年間31主日 C
「今日、救いがこの家を訪れた」
【ルカ19:1-10 】
(1)ザアカイは徴税人の頭でした。当時のユダヤでは国内の神殿のために使われる神殿税と、そしてユダヤを支配するローマに納める人頭税・関税がありました。徴税人はこのローマに納める関税を担当していました。徴税人は、たとえばこんなふうにして徴税人の役職を手に入れたのです。
ローマに集まり、たとえば尼崎市(武庫之荘)地区から集める税金を競争入札します。「私は尼崎から1億集める」「私は2億集められる」。こうして一番高い金額を提示した人が徴税人の頭という地位を得ます。2億を提示した人は、あらかじめローマに2億円を差し出します。こうして税金を取り立てる権利を得ますが、その後は、いくら税を取り立ててもかわまない。2億円で徴税人の頭の地位を得たのですから、4億円を集めれば2億円もの儲け。その代わり1億5千万しか集めることができなければ、5千万の損失です。当然一所懸命税を取り立てることになります。
祖国を裏切りローマに仕える者、さらに金に執着し、自分の民からだまし取って私服を肥やそうとする。そのために罪人と扱われていたわけです。
税金をめぐってトラブルが起こるということは、歴史の中でしばしば見られるのです。日本でも、江戸時代に「百姓一揆」ということは何回も起こっています。その時代から現代にまで、「年貢米」とか、「年貢の納め時」ということばがあります。
(2)さて、 ザアカイは「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群集にさえぎられて見ることができなかった。それで・・・、いちじく桑の木に登った」(3-4節) とあります。ザアカイはなぜイエスを見ようとしたのでしょうか。単なる好奇心でしょうか。しかし、木に登ってまでイエスを見たいというザアカイの姿には、何かしらもっと切実な思いも感じられます。また、背が低くて見えなければ、群集をかきわけて前に出ればよいはずですが、彼はそうしませんでした。ザアカイは周囲の人々の目を気にしていたのかもしれません。それ以上に、自分のような罪びとがイエスに近づいて行く資格はない、と感じていたのかもしれません。
それでもザアカイはイエスを一目見たいと思って木に登るのです。彼はイエスという方が「罪びとを招いて、一緒に食事までしている」(ルカ15章2節)といううわさを聞いていたのかもしれません。そして、この人だったら、自分のどうにもならない思いを受け止め、理解してくれて、自分をこの行き詰まりから解放してくれるのではないか、という期待を持ったのかもしれません。
(3) 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」この言葉を聞いてザアカイはどう感じたでしょうか。周囲にはおおぜいの人がいます。その中でイエスは自分にだけ声をかけてくれたのです。しかも「一緒に食事をする」だけでなく「あなたの家に泊まる」と言うのです。どれほど大きな喜びを彼は感じたでしょうか。
なお、この「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)は、「今日、わたしはどうしてもあなたの家に泊まらなければならない」とか「今日、わたしはあなたの家に泊まることになっている」とも訳せる箇所です。これは、そのことが神の救いの計画の中にあることだから必ず実現するはずだということを示す表現です。
(4) ヨハネ福音書4章7節で、イエスはサマリアの女に「水を飲ませてください」と声をかけました。ここでもイエスはザアカイに対して「わたしがあなたに何かをしてあげよう」というのではなく「あなたの家に泊めてくれ」、つまり「あなたにはわたしのためにできることがある」と言ってザアカイに近づきます。どんなに罪びとのレッテルを貼られた人であっても、あなたの中に素晴らしいものがある、あなたにはよいことをする力がある、とイエスは見ているのです。そういう眼差しに出会ったとき、人は本当に新たに生きる力を与えられるのではないでしょうか。イエスのいう「この人もアブラハムの子なのだ」(9節)という言葉は、「この人も神が祝福を約束してくださった人間なのだ」ということです。ザアカイはイエスとの出会いによって、自分が生きるに値しない呪われた罪びとではなく、自分もアブラハムの子なのだ、ということに気づいていきます。そして、新しい神とのつながり、人とのつながりに生き始めようとするのです。イエスに出会ったことは、ザアカイの人生を根本から変えてしまいました。もちろん、彼はこれからも罪びとのレッテルを貼られたまま生きていかなくてはならないでしょう。でも彼はもはや「神に見捨てられた罪びと」ではなく、「神に愛された罪びと」なのです。
(5) 別の徴税人の物語を思い出してみましょう。マルコ2章14節にはこういう話がありました。「(イエスは)通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」
イエスは、ザアカイには「わたしに従え」と要求しませんでした。ザアカイもすべてを捨ててイエスに従うとは言いません。ザアカイは徴税人をやめないのです。ただ自分の置かれた場で精一杯、正しいことを行い、貧しい人を大切にして生きようと決意するのです。イエスはその決意を受け入れ、「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言しています。
きょうの福音の箇所には「今日」という言葉が2回出てきます(5,9節)。この「今日」という言葉は、ルカ福音書の中では特別な重みのあることばです(ルカ2章11節、4章21節、23章43節など参照)。「今日」とは、今まさに人が神の愛とゆるしに出会うその時であり、今まさに神の救いが実現しているその時なのです! わたしたちも、神の救いが実現している「今日」を感じることがあるでしょうか?
