LUCERNA PEDIBUS MEIS (Omelie varie)

足のともしび(詩編119)
Luce ai miei passi (Salmo 118)

年間33主日 B マルコ13:24ー32

2006-11-19 08:38:54 | Weblog
年間33主日 B
【マコ13:24ー32 人の子が来る】

きょうの福音書は、いかにも世の終わり。「滅び」の予告する言葉のようですが、実はそれは、神の栄光を帯びた人の子つまり救い主が来られるという教えです。キリスト教の言う「終末」とは決して「終わり」ではなく、神の国の「完成」であり、終末預言とは、すべてを神のみ手にゆだねる生き方への呼びかけにほかならないことが示されているのです。

ある人が、スーパーの閉まる直前、買い物に出かけ、食料や、日用品などをいろいろ買ってレジに並びました。たくさん並んでいて、やっと自分の番来て、レジで計算をしてくれたあと、金額が12000円にもなりました。そこで、財布を出そうとしたら、なんとそのお財布の中には1000円しかなかったのです。前の日に、電化製品を買ったことを忘れていたのでした。それでお金を取りに行くからこのまま置いておいてもらえませんかと言ったのですが、もう店が閉まるから駄目、もとの場所に帰して下さいと言われました。たくさん人も並んでいたので、恥ずかしいやら、情けないやら、いろんな気持ちで、またずいぶん時間をかけてもとの場所に品物を返したのでした。
 太陽が暗くなって、天も大地も、明日のない終わりがある。お店だったら、今日終わっても明日開く。夜だったら、朝が明ける。今年だったら来年がくる。でも明日のない終わりがある。その時皆、神様の前に出て、清算しなければならない。「幾ら買ったのですか」でなく、「生きている間何をしたのですか」と聞かれる。こんな悪いことをした、あんな悪いことをした、怠けもした、やりたい事をした。悪い事に対しては罰を受けなければならない。そんな日が来る。その時どうしますか?
 終わりがある。清算しなければならない。今年失敗した事は来年取り戻せば良い。金を借りて、今年返せなくても、来年返せば何とかなる。今年受験に落ちても、来年入ればいい。でも決して明日、来年なんとかすると言えないときがくる。12000円なくて恥ずかしい思いをするかもしれない。でももしこの時に、誰かが代わりに払ってくれたら助かります。でもそんな人はいるわけがない。ばかじゃないと見て、内心あざ笑って終しまい。
 でも人の子イエス様は私が払う事の出来なかったお金を払って下さるため、私の代わりに罰を受けるためにおいで下さったのです。イエス様をあざ笑う者、ののしる者をなお救うために来たのです。裁くために来るのですが、弁護者としてイエス様を信じる人々の足りなさを補うためにも来るのでもあります。
 イエス様が足りないところを補って下さる。だからと言って、この世で、怠慢に自分のことばかり考えて生きていればいいと言うのではもちろんありません。ただ世の終わりの審判への恐ろしさ、恐怖から、善いことをするのなら、意味のないことではいと思います。そういうレベルの話しかわからない人もいると思います。けれどもそうでなく、私の負債、借金を負って下さったイエス様への感謝の気持ちを本当に理解し、しっかりと自覚したとき、その感謝の気持ちは、自然に他人にもあふれ、善い行いをせざるをえないはず。

 もうじき教会の暦の中で1年が終わろうとしています。この最後の時を迎えて、もう一度この1年を振り返って、イエス様ありがとうございます。そう言ってみませんか。確かに色々つらい事もあったかもしれないですけど、でも神様に感謝してみませんか。私たちはとかく不幸なことばかり並び挙げて、神様は何もしてくれていないと言いがちです。でも本当は、たくさん守られて、与えられています。感謝することはたくさんあるはずなのに、それを意識しない。気がついていないだけかもしれません。身近だからこそ忘れている家族への感謝、こうして生きていられること。いろんなことに感謝しながら、新しい季節に立ち向かっていきましょう。moseos

