年間33主日 B
【マコ13:24ー32 人の子が来る】
きょうの福音書は、いかにも世の終わり。「滅び」の予告する言葉のようですが、実はそれは、神の栄光を帯びた人の子つまり救い主が来られるという教えです。キリスト教の言う「終末」とは決して「終わり」ではなく、神の国の「完成」であり、終末預言とは、すべてを神のみ手にゆだねる生き方への呼びかけにほかならないことが示されているのです。
ある人が、スーパーの閉まる直前、買い物に出かけ、食料や、日用品などをいろいろ買ってレジに並びました。たくさん並んでいて、やっと自分の番来て、レジで計算をしてくれたあと、金額が12000円にもなりました。そこで、財布を出そうとしたら、なんとそのお財布の中には1000円しかなかったのです。前の日に、電化製品を買ったことを忘れていたのでした。それでお金を取りに行くからこのまま置いておいてもらえませんかと言ったのですが、もう店が閉まるから駄目、もとの場所に帰して下さいと言われました。たくさん人も並んでいたので、恥ずかしいやら、情けないやら、いろんな気持ちで、またずいぶん時間をかけてもとの場所に品物を返したのでした。
太陽が暗くなって、天も大地も、明日のない終わりがある。お店だったら、今日終わっても明日開く。夜だったら、朝が明ける。今年だったら来年がくる。でも明日のない終わりがある。その時皆、神様の前に出て、清算しなければならない。「幾ら買ったのですか」でなく、「生きている間何をしたのですか」と聞かれる。こんな悪いことをした、あんな悪いことをした、怠けもした、やりたい事をした。悪い事に対しては罰を受けなければならない。そんな日が来る。その時どうしますか?
終わりがある。清算しなければならない。今年失敗した事は来年取り戻せば良い。金を借りて、今年返せなくても、来年返せば何とかなる。今年受験に落ちても、来年入ればいい。でも決して明日、来年なんとかすると言えないときがくる。12000円なくて恥ずかしい思いをするかもしれない。でももしこの時に、誰かが代わりに払ってくれたら助かります。でもそんな人はいるわけがない。ばかじゃないと見て、内心あざ笑って終しまい。
でも人の子イエス様は私が払う事の出来なかったお金を払って下さるため、私の代わりに罰を受けるためにおいで下さったのです。イエス様をあざ笑う者、ののしる者をなお救うために来たのです。裁くために来るのですが、弁護者としてイエス様を信じる人々の足りなさを補うためにも来るのでもあります。
イエス様が足りないところを補って下さる。だからと言って、この世で、怠慢に自分のことばかり考えて生きていればいいと言うのではもちろんありません。ただ世の終わりの審判への恐ろしさ、恐怖から、善いことをするのなら、意味のないことではいと思います。そういうレベルの話しかわからない人もいると思います。けれどもそうでなく、私の負債、借金を負って下さったイエス様への感謝の気持ちを本当に理解し、しっかりと自覚したとき、その感謝の気持ちは、自然に他人にもあふれ、善い行いをせざるをえないはず。
もうじき教会の暦の中で1年が終わろうとしています。この最後の時を迎えて、もう一度この1年を振り返って、イエス様ありがとうございます。そう言ってみませんか。確かに色々つらい事もあったかもしれないですけど、でも神様に感謝してみませんか。私たちはとかく不幸なことばかり並び挙げて、神様は何もしてくれていないと言いがちです。でも本当は、たくさん守られて、与えられています。感謝することはたくさんあるはずなのに、それを意識しない。気がついていないだけかもしれません。身近だからこそ忘れている家族への感謝、こうして生きていられること。いろんなことに感謝しながら、新しい季節に立ち向かっていきましょう。moseos
神のはからいに信頼して生きるように、今日の三つの朗読箇所を通して主は招いておられます。神のいつくしみが完全に実現するまでの歩みを人々が体験しています。しかも、完成のときの直前には、大いなる「苦難」が必ず訪れるということが強調されています。たしかに、イエス・キリスト御自身も、神の栄光に入る直前に「十字架の死」の苦難を身に受けました。苦難を経ても、神への徹底的な信頼が保たれているときに、その人の信仰は実を結びます。
