LUCERNA PEDIBUS MEIS (Omelie varie)

足のともしび(詩編119)
Luce ai miei passi (Salmo 118)

受難の月曜日

2010-02-18 13:18:04 | Weblog
受難の月曜日
「マリアは香油をイエスの足に塗った」
ヨハネ12・1-11

  やがて死んでいくイエスの姿を見抜いて、マリアは自分の最善のものをささげました。マリアのようにこたえていくことが私たちの信仰生活だと思います。こうしておけばこうなるというのではなく、こうなったからこうするという生活が生まれてこなければならない。そこには律法でない生活がある。私たちは自分自身をふり返ってみて、私のために死んでくださったイエスに対して、あまりにもふさわしくない歩みをしているのではなかろうか、とこの聖週間の間に深く反省したい。人は、そこまでしなくてもいいではないかと言うかもしれない。信仰は自分あっての信仰で、信仰のために自分が苦しんだり、損したり、貧しくなったりしていくのはおかしい、というのが、イスカリオテのユダの論理です。私たち信仰する者にとっては、イエスの命が注がれたのであるから、何をもってこたえたとしても、十分なこたえにはならない。そこには信仰のない人々の理解できない世界があります。(榎本)
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イエスはマリアが高価な香油でイエスの足を清めたことを、イエスご自身の「葬りの日」のためと言われます。そこにいた、よみがえったラザロとあわせて眺める時、この高価な香油を通してイエスの死と復活が響き合ってきます。
主よ、あなたの死への道行きが、わたしたち全ての人の復活へとつながることを悟る遠いまなざしを与えてください。 

受難の火曜日
「あなたたちのうちの一人がわたしを裏切る」
ヨハネ13・21-33、36-38

 第一朗読に、「あなたはわたしの僕、イスラエル/あなたによってわたしの輝き[栄光]は現れる」(イザヤ)あるように、福音書では、ユダの裏切りとペトロの否認は、髪の栄光を表してる。大変なパラドックス(逆説)ですが、こういう出来事は単なる人間のはからい、企て、たくらみではなく、神の計画の実現である、と。  ユダとペトロはイエスの愛にそむく点では同じです。ペトロはやさしい愛情をもっていますが、困難に耐え抜く強さに欠けています。ユダは合理的に筋道を追求する完璧主義者です。そのため、横領(おうりょう) や裏切りを悪いとも思わない氷のような頑固さに陥ります。「心をつくし、精神をつくし、力をつくして神を愛せよ」。愛のおきてで大切なのは、「つくす」ということでないでしょうか。それは自分を与えつくし、ゆだね、まかせ、信じきることです。たとえ愛にそむき、裏切ったとしても、イエスの愛を信じて、みじめな自分をそっくり、そのまま、まかせることです。そこにペトロの涙とユダの絶望の違いが生まれます。(荒)

受難の水曜日 
マタイ26・14-25

使徒ユダの裏切りの理由について、マタイ、ヨハネ福音書とも、明確な答を述べていない。いろいろな理由が考えられるその一つに、ユダは、イエスの選んだ道が、“失敗”に向かっていると理解し、自分の描く“大成功のドリーム”と大きく違ったことに気づく。イエスを自分のドリームに従わせることができず、失望したことが、イエスを引き渡すことに繋がったと思われる。山上の説教を思い起こさせる。「弟子は師にまさるものではない。しかし誰でも修行を研鑽すればその師のようになれる。」主の僕イザヤとともに祈ろう。「主なる神は、弟子としての舌を私に与え、疲れた人を励ますように、言葉を呼び覚ましてくださる。朝ごとに私の耳を呼び覚まし、弟子として聞き従うようにしてください。」(イザヤ50・4)sese07
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ユダの裏切りは選ばれた民、イスラエル人の不信の歴史を代表しています(縮図)。イスラエル人は荒れ野で肉を食べたいと不平を言い、奴隷状態を懐かしがりました。彼らは、そして私たちも、苦しみの中では、神のいつくしみを忘れます。
過去過ぎた日の未練にとらわれず、未来の苦しみに思い惑わず、きょう一日を神のいつくしみのうちに送らねばなりません。そのために新しい過ぎ越しの食事、聖体祭儀が行われます。(荒)
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「生まれてこなかった方が、その者のために良かった。」という言葉は重く心に沈みます。イエスから決定的に離れてしまうことは、救いにあずかれないこと、不幸そのものであることを、イエスは語っておられるのではないでしょうか。
「まさかわたしのことでは」と問いかけ「それはあなたの言ったことだ」とのイエスからの答えをかみしめながらも、あなたに従ってゆくことができますように。

聖木曜日(主の晩餐の夕べ)    (園田教会、2004年)
「弟子たちの足を洗い」
ヨハネ13・1-15

イエスは弟子たちの足を洗われました。弟子たちの中には「だれが一番偉いのか」というような争い、 反目 ( はんもく ) がありました。自分が要職につきたいという野心もあっただろうし、人を押しのけて自分だけが前に出ていこう、人を踏み台にしてでも自分だけが高いところに上ろうという思いがみなぎっていました。そのような弟子たちを前にして、イエス様はみずから進んで上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それからたらいに水を入れて、弟子たちの足を洗い始められた。それはたいてい奴隷のする仕事であった。さすが弟子たちも、そういうことをされたとき驚いたのです。 ペトロは「私の足を決して洗わないで下さい」と言ったが、イエスは「私のしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
 私たちがキリスト信者である理由は、イエスが私たちのために十字架について死んでくださったということだけである。それより深いものも、浅いものもない。それが自分にとって真理であると受けとったときに、その人は信仰者である。キリスト信者は、イエス・キリストにおける神の愛の迫りというものを感じた者である。
 アメリカの田舎に年老いた母親と息子という家庭がありました。息子は親孝行で給料の中からいくらか必ず母親に渡していました。戦争が起こり、息子が兵隊に行ってからは、手紙はたびたび来るがお金を送ってこなくなった。軍隊に入って息子が悪い人間になったのかと、母親は寂しく悲しい思いをしていたが、あるとき、そのことをだれかに相談し、手紙を見せたところ、中から小切手が出てきた。母親は小切手を知らなかったので、単なる紙切れと思い、喜ぶことができなかったわけです。そのように、神の愛に感謝できないのは、神の愛がないからではなく、知らないからである。私たちクリスチャンの生活は、神から与えられる、神に足を洗ってもらっている、ことによって起きてくるものであって、神から受けたから他人に与えていくのは当然である。むしろ与えざるをえなくなるのです。パウロは「福音を宣べ伝えないなら、私はわざわいである」(1コリ9・16)と言っています。
 ある地方にはお米はたくさん取れる稲の種類があった。その名前はなんと「だまっとれ」でした。人に言うとそれを作るから「だまっとれ」という品種名がついたのです。自分だけがたくさん収穫したい。それはわざわいである。私たちも福音を聞きながら、それを伝えないならば、「黙っとれ」と同じことになる。本当にわざわいである。許されることのないような罪人である私たちに、イエス・キリストの十字架の死を通して、神の許しと愛が注がれたということを信じながら、そういうことを語ろうとせず、人に伝えようとしないなら、それはわざわいである。それがどんなに大きな愛であるかということがわかればwかるほど、それに対して答えていくし、答えていかずにはおれないのが信者の証しであり、使命なんです。そのためにはまず自分がどんなに神から愛されているか、足を洗ってもらっているか、ということを、教理としてではなく、自分にとって事実にならなければならない。
 何十年信仰生活をしているひとでも、敵のために祈ることが自然にできる人や、憎い人を愛する人はあまりいないかもしれない。イエスが私のために十字架について死んでくださったことを知り、そのために「感謝の祭儀」をくりかえし奉げていくことが私たちの信仰生活である。それができるかできないか、それが私たちの信仰の闘いである。天のパンを日ごとに求めていく以外に勝利はないと思う。
 イエス様は、「私が足を洗ったからあなたがたも互いに足を洗い合いなさい」と言われた。足を洗いなさいというのは、その喜びをもって人々に仕えていきなさいということだと思う。イエスの愛を受け、そこに目をとめ、そこで生かされる、生き甲斐をうける。そしてそのことによって人の足を洗い、またイスカリオテのユダのような人にも、私たちが仕え、愛していくことができる新しい世界が生まれてくるのではないかと思う。(榎本)

聖金曜日・主の受難の祭儀                 
ヨハネによる福音(18:1-19:42) 

ピラトの名が意味するもの
 
 まずピラトという人物です。この人は、これを読む限り、それ程悪い人間には思えません。一人の弱い人間です。何とかしてイエス・キリストを釈放しようとしたけれども、その努力も空しく、企てに失敗したのです。しかしいかがでありましょうか。私たちが、毎週、唱えています信仰告白(使徒信条)には、「(主は)おとめマリアから生まれ、ポンティオ・ピラトのもとに苦しみを受け……」とあります。使徒信条で、イエス・キリスト以外に固有名詞が出てくるのは、母マリアとポンテオ・ピラトだけであります。これにより、ピラトの名前は永遠にキリスト教会に刻まれることになりました。果たして、これまで一体、何度、代々の教会において、この名前が口にされたでありましょうか。これは一体何を意味しているのでしょうか。なぜ使徒信条に、ポンテオ・ピラトの名前があるのでしょうか。使徒信条というのは、これ以上削ることはできない最小の形で、キリスト教の信仰を言い表したものです。その中には、マリアの夫ヨセフの名前も、一番弟子、初代教会の創始者ペトロの名前もありません。アブラハムの名前も、モーセもエリヤもない。この時の黒幕で言えば、カイアファの方がもっと悪いのではないか。イスカリオテのユダも出てこない。省けるものは全部省いたのです。それでもポンテオ・ピラトの名前は残った。どうしてでしょうか。
 それは第一に、イエス・キリストの受難が、私たち人間の歴史の中にしっかりと組み込まれるためであります。ピラトという名前によって、私たちは、イエス・キリストの苦難と十字架が架空の話ではなく、歴史上の出来事であったことを確認するのです。ポンテオ・ピラトという名前は、歴史上、確認できる名前だからです。
 第二に、ピラトという名前は、イエス・キリストがリンチ(私的復讐)によって殺されたのではなく、しかるべき人物のもとで裁かれ、法のもとで死刑に処せられたことを示しています。そうしたことから、ある意味でたまたまその裁判を取り扱ったピラトが、その名前、汚名を残すことになってしまったとも言えるかも知れません。

