受難の月曜日
「マリアは香油をイエスの足に塗った」
ヨハネ12・1-11
やがて死んでいくイエスの姿を見抜いて、マリアは自分の最善のものをささげました。マリアのようにこたえていくことが私たちの信仰生活だと思います。こうしておけばこうなるというのではなく、こうなったからこうするという生活が生まれてこなければならない。そこには律法でない生活がある。私たちは自分自身をふり返ってみて、私のために死んでくださったイエスに対して、あまりにもふさわしくない歩みをしているのではなかろうか、とこの聖週間の間に深く反省したい。人は、そこまでしなくてもいいではないかと言うかもしれない。信仰は自分あっての信仰で、信仰のために自分が苦しんだり、損したり、貧しくなったりしていくのはおかしい、というのが、イスカリオテのユダの論理です。私たち信仰する者にとっては、イエスの命が注がれたのであるから、何をもってこたえたとしても、十分なこたえにはならない。そこには信仰のない人々の理解できない世界があります。(榎本)
--------------
イエスはマリアが高価な香油でイエスの足を清めたことを、イエスご自身の「葬りの日」のためと言われます。そこにいた、よみがえったラザロとあわせて眺める時、この高価な香油を通してイエスの死と復活が響き合ってきます。
主よ、あなたの死への道行きが、わたしたち全ての人の復活へとつながることを悟る遠いまなざしを与えてください。
受難の火曜日
「あなたたちのうちの一人がわたしを裏切る」
ヨハネ13・21-33、36-38
第一朗読に、「あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝き[栄光]は現れる」(イザヤ)あるように、福音書では、ユダの裏切りとペトロの否認は、髪の栄光を表してる。大変なパラドックス(逆説)ですが、こういう出来事は単なる人間のはからい、企て、たくらみではなく、神の計画の実現である、と。 ユダとペトロはイエスの愛にそむく点では同じです。ペトロはやさしい愛情をもっていますが、困難に耐え抜く強さに欠けています。ユダは合理的に筋道を追求する完璧主義者です。そのため、横領(おうりょう) や裏切りを悪いとも思わない氷のような頑固さに陥ります。「心をつくし、精神をつくし、力をつくして神を愛せよ」。愛のおきてで大切なのは、「つくす」ということでないでしょうか。それは自分を与えつくし、ゆだね、まかせ、信じきることです。たとえ愛にそむき、裏切ったとしても、イエスの愛を信じて、みじめな自分をそっくり、そのまま、まかせることです。そこにペトロの涙とユダの絶望の違いが生まれます。(荒)
受難の水曜日
マタイ26・14-25
使徒ユダの裏切りの理由について、マタイ、ヨハネ福音書とも、明確な答を述べていない。いろいろな理由が考えられるその一つに、ユダは、イエスの選んだ道が、“失敗”に向かっていると理解し、自分の描く“大成功のドリーム”と大きく違ったことに気づく。イエスを自分のドリームに従わせることができず、失望したことが、イエスを引き渡すことに繋がったと思われる。山上の説教を思い起こさせる。「弟子は師にまさるものではない。しかし誰でも修行を研鑽すればその師のようになれる。」主の僕イザヤとともに祈ろう。「主なる神は、弟子としての舌を私に与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとに私の耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてください。」(イザヤ50・4)sese07
--------------------
ユダの裏切りは選ばれた民、イスラエル人の不信の歴史を代表しています(縮図)。イスラエル人は荒れ野で肉を食べたいと不平を言い、奴隷状態を懐かしがりました。彼らは、そして私たちも、苦しみの中では、神のいつくしみを忘れます。
過去過ぎた日の未練にとらわれず、未来の苦しみに思い惑わず、きょう一日を神のいつくしみのうちに送らねばなりません。そのために新しい過ぎ越しの食事、聖体祭儀が行われます。(荒)
---------------
「生まれてこなかった方が、その者のために良かった。」という言葉は重く心に沈みます。イエスから決定的に離れてしまうことは、救いにあずかれないこと、不幸そのものであることを、イエスは語っておられるのではないでしょうか。
「まさかわたしのことでは」と問いかけ「それはあなたの言ったことだ」とのイエスからの答えをかみしめながらも、あなたに従ってゆくことができますように。
聖木曜日(主の晩餐の夕べ) (園田教会、2004年)
「弟子たちの足を洗い」
ヨハネ13・1-15
