祝い、感謝し、親子・兄弟の絆を強めるとともに、そのような善意と平和が、くまなく全世界に広まっていくことをキリスト教徒たちは祈り願っています。日本では、年の瀬、大晦日に除夜の鐘とともに、しんみりと、この一年を、あるいは、これまでの自分の人生を回想し追憶します。そこに、至らぬ自分、あるいは逆に、満ち足りた自分の姿を見るのかもしれません。いずれにせよ、このシーズン、感謝と希望のうちに一人でも多くの人々が、古い自己を脱却し、遠大な思想にたち帰り、「いと高き天においては神に栄光、地においてはみ心にかなう人々に平安」という聖書のこの言葉が一人一人の心に響きわたります。
さて、最初のクリスマスはどうだったでしょうか。
母マリアは、生まれたばかりの赤ちゃんを飼い葉おけに寝かせたと書いてあります。なぜなら、宿屋には彼らのいる場所がなかったからです。ということは、人々の心に場所がなかったということでしょう。私たちの心は自分のことで一杯で、人のことを考える余裕はありません。とくに自分の苦しみの時はそうです。
二千年まえのこの時も、皆それぞれ自分のことに忙しくて、この貧しいヨセフとマリアに、かまっているひまはなかったのです。私たちはまず、自分のことを最優先します。それから、自分に関係の深い物事に関心がいき、もし時間があれば神のことも考えるのです。つまり、神の場所はいちばん後回しになりやすいのです。神は、文句を言いませんから。
ところで、私たちが生きるために、物理的な場所と同時に心理的、精神的な心の場所も必要です。赤ちゃんでさえ、母親のおなかに物理的に存在したにもかかわらず、母の心に自分の場所がない時に、大きなショツクを受けるといいます。私たちも周りの人々の心の中に場所がないと感じる時、大変つらくなります。いじめというのは、その人の心の場所を奪うことでしょう。
イエス様が人間としてこの世に入られる時、受胎することをマリアが承知しました。つまり神の子のために、物理的な胎内という場所のまえに、マリアの心に場所があったということでしょう。次にイエス様はヨセフの心に場所を見いだし、馬小屋の中でこの世に物理的な場所を持たれ、次いで羊飼いたちの心、三人の博士たちの心にも場所を広げられました。
私たちの心が自分のことで一杯で、他人の場所がない時、他の人の心にも自分の場所がないことを表します。他の人だって、自分のことで一杯なのですから。自分の心に他の人の場所をつくらないで、人にだけ私の場所をつくれとは無理な相談です。私がまず、私の心に人の場所をつくる時、人も私の場所をつくってくれる可能性が生まれます。心に人の場所をつくれるということは、その人の心の広さを表し、その人の人格のすばらしさを示すのです。逆に自分で一杯ということは、その人の心の狭さを示します。
いちばんかんたんでよい方法は、人を愛することでしょう。自分のために人を愛するのではなく、その人のために愛する時、いつの問にか私の心をその人が占領します。しかも私は少しも損だとは思いません。愛していない時に自分の時間、場所を少しでも犯されると腹が立ち、損をしたと思ってしまいます。
では神の場所は、どうでしょう。ついつい神の場所は後回しになって、困った時や苦しい時ぐらいしか、神を思い出さないこともあります。私たちが神を忘れても、神は私たちを忘れませんけれど。私たちが神の場所を設けなくても、神の中の私たちの場所がなくなることはないでしょう。しかし私たちが物理的、時間的に私たちの心に神の場所を設けないなら、神の中の私たちの場所を、自分で閉ざしているのです。
親の心には子どもの場所がいつもあります。しかし子どもが親のことを無視していれば、そこにある自分の場所をも無視していることになりますし、場所があることに気づかなくなるのです。子どもが心から親を敬う時、親の心の中にある自分の場所を、いちばん大切にしていることになります。