(4)上に立つ者の責任
 しかしピラトの名前が残ったもう一つの理由は、上に立つ者の責任、決定権をもった人間の責任はそれだけ重いということではないでしょうか。誰かを助けられる地位にありながら、それを用いて、その人を助けることをしなかった場合、その責任まで、問われてくるということです。ピラトの場合がまさにそうでありました。この時ピラトはイエス・キリストを、釈放をする権限をもっていました。彼自身がそう言っているのです。しかも彼は、「この男には罪がない」ということを承知していたのです。イエス・キリストが無罪であることを知りながら、彼を釈放しなかった。その罪は、ピラトに課せられるのです。ピラトは自分の権限をふりかざす一方で、多くのものを恐れ、びくびくして生きている人間でありました。何かを決定する時にも、自分が正しいと思うことで判断することができない。力関係の中で、つまり、何が今の自分に有利であるかによって、それを決定する弱い人間でした。それでもピラトの罪が消えるわけではないのです。

http://www.km-church.or.jp/preach/

イエスをあれほど熱狂的に迎えていた人々が、全てイエスを離れてゆきます。そして、ペトロが「違う」「違う」「違う」と何度も否みます。私がイエスにかぶせた茨の冠とは何でしょうか、紫の衣とは何でしょうか、そして、わたしが十字架に掲げた罪状書きにはなんと書いたのでしょうか。

主よ、あなたを十字架にかけたわたしの罪をお許しください。あなたに従ってゆけますよう謙遜な心をお与えください。
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人はなぜ、苦しむのか。神はなぜ、人が苦しむのを許されるのか。苦しいとき、あるいは愛する人が苦しむとき、心に浮かぶ当然の問いです。
キリスト教はこう答える。「神と人が真の親子となり、真に愛し合うため」。
この世界は神の失敗作ではない。本来は苦しみのない世界を創ろうとして、できなかったというわけではない。神は苦しみも含めてこの世界を創造し、すべてをよしとされたのです。ならば、苦しみにも必ず意味があるはずだ。何か「良い」意味が。
事実、すべての苦しみを取り除いても、真の幸せは訪れない。空腹は苦しいが、満腹の連続が喜びになり得ようか。病も障害も、失意も痛みも、果ては死さえも取り除いた世界に、果たしていたわりの愛やあわれみの心、試練に耐える成長や苦難の中で輝く希望が生まれるだろうか。
そもそも、苦しみを創造したということは、創造主自ら苦しむことを引き受けられたということでもある。親は子を生むとき苦しむものだ。そして、わが子もまた苦しむことがあると知っている。それでも生むのは、それでもわが子に存在を与えて愛し、わが子の苦しみを全面的に共有する覚悟があるからだ。
神は苦しみのない冷たく閉ざされた世界ではなく、苦しみを親子兄弟で共有する、温かく開かれた世界をお創りになった。苦しみによってこそ人は真に出会い、親子は真に愛し合えるからです。
難病のわか子を抱きしめる親は、決して「生まれなければ良かった」とは言わない。代われるものなら代わってあげたい」というでしょう。それは自分の命すら惜しまないということであり、それこそが親心というものではないでしょうか。
全能の神はその親心をイエス・キリストにおいて現実のものとした。共に苦しむことですべてのわが子が親心に目覚め、その愛を信じて神と一つに結ばれ、新たに生まれて「永遠のいのちを得るためである。神は、なんととしてもわが子が「一人も滅びないで」栄光の世界へ生まれ出ることを望んでおられるのです。
神が創造主であるならば、世界の責任者は神である。苦しみを創造した以上、神はその責任をおとりになる。まさに十字架こそは、創造のわざの極みなんおです。人間は苦しみの中でなおも信じるとき、その創造のわざに与っている。今苦しんでいる人に、福音を宣言したい。あなたのその苦しみを神は共に苦しまれ、今あなたは神の国へ生まれようとしている。陣痛の苦しみと出産の喜びは、一つだ。神の愛の内にあっては、絶望と希望すら、ただ一つの恵みの裏表(うらおもて)なのです。(春佐久昌英、カトリック新聞、2009年3月22日)

聖土曜日 

大事な息子を殺されて、すべてが終わりかと見えるこの日をマリアはどのように過ごしたでしょうか。毎週の土曜日はマリアにささげられるのは、まさにこの聖土曜日がってのことです。今日、マリアの気持ちと心を合わせてすごしましょう。

祈りのヒント 

イエスは葬られました。イエスは、私たちから取り去られたのです。明日は復活祭です。復活は当然なこととして起こることではありません。先の見えない絶望的な暗闇の中におかれても、イエスの愛の勝利を信じ、心から願い求める人々の心にだけ、ほんとうの復活が訪れるはずです。
イエスが取り去られたように見える闇の中でこそ、私たちの信仰の真実さが問われるのではないでしょうか。当然なことは信じる必要がなく、起こるかどうか、実現するかどうかも分からないことを希望し信じることこそ、信じるということでしょう。「イエスは死んだ。それでも、私は信じる」信仰を与え強めてください。 sese07

四旬節 第五月曜日

2010-02-18 13:14:47 | Weblog
四旬節 第五月曜日
ヨハネ8・1-11

ヨハネは光と闇のコントラストを用いて、イエスが光であり、まことの証しと正しい裁きを行うかたであることを述べます。そのために姦通の女とイエスとの出会いを描きました。彼女は光の中を胸を張って歩くことができません。彼女は神を裏切り続けてきたイスラエル、全人類、わたしたちの象徴です。イエスは女を罪に定めず、救います。それが神の裁きです。イエスの裁きが正しく、その証しが真実なのは、イエスが父なる神と一致しているからです。ヨハネはイエスと父との一致を、イエスの由来と終極目標の面から述べます。「わたしは自分がどこから来たか・どこへ行くかを知っている」。イエスは父から派遣され、父のもとにもどることを知っているのです。人々はその秘密をしりませんから、イエスと御父との一致もしりません。人々には御父は見えません。だから、イエスは自分のことを自分だけで証ししているうそつきにすぎません。イエス一人の証言は無効だという結論になります。この世がイエスを受け入れない以上、イエスの父を知ることはできません。イエスを知れば、父についてもわかるはずです。イエスと父とは一致しているからです(ヨハネー4・7-10)。(荒)私達は今住んでいる社会は平和な社会、民主主義に基づいた社会だと思っている人が多いでしょう。ところが本当の姿は違います。弱い立場の者を踏みつける、管理教育によって子供の人権を無視する社会でもあります。表向きの顔しか見えていない人に、現実を見えるように、イエスは光になって下さいます。
イエスと姦通の女が大勢の民衆、律法学者たち、ファリサイ派の人々に取り囲まれています。しかし、イエスが女と言葉を交わすのは、その女と一対一になってからです。イエスと真の意味で出会うには一対一となる時が求められるようです。イエスの「罪を犯したことのない者が...石を投げなさい」
という言葉は私たちを原点に立ち返らせます。大義名分を振りかざして人を裁く時、自分の貧しさは見えなくなっています。この世で唯一人を裁く権利のある方の「わたしもあなたを罪に定めない」という言葉は、なんと私たちの心を解放し、真の自由へと向かわせてくれるものでしょう。
主よ、あなたともっと親しく出会わせてください。そしてあなたの言葉を私の心の奥深くに響かせてください。 

四旬節 第五火曜日
 ヨハネ8・21-30

ヨハネは、イエスが十字架にあげられることを、栄光へ高かめられたこととして捉えなおしました。信仰をもって受難の出来事を振り返ると、十字架は父の愛、子の愛の現れとなります。と同時に、イエスを信じない人びとのかたくななさも、大きな悲劇としてクローズアップされてきます。パウロはすでに、ユタヤ民族の救いと滅びについて、辛い思いで書きました。「かれらの捨てられることが、世界と神との和解をもたらすのなら、かれらが受け入れられることは、死者の中からの復活でなくてなんでしょうか」(ローマ11・15)。パウロの宣教から五十年後、ヨハネの教会は、ユダヤ人よりも異邦人の方が多くなって、ユダヤ教の伝統や律法は過去の問題になっていました。ユダヤ教から独立したキリスト教は、ユダヤ教との対立を激化させ、イエスをメシアとして信じるかどうかをめぐって戦っていました。
ヨハネはイエスを信じないかたい心を、光に敵対する闇、「この世」、「下からの者」として表現しました。「あなたがたは下からの者、この世の者、自分の罪のうちに死ぬ」。
イエスが上からの者、「わたしはある」、すなわち、神の現存であることを信じなければ、自分の罪のうちに死ぬでしょう。それは不信仰の罪であり、不幸でもあるのです。(荒)
イエスはご自分の行くところに人々が来ることができないと言われます。人々は、イエスがどこに行かれるかを知らず、また、イエスがどこから来られたか、イエスが何者なのかをも知らないからです。その彼らからイエスは「あなたはどなたですか」という問いを引き出し、最後には、「多くの人々がイエスを信じた」とあります。イエスの言葉に注意深く耳を澄ませ、その行いをよく見る時、イエスの背後におられる方が見えてきます。私の日々の生活の中に、このイエスがどのように息づいているでしょうか。今日、イエスを一層知り、イエス
に信頼して委ね、イエスの行くところに私も行くことができますように。 

  四旬節 第五水曜日
ヨハネ8・31-42

差別や偏見が自由を奪います。現代社会にも、差別や偏見によって自由を奪われた人びとがいます。難民、飢えた人びと、自分自身の衝動や欲にとらわれた人びと。
今日の第一朗読と福音書をつなげるキーワードは「自由」です。三人の青年はこの世の権力に対して自由を主張することが出来たのは、本当の神を信じたからです。ユダヤ人は神から選ばれた民族として、自由の子、アブラハムの子であることを誇りとしていました。そのプライドに妨げられて、真理に反対し、アブラハムが喜んで礼拝したであろうかた、イエスを殺そうとします。
イエスは父への愛のために自分をささげ尽くしました。それによってこの世の本当の姿が見えて、人は自己にとらわれている状態から解放されました。
イエスのことばに留まるなら(現代的に表現すれば、イエスと連帯する、イエスにつながることによって)真理はわたしたちを自由にし、解放します。イエスのいのちに結ばれることによって、自分のいのちを愛している孤立状態から、愛と奉仕によるいのちへと高められます。ヨハネは、「いけにえ」・「あがない」といった祭儀用語よりも、「自由」、「解放」という表現を用います。これはそのまま、現代的なことばとなって語りかけてきます。
イエスと連帯し、無知と不信仰から解放され、あらゆる偏見と束縛から自由になろう。真理そのものであるイエス、正義そのものであるイエス、自由を与えてください。信仰の自由を与えてください。(荒)
「真理は君たちを自由にする」とイエスは言っています。つまり私達はもともと自由ではありません。様々な偏見の奴隷になっています。
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イエスを信じて、従っているつもりでも、知らず知らずのうちに世の価値観に汚染され、奴隷になってしまうことがあります。今、わたしは何の奴隷になっているでしょうか。わたしの言動の源はどこからくるのでしょうか。神のみことばであるイエスを自分のうちに迎えて、耳を傾けているでしょうか。空しいことに心を向けず、さまざまな偶像に惑わされることなくみことばに宿る愛が、わたしたちの心を照らし、強め、清め、自由にしてくださいますように。sese07