イエスは弟子たちの足を洗われました。弟子たちの中には「だれが一番偉いのか」というような争い、 反目 ( はんもく ) がありました。自分が要職につきたいという野心もあっただろうし、人を押しのけて自分だけが前に出ていこう、人を踏み台にしてでも自分だけが高いところに上ろうという思いがみなぎっていました。そのような弟子たちを前にして、イエス様はみずから進んで上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それからたらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い始められた。それはたいてい奴隷のする仕事であった。さすが弟子たちも、そういうことをされたとき驚いたのです。 ペトロは「私の足を決して洗わないで下さい」と言ったが、イエスは「私のしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
私たちがキリスト信者である理由は、イエスが私たちのために十字架について死んでくださったということだけである。それより深いものも、浅いものもない。それが自分にとって真理であると受けとったときに、その人は信仰者である。キリスト信者は、イエス・キリストにおける神の愛の迫りというものを感じた者である。
アメリカの田舎に年老いた母親と息子という家庭がありました。息子は親孝行で給料の中からいくらか必ず母親に渡していました。戦争が起こり、息子が兵隊に行ってからは、手紙はたびたび来るがお金を送ってこなくなった。軍隊に入って息子が悪い人間になったのかと、母親は寂しく悲しい思いをしていたが、あるとき、そのことをだれかに相談し、手紙を見せたところ、中から小切手が出てきた。母親は小切手を知らなかったので、単なる紙切れと思い、喜ぶことができなかったわけです。そのように、神の愛に感謝できないのは、神の愛がないからではなく、知らないからである。私たちクリスチャンの生活は、神から与えられる、神に足を洗ってもらっている、ことによって起きてくるものであって、神から受けたから他人に与えていくのは当然である。むしろ与えざるをえなくなるのです。パウロは「福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいである」(1コリ9・16)と言っています。
ある地方にはお米はたくさん取れる稲の種類があった。その名前はなんと「だまっとれ」でした。人に言うとそれを作るから「だまっとれ」という品種名がついたのです。自分だけがたくさん収穫したい。それはわざわいである。私たちも福音を聞きながら、それを伝えないならば、「黙っとれ」と同じことになる。本当にわざわいである。許されることのないような罪人である私たちに、イエス・キリストの十字架の死を通して、神の許しと愛が注がれたということを信じながら、そういうことを語ろうとせず、人に伝えようとしないなら、それはわざわいである。それがどんなに大きな愛であるかということがわかればwかるほど、それに対して答えていくし、答えていかずにはおれないのが信者の証しであり、使命なんです。そのためにはまず自分がどんなに神から愛されているか、足を洗ってもらっているか、ということを、教理としてではなく、自分にとって事実にならなければならない。
何十年信仰生活をしているひとでも、敵のために祈ることが自然にできる人や、憎い人を愛する人はあまりいないかもしれない。イエスが私のために十字架について死んでくださったことを知り、そのために「感謝の祭儀」をくりかえし奉げていくことが私たちの信仰生活である。それができるかできないか、それが私たちの信仰の闘いである。天のパンを日ごとに求めていく以外に勝利はないと思う。
イエス様は、「私が足を洗ったからあなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われた。足を洗いなさいというのは、その喜びをもって人々に仕えていきなさいということだと思う。イエスの愛を受け、そこに目をとめ、そこで生かされる、生き甲斐をうける。そしてそのことによって人の足を洗い、またイスカリオテのユダのような人にも、私たちが仕え、愛していくことができる新しい世界が生まれてくるのではないかと思う。(榎本)
聖金曜日・主の受難の祭儀
ヨハネによる福音(18:1-19:42)
ピラトの名が意味するもの
