LUCERNA PEDIBUS MEIS (Omelie varie)

足のともしび(詩編119)
Luce ai miei passi (Salmo 118)

Venerdi' della XXXIV settimana del Tempo Ordinario Studentato Teologico Parma

2010-11-26 17:07:55 | Weblog
Venerdi' della XXXIV settimana del Tempo Ordinario (Anno pari)


Lc 21,29-33
Quando vedrete accadere queste cose, sappiate che il regno di Dio è vicino.

Il Regno i Dio viene comunque, a prescindere dai nostri sforzi. Ha i suoi tempi che noi non riusciamo a capire bene. Noi sappiamo che questo regno viene ma non possiamo descriverne i dettagli, la traiettoria. Ne' possiamo sapere come sara' fra 50 anni o fra 10 anni; l'essenziale e' credere al regno e sapere che viene, che sta venendo. E questo e' molto importante anche per noi oggi, perche ci troviamo a contatto con tante vicende e alcune le sappiamo spiegare, mentre altre ci sembrano poco comprensibili, e soprattutto il quadro di insieme non risulta molto chiaro ne' di facile comprensione.
Vuol dire che noi non vediamo del tempo che un segmento limitato. Quindi possiamo dire di quel segmento che il Regno di Dio viene, ma non sappiamo bene come si svolgera': quale sara' il futuro della Cina, dell'India, del Giappone. Come si evolvera' l'Asia? Come saranno i Saveriani? Tutto questo non lo sappiamo. Sappiamo che il Regno viene e diamo fiducia alla Parola di Gesu'. Quindi e' innanzitutto un messaggio di grande affidamento a Dio. Di avere pazienza, di no voler forzare la mano.

Anche nella nostra stessa vita, noi sappiamo che si presenteranno momenti di salute, e poi momenti di malattia, di fatica, di prova, ma non sappiamo quando. Dio solo sa queste cose; ci affidiamo a lui sapendo che Lui fa venire il Regno a nostro vantaggio. Possiamo gia' cogliere alcuni frutti di questo Regno perche' vediamo come effettivamente tanti popoli, tante culture, tante persone in tutti i parallleli e meridiani, si ritrovano sotto la signoria di Cristo. Ma di piu' non possiamo sapere e sarebbe presunzione il volerne dire di piu'.
Poi siamo invitati a non stupirci per la piccolezza del Regno. Un fico che matura, no big deal! Quando Gesu' chiama i suoi discepoli erano un piccolo gruppo sparuto a cui nessuno dva credito. Ma da questo e' nato un movimento mondiale; e' nata una fusione di cuori. Quindi il Regno di Dio comincia sempre in maniera molto semplice. Anche nella nostra vita noi possiamo valorizzare quei gesti semplici che possiamo compiere, dai quali sappiamo che il Signore fara' venire il suo Regno. Non siamo noi a costruire il regno, non possiamo essere noi i principali artefici, le prime donne. Noi siamo piccoli osservatori che guardano il fico che matura e lo indica agli altri.

I Vangeli finiscono con il mandato missionario, mentre l'anno liturgico finisce con la predizione della fine del mondo. Credo che questo sia per insegnarci che il regno di Dio viene senz'altro al di la dei nostri sforzi e fallimenti. In un certo senso non c'e' fallimento nel lavoro missionario, se e' autentico. Tutto viene convogliato nel grande successo che e' la venuta del Regno. Un messaggio di grande consolazione, dunque.

年間33主日 C

2010-11-14 15:57:43 | Weblog
年間33主日C
終末の徴
【ルカ21:5-19 】

 紀元前550年ころ、イスラエルはバビロンに征服され、ソロモンの造った神殿は破壊。主だった人々もすべて遠くバビロンに連れ去られました(バビロン捕囚)。そのユダヤ人。ペルシアにより解放され、50年ぶりに故郷の地に戻ります。そこで始めたのが神殿の再建でした。こうして新しい、しかしソロモンのものと比べると小さい、第2神殿が出来上がりました。