  四旬節 第五木曜日
「私はアブラハム以前からある」
ヨハネ8・51-59

イエスは自分自身については語らず、もっぱら神の自由について、神の働きの偉大さについて語りました。自分については神の沈黙に委ねました。それは、自分をメシアとして宣伝することよりも大いなることでした。
受難と復活を体験した弟子たちは、神の霊に満たされて、イエスのことばと生涯を振り返りました。かれは世の光だった。いのちのパンだった。かれは神のためにのみ生きた。自分の名誉を求めなかった。これらの考えはイエスの口に移され、イエスが自分の存在秘義を啓示する形で表現されました。「わたしは世の光である。わたしはいのちのパンである。道、真理、いのちである。わたしはアブラハム以前からある」。「わたしは自分の栄光を求めない。わたしの栄光を求めるかたがおられ、そのかたが裁いてくださる」。
アブラハムは神の子の栄光を待ち望んでいたのに、その子孫は、神の子がほんとうに来たとき、信じようとせず、石殺しにしようとします。神と人との和解の場、神殿からイエスは追放されます。イエスこそ神の現存の場、神殿そのものであったのに。罪の女を石殺しから救ったイエスは、ご自分の民から出て行かれました。(荒)ユダヤ人たちはアブラハムの子孫といいながら、実はアブラハムらしくない生き方をしているように、私たちもキリストの弟子と自称しながら、実はキリストらしくない生き方をしているではないか。キリストを教会から追い出そうとしているのではないか。このような反省を促す福音です。  イエスの考えている「死」と、ユダヤ人の考えている「死」の間には、隔たりがあるようです。
イエスが、「わたしの言葉を守るなら、決して死ぬことがない」と断言できるのは、歴史を超え、この世を超え、永遠に生きておられる天の父を知っておられ、その方から聞いたことを語っているからでしょう。私たちもユダヤ人のように、生きるとは何か、本当のいのちとは何かを知っていると思い込んでいる。実は知らない…。キリストは私たちが知らないことを知っている。
こうしてイエスは私たちを永遠の命に招いておられます。
主よ、アブラハムのように信仰のまなざしでイエスを見、喜び、イエスの招きに応えていくことを教えてください。
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ヨハネはユダヤ人であり、彼が指導する共同体の中核はユダヤ人であると見られますが、その共同体が生み出したこのヨハネ福音書は「ユダヤ人」と厳しく対立し、「ユダヤ人」を真理の敵として激しく非難しています。それは、マタイ福音書と同じく、ヨハネ共同体がユダヤ戦争以後のファリサイ派ユダヤ教会堂勢力から迫害される状況から出たものと考えられます。その中で今回取り上げた八章後半(三〇~五九節)の箇所は、「イエスを信じたユダヤ人」との論争として特異な内容になっています。すなわち、自分たちを迫害する外のユダヤ教会堂勢力ではなく、同じイエスを告白する陣営内でのユダヤ人との対立であり、彼らとの論争が外のユダヤ教会堂勢力との論争と重なって、きわめて複雑な様相を見せています。この論争は、用語や思想内容からして、ユダヤ教の枠に固執し続ける「ユダヤ主義者」と戦ったパウロを思い起こさせるものがあり、改めてパウロとヨハネの関わりを考えさせます。この論争は、福音における真理と自由の追求がいかに激しい戦いを必要とするかを思い起こさせます。

四旬節 第五金曜日
ヨハネ10・31-42

イエスは父に由来する善い業を行いました。その業によって、イエスを信じることができます。ところがユダヤ人(「ユダヤ人」のかわりに、「不信仰者」ということばを入れかえるとよくわかります)は、イエスの善い業よりも、イエスのことばを問題にします。善い業を認めることによって、それを行っている人物を受け入れ、またその人物を信じているので、言っていることも信じるというのが人間関係の基本です。ことばに振りまわされず、まず、その人の行為をよく見て判断しなければなりません。そのためには、じっくりと見ることが必要です。早急に、神の子かどうか、神からのものかどうか、いい人か、悪い人か、きめてしまおうとするところに、人間の浅はかな態度があります。(荒)「わたしを信じなくても、わたしが行っている父の業を信じなさい。そうすれば、父なる神がわたしにおり、わたしが父なる神と一致していること、すなわち、神の子であることを悟るだろう」。
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エレミヤ預言者と同じようにイエスも大変せっぱ詰まった状況の中にいて、反対者から殺されそうです。けれども、神のささえを得て勝利をおさめる。イエスが誠意をつくし、どのように関わり続けてくださっても、頑なに、歯向かい続ける心がある。ヨハネ福音書が言いたいのはこういうことだろう。神を知りたいならイエスを見れば十分です。私達人間にとっては、神に出会う、神を知るチャンスは、イエス・キリストをおいてほかにありません。問題は、私達は神を本当に知りたいかどうかです。
イエスがなされた多くの力ある業は、悪霊を追い出し病人を癒すなど、人が人として生きることを助ける「良い業」でした。それは、人がなしえない業であり、父から賜る力でなされた働きでした。その中のどの業が、石打に相当するような行為になるのか、とイエスは反論されます。イエスの言葉はあまりにも人間の思いを超えているので、はじめはイエスが語られる言葉を信じることができなくても、イエスがなされる働きが人から出たものではなく、神から出たものであることを信じるならば、イエスの内に父(神)が働いておられ、イエスが父(神)の内におられる方であることが分かるようになるはずだと。ヨハネ福音書は、業(奇跡)を見なければ信じないことを非難しながらも(四・四八)、イエスがされる業を父がイエスを遣わされたことの「証し」と意義づけ(五・三六、一〇・二五)、業そのものを信じるように求めます(一四・一一)。それがイエスを信じることへの入り口になるとします。

  私たちも、ユダヤ人のように、日常生活で示される多くの善い業を見ても、それに気づかず通り過ぎてしまうことが結構あるのではないでしょうか。例えば、教会制度のお陰(業)で毎年四旬節と復活際を祝うことができます。様々な修道会のお陰(業)で色々な活動がなされている。様々なサービスに与ることができる。それは、当たり前ではない。ユダヤ人たちのように、「~が当たり前」というのであれば、それは自分の考えや価値観からしか、物事を見ていないからではないでしょうか。イエスは、御自分の「善い業を信じなさい」と言われ、そうすれば「父なる神とイエスとが一つである」ことを悟るだろうと言っておられます。
主よ、日頃何気なく見過ごしているあなたの善い業に気づかせて下さい。今も働かれるあなたの業すべてを通して父なる神を讃えることができますように。

  四旬節 第五土曜日  
ヨハネ11・45-56

大祭司カヤファは・知らずに預言しました。「一人の人が民にかわって死に、それによって全国民が滅びない方がよい」。イエスの死は、人間的な政治判断の結果であっても、神の目から見れば・ユダヤ人ばかりでなく、すべての人のためのあがないの死、身代わりの死でした。
ヨハネは・パウロほどあがないの死を強調しませんが、散らされた神の子らが一つになるための死を強調します。
とうとう最高法院を招集させるほど、イエスの存在はやっかいなものになっていました。民衆や弟子もイエスのメッセージの意味をよく理解できませんでしたが、権力者側はその意味をいやになるほど理解しました。そのメッセージが民衆に理解されたら自分たちが握っている権力は問われる可能性があると彼らには分かっていました。
これは大変な歴史の皮肉(運命)かもしれない。メッセージを必要とする人々はその意味を理解できず、自分の利益を何より考える人々にはピンと来ました。民衆はファリサイ派の話になれていて、全く違った観点からの話をするイエスの言葉の意味をよく読み取れませんでした。もしかすると私達もイエスのものの考え方にまだなれていないのかもしれない。
やはり、イエスのメッセージはすべての人、すべてのものを一つにまとめるものですから、それを理解するために広い心、開かれた姿勢が必要です。
私たちは、一人ひとりのひとが大切なんだと十分に知っています。しかし、カイアファの言葉「ひとりの人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないですむほうが、あなた方に好都合だとは考えないのか」という言葉は、私たちの心深くにも巣くっているのではないでしょうか。このことに気づくとき、「主よ、多くのひとのためという大義名分によって、小さくされた人々の中にいるあなたを滅びヘと運ぶことが無いようにお守り下さい」と祈らずにはおられません。どうか、わたしたち小さな者のために十字架の道を歩まれたとてつもないあなたの恵みを悟らせて下さい。 


四旬節 第四月曜日

2010-02-18 13:11:53 | Weblog
四旬節 第四月曜日
ヨハネ4・43-54

 イエスさまは「預言者は自分の故郷では敬われない」とおっしゃった。その故郷のガリラヤに再び戻られたのです。「敬われない」その故郷に行かれた。すなわちイエスさまにとって、ご自分が敬われるかどうかは関係ないということになります。ところが続きを読むと、45節に「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」と書かれてあります。これは一体どういうことでしょうか?‥‥「敬われない」はずが「歓迎された」のです。これは、「ガリラヤでは敬われないと思われたが、しかし予想に反して実際はそうではなかった」ということでしょうか? 
「預言者」というのは神の言葉を語る人です。ですから「預言者を敬う」というのは、神の言葉を敬うこということなのです。しかしガリラヤの人々は、イエスさまのなさる不思議な業、奇跡は歓迎するのだけれども、神の言葉を敬い、耳を傾けて聞いて受け入れるということをしなかった、ということになります。こういうことは私たちにもあることです。すなわち、「イエスさまの奇跡は期待するけれども、その御言葉を第一に受け入れて従うのではない」‥‥ということが。 
父親は「お出で下さい」とイエスさまに頼んだのに、イエスさまは一緒に行かない。そして父親に、一人で帰れと答えたのです。それは父親の願いに反していました。しかしただ帰れとおっしゃっただけではない。「あなたの息子は生きる」とおっしゃったのです。御言葉を下さったのです。「帰りなさい。もうあきらめなさい」ではない。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と約束の言葉をおっしゃったのです。イエスさまは行かないけれども、御言葉を下さった。 
 父親は、「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」とあります。父親が願ったこととは違うけれども、今イエスさまを「主」と呼んで、イエスさまを信じた父親は、イエスさまのおっしゃった御言葉を信じたのです。すなわち、イエスさまを信じるということは、イエスさまの御言葉を信じることだと、聖書は語っているのです。 
父親は、イエスさまの御言葉を信じて帰っていきました。死につつある我が子を助けていただくために、30キロの道のりを駆けつけて来た父親。床に寝ている我が子の苦しそうな顔が脳裏に焼き付いたまま駆けつけたことでしょう。一縷の望みを持って。イエスさまに来ていただこうと。しかし今、イエスさまは一緒には来られない。ただ御言葉を下さった。「あなたの息子は生きる」という御言葉を。今はただそれを信じるしかありません。我が子の命は、そのイエスさまの御言葉が真実であるかどうかにかかっているのです。父親は、本当にイエスさまのその御言葉にすがる思いで帰って行ったことでしょう。「本当ですね。イエスさま、本当ですよね」と、不安を打ち消すように心の中で繰り返し問うようにしながら帰って行ったことでしょう。 
御言葉を体験するというのは、何か「ことわざ」や「名言」に感銘を受ける、ということとは違います。そういう第3者的なことではありません。イエスさまの御言葉を聞いて、実際にそれに従ってみる。信じるのです。そうしてその通りになる。イエスさまのおっしゃった通りになる。そうしてイエスさまがまことの救い主であることが分かる。‥‥それが御言葉を体験する、ということです。この父親は、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」という御言葉を信じて帰ったのです。そしてその御言葉が本当であることを知ったのです。 