まずピラトという人物です。この人は、これを読む限り、それ程悪い人間には思えません。一人の弱い人間です。何とかしてイエス・キリストを釈放しようとしたけれども、その努力も空しく、企てに失敗したのです。しかしいかがでありましょうか。私たちが、毎週、唱えています信仰告白(使徒信条)には、「(主は)おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け……」とあります。使徒信条で、イエス・キリスト以外に固有名詞が出てくるのは、母マリアとポンテオ・ピラトだけであります。これにより、ピラトの名前は永遠にキリスト教会に刻まれることになりました。果たして、これまで一体、何度、代々の教会において、この名前が口にされたでありましょうか。これは一体何を意味しているのでしょうか。なぜ使徒信条に、ポンテオ・ピラトの名前があるのでしょうか。使徒信条というのは、これ以上削ることはできない最小の形で、キリスト教の信仰を言い表したものです。その中には、マリアの夫ヨセフの名前も、一番弟子、初代教会の創始者ペトロの名前もありません。アブラハムの名前も、モーセもエリヤもない。この時の黒幕で言えば、カイアファの方がもっと悪いのではないか。イスカリオテのユダも出てこない。省けるものは全部省いたのです。それでもポンテオ・ピラトの名前は残った。どうしてでしょうか。
それは第一に、イエス・キリストの受難が、私たち人間の歴史の中にしっかりと組み込まれるためであります。ピラトという名前によって、私たちは、イエス・キリストの苦難と十字架が架空の話ではなく、歴史上の出来事であったことを確認するのです。ポンテオ・ピラトという名前は、歴史上、確認できる名前だからです。
第二に、ピラトという名前は、イエス・キリストがリンチ(私的復讐)によって殺されたのではなく、しかるべき人物のもとで裁かれ、法のもとで死刑に処せられたことを示しています。そうしたことから、ある意味でたまたまその裁判を取り扱ったピラトが、その名前、汚名を残すことになってしまったとも言えるかも知れません。
(4)上に立つ者の責任
しかしピラトの名前が残ったもう一つの理由は、上に立つ者の責任、決定権をもった人間の責任はそれだけ重いということではないでしょうか。誰かを助けられる地位にありながら、それを用いて、その人を助けることをしなかった場合、その責任まで、問われてくるということです。ピラトの場合がまさにそうでありました。この時ピラトはイエス・キリストを、釈放をする権限をもっていました。彼自身がそう言っているのです。しかも彼は、「この男には罪がない」ということを承知していたのです。イエス・キリストが無罪であることを知りながら、彼を釈放しなかった。その罪は、ピラトに課せられるのです。ピラトは自分の権限をふりかざす一方で、多くのものを恐れ、びくびくして生きている人間でありました。何かを決定する時にも、自分が正しいと思うことで判断することができない。力関係の中で、つまり、何が今の自分に有利であるかによって、それを決定する弱い人間でした。それでもピラトの罪が消えるわけではないのです。
http://www.km-church.or.jp/preach/
イエスをあれほど熱狂的に迎えていた人々が、全てイエスを離れてゆきます。そして、ペトロが「違う」「違う」「違う」と何度も否みます。私がイエスにかぶせた茨の冠とは何でしょうか、紫の衣とは何でしょうか、そして、わたしが十字架に掲げた罪状書きにはなんと書いたのでしょうか。
主よ、あなたを十字架にかけたわたしの罪をお許しください。あなたに従ってゆけますよう謙遜な心をお与えください。
---------------------
人はなぜ、苦しむのか。神はなぜ、人が苦しむのを許されるのか。苦しいとき、あるいは愛する人が苦しむとき、心に浮かぶ当然の問いです。
キリスト教はこう答える。「神と人が真の親子となり、真に愛し合うため」。
この世界は神の失敗作ではない。本来は苦しみのない世界を創ろうとして、できなかったというわけではない。神は苦しみも含めてこの世界を創造し、すべてをよしとされたのです。ならば、苦しみにも必ず意味があるはずだ。何か「良い」意味が。
事実、すべての苦しみを取り除いても、真の幸せは訪れない。空腹は苦しいが、満腹の連続が喜びになり得ようか。病も障害も、失意も痛みも、果ては死さえも取り除いた世界に、果たしていたわりの愛やあわれみの心、試練に耐える成長や苦難の中で輝く希望が生まれるだろうか。
そもそも、苦しみを創造したということは、創造主自ら苦しむことを引き受けられたということでもある。親は子を生むとき苦しむものだ。そして、わが子もまた苦しむことがあると知っている。それでも生むのは、それでもわが子に存在を与えて愛し、わが子の苦しみを全面的に共有する覚悟があるからだ。
神は苦しみのない冷たく閉ざされた世界ではなく、苦しみを親子兄弟で共有する、温かく開かれた世界をお創りになった。苦しみによってこそ人は真に出会い、親子は真に愛し合えるからです。