ですから神のために、一日のうち五分でも十分でも、場所をあける必要があります。しかしそれはこの五分間に、神を閉じこめることではありません。私の狭い場所に神をおしこめて、私の願いを聞いてもらおうとすることではありません。神は私の召し使いではないのです。神は私の一部分をほしいのではなく、私全部をほしいのです。つまり私の場をご自分の場にしたいのです。
神を私の場に閉じこめることではなく、私の場が、神の場の中に開かれることを望むのです。
私の心を神にあけ渡す時、神が私の場となられるのです。そのことを表現する手段として、物理的に時間的に一日のうちの五分を神にあけ渡すのです。神こそ私の全部の場なのだ、ということを忘れないため、五分をささげるのです。
神の国は物理的でも心理的精神的な場(スペース)でもありません。まったく霊的な場を持つ国なのです。ただ私たち人間は、それを物理的時間的に表現する必要があるのです。神の国は武器の力によって獲得する国とは違い、愛の力によってのみ成立する国です。私たちが神を愛する時、その国の愛の支配の中に入るのです。心に神の場所を設けるということは、その人の心がとてつもなく広いということを表します。他人のこと考えられる人は、すばらしい人です。だったら神のことを考えられる人は、何とすばらしい人てしょう。
このクリスマスにあたって、私たちの心に幼子イエス様の場所を作りたいと思います。それはイエス様の場の中で私たちが生きるためです。私たちが狭苦しい場から、イエス様の広い場へ移るとき、私たちは本当に自由になるでしょう。狭い自分の広場から飛び出て、広大な神様広場、イエス様広場、愛の広場に開かれるとき、私は私から自由になって、お互いにこころから兄弟姉妹を愛せるでしょう。神様広場、イエス様広場では、すべての人間がまったく平等なのですから。今晩、世界中の人々と心をあわせて、幼子キリストの誕生をともに心から祝いたいと思います。クリスマスおめでとうございます。
【ルカ2:1ー14】
宿屋には彼らのために泊まる場所がなかったからである。
ルカ2・7参照
クリスマスおめでとうございます。
世界中の国では、クリスマスとなると、なにをおいても、このときばかりはと、それぞれ家族のもとに帰り、一家団欒(いっかだんらん)の大切なひとときを、ともにするのが慣わしです。家族や肉親が久しぶりに再会し、ともども主の降誕を祝い、感謝し、親子・兄弟の絆を強めるとともに、そのような善意と平和が、くまなく全世界に広まっていくことをキリスト教徒たちは祈り願っています。日本では、年の瀬、大晦日に除夜の鐘とともに、しんみりと、この一年を、あるいは、これまでの自分の人生を回想し追憶します。そこに、至らぬ自分、あるいは逆に、満ち足りた自分の姿を見るのかもしれません。いずれにせよ、このシーズン、感謝と希望のうちに一人でも多くの人々が、古い自己を脱却し、遠大な思想にたち帰り、「いと高き天においては神に栄光、地においてはみ心にかなう人々に平安」という聖書のこの言葉が一人一人の心に響きわたります。
さて、最初のクリスマスはどうだったでしょうか。
母マリアは、生まれたばかりの赤ちゃんを飼い葉おけに寝かせたと書いてあります。なぜなら、宿屋には彼らのいる場所がなかったからです。ということは、人々の心に場所がなかったということでしょう。私たちの心は自分のことで一杯で、人のことを考える余裕はありません。とくに自分の苦しみの時はそうです。
二千年まえのこの時も、皆それぞれ自分のことに忙しくて、この貧しいヨセフとマリアに、かまっているひまはなかったのです。私たちはまず、自分のことを最優先します。それから、自分に関係の深い物事に関心がいき、もし時間があれば神のことも考えるのです。つまり、神の場所はいちばん後回しになりやすいのです。神は、文句を言いませんから。
ところで、私たちが生きるために、物理的な場所と同時に心理的、精神的な心の場所も必要です。赤ちゃんでさえ、母親のおなかに物理的に存在したにもかかわらず、母の心に自分の場所がない時に、大きなショツクを受けるといいます。私たちも周りの人々の心の中に場所がないと感じる時、大変つらくなります。いじめというのは、その人の心の場所を奪うことでしょう。