能楽や歌舞伎などの古典芸能にとって「型」は大事な所作である。日々の練習を積み重ねて体得していく。神に信頼して生きていく「信仰」も同じような要素を持っているのではないだろうか。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」とイエスは言われた。群集は「しるしや不思議な業」を見て信じたが、熱し易く、冷め易かった。日常に働かれる神の業を見るには、祈りによってイエスから手ほどきを受ける必要がある。
「委ねて生きていくこと」も小さな学びの積み重ねなのだろう。主よ、忍耐の少ない私たちですが、あなたに向かって精進していくことができますように。        
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田中角栄さんは生まれ故郷の発展のために多くの国費を使ったので、新潟県の人々から神様のように崇(あが)められています。しかし、それは新潟県にとってプラスになっても、全国にとってはむしろ大変な迷惑になったかもしれません。昔も現代も、この点にでは世の中はあまり変わっていません。政治家は人気取りのために一部の人を特別扱いをしますが、イエスはそうしたくありませんでした。政治家は人が聞きたいことしか言わないで、本当のことを隠すことがあります。マスコミも人が知るべきことを伝えずに、聞こえのいいことだけ伝えています。現代においてイエスは信仰者の口を通じて本当のことを伝えたいし、隠されていることを知らせたいのです。(ステファニ) 

四旬節 第四火曜日
ヨハネ5・1-16

八十歳のおじいちゃんのお見舞いに行ったことがあります。彼は五年間の寝たきりの方です。寝たきりで毎日を過ごすことは大変な苦痛だろうと思いました。イエスが出会った人も病気になってから三十八年間と書き記されています。気の遠くなるような年月です。 彼を治したイエスを、イスラエル人の指導者はどうして批判しているのか、どうして治った病人と共に喜べないのかとつくづく思います。(ステファニ)
イエスが奇跡を行っても、それが必ずしも信仰をもたらさず、つまづきのしるしとなることがあります。治された病人にとっても、奇跡は信仰ではなく、もっと悪いこと、罪を犯すきっかけになりました。二度目にイエスに会った時、ユダヤ人にイエスを訴えた(5・15)と書いてあります。
いやされるのは当然だなどと思わないかぎり、訴えたりするでしょうか。この人の行動のうちに、イスラエルの民と私達の忘恩の歴史が描かれています。本当の奇跡は、受けた恵みを悟り、感謝することにあります。(荒)
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三十八年間の長い間毎日同じところ(ベテスダの池)に来ていても、それほど驚くこともなかったから、今日もまたそうであろうというふうに、いつまでも自分の過去にとらわれて、神の力を見ていこうとせず、また神に深い期待をかけていこうとしない信仰態度というものが、私たちを強く支配しているのではないかと思う。私たちはせっかく「恵みの家」(ベテスダの意味ですが)に来ておりながら(毎日)そこで自分は恵みにあずかりたい、恵みにあずかるのだという思いを持たないで、気休めにただそこにすわっているにすぎない信仰生活をしているのではないだろうか。(榎本)三十八年間病に苦しんだ人が自由になった姿を見ても律法のことしか考えられないユダヤ人。「あなたは良くなったのだ」とイエスに言われてもその偉大な業、神の愛に気がつかない人。それら姿は時に、今を生きる私達とだぶります。神からの「いやし」は私達のすぐそばにあるのかもしれません。それが自分の律法で見えなくなったり、鈍感な心で感じられないのかもしれません。主よ、私に何ものにも縛られない自由な心、あなたの愛を感じることのできる素直な心をお与えください。

  四旬節 第四水曜日
ヨハネ5・17-30

イエスが説明している裁きと、一般的に考えられている裁きと大分違います。つまり、イエスは裁判官のように裁判所で前に並んでいる人達に判決を言い渡すといったようなものではありません。裁きは自分の信仰によって決まるのです。一生神を無視した生き方をした人間は死ぬときに、神を無視し続けます。そして神を無視することは自分にとって一番不幸なことだったと悟ります。これは地獄です。一生を無駄にしたという思いは地獄です。地獄は、場所というよりも、こうした状態なのです。逆に、神を求める生き方をした人は、たとえ多くの失敗があったにしても、死ぬときに自然に一生を通じて求めたものの方へ行きます。これは天国です。死ぬ前にどういう方向に向かっていたかが永遠を決めるのです。イエスの判断が問題ではなくて、自分の生き方が問題です。人生の最期というのは、人生の中で最も大事な時期であり、そこで一番大事な仕事をしなければなりません。イエスは「わたしの父は今もなお働いておられる」と言われ、父とはどういう方か話されます。そして「わたしの意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである」と結ばれます。そこには御父の真の権威に裏打ちされた 御子の謙虚さと権威が感じとれます。今この時に働いておられる御父に、私達はどれほどの信頼をおいているでしょうか。誰も裁くことなく、命を与えてくださる御父の愛に支えられ生かされている私達。イエスのように御父への強い信頼を持ちながら,今日を生きることができますように。 
 
四旬節 第四木曜日
「私は父の名によって来ました」
ヨハネ5・31-47

   自分で自分がキリストである、神の御子である、あるいは神であることを証言しても、それは証拠にならないということです。それはその通りです。本当ならば、神さまがご自分のことを証拠を挙げて説明するというのは、おかしなことです。神さまは神さまであって、なにもへりくだって人間にそのように証拠を示す必要などないはずです。信じないならば滅ぼしてしまう、ということもおできになるはずです。しかし私たち人間を、あくまでも救うため残られたイエスさまは、へりくだって丁寧に説明なさるのです。 
イエスさまは4つの証拠をあげて説明されます。 
1.まず最初は、「洗礼者ヨハネ」を証人としてあげられるのです。
2.次にイエスさまの行っている業が証ししている。 
 イエスさまがなさっておられる業、働き。それは、このお話のきっかけとなったベトザダの池での癒しの奇跡を見ても分かることです。そして4つの福音書に記されているすべての業が、イエスさまが神の御子であることを証言しているということです。そこには奇跡が現れ、またそれが単なる奇跡というだけではなく、一人一人の弱い者を顧みる神の愛が現れているのです。 
3.第3番目に、「わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」ということです。すなわち天の父なる神さまが、イエスさまが御子であることを証しして下さるというのです。 
4.そして第4番目に、「聖書」がイエスさまのことを証言しているということです。 
人間は、他のことは証拠をあげれば信じても、神さまについてはなかなか信じようとしない傾向があります。その原因は、聖書によれば、旧約聖書の創世記の失楽園の物語があらわしているように、人間の罪、人間の高慢に由来するものです。 
 私たちは神さまの造られた世界の中に生きています。にもかかわらず、なかなかそれを認めない。神さまなどいない、と思っている人が多い。「神さまが存在する証拠はあるのか?」と言うことでしょう。 
この世の人々が神さまを認めるように、聖霊の働きを求めて祈り続けましょう。
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イエスさまは、人間からの誉れを受けようとおもって働きをなさっているのではなく、ただ天の父なる神さまからの誉れを求めて働いておられるのです。そして「あなたがた」と言われているユダヤ教の宗教家たちは、反対に、神からの誉れを求めないで人間からの誉れを受けようと思って信仰している。‥‥そういうことをおっしゃっているのです。 

 自分自身の名によって来る人は、この世に受け入れられやすいのです。自分の名誉、栄光を求める人をコントロールしやすいのは、この世の誉れで釣ることができるからです。しかもこの世の栄光は、持ちつ持たれつの関係にあるものです。お互いが「先生」「先生」と呼び合って、栄光を与え合い、受け合っているのです。ですから有名な人のところに人が集まるのは、集まった人々も、有名な人を知っているということで、誉れを受けるからです。 しかし神の名によって来る人は、この世では受け入れられません。この世の価値の規準に従うのではなく、永遠の価値規準で行動するからです。この世の人からしたらコントロールしにくい、あつかいにくい相手なのです。この世の栄光を与えて、自分の味方に取りこむこともできません。むしろ世の誉れに、永遠の栄誉をつきつけて、私たちをこそ、ご自分のほうに取りこもうとするからです。私たちの立場をゆるがし、私たちにこそ改心を迫るからです。(静)  モーセが神をなだめてイスラエル人のためにとりなした(第一朗読)ように、キリストも全人類のために御父にとりなしておられる。私達は常に働いておられる神、今も注がれている神の愛を感じているでしょうか。どの程度信じているでしょうか。今私が頼りにしている「若い雄牛」の偶像、ないしは律法は、真の命を生きるためのものでしょうか。御父の大きな愛、ご自分を無にし私達のために働いてくださる御子の愛、そして聖霊の力によって生かされていることを心にとめ、今日を生きることができますように。

 
四旬節 第四金曜日
「あなたがたはその方を知らない」
ョハネ7・40-53  

 何と鋭い、何ときつい言葉でしょう。それでも、聖書の専門家(神の専門家)、いっしょにいたユダヤ人の民衆に、投げつけられた言葉です。世界中の民族の中で、自分たちユダヤ人こそ本物の、真実な神を知っていると思っていたのですから、そのショックの大きさは想像できるでしょう。この言葉に反発するか、あるいは胸を打ってへりくだるか、または無視するかによって、人は自分自身を裁くのです。 そういう意味では、聖書学者も神学者む、まだ一度も学んだことのない人も、すべての人が皆平等な生徒になって、神のことを学ぶ必要があるのでしょう。(静)
イエスについての話しは一般論から個人的なレベルにおりてきたとき、面白いことに皆同じイエスの話を聞いたのに、それに対しての判断はそれぞれ違います。個人の生活レベルによって、今までの体験、受けた教育、生活する環境によって、判断が大きく変わります。
信仰者は皆同じキリストを信じていると思っているが、中身を掘り下げてみると、案外かなりの違いがあることに気が付きます。たとえば、ある者は心の平和を得るための信仰だと思ったり、ある者は社会問題に取り組むための信仰と理解したりします。信仰理解についてもっと一緒に考えてみる必要があるかもしれない。(ステファニ)