難病のわか子を抱きしめる親は、決して「生まれなければ良かった」とは言わない。代われるものなら代わってあげたい」というでしょう。それは自分の命すら惜しまないということであり、それこそが親心というものではないでしょうか。
全能の神はその親心をイエス・キリストにおいて現実のものとした。共に苦しむことですべてのわが子が親心に目覚め、その愛を信じて神と一つに結ばれ、新たに生まれて「永遠のいのちを得るためである。神は、なんととしてもわが子が「一人も滅びないで」栄光の世界へ生まれ出ることを望んでおられるのです。
神が創造主であるならば、世界の責任者は神である。苦しみを創造した以上、神はその責任をおとりになる。まさに十字架こそは、創造のわざの極みなんおです。人間は苦しみの中でなおも信じるとき、その創造のわざに与っている。今苦しんでいる人に、福音を宣言したい。あなたのその苦しみを神は共に苦しまれ、今あなたは神の国へ生まれようとしている。陣痛の苦しみと出産の喜びは、一つだ。神の愛の内にあっては、絶望と希望すら、ただ一つの恵みの裏表(うらおもて)なのです。(春佐久昌英、カトリック新聞、2009年3月22日)
聖土曜日
大事な息子を殺されて、すべてが終わりかと見えるこの日をマリアはどのように過ごしたでしょうか。毎週の土曜日はマリアにささげられるのは、まさにこの聖土曜日がってのことです。今日、マリアの気持ちと心を合わせてすごしましょう。
祈りのヒント
イエスは葬られました。イエスは、私たちから取り去られたのです。明日は復活祭です。復活は当然なこととして起こることではありません。先の見えない絶望的な暗闇の中におかれても、イエスの愛の勝利を信じ、心から願い求める人々の心にだけ、ほんとうの復活が訪れるはずです。
イエスが取り去られたように見える闇の中でこそ、私たちの信仰の真実さが問われるのではないでしょうか。当然なことは信じる必要がなく、起こるかどうか、実現するかどうかも分からないことを希望し信じることこそ、信じるということでしょう。「イエスは死んだ。それでも、私は信じる」信仰を与え強めてください。 sese07
「マリアは香油をイエスの足に塗った」
ヨハネ12・1-11
やがて死んでいくイエスの姿を見抜いて、マリアは自分の最善のものをささげました。マリアのようにこたえていくことが私たちの信仰生活だと思います。こうしておけばこうなるというのではなく、こうなったからこうするという生活が生まれてこなければならない。そこには律法でない生活がある。私たちは自分自身をふり返ってみて、私のために死んでくださったイエスに対して、あまりにもふさわしくない歩みをしているのではなかろうか、とこの聖週間の間に深く反省したい。人は、そこまでしなくてもいいではないかと言うかもしれない。信仰は自分あっての信仰で、信仰のために自分が苦しんだり、損したり、貧しくなったりしていくのはおかしい、というのが、イスカリオテのユダの論理です。私たち信仰する者にとっては、イエスの命が注がれたのであるから、何をもってこたえたとしても、十分なこたえにはならない。そこには信仰のない人々の理解できない世界があります。(榎本)
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イエスはマリアが高価な香油でイエスの足を清めたことを、イエスご自身の「葬りの日」のためと言われます。そこにいた、よみがえったラザロとあわせて眺める時、この高価な香油を通してイエスの死と復活が響き合ってきます。
主よ、あなたの死への道行きが、わたしたち全ての人の復活へとつながることを悟る遠いまなざしを与えてください。
受難の火曜日
「あなたたちのうちの一人がわたしを裏切る」
ヨハネ13・21-33、36-38
第一朗読に、「あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝き[栄光]は現れる」(イザヤ)あるように、福音書では、ユダの裏切りとペトロの否認は、髪の栄光を表してる。大変なパラドックス(逆説)ですが、こういう出来事は単なる人間のはからい、企て、たくらみではなく、神の計画の実現である、と。 ユダとペトロはイエスの愛にそむく点では同じです。ペトロはやさしい愛情をもっていますが、困難に耐え抜く強さに欠けています。ユダは合理的に筋道を追求する完璧主義者です。そのため、横領(おうりょう) や裏切りを悪いとも思わない氷のような頑固さに陥ります。「心をつくし、精神をつくし、力をつくして神を愛せよ」。愛のおきてで大切なのは、「つくす」ということでないでしょうか。それは自分を与えつくし、ゆだね、まかせ、信じきることです。たとえ愛にそむき、裏切ったとしても、イエスの愛を信じて、みじめな自分をそっくり、そのまま、まかせることです。そこにペトロの涙とユダの絶望の違いが生まれます。(荒)
