LUCERNA PEDIBUS MEIS (Omelie varie)

足のともしび(詩編119)
Luce ai miei passi (Salmo 118)

年間第3主日 A

2008-01-27 09:25:15 | Weblog
年間第3主日 A
【マタ4:12-23 イエスの活動開始】

イエスのこの世で生まれてから、30年が過ぎ、イエスの隠れた生活は終わり、やっと宣教活動が始まります。
  宣教を開始するにあたって、イエスはまず自分の弟子を選ぶことになります。恐らくもうこの時には、イエスは自分の死や復活、その後はいっさいこの人たちにすべて任せることになる。そこまで考えていたのでしょう。
 しかしこの弟子選びにも、神様の不思議が現れます。 雷の子らと呼ばれ、短気でおっちょこちょいの普通の性格で、特別に尊敬を受けているわけではない漁師の中から、まず弟子を選んだのです。
 金持ちでも、尊敬されていた知識人でも、特別に性格が良いわけでもない。そのような人たちを神様は確かに選んだのです。神様のなさる業は、人間の常識的な考えを超えている。そのことを改めて思います。純朴で真っ白な子どもたちと違い、こういう人たちを教育することは、イエス様にとっても大変だったろうと思います。

 
人間の暗闇を照らす巨大な光

 16節。「暗闇に住む民は大きな光を見」 「暗闇に住む」という言葉は、印象的です。「暗闇」は、「暗黒」とも訳すことができる。ギリシャ語では、「光が届かない」ところです。また、神さまから遮断されたという意味もあります。‥‥つまり、真っ暗闇のような絶望的な状態、神さまからかけ離れたと思われるような状態、喜びもなく感謝もない状態です。そしてそんなところに好き好んで住む人などいないはずですが、「住んでいる」。自分自身の力ではどうすることもできない状態です。八方ふさがりなのです。住みたいわけではないけれど、そんな絶望の中に住んでいる。あきらめです。
 次の「死の陰の地」というのも悲惨です。死の陰さえ感じられる所です。夢も希望もなくなって、暗黒から抜け出せない、そればかりではなくもうあとは死を待つばかりだ。‥‥これ以上の絶望はない。全く無力です。
 
 するとこうなります。‥‥「夢も希望も失い、神からも見離されたような暗黒の中から抜け出せないでいる人々が、巨大な光が昇ってくるのを見た」‥‥  

     希望の光の中を歩むためには?

 そんなにすばらしい光、暗闇が暗闇でなくなり、死の陰さえ照らしてしまう巨大な光。そんな光がイエスさまです。
 その光の中を歩むにはどうしたらよいのでしょうか。
 そこでついにイエスさまの宣教の第一声が語られます。‥‥「悔い改めよ。天の国は近づいた」
 いかがでしょうか。どこかで聞いたことのある言葉です。そうです。それは3:2で書かれている、洗礼者ヨハネが宣べ伝えた言葉と全く同じ言葉です。
 何かがっかりしますか? ついにイエスさまの公式の、宣教の第一声が発せられた。私たちはマタイ福音書を読んできて、イエスさまの教えを宣べ伝える言葉の第一声を、固唾をのんで待ってきた。その言葉が、洗礼者ヨハネと全く同じだったのです。
 しかし、私たちはここにある重大な真理を教えられるのです。‥‥それは私たちは、何か特殊な言葉によって救われるのではないということです。それは、たとえあまり変わり映えのしないような言葉であったとしても、もしそこに真理があるのなら、それが最もふさわしい言葉です。
 ヨハネが言った言葉と、イエスさまが言った第一声の言葉は同じだった。‥‥それは言ってみれば、まさにそこに真理があるということです。
 「悔い改めよ」‥‥すでに学んだように、これはまず自分の無力を知るということです。しかしきょうの所でいえば、「暗闇」の中に住んでいる人は、もうすでに自分の無力を知っているのです。ただ絶望があるのです。
 そうすると、悔い改めのもう一つの意味、それは、「向きを変える」ということです。‥‥今まで暗闇ばかりを見てきた。絶望ばかりを見てきた。しかし今、昇ってきた巨大な光の方を向くのです。向きをそちらへ変えるのです。巨大な光を見るのです。

     天国のほうから近づいてきた

 「天国は近づいた」‥‥これはちょっとおもしろい言葉です。普通は「天国へ近づく」のではないでしょうか。‥‥「修行をして、天国に近づく」、「善人になるように努力をして天国に近づく」‥‥というふうに使う言葉です。
 しかしここでは、天国のほうから私たちのほうへ近づいた、というのです。私が天国に近づくのではなく、天国のほうから私に近づいたのです。
 聖書では、天国のほうから近づくのです。それはイエスさまのことです。天国の所有者がイエスさまだからです。
 