  四旬節 第四土曜日
「今まで、あの人のように話した人はいません」
ヨハネ7・40-53

   「今まで、あの人のように話した人はいません」とは、何という立派な信仰告白なのです。 たちは、イエス様をつかまえるために遣わされたのに、その話にすっかり感心して帰ってきたのです。このような人は、今まで見たことはない、と宣言しているのです。ここに神様の皮肉、ユーモアを見ることが出来ます。 同時にこの言葉は、彼らを遣わした祭司長たちやパリサイ派の人に対する、痛烈な批判を含んでいます。下役たちは今まで、宗教家たちに仕えてきた人間です。たくさんの立派な説教を聞いたでしょう。耳にたこができるくらいありがたい話を聞いてきたはずです。もう、あきあきしていたのかもしれないのです。いやだからこそ、今まで自分たちが会ったどんな「先生」よりも、すばらしい語り手であるイエス様を知ったのでしょう。
 パリサイ派の人たちは、自分たちの話が下手くそだと言われて腹を立て、「お前たちも、まどわされたのか」とバカにし、有力な人はだれも信じていないぞ、と集団の力の論理をおしつけて、下役たち個人の素直な判断を殺そうとするのです。
 しかし彼らが軽蔑していた群衆のほうが、イエス様のことを「預言者」とか「キリスト」とかとらえていたのです。祭司長たちもパリサイ派の人たちも、自らを心から恥じる必要があります。自分の愚かさを恥じるところから、救いが始まるからです。(静)

四旬節 第3月曜日

2010-02-18 13:09:06 | Weblog
四旬節 第3月曜日
 ルカ4・24-30 

“よく知っている”という思いは、人を盲目にさせる。先入観、決め付け、思い込み、勝手な判断という眼鏡を通してしか見えないため真実を見極めることができない。すべてのことに自分の知識を遥かに超える神の働きがあることに気付くことはできない。そのような者の目の前をイエスは通り抜けて行かれる。
主よ、“知っている”というわたしの思いを取り除き、あなたの存在、あなたの働きに気づく、澄んだ目を与えてください。sese07 

四旬節 第3火曜日
マタイ18・21-35

一デナリオンは一日の賃金です。かりに一日の給料は五千円とすると、百デナリオンは50万円となります。一タラントは6千デナリオンなので3千万円で、一万タラントは3千億円になります。
イエスのたとえ話は、次のようになります。超一流の有名な銀行で監査があり、支店長が三千億円の損をさせたことが明るみに出ました。妻も子供もマンションも全部売って負債を返すように命じられました。どんなにしても、生命保険にいのちをいくらかけても、払うことは不可能です。理事会はあわれに思い、負債の支払いの無期延期を決議してくれました。ところが、支店長が会議が終って外に出ると50万円貸している同僚に出会います。かれののどもとを締め付け、「借金を返せ」と迫る。そして返せないとみて、サラ金地獄に閉じ込めます。あとは同僚たちの告げ口、支店長の逮捕で話は終ります。
神から借りた恵みを返済する唯一の方法は、兄弟の小さな負い目を見のがすことです。(荒)  さて、一万タラントンものわたしの借金とは何だろう。わたしの兄弟を赦さないでいるというのは、どのことなのだろう。わたしの過去を遠く振り返って見と、わたしのDNAには、遠い祖先の血塗られた歴史が刻まれている。わたしの負債は、一生かかっても償いきれないものかも知れない。天の父は、
その負債を帳消しにするばかりではなく、そのわたしを慈しんでくださる。
それに引き換えわたしは、友、隣人に対してどんな態度をとっているだろうか。正直に、戦慄せざるを得ない。主よ、あなたは、善人にも悪人にも太陽を照らし、雨を降らせ、食べ物で養って下さいます。あなたの愛で、七の七十倍、きょうだいを赦すことがますように。sese07
また、「自分に厳しい、人にやさしい」という生き方はなにかと考えさせられます。

  四旬節 第3水曜日
マタイ5・17-19

ヤコブの手紙には次のように書いてあります。「2:10 律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。2:11 「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。2:12 自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい。2:13 人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。2:14 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。2:15 もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、2:16 あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。2:17 信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」 パウロはローマ人への手紙の中でつぎのように言っています。「13:8 互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。13:9 「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。13:10 愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」  
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私たちは聖書の言葉を大事だとは思うのですが、それは現実から遠いことと感じられ、神様のお言葉をまともに聞くことに妥協するわけですね。そういう姿に対してイエス様は「律法の文字から一点一画も消え去ることはない。神様の律法は人間がその中から勝手に選んでそれを生きるもんじゃありません。むしろ人間が神様の救いから、どんな小さなすき間からもこぼれていくことがないように守るものとして与えられたのです。
イエス様は決して私たちに「あなた方が律法の一点一画もおろそかにすることなく、完成するように努めなさい」とおっしゃったのではありません。「わたしがそれを完成するために来た」とおっしゃっています。神様が律法の一点一画を完成するためにイエス様を送ってくださったということですね。
神様は私たちの生活の一つ一つを、それがどんなに小さなことであっても、その目でご覧になり、そこで私たちが救いから漏れ落ちることなく、救いに与って生きることを願っておられるということなんです。

四旬節 第3木曜日
ルカ11・14-23

「彼ら(わたしたち)のかたくなで悪い心のたくらみに従って歩み」、「先祖よりも悪いものとなった」というエレミヤの預言(第一朗読)はイエスの時代にも私たちの時代にも実現されます。「その口から真実が失われ、断たれている民」に対してイエスは「口を利けなくする悪霊」を追い出します。けれども、悪魔呼ばわりにされる。

一般に「悪魔」ということばは、しっぽのある黒い動物を想像させます。そこでは「悪魔」はマンガ化されています。「悪魔」のような奴だ」という表現は、人間の 悪気 ( わるぎ ) 、冷たさを示そうとしています。イエス様も「悪魔のような奴だ、悪魔のかしらだ」と非難されました。わざわいをもたらしたからではなく、人々を病気や不幸から解放したからです。 
イエスはユーモア(皮肉)を込めて反論します。内部で分裂していたり、仲間割れしていても、外部の敵に対しては結束して戦うのが人間の集団の特色ではないか。悪魔の集団でも、悪いことをするためには一致協力しているのではないか。悪魔が人の病気を治したり、ほかの悪魔を追い出したりしたら、善いことをしていることになり、悪魔としては失格ではないか。 
イエスはこのようにからかったあと、一転して神の国の到来を告げます。神の力、神の指によって悪魔が追い出されているのであれば、神の支配がすでに来ているのではないか。神の力を認めようとし
ない人々の頑固さに対するイエスさまの悲しさ、怒りが感じられます。(荒)
 
四旬節 第3金曜日
マルコ12・28b-34

人間的な愛には、甘えや駆け引き、煩わしさ、誤解がつきまといます。相手の幸せを願っていても、その通りにならず、よかろうと思ってしたことが逆効果になることがあります。ですから、うまくやる必要がある。人間的な愛にはテクニックが要ります。
しかし、「神を愛する」というときの愛には、そのようなテクニックは不要です。神は心を見るからです。さらに創造主と被造物の区別があるからです。すべてをさしおいて神を礼拝し、賛美し、感謝し、ゆるしを願い、恵みを祈り求めます。それが人間にとっての第一の掟です。「神を愛せよ」という第一の掟から、「兄弟を愛せよ」という第二の掟が当然でてきます。兄弟を愛することによって、父への愛が深められ、確かめられます。(荒)
「あなたは神の国から遠くない」というのは、神の国はだんだん近づいて、もう少しで来るというようなものではなく、悔い改めたらそこは天国であるということだと思う。律法学者に対して神の国は遠くないと言われたのは、知識として納得するのと、神の国に入るということとは次元は違うと示すためでしょう。L・ダビンチの有名なモナ・リザの絵が大阪に来ても、見に行かなければフランスにあるのと同じで遠い存在である。神の国は知識の問題ではなくて、そこに入らなければならない。イエスが一つの決断を促した言葉でしょう。(榎本) キリストは私たちから遠くない、十字架と復活は遠くない。私たちはそれに与りたいか否かです。  四旬節 第3土曜日 ルカ18・9-14
私たちは、ファリサイ派と罪人の二つの傾向をもっています。現代のファリサイ派は、罪人のふりをして祈ります。「主よ、私は罪人です。しかし、あの傲慢なファリサイ派ではないことを感謝します。
真面目に働いているときは、仕事の遅い人や病人に対して厳しく、自分を正義の尺度のように思い込みます。律法を守っていながら、その根本精神である愛にそむいています。
仕事うまくいかず、ストレスがたまると、本来、善意で小心で真面目な性格のため、自分だけ苦労が多く、理解されていないといった被害者意識にとらわれ、殉教者のように自分を美化し、そのゆとりもなくなると、謙虚を通り越して卑屈になり幸せな人をねたみはじめます。
何か変化が起こって自分がついていけないと、急にいらいらしたり、当たり散らし、コントロールの能力もなくなって、落ち込んでしまいます。
ファリサイ派と罪人の二つの傾向は、自分を神の立場、裁く立場に置くことをやめ、神の裁き、神の恵み、神の自由にまかせることによって乗り越えられます。(荒)

四旬節 第二月曜日

2010-02-18 13:06:34 | Weblog
四旬節 第二月曜日 

 ルカ6・36-38

  
人間の歴史は、復讐と憎悪の歴史でもあり、怨念がいつまでも残って、民族の間で戦争が繰り返される。それも事実です。
敵を愛する。それは自分という枠の中に留まっている限りは不可能なことです。私にとって敵である者をも神が愛しておられ、その人のためにキリストは十字架につけられたという事実を思うとき、私たちははじめて敵を愛することができるようになります。どうしても赦せない、押さえ切れない憎しみがあったとしても、それは無理に押さえつけるのでなく、すべて神に委ねてみたらどうでしょう。神はきっと私に代わって、罰を与え、あるいは回心させてくれるに違いない。その神にすべてを委ねたらと思います。神の目で人を見、その人も神のもとにあり、神から愛された人間、神から救われるべき人間に過ぎないと確認する。神は私に代わってすべてご存じである方と確認する。そうするともしかしたら人を見る視点が変わってくるかもしれません。

四旬節 第二火曜日
マタイ23・1-12

福音書では律法学者、ファリサイ派の人々に真の権威について諭される言葉には考えさせられるものがあります。競争社会の中で生活している私たちにとって地位、名誉はとても魅力的にみえます。大分前のことになりますが、HIV(エイズに至るウイルスに感染する)裁判を思い出します。全国第一人者とされていた大学教授が、自分の権威を利用して、非加熱製剤(加熱処理しなければならない
のにしない)を患者に輸血し、エイズに感染させたという事件が大きく新聞やテレビ放映で取り上げられた。そういう決定に至った会議には違う意見も出されたが、出席した他の人は意見は無視され、会議自体は「見せ掛け」にすぎなかったことが判明されました。この事件で私は人間の地位が上になればなるほど名誉と力があればあるほどおごり高ぶる弱さをもっているように思いました。社会の最
前線で活動していない者でも人に認められたい、手柄をたてたい、誉められたい、多くの事を望む思いが心の底にあります。
キリストがいわれるファリサイ派、律法学者に「人に見せるための行い」と批判される時、私自身に対してもその通りですといわざるを得ません。自分の生活の指針としてキリストが「仕えられるためではなく、仕えるためしかもいのちを奉げるまで人に仕えるためである」という生き方をモデルにしているだろうか。キリストが仕える者であるならば神によって創られた私自身がキリストの心を心と
して僕にふさわしい生活を送るべきであろう。
一回でも多く小さな行いの中に真心をこめて人だけに喜んでもらうためではなく、神に喜んでいただくため、仕える心を抱く勇気を祈り求めながら毎日をキリストの道を歩んで行きたいと想います。(堺)
今日の福音で、イエスは、律法学士やファリザイ派の人々を批判しています。彼らは言うだけで実行しないからです。この批判は、そのまま私にもあてはまりそうです。私たちの行いの動機も問われています。どこかに不純な動機が潜んでいないでしょうか。ファリサイ派の人々と律法学者が、イエスの語られることを受け入れることができないのはなぜでしょうか。私は、唯一の師であるイエスの言
葉を聴く耳をもっているでしょうか。唯一の主であるイエス、あなたのみ言葉を聴くことを教えてください。sese07 