受難の水曜日
マタイ26・14-25
使徒ユダの裏切りの理由について、マタイ、ヨハネ福音書とも、明確な答を述べていない。いろいろな理由が考えられるその一つに、ユダは、イエスの選んだ道が、“失敗”に向かっていると理解し、自分の描く“大成功のドリーム”と大きく違ったことに気づく。イエスを自分のドリームに従わせることができず、失望したことが、イエスを引き渡すことに繋がったと思われる。山上の説教を思い起こさせる。「弟子は師にまさるものではない。しかし誰でも修行を研鑽すればその師のようになれる。」主の僕イザヤとともに祈ろう。「主なる神は、弟子としての舌を私に与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとに私の耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてください。」(イザヤ50・4)sese07
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ユダの裏切りは選ばれた民、イスラエル人の不信の歴史を代表しています(縮図)。イスラエル人は荒れ野で肉を食べたいと不平を言い、奴隷状態を懐かしがりました。彼らは、そして私たちも、苦しみの中では、神のいつくしみを忘れます。
過去過ぎた日の未練にとらわれず、未来の苦しみに思い惑わず、きょう一日を神のいつくしみのうちに送らねばなりません。そのために新しい過ぎ越しの食事、聖体祭儀が行われます。(荒)
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「生まれてこなかった方が、その者のために良かった。」という言葉は重く心に沈みます。イエスから決定的に離れてしまうことは、救いにあずかれないこと、不幸そのものであることを、イエスは語っておられるのではないでしょうか。
「まさかわたしのことでは」と問いかけ「それはあなたの言ったことだ」とのイエスからの答えをかみしめながらも、あなたに従ってゆくことができますように。
聖木曜日(主の晩餐の夕べ) (園田教会、2004年)
「弟子たちの足を洗い」
ヨハネ13・1-15
イエスは弟子たちの足を洗われました。弟子たちの中には「だれが一番偉いのか」というような争い、 反目 ( はんもく ) がありました。自分が要職につきたいという野心もあっただろうし、人を押しのけて自分だけが前に出ていこう、人を踏み台にしてでも自分だけが高いところに上ろうという思いがみなぎっていました。そのような弟子たちを前にして、イエス様はみずから進んで上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それからたらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い始められた。それはたいてい奴隷のする仕事であった。さすが弟子たちも、そういうことをされたとき驚いたのです。 ペトロは「私の足を決して洗わないで下さい」と言ったが、イエスは「私のしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
私たちがキリスト信者である理由は、イエスが私たちのために十字架について死んでくださったということだけである。それより深いものも、浅いものもない。それが自分にとって真理であると受けとったときに、その人は信仰者である。キリスト信者は、イエス・キリストにおける神の愛の迫りというものを感じた者である。
アメリカの田舎に年老いた母親と息子という家庭がありました。息子は親孝行で給料の中からいくらか必ず母親に渡していました。戦争が起こり、息子が兵隊に行ってからは、手紙はたびたび来るがお金を送ってこなくなった。軍隊に入って息子が悪い人間になったのかと、母親は寂しく悲しい思いをしていたが、あるとき、そのことをだれかに相談し、手紙を見せたところ、中から小切手が出てきた。母親は小切手を知らなかったので、単なる紙切れと思い、喜ぶことができなかったわけです。そのように、神の愛に感謝できないのは、神の愛がないからではなく、知らないからである。私たちクリスチャンの生活は、神から与えられる、神に足を洗ってもらっている、ことによって起きてくるものであって、神から受けたから他人に与えていくのは当然である。むしろ与えざるをえなくなるのです。パウロは「福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいである」(1コリ9・16)と言っています。