私たちの日常生活においても、さまざまな苦難が次々に起こりつづけています。親子の不和、夫婦の断絶、会社と個人との矛盾、学校内のいじめの問題など、数え切れないほどの問題が積み重なっています。しかし、これらの苦難の中にあって、神に信頼して前進しつづけていくときに、必ず、思いもよらないほどの実り豊かな結果が与えられていくこともまた、真実なのです。困難が大きければ大きいほど、試練を経たあとの豊かさは、測り知れないものとなるのでしょう。「キリストに信頼して生きる人」は、第一朗読では「お前の民、あの書に記された人々」と呼ばれ、第二朗読では「聖なる者とされた人びと」と名指され、福音朗読では「弟子たち」、「彼によって選ばれた人たち」として描かれています。神は何としてでも人間を救おうとして、独り子を通して、「つながりを密接に深めていこう」とされているのです。神とのつながりが深まるとき、人間は「神の民」となり、「聖なる者
」として生きることができます。「聖なる」とは、神のいつくしみにつつまれて、常に神とともに親密に生きているという意味です。「あの書に記された」とは、神が人間を救いたいと望み、ひとりひとりを深く知り尽くして忘れないように記録しているという比喩表現です。それほどまでに相手のことを大切に覚えて責任をもって接してくださるのが神のいつくしみなのです。
私たちは、日ごろ、必要以上に悩んだり、苦しみ続けてしまうことが多いのですが、苦難は苦難で終わるわけではないという真実を思い起こすことが大切でしょう。いつくしみ深い神が私たちを見棄てることは、決してありえないのですから。聖書には、さまざまな人物と神との関わりが描かれていますが、そのような関わりから常に、「滅びることのないいつくしみの実現」が浮き彫りになってくるのです。イエスを通して決定的に表された神のいつくしみに、いっそう信頼を深めていくことができますように。sese06
わたしたちの現実はどうでしょうか? わたしたちの中には両面があると言えるのかもしれません。苦しみの中で必死に生きている現実と目先の利害に振り回されている現実。そのわたしたちにとってきょうの福音はどのように響いてくるでしょうか。
(5) イエスはこの中で「わたしの言葉は決して滅びない」(31節)と語ります。13章の初めで、弟子たちは目に見える神殿こそが確かなものだと思い、そこに信頼を置こうとしました。しかしイエスは、それは結局滅び去るもので頼りにならないと説きます。そして、だからこそ決して滅びないものに弟子たちの目を向けさせているのでしょう。「愛は決して滅びない」(〓コリント13・8)というパウロの言葉も思い出されます。わたしたちにとって、「決して滅びないもの」とは、本当に頼りにすべきものとは何でしょうか? hinto
【マコ13:24ー32 人の子が来る】
きょうの福音書は、いかにも世の終わり。「滅び」の予告する言葉のようですが、実はそれは、神の栄光を帯びた人の子つまり救い主が来られるという教えです。キリスト教の言う「終末」とは決して「終わり」ではなく、神の国の「完成」であり、終末預言とは、すべてを神のみ手にゆだねる生き方への呼びかけにほかならないことが示されているのです。
ある人が、スーパーの閉まる直前、買い物に出かけ、食料や、日用品などをいろいろ買ってレジに並びました。たくさん並んでいて、やっと自分の番来て、レジで計算をしてくれたあと、金額が12000円にもなりました。そこで、財布を出そうとしたら、なんとそのお財布の中には1000円しかなかったのです。前の日に、電化製品を買ったことを忘れていたのでした。それでお金を取りに行くからこのまま置いておいてもらえませんかと言ったのですが、もう店が閉まるから駄目、もとの場所に帰して下さいと言われました。たくさん人も並んでいたので、恥ずかしいやら、情けないやら、いろんな気持ちで、またずいぶん時間をかけてもとの場所に品物を返したのでした。
太陽が暗くなって、天も大地も、明日のない終わりがある。お店だったら、今日終わっても明日開く。夜だったら、朝が明ける。今年だったら来年がくる。でも明日のない終わりがある。その時皆、神様の前に出て、清算しなければならない。「幾ら買ったのですか」でなく、「生きている間何をしたのですか」と聞かれる。こんな悪いことをした、あんな悪いことをした、怠けもした、やりたい事をした。悪い事に対しては罰を受けなければならない。そんな日が来る。その時どうしますか?
