LUCERNA PEDIBUS MEIS (Omelie varie)

足のともしび(詩編119)
Luce ai miei passi (Salmo 118)

年間第28主日 A 2008年10月11日 伊丹

2008-10-17 08:26:09 | Weblog
年間第28主日 A マタイ22・1-14

Weblog / 2005-10-09 10:43:50

年間第28主日 A 〈マタイによる福音書22・1-14〉
 2008年10月11日 伊丹

あいさつ:
さわやかな秋晴れのなかで、今日私達は主の食卓に招かれました。さまざまな思いを抱(かか)えてここに集まった私達一人一人を顧み、豊かな恵みを注いでくださる神に信頼し、キリストの弟子としての使命に、まっすぐにこたえることができるように、今日のミサをささげることといたしましょう。 


今日のテーマは「ふさわしい礼服を着て祝宴に出席すること」です。それにしても「礼服を着る」とは何を意味するのか。
 神父はミサの時に、アルバと呼ばれる真っ白な祭服を着て礼拝を司式します。それは清らかさを意味します。また、ヨハネの黙示録に繰り返される「救われる者はキリストの血潮によって洗われた真っ白な麻衣(あさぎぬ)を着る」(黙示録7:14)「その衣を小羊の血で洗って白くしたのである。 」という言葉にも関連していましょう。 そして叙階された人だけにゆるされるストラと呼ばれるマフラーのようなものを首にかけることができる。ストラはキリストのくびきを意味します。キリストに倣うとは、キリストのくびきを負い、キリストに従って、福音の道を歩むことです。キリストの弟子にとって何よりも不可欠な徳は、謙遜です。
 これが「祝宴にふさわしい礼服」として私たちミサの司式者が着るものです。しかしそれは外見的な事柄にすぎない。私たち司式者が司式にふさわしい礼服を外見だけでなく心にも着ているかどうかを今日の聖書は鋭く問いかけてきます。キリストの祝宴にふさわしいあり方をもってミサを司式しているかどうか神父は問われている。それはミサに出席する皆さんが、ミサに出席するのにふさわしい心のあり方をしているかどうか問われているのと同様です。
 しかしそのことは私たちを困惑させます。ミサにふさわしいとは何を意味するのか。私たちは自分はミサにふさわしくない、神さまの恵みに値しないと考えている。だって、いつもミサの前に私達は「主よ、あわれみたまえ」を3回唱えます。人間の側にそれにふさわしい功績(こうせき)があるということは考えない。ふさわしくない者を恵みによって祝宴に招いてくださるのが、私たちの信じる神さまなのです。
 「ふさわしい礼服」とは何か。そこに本日の答唱詩編が登場します。詩編23を歌います。「主は私の牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場にふさせ、憩いの水辺に伴われる」。「ふさわしい礼服」とはこのような主キリストに対する信頼を意味しています。礼服とは信仰のことなのです。そして信仰とは「私たちのうちに働く神さまのみ業」ですから、礼服は自分で準備するのではなくて祝宴の主催者が準備してくださるということになります。実際、旧約聖書には祝宴の招待客には礼服も共に準備されるということが記されている箇所もあります(創世記45:22、士師記14:12以下など)。もしそうであるとすれば、「礼服を着ていなかった者」は、それが配られたにも関わらずその着用を拒絶したということになる。12節を見ると、王が『友よ、どうして礼服を着ないでここに入って来たのか』と言ったのにその人は黙っていますが、この沈黙は彼の混乱というよりもむしろ不服従を表していましょう。
<「着る」>  また、結婚式のときにもよく読まれる聖書があります。コロサイ3章ですが。「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。・・・あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです」(3:9b-14)。ここで「身につけなさい」と繰り返されている言葉は「礼服を着る」という言葉です。信仰を持つということは神からいただいた「愛を身につけること」なのです。

<「皮の毛衣」>  「着る」ということで私がハッと思い出すのはあの創世記のアダムとエバが楽園を追放される場面です。そこにはこうある。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(3:21)。この文章は何気なく読み過ごしてしまいがちですが、とても大切なことを告げています。エデンの園から追放するにあたって、神ご自身が人間に皮の衣を造って着せてくださった。それは人間を寒さや外敵から守るためでもあったでしょうが、何よりも自らの裸を恥ずかしいと思った人間を覆うためでもありました。「恥」とは自分の弱さや惨めさが晒(さら)された時に感じる強烈な痛みを伴う感情です。それを神ご自身が覆ってくださる!人間の罪と恥とをカバーしてくださる。人間に対する神の深い憐れみと愛とを感じる事柄でもあります。
 それと同時に、「皮」の衣ですから、それは、人間の恥を覆うためにあの十字架の上に生贄、犠牲の子羊となってくださった神の独り子、イエス・キリストと重なってゆきます。そのように、私たちの恥を覆い、外敵から私たちを守るためにキリストが衣となってくださった。「キリストを着る」とは何よりもそのような神の守りを身につけることなのです。人生を旅する私たちを罪と恥と絶望とから守るために神が用意してくださった礼服を着る。これがキリストの祝宴にふさわしい礼服を着ることの意味なのです。
<祝宴への招待>  そしてさらにそのことは、私たちが自分の力だけで生きるのではないのだという認識に導きます。神の守りが常に私たちと共にあって、私たちは自分で生きるというよりも、神によって生かされている。あるクリスチャン画家の言葉を聞いたことがあります。「受洗前は自分が生きるんだという思いで苦しかった。でも洗礼を受けてから、自分が生きるのではなく生かされているということを知って本当に楽になった」と。神の用意してくださった衣を身につけるということは、自分が生きるのではなく神に生かされているということを知るということでもある。祝宴に与る、子羊の婚礼に与るとは、そのような私たちを生かす天の喜びに与るということです。
 星野(ほしの)富弘(とみひろ)さんの詩画集(しがしゅう)『鈴の鳴る道』の中に次のような詩があります。

   いのちが一番大切だと
   思っていたころ
   生きるのが苦しかった
   いのちより大切なものが
   あると知った日
   生きているのが
   嬉しかった

 「礼服を着て祝宴に与る」とは、いのちよりも大きなものに自分が生かされているということを知ること、生かされていることの恵みと喜びに与るということではないか。私にはそう思えてなりません。皆さんはどう思われますか? ご一緒に、この礼服を着て、心の底から新たにされて祝宴に連なり、神の恵みに生きる者となりたいのです。
 お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますように。 アーメン。
http://www4.big.or.jp/~joshiba/message/sermon/29.htm