神のはからいに信頼して生きるように、今日の三つの朗読箇所を通して主は招いておられます。神のいつくしみが完全に実現するまでの歩みを人々が体験しています。しかも、完成のときの直前には、大いなる「苦難」が必ず訪れるということが強調されています。たしかに、イエス・キリスト御自身も、神の栄光に入る直前に「十字架の死」の苦難を身に受けました。苦難を経ても、神への徹底的な信頼が保たれているときに、その人の信仰は実を結びます。
私たちの日常生活においても、さまざまな苦難が次々に起こりつづけています。親子の不和、夫婦の断絶、会社と個人との矛盾、学校内のいじめの問題など、数え切れないほどの問題が積み重なっています。しかし、これらの苦難の中にあって、神に信頼して前進しつづけていくときに、必ず、思いもよらないほどの実り豊かな結果が与えられていくこともまた、真実なのです。困難が大きければ大きいほど、試練を経たあとの豊かさは、測り知れないものとなるのでしょう。「キリストに信頼して生きる人」は、第一朗読では「お前の民、あの書に記された人々」と呼ばれ、第二朗読では「聖なる者とされた人びと」と名指され、福音朗読では「弟子たち」、「彼によって選ばれた人たち」として描かれています。神は何としてでも人間を救おうとして、独り子を通して、「つながりを密接に深めていこう」とされているのです。神とのつながりが深まるとき、人間は「神の民」となり、「聖なる者
」として生きることができます。「聖なる」とは、神のいつくしみにつつまれて、常に神とともに親密に生きているという意味です。「あの書に記された」とは、神が人間を救いたいと望み、ひとりひとりを深く知り尽くして忘れないように記録しているという比喩表現です。それほどまでに相手のことを大切に覚えて責任をもって接してくださるのが神のいつくしみなのです。
私たちは、日ごろ、必要以上に悩んだり、苦しみ続けてしまうことが多いのですが、苦難は苦難で終わるわけではないという真実を思い起こすことが大切でしょう。いつくしみ深い神が私たちを見棄てることは、決してありえないのですから。聖書には、さまざまな人物と神との関わりが描かれていますが、そのような関わりから常に、「滅びることのないいつくしみの実現」が浮き彫りになってくるのです。イエスを通して決定的に表された神のいつくしみに、いっそう信頼を深めていくことができますように。sese06

わたしたちの現実はどうでしょうか? わたしたちの中には両面があると言えるのかもしれません。苦しみの中で必死に生きている現実と目先の利害に振り回されている現実。そのわたしたちにとってきょうの福音はどのように響いてくるでしょうか。
  (5) イエスはこの中で「わたしの言葉は決して滅びない」(31節)と語ります。13章の初めで、弟子たちは目に見える神殿こそが確かなものだと思い、そこに信頼を置こうとしました。しかしイエスは、それは結局滅び去るもので頼りにならないと説きます。そして、だからこそ決して滅びないものに弟子たちの目を向けさせているのでしょう。「愛は決して滅びない」(〓コリント13・8)というパウロの言葉も思い出されます。わたしたちにとって、「決して滅びないもの」とは、本当に頼りにすべきものとは何でしょうか? hinto



年間第32主日 B年  マルコ12・38-44  園田

2006-11-12 08:24:58 | Weblog
年間第32主日 B年
マルコ12・38-44

 場所は神殿の庭です。そこには13個のラッパ状の賽銭箱が置いてありました。多くの参詣者が金を投げ入れている中で、一人の貧しいやもめが、そっとレプトン銅貨2枚を投げ入れました。マルコはその金額をローマの貨幣価値に換算して、彼の福音書を読むローマ人に分かるように配慮しています。ここで「2枚」という点を注目したいと思います。この婦人は1枚を献金して、あとの1枚を生活費として残しておくことができたはずですが、彼女は2枚とも捧げてしまったのです。マルコは、「あらゆる持ち物、生活費の全部」と書いて、それを強調しています。
 生活費のすべてを献金した貧しいやもめの行為については、いろいろ疑問が生じます。どうしてイエスにそれがレプトン銅貨で、その2枚が彼女の全財産だと分かったのか? すべてを献金してしまったなら、明日からの生活費をどうするのか? そのような無分別は、結局は周囲の人に迷惑をかけることにならないか? 全財産を捧げよという教えは、まさに変な宗教は進めているではないか?
 財産のすべてを捧げよとは、ある宗教家が説くところです。そしてその殆んどすべては欺瞞です。寺院、会堂、教会の壮大豪華な建築に比べて、貧弱な信者の家屋を見かけることがあります。民衆の信仰心を煽り立てて、その陰で宗教家が王侯貴族のような贅沢をしています。人集めと金集めの上手な宗教家を世間も教団も崇めます。 イエスも又、神にすべてを捧げよ、と教えました。しかし同時に彼は、「やもめの家を食い尽くす」律法学者を激しく非難しました。宗教家が「神」を看板にして宗教的ビジネスに熱中することを批判しているのです。マルコの描くイエスは、お忍びの姿で人間世界を歩む神の子なのです。それでイエスにはすべてがお見通しなのです。やもめの手にある2枚のレプトン銅貨も、それが彼女の持てるすべてであることも、彼女の心にある純粋な信仰も、律法学者の偽善的な長い祈りも。宗教の専門家が神に仕えていると言いながら、その実、神を利用しているのとは正反対に、貧しいやもめが、恵みの神への感謝と信仰の喜びに満ち溢れて、持ち物すべてを捧げて、自らのすべてを神の御手に委ねている姿が、イエスには明らかに見えるのです。「幸いなるかな、霊において貧しき者、天の国はその人のものなり」(マタイ5・3)「先ず神の国と神の義とを求めよ、さらばすべてこれらの物は、汝らに加えらるべし」(マタイ6・33) これがイエスの人生哲学なのです。先ずなによりも第一に神との関係を正しく保つこと。
神の愛に満たされ、神への愛に生きること。そして生活上の思い煩いから解放されて、「空の鳥」や「野の花」のように自由に生きること。このイエスの人生哲学を学んで生きる者が、クリスチャンなのです。
http://www.asahi-net.or.jp/~de7m-tkhs/01_kawasakaki_church/01_01_mark/01_0111_mark_.html