終わりがある。清算しなければならない。今年失敗した事は来年取り戻せば良い。金を借りて、今年返せなくても、来年返せば何とかなる。今年受験に落ちても、来年入ればいい。でも決して明日、来年なんとかすると言えないときがくる。12000円なくて恥ずかしい思いをするかもしれない。でももしこの時に、誰かが代わりに払ってくれたら助かります。でもそんな人はいるわけがない。ばかじゃないと見て、内心あざ笑って終しまい。
でも人の子イエス様は私が払う事の出来なかったお金を払って下さるため、私の代わりに罰を受けるためにおいで下さったのです。イエス様をあざ笑う者、ののしる者をなお救うために来たのです。裁くために来るのですが、弁護者としてイエス様を信じる人々の足りなさを補うためにも来るのでもあります。
イエス様が足りないところを補って下さる。だからと言って、この世で、怠慢に自分のことばかり考えて生きていればいいと言うのではもちろんありません。ただ世の終わりの審判への恐ろしさ、恐怖から、善いことをするのなら、意味のないことではいと思います。そういうレベルの話しかわからない人もいると思います。けれどもそうでなく、私の負債、借金を負って下さったイエス様への感謝の気持ちを本当に理解し、しっかりと自覚したとき、その感謝の気持ちは、自然に他人にもあふれ、善い行いをせざるをえないはず。
もうじき教会の暦の中で1年が終わろうとしています。この最後の時を迎えて、もう一度この1年を振り返って、イエス様ありがとうございます。そう言ってみませんか。確かに色々つらい事もあったかもしれないですけど、でも神様に感謝してみませんか。私たちはとかく不幸なことばかり並び挙げて、神様は何もしてくれていないと言いがちです。でも本当は、たくさん守られて、与えられています。感謝することはたくさんあるはずなのに、それを意識しない。気がついていないだけかもしれません。身近だからこそ忘れている家族への感謝、こうして生きていられること。いろんなことに感謝しながら、新しい季節に立ち向かっていきましょう。moseos
神のはからいに信頼して生きるように、今日の三つの朗読箇所を通して主は招いておられます。神のいつくしみが完全に実現するまでの歩みを人々が体験しています。しかも、完成のときの直前には、大いなる「苦難」が必ず訪れるということが強調されています。たしかに、イエス・キリスト御自身も、神の栄光に入る直前に「十字架の死」の苦難を身に受けました。苦難を経ても、神への徹底的な信頼が保たれているときに、その人の信仰は実を結びます。
私たちの日常生活においても、さまざまな苦難が次々に起こりつづけています。親子の不和、夫婦の断絶、会社と個人との矛盾、学校内のいじめの問題など、数え切れないほどの問題が積み重なっています。しかし、これらの苦難の中にあって、神に信頼して前進しつづけていくときに、必ず、思いもよらないほどの実り豊かな結果が与えられていくこともまた、真実なのです。困難が大きければ大きいほど、試練を経たあとの豊かさは、測り知れないものとなるのでしょう。「キリストに信頼して生きる人」は、第一朗読では「お前の民、あの書に記された人々」と呼ばれ、第二朗読では「聖なる者とされた人びと」と名指され、福音朗読では「弟子たち」、「彼によって選ばれた人たち」として描かれています。神は何としてでも人間を救おうとして、独り子を通して、「つながりを密接に深めていこう」とされているのです。神とのつながりが深まるとき、人間は「神の民」となり、「聖なる者
」として生きることができます。「聖なる」とは、神のいつくしみにつつまれて、常に神とともに親密に生きているという意味です。「あの書に記された」とは、神が人間を救いたいと望み、ひとりひとりを深く知り尽くして忘れないように記録しているという比喩表現です。それほどまでに相手のことを大切に覚えて責任をもって接してくださるのが神のいつくしみなのです。
私たちは、日ごろ、必要以上に悩んだり、苦しみ続けてしまうことが多いのですが、苦難は苦難で終わるわけではないという真実を思い起こすことが大切でしょう。いつくしみ深い神が私たちを見棄てることは、決してありえないのですから。聖書には、さまざまな人物と神との関わりが描かれていますが、そのような関わりから常に、「滅びることのないいつくしみの実現」が浮き彫りになってくるのです。イエスを通して決定的に表された神のいつくしみに、いっそう信頼を深めていくことができますように。sese06
わたしたちの現実はどうでしょうか? わたしたちの中には両面があると言えるのかもしれません。苦しみの中で必死に生きている現実と目先の利害に振り回されている現実。そのわたしたちにとってきょうの福音はどのように響いてくるでしょうか。
(5) イエスはこの中で「わたしの言葉は決して滅びない」(31節)と語ります。13章の初めで、弟子たちは目に見える神殿こそが確かなものだと思い、そこに信頼を置こうとしました。しかしイエスは、それは結局滅び去るもので頼りにならないと説きます。そして、だからこそ決して滅びないものに弟子たちの目を向けさせているのでしょう。「愛は決して滅びない」(〓コリント13・8)というパウロの言葉も思い出されます。わたしたちにとって、「決して滅びないもの」とは、本当に頼りにすべきものとは何でしょうか? hinto