四旬節 第二水曜日   
マタイ20・17-28

 「人間、最後まで残るのは“名誉欲”である」と誰かが言っておりました。偉くなりたい、認められたい、人々から賞賛されたい、ほめたたえられたい、人々を自分の思い通りに動かしてみたい‥‥そういう思いは、弟子たちのうちにもあったのです。だから、ヤコブとヨハネの母がそのようにイエスさまに頼んだことを知って、他の弟子たちは腹を立てました。「抜け駆け(ぬけがけ)はゆるさん」といったところでしょうか。  偉くなりたい者は、仕える者になりなさい、と。‥‥これは、「偉くなりたいのなら、しばらく辛抱して、人々に仕えなさい。そうすれば偉くなれる」ということではありません。それでは昔のテレビの「おしん」のようになってしまいます。そうではなく、そもそも「仕える」ということが主イエスに従う者のあり方であるということです。ですから、「偉くなりたい者は、そのような思いを捨てて、仕える者になりなさい」ということになります。 

四旬節 第二木曜日   
ルカ16・10-31

富を自分のものだけにして、貧しい者への施しを怠るなら、必ず天の裁きがある。だから先延ばしせず、今すぐ回心し、富を良い目的のため用いなさい。惜しみなく施しなさいと言う意味です。
 さらに、回心するものとしないものの間には、大きな溝があって、お互いどうしても越えることができない。それが現実です。この大きな淵の原因は、神様の罰でも、神様の冷酷さにあるのでもありません。人間の頑なさが原因です。
 だから目を見張るような奇跡がないから、あっと驚くような神の力を見ることがないから、神様を信じられない。こうした心情には注意が必要です。キラキラ輝いても過ぎ去る富と本当の富、価値あるものの区別、さらに日常生活は永遠のいのちにつながっていること、そして毎日のように私たちの読んでいる「モーセと預言者」(みことば)から来る光(キラキラ輝くこの世の富に目を取られて)を見分けることができなかったら、たとえ死者が起き上がる奇跡を見たとしても、回心すること、自分の人間としての常識・判断を変えることにつながらない。かえって溝が深まるだけ。その恐ろしさがはっきり示され、警告されているのです。
イエス様を賛美して迎えた人が、数日後には、十字架の道を歩み始めたと言って、罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせたのです。「自分も救えないでどうして神の子か。神の子なら自分を救ってみろ。そうしたら信じる」。たとえ死者が起き上がる奇跡を見たとしても、回心すること、自分の人間としての常識・判断を変えることにはつながらない。かえって溝が深まるだけ。その恐ろしさがはっきり示され、警告されているのです。
生きることは、すなわち旅することです。旅路には山あり谷あり、深い海、暗い森もあり、複雑怪奇(かいき、あやしかく不思議)
、危険に満ちた交差点も通ります。ある人は、リネン多彩で高価な衣服を纏い、他方、贅沢三昧な生
活に明け暮れ、あたかも何の苦労も心配もない生活をしているかのように見える人たちもいます。
一方ラザロのように生活しているホームレスのような人々もいます。
私達は、このような中で旅をしています。その中で主は、私に何を呼びかけておられるのでしょう。
どんな挑戦を受けているのでしょう。主よ、あなたの言葉を聴き、悟り、生きることができますように。sese07

四旬節第2金
マタイ21・33-43,45-46

ヨセフの物語(第一朗読参照)は歴史の中で何回も繰り返される。善と悪! その戦いは世紀に渡り継続しています。イエスは的をついた譬え話を使って真実を語るので、人々は反発し、傷付き、ついには抹殺しようとします。真理を語り、闇を照らす光は、闇に住む者にとっては邪魔だからです。イエスが、今日語られる言葉は、現代社会、そして私のどのような闇にどんな光を与えられるのだろうか。光を受け入れる準備はできているのだろうか。
主よ、あなたが語られる真理の言葉に心を開かせてください。sese07

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人間の強欲、力への渇望がこのような恐ろしい殺害にいたる。

 しかしこれは別に2000年前のユダヤ人のことだけを言っていると言うわけでもありません。人間はなんだかんだと言っても、自分の力・地位と言うものをより上に保とうとするものです。この世、社会の仕組みは、明らかに権力・力関係に支配されています。それは愛の場であるはずの家庭においてもまったく同じでしょう。夫婦の間でも、兄弟の間でも、また親子の間でも、いつもそのようなものが支配しています。たとえば夫が妻を虐待し、そのはけ口に妻が自分の子どもを虐待し、そしてその子どもは弟・妹を虐待する。そのようなことはとてもよくあることです。夫婦や子どもを自分の当たり前の持ち物と思い、感謝することがなくなるからです。
 しかし絶対的な権威者は神しかありません。そして配偶者や子どもは、親は、神様からこの世の生活の助けとなるため、愛の学びの助けになるために、一時的に神様から委ねられた、尊い預かりものです。けっして自分のものではないし、当たり前のものではない。自分の思い通りにならないから、虐待したり、無視したりしていい。そのようなものでは決してない。そのようなことをしたものは、神から預かったものを大切にしないために、神殺しに並ぶほどの大きな罪を犯すことになりかねません。
 神様は不信仰な人間を救いたいほどの愛そのものの方です。だから私たちが神の子イエス殺しをしたとしても、そのような私たちに対して、「この人たちは何をしているのか分からないから赦してください」と必死で祈ってくださるイエス様がいるのも事実です。だからこそ、私たちはそれほどまでの愛の方である神の独り子を殺してはならない。神様から託されたものを、本当に尊重し、大切にすることが必要です。この世はキリスト教にとっては、あまりに「現実的な世」なのですが、神様から借りていると言う意味では「借りの世」だからです。 

四旬節第2土
ルカ15・1-3,11-32

放蕩息子の譬え話は、有名な聖書の箇所で、登場人物は三人。一人は放蕩の末に父のもとに帰った息子、もう一人は、常に父のもとで真面目に忠実に仕えてきた息子。二人は対照的であっても、それぞれかけがえのない父の子です。そして三人目は、この物語の中心であり、大切な役割を演じる父です。
この物語をもって、神の心、神の愛とはどんなものであるかが啓示されました。まさに福音です。
私たちは、おそらく自分のなかに、この三人のそれぞれの部分をいくらか持ち合わせているのではないでしょうか。時によって、場合によって、割合は異なっているでしょう。大切なのは、いつもどんな時にも、神は無条件、無償の愛で愛し続けていてくださることを信じることではないでしょうか。それこそ父を最も喜ばせる子の生き方に他なりません。
主よ、あなたの無条件、無償の愛に感謝します。信頼をこめて委ねることを教えてください。sese07
 

四旬節 第一月曜日

2010-02-18 13:00:58 | Weblog
四旬節 第一月曜日
「私にしてくれたことである」
マタイ25・31-46
羊と山羊はよく似ているので、普通、同じ群の中に混じり合っていた。しかし、羊は山羊よりも価値があり、必要な場合には、羊飼いは両者をより分けるのである。右の方は左よりも貴い場所と考えられていた。羊と山羊をより分ける基準となったのは、イエスに対して行ったわざである。つまり、この世の日常生活において、どんな小さなことえも、イエスに対してするのと同じ気持ちでせよと言うのである。(参照コロサイ3・23、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」)。創世記十八章においてアブラハムが知らずにもてなした三人の旅人が、実は主と、主の使いであったということ、非常に似ている。
 ここには愛のわざばかりが強調されていて、信仰のことが一言も出てこないではないかと、不思議に思う人がいるかもしれない。最後のさばきの時に重要なのは、イエスを救い主として信じる信仰である。しかし、イエスがここで言おうとしたのは、その信仰が日常生活において実践されることである。しかもその愛のわざを、主に対してするように、人に対してするのだから、そこには当然信仰が必要なのである。信仰と愛とは決して別なものではない。(山口)従って、ボランティア的な活動をすれば、誰でも救われるという意味ではないであろう。
   
四旬節 第一火曜日「こう祈りなさい」
マタイ6・7-15

「アラジンのランプ」のようにおとぎばなし(童話)の中には、魔法の使いが三つだけ願いを聞いてくれるという場面が時々ある。もし神が三つだけ願いを聞いてくださるとしたら、私達はいったい何を祈るだろうか。神に喜ばれる祈りができるだろうか。そう考えて、自分の祈りの姿勢を反省する必要があるかもしれない。「主の祈り」には七つの願いが並べられているが、私達はそのうちどれを自分の心からの要望にできるだろうか。「御名があがめられる」こと、ただ父なる神のみを神とすること。「御国」、神の支配がこの地上に、この私の中に実現すること。「御心」、「私の願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください」(マタイ26・39)というように、無条件で神に服従すること。「必要な糧」、私達は、自分の生活は自分で働いて支えているように思いがちであるが、神の支えなしには働くことさえできない。私達が常に神の前に赦されなければならい存在であることを思い起こすと、人のまえで威張れるはずがないこと。人生に試練は、この世に悪いことがたくさんある。自分の力を過信せず、神に信頼し、悪の力から救い出される必要がある。ものすごく豊かな内容があるのに、私達は機械的にそれらを繰り返している。やはり、時々立ち止まって、何を願っているかをちゃんと考えるべきである。
  四旬節 第一水曜日   ルカ11・29-32   ヨナが説教した時には、ニネベの人々は、その神の声を認め、それに答えた。最後の審判の日には、ニネベの人々は立ち上がって、イエスの時代の人々を訴える、と書いてあります。イエスと同時代のユダヤ人たちは、かつてないほどの特権に恵まれたにも関わらず、キリストを受け入れるのを拒んだのです。このユダヤ人達の罪は、その特権があまりにも大きいだけに、いっそう徹底して訴えられるだろう。特権と責任は同じものの「おもて」と「うら」なのです。特権のもっているこの二面性に心を留めて、それをどのように使うかを考える必要があります。
 例えば、私たちはみことばにふれる機会はたくさんもっています。そうでない人々もたくさんいます。みことばにふれる機会、祈る時間、共同体の支えなど、非常に恵まれた立場にいる。聖書ほど高価な書物はない。ところがそれはともすれば、「誰でもがその名を耳にするが、誰も読むことのない書物」という、ある人の皮肉な定義にあてはまりかねないありさまです。私たちは聖書にいつでもふれることのできる特権が与えられています。そして、その特権は、それに対して答えるという責任を伴っています。
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信仰とは、自分勝手な基準を作って、救い主を試そうとする態度から生まれないのです。むしろ、へり下って神を求める者に神は信仰を与えて下さるのです。死人の世界から誰かをおくってと願う金持ちに対してアブラハムは言いました。「もし彼らがモーセと預言者に耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても彼らはその勧めを聞き入れはしないだろう」(ルカ16・31)。しるしを求める人間ではなく「神の言葉を聞いてそれを守る人たち」が「めぐまれている」(28)のです。
それでも、神は救い主を信じ得るために豊かなしるしを与えて下さいます。それは「ヨナのしるし」です。預言者ヨナは大魚の腹の中に三日三晩いたように、イエスも地の中(墓)にいて三日目に復活することを、救い主のしるしとされるのです。
イエスの十字架と復活こそ、天からのしるしに匹敵する意味で、救い主のしるしです。現代人にとって、処女降誕や復活は、特別につまづきとなっているようです。「そういう非科学的なことをいうからキリスト教は信じられない」というのです。イエスの時代、悪霊の追い出しを見た人々は、そんな小さな奇跡では、イエスを信じられない、と言いました。現代、復活を聞く人々は、そんな大きな奇跡では信じられない、というのです。不信仰は証拠の問題ではなく、心の「邪悪」(29)のためであることを思わされます。(山中)