ある地方にはお米はたくさん取れる稲の種類があった。その名前はなんと「だまっとれ」でした。人に言うとそれを作るから「だまっとれ」という品種名がついたのです。自分だけがたくさん収穫したい。それはわざわいである。私たちも福音を聞きながら、それを伝えないならば、「黙っとれ」と同じことになる。本当にわざわいである。許されることのないような罪人である私たちに、イエス・キリストの十字架の死を通して、神の許しと愛が注がれたということを信じながら、そういうことを語ろうとせず、人に伝えようとしないなら、それはわざわいである。それがどんなに大きな愛であるかということがわかればwかるほど、それに対して答えていくし、答えていかずにはおれないのが信者の証しであり、使命なんです。そのためにはまず自分がどんなに神から愛されているか、足を洗ってもらっているか、ということを、教理としてではなく、自分にとって事実にならなければならない。
何十年信仰生活をしているひとでも、敵のために祈ることが自然にできる人や、憎い人を愛する人はあまりいないかもしれない。イエスが私のために十字架について死んでくださったことを知り、そのために「感謝の祭儀」をくりかえし奉げていくことが私たちの信仰生活である。それができるかできないか、それが私たちの信仰の闘いである。天のパンを日ごとに求めていく以外に勝利はないと思う。
イエス様は、「私が足を洗ったからあなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われた。足を洗いなさいというのは、その喜びをもって人々に仕えていきなさいということだと思う。イエスの愛を受け、そこに目をとめ、そこで生かされる、生き甲斐をうける。そしてそのことによって人の足を洗い、またイスカリオテのユダのような人にも、私たちが仕え、愛していくことができる新しい世界が生まれてくるのではないかと思う。(榎本)
聖金曜日・主の受難の祭儀
ヨハネによる福音(18:1-19:42)
ピラトの名が意味するもの
まずピラトという人物です。この人は、これを読む限り、それ程悪い人間には思えません。一人の弱い人間です。何とかしてイエス・キリストを釈放しようとしたけれども、その努力も空しく、企てに失敗したのです。しかしいかがでありましょうか。私たちが、毎週、唱えています信仰告白(使徒信条)には、「(主は)おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け……」とあります。使徒信条で、イエス・キリスト以外に固有名詞が出てくるのは、母マリアとポンテオ・ピラトだけであります。これにより、ピラトの名前は永遠にキリスト教会に刻まれることになりました。果たして、これまで一体、何度、代々の教会において、この名前が口にされたでありましょうか。これは一体何を意味しているのでしょうか。なぜ使徒信条に、ポンテオ・ピラトの名前があるのでしょうか。使徒信条というのは、これ以上削ることはできない最小の形で、キリスト教の信仰を言い表したものです。その中には、マリアの夫ヨセフの名前も、一番弟子、初代教会の創始者ペトロの名前もありません。アブラハムの名前も、モーセもエリヤもない。この時の黒幕で言えば、カイアファの方がもっと悪いのではないか。イスカリオテのユダも出てこない。省けるものは全部省いたのです。それでもポンテオ・ピラトの名前は残った。どうしてでしょうか。
それは第一に、イエス・キリストの受難が、私たち人間の歴史の中にしっかりと組み込まれるためであります。ピラトという名前によって、私たちは、イエス・キリストの苦難と十字架が架空の話ではなく、歴史上の出来事であったことを確認するのです。ポンテオ・ピラトという名前は、歴史上、確認できる名前だからです。
第二に、ピラトという名前は、イエス・キリストがリンチ(私的復讐)によって殺されたのではなく、しかるべき人物のもとで裁かれ、法のもとで死刑に処せられたことを示しています。そうしたことから、ある意味でたまたまその裁判を取り扱ったピラトが、その名前、汚名を残すことになってしまったとも言えるかも知れません。
(4)上に立つ者の責任
