LUCERNA PEDIBUS MEIS (Omelie varie)

足のともしび(詩編119)
Luce ai miei passi (Salmo 118)

年間30主日 C   全国修道女一般研修会(聖トマス大にて)

2007-10-28 11:02:51 | Weblog
年間30主日 C   全国修道女一般研修会(聖トマス大にて)
【ルカ18:9-14】

私たちが今日の福音書を聞いて感動し、また慰められるのは、おそらく、自分を徴税人のひとりになぞらえるからではないかと思います。自分もまた神の前に出たら、徴税人と同じだ、ただ神の前に頭を垂れる以外にないと思う、しかしこういう徴税人を神は喜んでくださる、義としてくださるのだ、そう思って私たちは慰められるのです。

 しかし私たちはこの徴税人の祈りを本当に祈ることができるだろうか。私たちはもうこの徴税人の祈りは祈れなくなってしまっているのではないか。

 というのは、この聖書の箇所について、キルケゴールという思想家の有名な言葉があります。それは、われわれはこの徴税人の祈りをするときに心のどこかに、「神よ、わたしはこのファリサイ派の人のような人物でないことをあなたに感謝します」と祈っているのだというわけです。ファリサイ派の人が「わたしがこの徴税人のような人間でないことを感謝します」と祈っているように、私たちは「わたしはこのファリサイ派の人のように傲慢でないことを感謝します」と祈っているのではないかというのです。そして私たちがイエスのいわれた通りに末席(まっせき)につこうとするのは、本当の謙遜からではなく、傲慢からでたことなのだというのです。

私はもうファリサイ派の人のような祈りをする人はおそらくいないと思います。この主イエスの話は、もともとはファリサイ派の人が主題で、徴税人はこのファリサイ派の人を批判するために持ち出された話です。主イエスの言いたいことは、もともとは「自分を義人だと自任して、他人を見下げている人たちに対して」語ろうとしているのですが、今の私たちは、この徴税人の祈りを真似しながら、自分はファリサイ派の人でないことを感謝しますと祈ることによって、もっとファリサイ派的な傲慢さに陥ってしまっている者に向けられたみことばとしてここを読まなくてはならないと思うのです。
 
 ですから、もうこの徴税人の祈りを私たちはできなくなっているのではないか。
 そして本当は今の私たちができなくなっているだけでなく、イエスの時代の時からこういう祈りをした人はいないのではないか。なぜなら、この徴税人は実際に存在した徴税人ではなく、主イエスが話された中に登場してくる人物ではないかと。そう考えますと、聖書の中で私たちが感銘を受ける人物、この徴税人にせよ、あの強盗に襲われた者を親切に介抱したよきサマリヤ人にせよ、それらの人は実際に存在した人物ではなく、みなイエスが話された人物、イエスがこういう人がいたらいいなと想像した人物なのだということは、かんがえられないでしょうか。

 パウロは、「わたしたちはどう祈ったらいいかわからないが、聖霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなしをしてくださる」と言っております。そのようにして聖霊は弱いわたしたちを助けてくださるというのです。
 
「どう祈ったらよいかわからない」ということは、もう祈ることがができなくなったということです。その時に聖霊がいっしょになって言葉にならないうめきをもってとりなしてくださって、そしてはじめて祈れるようになるというのです。
 
  ある人の話に、自分がなにか大変悪いことをして、人を傷つけて、電車に乗った。すし詰め電車だった。途中で誰かに思い切り足を踏まれた。その時に、ひとつも怒る気にはなれなかったというのです。自分はこのようにして足を踏まれても何にも文句が言えない罪人だと思いながら、その電車に乗っていたというのです。

 この時の徴税人はまさにそのような心境だったのではないか。だから、彼は祈るために神殿に上りながら、神の前に立たされた時に、もう祈れなくなった。ただ、遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸をうちながら、それでも神に向かって、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と言ったのです。聖書はファリサイ派の人のほうは「こう祈った」と記しておりますが、徴税人については、祈ったという言葉はなく、「胸を打ちながら言った」と記すのです。もう自分は祈れないと思った、だからただ「言った」だけなのです。

 わたしは祈りについ書かれた文章で印象に残っているのが二つあります。一つは小塩節(おしお たかし)という人が書いている文章です。自分の子が重い病気になった。必死に祈ったというのです。しかしそのうちに祈れなくなった。祈っても祈っても子どもの病はよくなってこなかったからです。だから、夫婦で食事の前に祈る時には、「主の祈り」をふたりして唱えた。そのうちにその主の祈りも祈れなくてなったというのです。なぜなら、「主の祈り」のなかには、「みこころの天になるごとく、地になさせたまえ」とあるからです。なんとしてでも子どもの病気をいやしてもらいたい、そういう時に神のみこころのままになさってくださいなどとはとても祈れなくなってしまったというのです。だから、もう「主の祈り」も祈れなくなって、食事の前に夫婦で黙祷しようと言って、しばらく黙祷して食事をしたというのです。
 