「しるしを求める心」に相対する心は、「信じる心」でしょう。信じる心は愛の注入口のようなものです。信じることによって、もともとそこにあるけれども、十分気づいていなかった愛が心に入り、その愛の「しるし」が見えてきます。私たちが心から神を信じ、心に注ぎ入れられる神の愛をしっかり受けとめて、日々の生活の中でその愛の「しるし」となっていくことができますように。sese07

  四旬節 第一木曜日
「あなた達は子供に良いものを与えることを知っている」
マタイ7・7-12

今日の福音の中で気になることばは「あなた達は悪いものでありながら子供に良いものを与えることを知っている」という個所である。今時の子供たちは昔の子供の生活と比べるとはるかに恵まれていると思う人が多いと思います。ところがこの個所を読んで疑問を感じました。子供に教育の場を与えたり、たくさんの菓子を食べさせたり、テレビ・ゲームを買ってあげたりすることが、子供にとってよいものになるのだと果たして言えるだろうか。体をこわすような添加物をたくさん含んでいるお菓子を与えること、能力の一面しか育たないテレビ・ゲームを与えることも、いったいどういう意味があるだろうか。もしかすると子供に邪魔されたくないだけのことかもしれない。子供によいことを与えることは簡単なことではないと思う。(ステファニ)
 さて、悪い親でも、自分の子供には幸せを願うという矛盾と、善そのものである天の父が、人々に幸せだけを与えるという面を対比させて、信頼をもって祈るようにイエスは進める。子供の心を失い、父を捜し求めようとしない、心の扉を閉ざしている私達に、イエスはなんとやさしく語り掛けていることでしょう。
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「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」 
 このイエスさまの御言葉は、一般に「黄金律(おうごんりつ)」と呼ばれています。つまり、聖書の中でももっとも重要な戒めであるということです。この言葉を聞きますと、何か他でも聞いたことがある教えのように感じるのではないでしょうか。しかしそれは似ているようでちょっと違うものだと思うのです。つまりそれは「人様に迷惑をかけてはいけない」という言葉ではないかと思うのです。「他人に迷惑をかけてはいけない」ということが、私たちの社会では小さい頃からいちばん大切な教えとして教えられて来たのではないでしょうか。 
 そのような言葉は古代 ローマ の 思想家 セネカや論語にもあります。「あなた自身が願わぬことを、他人に行ってはならぬ」(論語、15:23)。そしてこれはやはり世の中で生きていく上では、たしかにたいせつな教えであると思われます。
 けれども福音書の場合は、「神」抜きには成り立たない。神様が私たちに「良い物」をくださる。だから、その神様の愛の御心を信じて、また、私たちも神様の御心にならって生きようとする。隣人に「良い物」を与えようとする。神様の心を自分の心として生きる。隣人に「良い物」を与えようと志す。その生き方の中で、私たちは、私たちに「良い物」を与えて下さる神様の御心を、より深く味わうことができるでしょう。

私たちは今与えられている恵みに秘められた神よりのご期待に気づいているのか。健康、能力、財産、一つとして神から与えられなかったものがあるのか。もし、今私たちが、現在の恵みに感謝せず、いたずらにそれを誇り、わが身の安全に心安しとして過ごしているなら、私たちの道は滅びの道になる。私たちのすべては神の賜物であり、神から預けられたものです。もし神の栄光のためならば、それを投げ出す覚悟なしには、私たちは神のものを盗んでいることになりかねません。
  
四旬節 第一金曜日
「兄弟と仲直りをしなさい」
マタイ5・20-26

兄弟姉妹に対して腹を立てることなど、日常茶飯事として片付けてしまい、取りたててとやかく言う人などいない。しかしイエスは腹を立てることも本質的には殺人と変わらないと言う。これは実に驚くべきことである。常識から言って、イエスの論理は飛躍しすぎだと思うだろう。だが、イエスは人間の心の奥底まで読んでおられる。殺人はそう簡単におこるものではない。そこに至る原因が必ずあるはずである。殺人の三大原因は、「恨み」「物とり」「痴情(ちじょう) 」(狂った感情)だと言われる。他人に対する怒りが高ぶって恨みとなり、やがては殺人となる。殺人というような恐るべき罪の発端も、もとをただせば腹を立てることである。このような原因から解決しなければ真の解決はないとイエスは言うのである。
物事は表面だけを見ていては解決できない。その根源を見抜いて、抜本的な解決をはかることが大切である。律法学者は、自分は人を殺したことがないから正しいのだと自認していた。これは自己正統化である。しかし、神の前にはこのよう自己義認は通らない。私達も、自分の心の状態を根源にさかのぼって考えてみなければならない。(山口)イエスにも腹を立てるような反対者(敵)がいました。そしてイエスは彼らの気持ちを考えて、活動を控えたり場所を変えたりしましたが、結局何の役にも立ちませんでした。私達の場合、相手の気持ちを考えずに行動して、そして「相手が悪い」と決め付けてしまうことがないでしょうか。(ステ)今日は、人を裁くことから自由になる恵み、また、間違った時には、それを悟って軌道修正することができる勇気と謙遜さを、祈り求めたいと思います。 ---------腹を立てることは、人間の攻撃性からくるもので、はけ口として暴力になりやすいと言われています。ところが、人間社会では、ほんの僅かな暴力でも,大動乱をひきおこす可能性を持っています。エスカレーションの源になり得る.断じて古びることのないこの真理が,たとえ今では,すくなくともわれわれの日常生活においてほとんど見えにくくなっているとはいえ,われわれは誰でも,暴力を目の前にした時,何か《伝染する》(伝染病のように)ものがあることを知っている.実際,時には,そうした感染からほとんど身をかわす(守る)ことができないのである.暴力に対する非許容も,結局のところ,暴力を許容することと同様,持って生まれた運命的なものであることがわかる.暴力がはっきりとした姿をあらわした時,進んで,むしろ嬉々(きき)として身をまかせる人々がいる.逆に暴力の展開に抗する他の人々がいる.だが,暴力が席捲(せっけん)することを可能にするのは,しばしば彼らである.そして暴力はしばしば、「本来」ふるわれるべきであった相手の代わりに、単に暴力をふるい易いというだけに過ぎない手近な対象に矛先を変えることがある。そうして集団・共同体全体が感染して暴力がたまって、スケープゴート(身代わりの山羊)を探します。キリスト自身もこうしたメカニズムに巻き込まれて十字架に付けられたのです。(ルネ・ジラールの「スケープゴート・メカニズム」を参照)。 

四旬節 第一土曜日
「完全な者となりなさい」
マタイ5・43-48

他人のいのち、財産を尊重する義務は社会生活の基本だと言って、それを子供たちに教えます。ところがその基本は覆(くつがえ)されるときがあります。裏切り、欺瞞、殺人や掠奪(りゃくだつ)でさえも(当たり前)合法とされるばかりでなく、何と手柄になります。これは戦争の状態なのだが、経済においても競争に勝つために同じようなことが見られます(やはり、経済は「きれいごとだけではうまく行かない」)。例えば、日本の森林を伐採すればものすごく非難されますが、東南アジアの森を倒しても文句を言う人は少ないでしょう。これは「閉じられた宗教」の働きなのです。キリストは、開かれた宗教、全人類への愛を教えたのです。自分の仲間を愛するのは割りと簡単にできるけれども、自分の(仲間の)ことばかり考えると様々な社会問題がおこります。正義と平和の問題はこれに尽きるといってよいと思います。(ベルグソン)
 キリストは問題解決への手掛かりである。教会として社会問題に取り組んでいろいろな貢献ができると思いますが、一番肝心なところ、それなしには解決への道は見えないことを伏せてかかるのはどうかと思います。これから、グロバリゼーションということで経済の面でもさらに発展していくでしょうが、問題も増えるかもしれません。そのとき「閉じられた道徳、宗教」だけでは間に合うでしょうか。
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敵を愛し、自分を迫害する者のために祈ることが出来るほどに、こだわりのない広い心、私たちが招かれているのは、そこまでの自由な境地なのです。神の似姿である私たちの心には、例外なく、神の性質が「遺伝」しています。聖書を読むこと、祈ること、思い巡らすこと、そして、そこから理解した神の御旨を行うことによって、神の広い心と交わり、受け継いだ遺伝子をONにしましょう。今日も
天の父は、完全な自由へと私たちを招いておられます。sese07 

灰の水曜日

2010-02-17 11:59:50 | Weblog
灰の水曜日
「断食するとき、偽善者のように暗い顔つきをしてはならない。」
マタイ6・1-6、16-18

  寂しい時、失敗した時、心が弱っているとき、あたたかな思いやりの人に元気づけられることがあります。批判したりせず、そばにいて、いっしょに悲しみやもがきを共感してくれると、心は軽くなります。神の訪れが来るときも、神はわたしたちを裁き、押しっぶしてしまうのではなく、ありのままのわたしたちを受け入れ、わたしたちを内部から回復させてくれます。悔い改めるとは、神がどんなにあたたかなかたであったか、ハッと気づき、そのかたに手を合わせ、頭をさげることです。いのちを与えてくれた神に感謝し、いのちをおろそかにしてきたことを思って胸を打ち、いのちの尊さを体を通してわかるために灰を頭に受け、断食をします。
ファリサイ派にとって、断食は義人になるための修業でした。貧しい人びとに施しをするために食費を切り詰め、断食をしました。
 キリスト者にとって、断食はさらに深い意味が加えられました。イエスは述べたように(マタイ9・14ー15)、「花婿の友人たちは、花婿がともにいるとき、悲しむことができようか。断食できようか」。やがて受難と復活を体験した弟子たちは、イエスのことばに加えます、「花婿が取り去られる時が来る。そのときには断食する」。断食は、キリストの死を悲しむ愛の象徴行為になりました。悲しくて、苦しくて、胸がつまってなにも喉を通らない。心の悲しみが体にまで影響するほど深い愛で大切なかたの死を悲しみたい。花嫁である教会は、花婿キリストへの愛を深めるために、貧しくなられたキリストに似るるために断食します。(荒)「施し」「祈り」「断食」。この3つのどのテーマにも「隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」というメッセージが鳴り響いています。十字架上で完全に無となり、純粋な愛を全うされたイエスに従っていくために、なんと大きな力となるみ言葉でしょうか。