しかしピラトの名前が残ったもう一つの理由は、上に立つ者の責任、決定権をもった人間の責任はそれだけ重いということではないでしょうか。誰かを助けられる地位にありながら、それを用いて、その人を助けることをしなかった場合、その責任まで、問われてくるということです。ピラトの場合がまさにそうでありました。この時ピラトはイエス・キリストを、釈放をする権限をもっていました。彼自身がそう言っているのです。しかも彼は、「この男には罪がない」ということを承知していたのです。イエス・キリストが無罪であることを知りながら、彼を釈放しなかった。その罪は、ピラトに課せられるのです。ピラトは自分の権限をふりかざす一方で、多くのものを恐れ、びくびくして生きている人間でありました。何かを決定する時にも、自分が正しいと思うことで判断することができない。力関係の中で、つまり、何が今の自分に有利であるかによって、それを決定する弱い人間でした。それでもピラトの罪が消えるわけではないのです。
http://www.km-church.or.jp/preach/
イエスをあれほど熱狂的に迎えていた人々が、全てイエスを離れてゆきます。そして、ペトロが「違う」「違う」「違う」と何度も否みます。私がイエスにかぶせた茨の冠とは何でしょうか、紫の衣とは何でしょうか、そして、わたしが十字架に掲げた罪状書きにはなんと書いたのでしょうか。
主よ、あなたを十字架にかけたわたしの罪をお許しください。あなたに従ってゆけますよう謙遜な心をお与えください。
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人はなぜ、苦しむのか。神はなぜ、人が苦しむのを許されるのか。苦しいとき、あるいは愛する人が苦しむとき、心に浮かぶ当然の問いです。
キリスト教はこう答える。「神と人が真の親子となり、真に愛し合うため」。
この世界は神の失敗作ではない。本来は苦しみのない世界を創ろうとして、できなかったというわけではない。神は苦しみも含めてこの世界を創造し、すべてをよしとされたのです。ならば、苦しみにも必ず意味があるはずだ。何か「良い」意味が。
事実、すべての苦しみを取り除いても、真の幸せは訪れない。空腹は苦しいが、満腹の連続が喜びになり得ようか。病も障害も、失意も痛みも、果ては死さえも取り除いた世界に、果たしていたわりの愛やあわれみの心、試練に耐える成長や苦難の中で輝く希望が生まれるだろうか。
そもそも、苦しみを創造したということは、創造主自ら苦しむことを引き受けられたということでもある。親は子を生むとき苦しむものだ。そして、わが子もまた苦しむことがあると知っている。それでも生むのは、それでもわが子に存在を与えて愛し、わが子の苦しみを全面的に共有する覚悟があるからだ。
神は苦しみのない冷たく閉ざされた世界ではなく、苦しみを親子兄弟で共有する、温かく開かれた世界をお創りになった。苦しみによってこそ人は真に出会い、親子は真に愛し合えるからです。
難病のわか子を抱きしめる親は、決して「生まれなければ良かった」とは言わない。代われるものなら代わってあげたい」というでしょう。それは自分の命すら惜しまないということであり、それこそが親心というものではないでしょうか。
全能の神はその親心をイエス・キリストにおいて現実のものとした。共に苦しむことですべてのわが子が親心に目覚め、その愛を信じて神と一つに結ばれ、新たに生まれて「永遠のいのちを得るためである。神は、なんととしてもわが子が「一人も滅びないで」栄光の世界へ生まれ出ることを望んでおられるのです。
神が創造主であるならば、世界の責任者は神である。苦しみを創造した以上、神はその責任をおとりになる。まさに十字架こそは、創造のわざの極みなんおです。人間は苦しみの中でなおも信じるとき、その創造のわざに与っている。今苦しんでいる人に、福音を宣言したい。あなたのその苦しみを神は共に苦しまれ、今あなたは神の国へ生まれようとしている。陣痛の苦しみと出産の喜びは、一つだ。神の愛の内にあっては、絶望と希望すら、ただ一つの恵みの裏表(うらおもて)なのです。(春佐久昌英、カトリック新聞、2009年3月22日)
聖土曜日
大事な息子を殺されて、すべてが終わりかと見えるこの日をマリアはどのように過ごしたでしょうか。毎週の土曜日はマリアにささげられるのは、まさにこの聖土曜日がってのことです。今日、マリアの気持ちと心を合わせてすごしましょう。
祈りのヒント
イエスは葬られました。イエスは、私たちから取り去られたのです。明日は復活祭です。復活は当然なこととして起こることではありません。先の見えない絶望的な暗闇の中におかれても、イエスの愛の勝利を信じ、心から願い求める人々の心にだけ、ほんとうの復活が訪れるはずです。
イエスが取り去られたように見える闇の中でこそ、私たちの信仰の真実さが問われるのではないでしょうか。当然なことは信じる必要がなく、起こるかどうか、実現するかどうかも分からないことを希望し信じることこそ、信じるということでしょう。「イエスは死んだ。それでも、私は信じる」信仰を与え強めてください。 sese07