現代においても私たちは、有り余るものだけ、自分にとって快適な生活が保たれる程度に、献げているのではないでしょうか。それも、自分の良心の平安を保つために。あるいは、お金や物を分け与えても、誰かがそばにいることを必要としている人に私の時間を、また、私自身を与えないことが多いのではないでしょうか。社会的に疎外されている人々の権利を認めても、彼らを自分の生活の中に入れようとはしていないのではないでしょうか。
「乏しい中から自分の持っているものをすべて、生活費を全部入れたからである。」ということからしますと、連帯の根本的な態度は自分が誰かのために痛みを感じることを良しとすることです。無関心ではいられない、心からの分かち合いです。それは、相手を辱めるような援助ではありえず、対等な立場における援助です。やもめの行いを見て、いろいろな反省をさせられます。私たちの施しの動機は何でしょうか?なぜ、イエスを信じる私たちが、もっと寛大になれないのでしょうか?イエスのまなざしを感じながら、愛と信頼のうちに、私自身を喜んで与えていくことができますように今日一日祈りたいものです。
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ともかく、律法学者たちは自分は善をしている、あるいは正しいことをしている、信仰あつい人間なんだということを誇りたいのです。そのように人々からいわれたいのです。それは神様からそのように認めてもらいたいというのではなく、もっと手っ取り早く、周りの人間からそのように評価されたい、ほめられたいのです。もちろん、本当は神からほめられたいのです。しかし神からほめられるとしても、それはずっと先の話になるし、終末のことになるかもしれないし、いつになるかわからない、だからもっと手っ取り早く、今その報酬を得たいのです。死んでからほめられてもひとつもうれしくはないのです。
 マタイでは、イエスはそういう偽善的な行為に走る律法学者パリサイ人に対して、彼らは「報いを受けてしまっている」というのです。つまり、彼らは神からの報いを受ける前に、人からの報いを受けてしまっているというのです。
 手っ取り早くほめられたい、生きているうちに、目に見えるかたちで、自分は立派な人間なんだと人々に評価されたい、彼らはそこに生き甲斐を求めていたのであります。そのために、彼らは偽善的になるのであります。
神様を相手にしたら、そんなことは通用しないことを知っているのです。神の目はそんなに甘くないことをわれわれは知っています。ですから、もしわれわれが神の前に立つならば、われわれは偽善的になりようがないのです。すべては神に見透かされてしまうからであります。それで彼らは、いや、彼らというよりは、われわれはといったほうがいいと思いますが、われわれは神を相手にするのではなく、人を相手にする。人からほめてもらおうとするのであります。そのために見栄のために長い祈りをしたり、上座の席に座るのを好むのであります。あるいは、最初は末座に座って、人からどうぞ、あなたは上座に座ってくださいとすすめられたいのです。神様の目はごまかせないが、人の目はごまかせるとわれわれは思っているのです。つまり、偽善者というのは、神という他者の前にたっていない。信仰というのは、自分以外の他者としての神の前に立つということであります。やもめは、ただ神のみをみつめて捧げている、キリストはその姿勢に打たれたのではないかと思います。子供が病気の時には、お百度まいりしたり、(好きなものを断つ)お茶断ちをしたりして、なんとか子供の病気を治してもらおうと、神社にお参りする、お地蔵さんにお供え物をする、それと同じような気持ちではないでしょうか。彼女は貧しいなかでも神に感謝したいという気持ちだったでしょうか。神の前で、無力な人は一人もいないということです。自分は年をとって何もできない、病気で何も役に立たない、能力はないから人からあまり期待されないとか。そんな人でも持っているものを惜しみなく心から捧げれば、神はそれを喜ぶというわけです。「キリスト者とは、ただキリストだけに頼るしかない人のことだ」と言う言葉を心に受け止めておきたいと思います。

http://www.t3.rim.or.jp/~kyamada1/luke78.htm