 イエスさまという大きな光。もうどんな暗闇をも照らしてしまいます。希望が力強く与えられるのです。その、近づいてきた天国であるイエスさまの方を向く。
 自分の弱さ、力のなさばかりを見つめたら、暗闇にしかなりません。顔の向きを変えて、イエスさまのほうを見るのです。そこに巨大な希望が与えられます。

さてこの有名なペトロの召命の出来事ですが、このマタイによる福音書を読むと、この時イエスさまは、初めてペトロにお会いになったかのように読めます。けれども、例えばヨハネによる福音書を読むと、この時よりも以前にペトロたちはイエスさまを知っていたかのように書いてあります。また、ルカによる福音書を読むと、ペトロが召命を受ける前に、イエスさまの言葉によって大量の魚が捕れたという奇跡の出来事があります。‥‥そうすると、ペトロたちは、この召命の言葉を受ける前にすでにイエスさまのことを知っていたということになります。

     知っているということと、従っていくということは違う

 しかし、マタイによる福音書はそういうことは省いています。ここに書かれているのは、イエスさまがガリラヤの海辺を歩いておられ、ペトロたちに出会う。そして、「わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしよう」というこの召命の言葉をおかけになる。すると、彼らはすぐにイエスさまに従っていったという事実だけです。きわめて単純な事実だけを書いているのです。
 このことは、とても大切なことではないでしょうか。‥‥すなわち、「イエスさまを知っている」ということと「イエスさまに従っていく」ということは違うということです。
 ペトロたちは以前からイエスさまのことは知っていたでしょう。しかし、それはあくまでも「知っていた」ということに過ぎないのです。それは知識として知っていたということであって、信じてはいないのです。‥‥単に知識としてイエスを知っているというなら、クリスチャンでなくても良く知っている人はいます。‥‥クリスチャンではなくても聖書のこと、イエスについて詳しいという人は聖書学者ばかりではありません。ミッションスクールの生徒にも、知識として良く知っている学生はいるものです。 →知ってはいるけれども、それが単なる知識にとどまっている。‥‥この時のペトロやアンデレの状態です。そしてそれは私たち自身が生きていく上で直面していく問題です。

     イエスさまの人選のふしぎ

  主イエスは、最初の弟子として、漁師であったペトロとアンデレ、さらに同じく漁師であったヤコブとヨハネをお招きになりました。
 これはまことに風変(ふうが)わりな招きと言わなくてはなりません。
 なぜなら、この世のいったい誰が、大切な仕事を始めようとする時、イエスさまのような人選をなさるでありましょうか? 弟子と言えば、ご自分の事業をやがて継がせる存在です。
 たとえば会社を興そうとするならば、あちこち調べたり面接して有能な人材を集め、また有名人を宣伝広告に使い、政財界の実力者に顔を売ってコネを作ることでしょう。
 しかるに、イエスさまがなさろうとすることは、天国に人々を導こうとする大事業です。これ以上の大事業はないのです。‥‥ですからわたしたちが人間的に考えるには、最も有能な人、最も力がありそうな人、雄弁で、話をさせればたちどころに人を感銘させるような人、そして立派な人、その人を見れば誰もが「立派だ」と言い、感心して集まってくるような人を選ぼうとすることでしょう。ですから、そんなに大切な事業を始めるために人を集めるにあたっては、このような辺境の地であるガリラヤの海辺などではなく、首都であり大都会であるエルサレムの中心部に行って、顔の広い人に紹介してもらうか、各地の実力者に会って人を推薦してもらうかすることでしょう。
 ところが、イエスさまはどうですか。最も偉大な神の国の住民として、そしてその働き人として選んだのは、このペトロやヤコブのような人たちでした。
 彼らはまず、全く無名の人です。この世の地位も力も財産もありません。全くの庶民です。コネもないのです。
 そして彼らは漁師でした。雄弁どころか、人にものを話すということにおいてはどちらかと言えば苦手な人たちでしょう。
 ではせめて人格は優れていたかというと、それもまた違うのです。‥‥ペトロは、やがてイエスさまが十字架にかけられるために逮捕されるというときに、こともあろうに、自分も捕まるのではないかと恐れて、師であるイエスさまなど知らないと言って、裏切って見捨てた男です。ヤコブとヨハネは、他の弟子たちを押しのけてでも神の国で高い位につこうと思った人たちです。‥‥つまり彼らは、人格的に優れていたわけでもない。むしろ、人間として弱い面をもった、また特にペトロはおっちょこちょいのどこか間が抜けたような男でした。
 このようにしてみると、イエスさまは、いったい何を考えてこのような人選をなさったのか、全く理解できないのです。この世の目で見れば、どう見てもこれはミスキャストとしか言いようがない。
 いったいどうしてイエスさまは、こんなに見栄えのしない人たちを第一に弟子としてお選びになったのか???