 もう一つの文章は、これも主の祈りと関係してくる文章ですが、竹森満佐一(たけもりまさいち)の書いた「主の祈り」の文章で、「われらに罪を犯す者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」という祈りをめぐってのところですが、第一次世界大戦の時、ドイツ軍がベルギーに攻め入って、多くの町を破壊した。その次の日曜日にある町で、こわれた会堂の中で礼拝が行われた。

しかしいつものように、「主の祈り」を祈る時になって、この句のところにきた時に、みんな黙ってしまった。その時に、みんながドイツ人が自分達に対してしたことを思い出して、それを考えるととてもゆるす気にはなれなかった。だからだれも「われらがゆるすごとく」とは祈れなかった。そして少し時がたって、だれからともなく、「われらの罪をゆりしたまえ」と祈りつづけたというのです。
 
自分の罪を考えたら、とても祈れなくなってしまった徴税人。 
 祈りというものは、そのようにして一度祈れなくなってしまって、どう祈ったらよいかわからなくなってしまって、言葉にならないうめきのようになってしまって、それでも神にしか助けを求めざるをえなくなって、「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と小さな声でうめく、それが祈りなのではないか。
 
それが、というよりは、それも、祈りなのではないか。
 しかしあのファリサイ派の人の祈りは、決して祈りなんかではないのです。ど自分の義を神に主張しているだけです。

しかしあの徴税人も、本当は祈っているとはいえないのです。なぜなら、彼は遠く離れて立ち、目を天に向けようともしていないからです。つぶやくように、「神様」と呼びかけているだけです。彼のこのつぶやきを祈りに導いてくれたのは、主イエスです。「あなたがたに言っておく、神に義とされて自分の家に帰ったのは、この徴税人であった」という主イエスの言葉です。
 
私たちは神に義とされようとして、この徴税人の祈りを真似ることはもうゆるされないのです。この時徴税人は、神に義とされるなんてことは、夢にも思わなかったのです。ただ「神様、罪人のわたしをおゆるしください」と、つぶやくように言っただけでなのです。イエスがその徴税人を神に義とされた者として私たちに紹介してくださった。だから私たちは、このような祈りしかできない者を神が義としてくださる、神がゆるしてくださる、だから私たちはこのような祈りをすることができるようになるのです。
 
義とされようとして、このような祈りをするのではなく、義とされた者として、もう赦された者としてこのような祈りをすることができるということなのです。そして、今度はしっかりと目を天に向けて祈れるようにならなければならないのです。
 
 主イエスはこのたとえ話をする前に、「人の子が来るとき、地上に信仰がみられるであろうか」と、嘆いているのです。あのファリサイ派の人の祈りはもちろん信仰ではないのです。そしてこのように祈る徴税人もまたまだ信仰をもっているとはいえないのです。彼が信仰をもてるようになるのは、「あなたがたに言っておく、神に義とされて自分の家に帰ったのは、この徴税人であって」というイエスの言葉を聞いてから、彼の信仰が始まるのです。目を天に向けられないで、うなだれたままでは決して信仰とはいえないのです。

私たちが義とされるために教えていただいた祈りといえば、それは「私たちに負い目のある人をゆるします(ように)から、私たちの負い目をもおゆるしください」(マタイ6・12)なのです。アウグスティヌスが言うように(「神の国」XIX・27)この世においては、正しさは完全な徳よりもむしろ罪のゆるしにあるのです。
「この祈りは、その信仰が業(行い)をともなわないで死んでいる人にとっては効果が無く、その信仰が愛によって働いている人にとってに効果がある。」「このような祈りは正しい人にとって必要なのである。」
なぜなら、「神は高ぶる者を(敵とし)退け、へりくだる(謙遜な)者に恵みを与える」(ヤコブ4・6;1ペトロ5・5;箴言3・24)。
「福音的勧告に従って完全な愛徳(perfectae caritatis)を追求することは、神なる師の教えと模範にその起源を持ち、天の王国の輝かしいしるしである」(第二ヴァティカン公会議、「修道生活に関する教令」冒頭)

http://www.t3.rim.or.jp/%7Ekyamada1/luke66.htm