内面の自分の在りように眼をむけ、隠れたことを見ておられる御父に「よし」としていただけることだけをひたすらに望んでいくことができますように。
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施し・祈り・断食はよい行いです。これを実行していると人々から誉められます。しかし、神にも誉められるかどうかは分リません。神は外的行為から判断する方ではなく、心の奥を見るからです。
私たちが言う本音と建て前のことでしょう。実際には、理想としていることと現実に生きていることには大きなギャップがあることに気付きます。今年の四旬節はいいかっこしいことをやめて、もっと本質的なことを心がけましょう。
主よ、隠れたことを見ておられるあなたの目にふさわしく生きることができるよう、助け導いて下さい。sese07
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じゃが芋(ジャカルタの芋)あるいは馬鈴薯(馬にかけられる鈴に似ていることから)を植えつける時、かつて農家の人々は、一つ一つを半分に切って、断面に灰をつけて土の中に埋めていたものです。それは腐敗を防ぎ、養分としての役割をもっていたと考えられます。灰をつけられた馬鈴薯は土の中で、時が来るのを待ち、やがて芽を出して沢山の実を結ぶのです。
 馬鈴薯だけでなく、多くの作物は大体一年周期で再生していくようです。こうして春から夏にかけて植え付けられたものは秋になるころ、刈り取られていくのです。
 さて、私たちは毎年、灰の水曜日を迎え、儀式の中で額に灰をいただきます。その一つの意味は、人間としての再生を教えるしるしということです。天地創造の時、神は人間を塵から造られた(創世記2・7参照)と記されています。また灰の水曜日の典礼では、「あなたは塵であり、塵に帰っていくのです」ということばを司式者は唱えます。神が鼻から息を吹き込まれると人は生きるものとなったのです。それは、塵に帰った私たちは塵のまま眠り続けるのではなく、やがて神の招きのことばによって新生されていくことを教えるものでしょう。
こうして人間は塵に帰った後、どのような経緯を辿っていくのでしょうか。馬鈴薯は土の中で約半年ぐらいを過ごして、やがて芽を出していくようですが、人間の場合、すでにキリストの時代から数えるだけでも約二千年が経過しています。さらに遡って人類の誕生から考えると五百万年ぐらいが過ぎたのでしょうか。あまりにも時間がかかっているように思えます。しかし時は愛であるというふうに考えますと、この長い時間はむしろ人間に対する大きな愛として受け止めることができるのではないでしょうか。
(小瀬良 明、「聖書と典礼」より) 


灰の式後の木曜日

ルカ9・22-25

現代人の十字架はなんでしょうか。家族を支える大変さ、病気、仕事、借金、人間関係など、心配事は数限りなくある。生きているからには「必ず多くの苦しみを受ける」ことが確実。仏教でも、「四諦(したい)」(四つの聖なる真理)には「一切皆苦」という根本的な教
えがあって、すべては苦であると言われている(四苦八苦)。生まれるのも苦であり、人に出会う喜びもあるが、しばらくして分かれるからこれも苦(愛別離)、いろいろのものを求めるが得られないのも苦、死ぬのも苦である。
だれでも自分の十字架を背負っている。キリスト者は、その十字架をキリストにささげ、キリストの十字架にかえていただく。自分のいのちをキリストのために消耗させ、自己防衛のエネルギーを、自分を必要としている人、キリストのために燃焼(ねんしょう)する。

キリストのために日々の苦労をささげる決心を新たにしよう。--------------------
四苦八苦(しくはっく)とは、仏教における苦しみの分類。根本的な苦しみを生・老・病・死の四苦とし、四苦に加え、

* 愛別離苦(あいべつりく) - 愛する者と別離する苦しみ
* 怨憎会苦(おんぞうえく) - 怨み憎んでいる者に会う苦しみ
* 求不得苦(ぐふとくく) - 求める物が得られない苦しみ
* 五蘊盛苦(ごうんじょうく) - あらゆる精神的な苦しみ

の四つを合わせて八苦と呼ぶ。

四苦八苦を足すと(4*9=36 8*9=72 36+72=108)108になる。

四苦八苦というのは単にごろだけで言われている言葉ではなくて、ちゃんと根拠がある言葉です。

まず四苦というのは「生・老・病・死」のこと。

そこにさらに四苦
「愛別離苦(愛する人ともいつかは離別しなければならない)」
「怨憎会苦 (イヤな奴や嫌いな人でも会わなくてはならない)」
「求不得苦 (欲しいものが得られない)」
「五陰情苦 (食欲や性欲が過ぎて自制が利かず心が乱れる)」
が加わって八苦になる、と。

で、四苦(4*9=36)八苦(8*9=72)を足すと(36+72=108)108になる、ってのはまたうまくできたもので。
こうやって考えると、あながち昨日の更新も、単なる語呂合わせとは思えなくなってきますねぇ。http://ae.txt-nifty.com/blog/2004/10/post_7.html

四旬節 灰の式後の金
「花嫁がいるときは断食できない」
マタイ9・14-15

神の国の到来は神と人類の結婚にたとえられてきました。イエスはその神の国が到来し、婚宴が始まったことを宣言します。神がすべての人を差別することなく愛し、婚宴に招きます。それがイエスと罪びととの食事によって示されます。神は私たちの負い目にもかかわらず、私たちをゆるし、親しい交わりに招いています。神は以前から私たちを愛していましたが、私たちはそれに気づきません。し
かし、神の愛に気づいたとき、感謝の念が湧き上がってきます。ちょうど親のありがたさを、しみじみ懐かしく思うのに似ています。断食は、徳をつんで義人になるためではなく、キリストに似た者になるためである。キリストの十字架によって示された神のあわれみに感謝したい心から生まれます。
感謝の気持ちをなにかの形で表したいのです。(荒)

私たちは、喜ぶ時があれば、悲しい時もあります。花開く嬉しい時があれば、心沈む時もあります。
晴れる時があれば、雨が降るときもあります。私たちは変化の多い状況の中で生きています。そのような中にあっての時の見極めではないでしょうか。
主よ、あなたと共に、あなたのうちに、時を見極める術を教えてください。sese07
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1.偽善的信仰に対する批判


・人々は神に問う「何故私たちが断食してもあなたは喜ばないのか」、「バビロンでの財産を捨てて帰国し、神殿を建て、熱心に礼拝をしているのに、何故生活は豊かにならないのか」との問いである。
-イザヤ58:3「何故あなたは私たちの断食を顧みず、苦行しても認めてくださらなかったのか」。
・それに対して神は答えられる「お前たちは断食の日に商売をし、断食の時に人々を貪り、断食しながら人々と争う。そのような断食を私が喜ぶと思っているのか」と。
- イザヤ58:3-5

・断食はあくまでも自発的行為であって、悔い改めの日であるのに、行為自体が目的となり、その報酬を求めるようになる時、偽善となる。悔い改めを行為で示せ、人々を憐れむことこそ断食ではないかと神は迫られる。
- イザヤ58:6-7
・お前が本当の断食を、正義を行えば、私はお前を祝福する。お前の傷、生活の困難は癒される。
-イザヤ58:8-9a「そうすれば、あなたの光は曙のように射し出で、あなたの傷は速やかにいやされる。あなたの正義があなたを先導し、主の栄光があなたのしんがりを守る。あなたが呼べば主は答え、あなたが叫べば、『私はここにいる』と言われる」。


これは、実はかなり辛口のことばです。その辛口をちょっと再現してみると、「私たちはちゃんとしているのに、なぜ神様はもっと召しだしを送ってくれないのか」。「悪いのは私ではに君らだ、形ばかり整えて、その心はどうなっているのか?」という具合でしょうか。

また、これは「売り言葉」に「買い言葉」を返す、夫婦喧嘩みたいなもの。神と民はかなり接近した形でないと考えられない言葉です。

・ヨハネの弟子やパリサイ人は週に2日(月曜日、木曜日)断食した。しかし、イエスの弟子たちは断食しなかった。神の国が来た今は、悲しみの時ではなく、喜びの時だからである。
―マタイ9:15「婚礼の客は、花婿が一緒にいる間は、悲しんでおられようか。しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その時には断食をするであろう。」

イエスの弟子たちも断食します。しかし、ファリサイ派の人たちとイエスの弟子たちとの
違いがあるようです。断食の質、内容と目的が大事です。断食はダイエットと違って見せるものではありません。
・神が本当に喜ばれるのは「いけにえではなく、憐れみである」。神を礼拝するとは他者を愛することなのだ。
―ホセア6:6「わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。」
・それなのにあなたたちは旧い律法にとらわれて、神のみ心を行おうとしていないではないか。

私たちは、立場上良かれと思っていろいろと良いことをします。大体形は整っている。けれども、それはもしかすると、単なる義務感からであって、本当の愛はこもっていないかもしれない。「夫婦喧嘩」をするぐらいで、神としたしくなっていないかもしれない。



四旬節 灰の式後の土
「私は来たのは正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためである」
ルカ5・27-32

「あなたの罪はゆるされた」という言葉があります。「神は決してお前を見捨てていない」という励ましの言葉です。われわれの死に至る病とは、絶望である、とある有名な哲学者がいっていますが、病の最大の問題は、それがわれわれから望みを失わせてしまうということなのです。それは罪とは絶望であるということです。聖書では、罪とは絶望であるという言葉はありませんが、内容的にはそのことを言っているのです。なぜなら、われわれが救われるということは、どんな時にも望みが失われないことである、と言われているからであります。パウロが救いについて述べて、結論のようにして最後に希望は失望に終わることはない。」というのです。その理由は「なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって、神の愛がわたしたちに注がれているからである」というのであります。
そうして「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」とイエスは言われたのであります。ここでイエスが招いた罪人とは、ただ罪を犯した人間、罪を犯し続ける人間のことではないのです。自分の罪に気づき、自分の罪に絶望している罪人を招いておられる。それはもちろん悔い改めた罪人を招くというのではないのです。われわれは自分ひとりで悔い改
めるなんてことはできないのです。ですから、まず自分で悔い改めて、それからイエスのところにいくなんてことはできないのです。イエスに招かれて、そうして、イエスの言葉を聞いて、始めて悔い改めることができるのです。Ekyamada