この第2神殿を倍に拡張し、立派なものに造り直したのが、イエス様が生まれたとき、ベツレヘム一帯の赤ちゃんを殺したヘロデ大王です。このヘロデの神殿。すべての側面が厚い金で覆われ、太陽が昇ると燃え盛る炎のような輝きを反射させた。また遠くから見ると、金の板金(ばんきん)で覆われていない箇所が純白(じゅんぱく)だったため、頂きに雪をかぶった山のように見えたと記録されています。
 ヘロデ大王。実は、エドム人という軽蔑された民族の出で、残酷で、自分の子ども二人さえ、王位を狙っていると思い殺しています。奥さんもです。当然嫌われていました。しかしこの輝かしい神殿を造ったということでは、人々もヘロデを評価せざるを得ませんでした。
 この神殿を、ユダヤ人は自分たちと共に永遠にあると信じていました。この崩壊をイエス様は予言し、それはやがて現実のものとなるわけです。とにかくこの話を聞いた時、ユダヤ人はとても、嫌な思いで聞きました。民族の終わり、世の終わりを感じ取ったわけです。ちょうど私たちが「南海大地震、関東大地震 必ず来る」。そう言われたときの衝撃と怖さです。「そんな時、いつ来るんでしょう」。私たちも問いたくなるでしょう。
 
 20世紀、世の終わりを思わせる悲劇がたくさんありました。広島と長崎での原爆、ユダヤ人が600万人も虐殺されたこと、東京でサリンガスがまかれた事件、ルワンダ内戦で80万人の人が残酷に殺されたこと。ニューヨークのテロ事件、ツイン・ビル崩壊。
 世の終わりを思わせるような悪に、すべて覆い隠されてしまう。そんな絶望的な中でも、イエス様の言葉にとどまり続けることのできた人がいました。
 誰もが自分のことしか考えなくなっていたアウシュビッツで、身代わりとなって、人間としての尊厳を示したコルベ神父。ルワンダで自分の親兄弟を殺した人に対し、ゆるしの言葉を述べたイマキュレー・イリバギザ。
 
 こうして絶望的な悪の中でも、人間の希望は、愛は、完全に根こそぎされることはありませんでした。イエス様は「戦争や暴動のことを聞いてもおびえるな。人間性を失うな」と言います。
 こうして広島も長崎も、ルワンダも、まったくの絶望、地獄の状況から復興してきました。

 神様の愛は、悪に負けるということはあり得ません。イエス様のために憎まれ、殺されることがあるかもしれない。しかしそれでも髪の毛一本失われないとイエス様は断言します。
 「殺されても髪の毛一本決してなくならない」。矛盾した言い方です。しかしイエス様は約束します。万が一、殺されるようなことがあっても、それでもイエス様を信じてとどまれ。忍耐と希望のうちにとどまれ。そうすれば確実に、永遠の命を勝ち取ることができる。
 世の終わりを感じさせること。それは今も心のどこかにあります。地球規模での環境汚染。テロの世界的な拡大。原水爆、生物兵器、大量破壊兵器がテロリストの手に渡る恐れ。しかしこれからもどんなに絶望的な中でも、イエス様の徹底的な愛とゆるしを思い起こし、愛と平和、尊厳を保ち続ける人たちが、たとえ少数であってもいるでしょう。
 私たちがそのようなものでありますように。けっして復讐や怒りにとらわれてしまうことがありませんように。愛と平和を保っていられますように。なぜならイエス様、マリア様がそのことを実践されたからです。そうして忍耐によって、永遠の命をかち取ることができますように。

 (4) 末期ガンなどのターミナル・ケア(終末医療)への取り組みが盛んになる中で、「クオリティ・オブ・ライフquality of life」ということが言われるようになりました。迫り来る死を前にした時、いかに命の長さを伸ばすか、という「生命の量」の問題よりも、残された日々をいかに充実したものとして生きるか、という「いのちの質」が問われる、という考えです。
 キリスト信者にとって「クオリティ・オブ・ライフ」の根源的なモデルは、イエスご自身の地上での最後の日々でしょう。イエスは死を目前にして最後までどう生きたか、そのイエスのいのちの輝きを見つめたときに、人はパウロとともにこう確信することができるようになるのです。
 「愛は決して滅びない。…信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(Ⅰコリント13章8、13節)
 わたしたちの人生にも必ず「終わり」が待ち受けています。その終わりに向かってどう生きるかをきょうの福音は、そしてイエスの生き方はわたしたちに問いかけているのです。