     この私も招いてくださる

 しかしこの問いは、まさにわたしにとっても自分自身への問いでもありました。‥‥つまり、「いったいどうして主は、わたしのような者を招かれたのか?」と。
 この問いは、特にわたしが、宣教師の道を歩んで行くに連れてますます謎になります。‥‥失敗だらけです。神さまのために働こうと思うのに、実際は神さまの邪魔ばかりしているように思われて仕方がない。自分の無力を思い知らされます。‥‥そうすると、ますます「いったい主はどうして、こんなわたしのような者を招かれたのか?」と不思議でならないのです。「もっと他に、適当な人はたくさんいるではないか?」と。
 もうただ、「自分にできることは、イエスさまにすがることだけです。それしか取り柄(とりえ)がない」としか言いようがなくなる。
 それで思うのです。‥‥ペトロたちも同じだったのではないか。

 なぜイエスさまはペトロやアンデレ、ヤコブやヨハネをお選びになったのか。またイエスさまはなぜ、まずわたしたちをここに導いたのか。わたしたちの考えでは全く理解できない。
 しかし、イエスさまには理由があったのです。なぜかそれははかりがたいことではあるけれど、地位も力もないし、欠けた所の多いペトロやこの人たちではならなかったという理由が。‥‥この時、ガリラヤ湖の岸辺には、他にも多くの人々がいたはずです。他にも多くの漁師がいたし、その付近には多くの人が生活をしていた。しかし主イエスは、今日ここに書かれた人たちに目を留め、お招きになった。
 その理由は、イエスさまではなくては分からないことです。
 そしてわたしたちは、それをもって満足すべきなのです。‥‥理由は分からない。しかしとにかく、主はこの弱いわたしたちに目を留められた、ということです。愛されているのです。

     あなたはどうする?

 希望する高校や大学に入ろうと思えば、勉強して試験にパスしなければならない。試験に落ちれば、どんなに入りたくても門はその人に閉ざされます。学校だけではない。会社もそうだし、この世の人生はすべてそういうものかも知れない。
 しかし少なくとも、イエスさまは違います。神の国の門は、イエスさまによって誰にでも開かれている。この世の目から見れば、何の取り柄もないと言われるような者が、尊い者として映るのです。
 なぜペトロたちはイエスさまにすぐに従ったのか、しかも漁師にとって命でもあった網と船を捨ててまで‥‥?‥‥しかし、聖書にはその理由まで書いてありません。もちろん、ペトロにも、アンデレにも、心を動かされる思いがそこにあったことだろうとは思います。けれども、聖書には彼らが従っていった理由まで書いてありません。
 →ですから、私たちはその理由まで詮索しては聖書を読み間違えるのです。聖書が問いかけているのは、「あなたはどうなのか?」ということです。‥‥私たちはすぐに人のことを詮索したがるのです。「ペトロは何で網まで捨ててイエスさまに従ったのだろう?」「ヤコブとヨハネは、お父さんまでおいて、何を考えていたのだろう?」‥‥しかし、聖書がそういうことを書いていないのは、これを読んでいる私たちに語りかけているのです。「イエスさまの招きの声を今聞いたあなたはどうするのか?」と。教会(例えば、園田教会)に行くとこの人はなぜ信者になったのか。詮索したくなるのです。ところが、そういうことで勘違いして、一番肝心なことを見過ごしてしまいます。

 「わたしについてきなさい」という言葉は、原文を見ますと、このようにも訳すことができます=「さあ、わたしのあとに!」
 ですから、イエスさまに従うということは、イエスさまの先回りをしてイエスさまが頼みもしないのに勝手に良かれと思ったことをする、ということではありません。イエスさまの後について行くことです。

     主イエスが責任をとってくださる

 「さあ!わたしのあとに!」と言われるイエスさまの後について行くことです。自分が先頭に立つのではない。イエスさまが先頭に立っていってくださる。雨あられが降ろうとも、イエスさまが盾となってくださる。落とし穴があろうとも、危険が待ち受けていようとも、イエスさまが先頭です。イエスさまが責任をとってくださる。だから私たちも安心してついていくことができるのです。