イエス様が人間としてこの世に入られる時、受胎することをマリアが承知しました。つまり神の子のために、物理的な胎内という場所のまえに、マリアの心に場所があったということでしょう。次にイエス様はヨセフの心に場所を見いだし、馬小屋の中でこの世に物理的な場所を持たれ、次いで羊飼いたちの心、三人の博士たちの心にも場所を広げられました。
私たちの心が自分のことで一杯で、他人の場所がない時、他の人の心にも自分の場所がないことを表します。他の人だって、自分のことで一杯なのですから。自分の心に他の人の場所をつくらないで、人にだけ私の場所をつくれとは無理な相談です。私がまず、私の心に人の場所をつくる時、人も私の場所をつくってくれる可能性が生まれます。心に人の場所をつくれるということは、その人の心の広さを表し、その人の人格のすばらしさを示すのです。逆に自分で一杯ということは、その人の心の狭さを示します。
いちばんかんたんでよい方法は、人を愛することでしょう。自分のために人を愛するのではなく、その人のために愛する時、いつの問にか私の心をその人が占領します。しかも私は少しも損だとは思いません。愛していない時に自分の時間、場所を少しでも犯されると腹が立ち、損をしたと思ってしまいます。
では神の場所は、どうでしょう。ついつい神の場所は後回しになって、困った時や苦しい時ぐらいしか、神を思い出さないこともあります。私たちが神を忘れても、神は私たちを忘れませんけれど。私たちが神の場所を設けなくても、神の中の私たちの場所がなくなることはないでしょう。しかし私たちが物理的、時間的に私たちの心に神の場所を設けないなら、神の中の私たちの場所を、自分で閉ざしているのです。
親の心には子どもの場所がいつもあります。しかし子どもが親のことを無視していれば、そこにある自分の場所をも無視していることになりますし、場所があることに気づかなくなるのです。子どもが心から親を敬う時、親の心の中にある自分の場所を、いちばん大切にしていることになります。
ですから神のために、一日のうち五分でも十分でも、場所をあける必要があります。しかしそれはこの五分間に、神を閉じこめることではありません。私の狭い場所に神をおしこめて、私の願いを聞いてもらおうとすることではありません。神は私の召し使いではないのです。神は私の一部分をほしいのではなく、私全部をほしいのです。つまり私の場をご自分の場にしたいのです。
神を私の場に閉じこめることではなく、私の場が、神の場の中に開かれることを望むのです。
私の心を神にあけ渡す時、神が私の場となられるのです。そのことを表現する手段として、物理的に時間的に一日のうちの五分を神にあけ渡すのです。神こそ私の全部の場なのだ、ということを忘れないため、五分をささげるのです。
神の国は物理的でも心理的精神的な場(スペース)でもありません。まったく霊的な場を持つ国なのです。ただ私たち人間は、それを物理的時間的に表現する必要があるのです。神の国は武器の力によって獲得する国とは違い、愛の力によってのみ成立する国です。私たちが神を愛する時、その国の愛の支配の中に入るのです。心に神の場所を設けるということは、その人の心がとてつもなく広いということを表します。他人のこと考えられる人は、すばらしい人です。だったら神のことを考えられる人は、何とすばらしい人てしょう。
このクリスマスにあたって、私たちの心に幼子イエス様の場所を作りたいと思います。それはイエス様の場の中で私たちが生きるためです。私たちが狭苦しい場から、イエス様の広い場へ移るとき、私たちは本当に自由になるでしょう。狭い自分の広場から飛び出て、広大な神様広場、イエス様広場、愛の広場に開かれるとき、私は私から自由になって、お互いにこころから兄弟姉妹を愛せるでしょう。神様広場、イエス様広場では、すべての人間がまったく平等なのですから。今晩、世界中の人々と心をあわせて、幼子キリストの誕生をともに心から祝いたいと思います。クリスマスおめでとうございます。