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七五三の由来

日本では古来より、
3歳になると剃っていた髪をのばしはじめる「髪置の式〔かみおき〕」という儀式を
5歳には男の子が碁盤の上で吉方に向けて初めて袴を着ける「袴着の式〔はかまぎ〕」という儀式を
7歳は女の子の着物が、それまでの付け紐を取り去り、着物の脇をふさいで帯を締める「帯解の式」 「紐落し」、「帯解き〔おびとき〕」という儀式を行っていたことに由来します。

江戸中期、呉服屋がこの3つの行事を商業政策として取り入れ、1つにまとめ、江戸の町で宣伝しました。これが今日の七五三の原型だと言われています。そして武家や有力商人などの間で流行したものが、明治以降庶民に普及しました。

昔は医療1衛生的に未発達で乳幼児の死亡率が高く、成長する子供は幸運とされていました。そのため「七つ前は神のうち」といわれ、7歳未満の子はまだ神に属するものとされ、神がその運命を決めると考えられていました。そこで人々は数々の儀礼を行うことで、子供の無事な成長を祈りました。そして7歳の祝いはその不安定な時期を乗り越えた節目の儀礼であったため、特に7歳の祝いを重視する地方は多かったようです。

なぜ11月15日?

これにはいくつかの説があります。
旧暦では11月は冬祭りのシーズンに入り、次の新年に改まる直前のお祭りで、子供たちが大き<飛躍することを祈願するのにふさわしい折り目であったから、と言う説。

徳川綱吉将軍の子、徳松の成長のお祝いを行なったのが11月15日で、それが庶民にも定着したという説。

中国から伝えられた日の吉凶を占う二十八宿という方式では、11月15日は「鬼宿目」という日にあたり婚礼以外のすべ'ての物事をする日として最良の日とされていたから、という説。
など様々です。
ですが現在ではあまりしきたりにとらわれず、11/15日の前後の祝日や、お天気の良い吉日の日等、都合の良い日に行われています。



年間32主日 C

2010-11-07 16:48:30 | Weblog
年間32主日 C
【わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神である】
【ルカ20・27-38】

先週木曜日の朝日新聞に、「死生観」についての世論調査の結果が報告されています。かいつまんで紹介しますと、「孤独死が心配」4割、葬儀「しなくてもよい」36%、お墓は「いらない」17%。「自分の葬儀に来てくれた甥(おい)や姪(めい)に、日当を払いたい」というお年寄りがいましたが、死ぬときも、そこまで気を使う社会なんですね、いまの日本は。」
「あなたは、この世とは違う死後の世界や”あの世”があるとおもいますか。「あると思う」49% 「ないと思う」は43%。やはり、現在にもサドカイ派みたいな人々がいます。今日の福音書は昔話ではなく、私たちの社会そのものに語っています。


「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は、「ヤーウェ」という御名が啓示される前から用いられた神の名であって、イスラエルの民にとって最も古くて親しみ深い御名である。この御名の中にすでに、神が死者を復活させる方であることが示されているというのである。死者の復活の信仰はイスラエルの歴史の最後の時期になってようやく成立したものであるとされているが、イエスのような聖書理解によれば、その啓示はイスラエルの歴史の最初からすでに与えられていたことになる。それはイスラエルの盲目の故に隠されていただけで、いま神の命に直結して生きておられるイエスによって覆いが除かれ、聖書の全体が死者を復活させる神の啓示となる。

 神が燃える柴の中からモーセに語りかけた時、アブラハム、イサク、ヤコブはすでに死んでいた。もし神が彼ら父祖たちを復活させないで死の中に放置する神であれば、その神は「死んだ者たちの神」となる。神が命の根源であり、生命そのものである以上、神は死んだ者たちの頭ではありえない。神は生きている者たちの生命の源泉、生きている者たちの頭である。その神が「アブラハムの神」と名のられる以上、アブラハムはその神に属する者として生きていなければならない。

神様は、「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神だった」とおっしゃったのではなく、「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神である」とおっしゃったのです。
 
 すでに死んだアブラハムが生きているというのは、彼の霊魂が存続しているという意味ではない。イスラエルにはギリシャ人のような霊魂不滅の考え方はない。生きるというのは、あくまで体をそなえた命の活動である。したがって、アブラハムが生きているということは、アブラハムの復活を前提とした表現である。神はモーセに「アブラハムの神」と名のられることによって、ご自身が死者を復活させる者であることを啓示しておられるのである。さらに、もし父祖たちが死の中に放置されるのであれば、彼らに与えると約束された神の約束は実現できない空約束になってしまう。約束に対する神の信実という観点からも、「アブラハムの神」という御名はアブラハムの復活を前提として含んでいることになる。
 
 このように、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である」という言葉は、伝承されたイエスの言葉(ロギオン)の中でも最も重要な言葉の一つである。このような根源的な神理解がイエスの聖書全体の理解を貫き、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という御名を復活の啓示と理解させるのである。このような理解は聖書の言葉の小手先の解釈技術から生まれるのではない。イエスが神の霊、神の力に満たされて生きておられた現実から流れ出るのである。たしかに当時の黙示文学には、復活にあずかる者たちは天使のようになり、結婚も飲食も必要でなくなるというような記述も見られる。しかし、ここに示されているような、最も古い神の名を、ひいては聖書全体を復活の啓示とするような理解はユダヤ教に類例がない。これはイエスだけが達しえた境地であろう。
 
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あるアンケートによると、「来世も今の相手と結婚したい」と答えている男性が52%だそうです。しかし女性のほうは、「来世は今の相手とは結婚したくない」と答えている人が67.6%と、7割近くに上っています。こういう場合は、復活の時にはどうなるのか。
また、亡くなった方の棺桶(ひつぎ)の中に、家族が故人の愛用していたメガネや補聴器のイヤホンを入れたりします。故人があの世でも困らないように、という思いがあって入れるのでしょう。それはとても優しい心で、大切にしたいと思います。しかしこれもよく考えてみれば、復活の時には、やはり目は近視や老眼で、耳は遠いのか。天国でもそうなのか。
 私たちには分からないわけです。神と直接に顔と顔を合わせてお会いすると書いているだけで、それ以上のことは何も分からないのです。「天使のようになるのだ」と言われても、そもそもその天使というものがどういうものなのかよく分からないし、聖書にもそのようなことは書かれていません。正直言って分からないのです。

大事なのは、「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神である。人はみな神に生きるものだからである」と言う言葉です。「人はみな神に生きるものだから」という言葉です。これはつまりすべては「神を中心にして生きなさい、神を中心にして考えなさい」ということです。すべてを神を中心にして考えるならば、神は死んだものを死にぱなっしになどは決してなさらないだろう、神を中心にして考えるならば、死人の復活は当然信じられることだし、神に生きるということを考えれば天国での生活の仕方も、この世の生活の仕方とは当然ちがったものになるだろう、だから、この世的な考えで、めとったり、とついだりする世界をかの世の世界に持ち込めないということになると思います。
復活とか、死んでからのいく世界、天国のことを考える時に、私たちはこの世的な思いを捨てて、神を中心にして考えていかないといけないということです。
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カゲロウとバッタの話があります。一日を楽しく遊んだ後、バッタがカゲロウに言いました。明日また会おうね。カゲロウはわかりませんでした。明日ってなに?今度は、バッタがカエルとある夏を一緒にすごし、カエルがバッタに言いました。来年までお元気でね…バッタは理解できませんでした。
来年、来年、らいねーんが有るのか?サドカイ派の人々も私たちも、復活を経験した人はいません。唯一経験したイエスだけが、私たちを復活へと導くことができるのです。
復活へのゆるぎない希望のうちに、今日、イエスに従うことができますように。

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人間的な思いに囚われる私たちに、主はこう呼びかけているのではないでしょうか。下と後は見るな。前にいる私だけ見てついて来なさい。どこまで来たのか思わずに、私だけを見ていれば良い。ゆっくり ゆっくりバランスをとって一歩一歩歩けば良い。私だけ見てついて来なさい。過去に、未来に心を奪われることなく、今この瞬間私たちのために祈りながら待っている主に向かって一歩一歩進むことができますように。