「今日、救いがこの家を訪れた」
【ルカ19:1-10 】
(1)ザアカイは徴税人の頭でした。当時のユダヤでは国内の神殿のために使われる神殿税と、そしてユダヤを支配するローマに納める人頭税・関税がありました。徴税人はこのローマに納める関税を担当していました。徴税人は、たとえばこんなふうにして徴税人の役職を手に入れたのです。
ローマに集まり、たとえば尼崎市(武庫之荘)地区から集める税金を競争入札します。「私は尼崎から1億集める」「私は2億集められる」。こうして一番高い金額を提示した人が徴税人の頭という地位を得ます。2億を提示した人は、あらかじめローマに2億円を差し出します。こうして税金を取り立てる権利を得ますが、その後は、いくら税を取り立ててもかわまない。2億円で徴税人の頭の地位を得たのですから、4億円を集めれば2億円もの儲け。その代わり1億5千万しか集めることができなければ、5千万の損失です。当然一所懸命税を取り立てることになります。
祖国を裏切りローマに仕える者、さらに金に執着し、自分の民からだまし取って私服を肥やそうとする。そのために罪人と扱われていたわけです。
税金をめぐってトラブルが起こるということは、歴史の中でしばしば見られるのです。日本でも、江戸時代に「百姓一揆」ということは何回も起こっています。その時代から現代にまで、「年貢米」とか、「年貢の納め時」ということばがあります。
(2)さて、 ザアカイは「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群集にさえぎられて見ることができなかった。それで・・・、いちじく桑の木に登った」(3-4節) とあります。ザアカイはなぜイエスを見ようとしたのでしょうか。単なる好奇心でしょうか。しかし、木に登ってまでイエスを見たいというザアカイの姿には、何かしらもっと切実な思いも感じられます。また、背が低くて見えなければ、群集をかきわけて前に出ればよいはずですが、彼はそうしませんでした。ザアカイは周囲の人々の目を気にしていたのかもしれません。それ以上に、自分のような罪びとがイエスに近づいて行く資格はない、と感じていたのかもしれません。
それでもザアカイはイエスを一目見たいと思って木に登るのです。彼はイエスという方が「罪びとを招いて、一緒に食事までしている」(ルカ15章2節)といううわさを聞いていたのかもしれません。そして、この人だったら、自分のどうにもならない思いを受け止め、理解してくれて、自分をこの行き詰まりから解放してくれるのではないか、という期待を持ったのかもしれません。
(3) 「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」この言葉を聞いてザアカイはどう感じたでしょうか。周囲にはおおぜいの人がいます。その中でイエスは自分にだけ声をかけてくれたのです。しかも「一緒に食事をする」だけでなく「あなたの家に泊まる」と言うのです。どれほど大きな喜びを彼は感じたでしょうか。
なお、この「今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい」(5節)は、「今日、わたしはどうしてもあなたの家に泊まらなければならない」とか「今日、わたしはあなたの家に泊まることになっている」とも訳せる箇所です。これは、そのことが神の救いの計画の中にあることだから必ず実現するはずだということを示す表現です。
(4) ヨハネ福音書4章7節で、イエスはサマリアの女に「水を飲ませてください」と声をかけました。ここでもイエスはザアカイに対して「わたしがあなたに何かをしてあげよう」というのではなく「あなたの家に泊めてくれ」、つまり「あなたにはわたしのためにできることがある」と言ってザアカイに近づきます。どんなに罪びとのレッテルを貼られた人であっても、あなたの中に素晴らしいものがある、あなたにはよいことをする力がある、とイエスは見ているのです。そういう眼差しに出会ったとき、人は本当に新たに生きる力を与えられるのではないでしょうか。イエスのいう「この人もアブラハムの子なのだ」(9節)という言葉は、「この人も神が祝福を約束してくださった人間なのだ」ということです。ザアカイはイエスとの出会いによって、自分が生きるに値しない呪われた罪びとではなく、自分もアブラハムの子なのだ、ということに気づいていきます。そして、新しい神とのつながり、人とのつながりに生き始めようとするのです。イエスに出会ったことは、ザアカイの人生を根本から変えてしまいました。もちろん、彼はこれからも罪びとのレッテルを貼られたまま生きていかなくてはならないでしょう。でも彼はもはや「神に見捨てられた罪びと」ではなく、「神に愛された罪びと」なのです。
(5) 別の徴税人の物語を思い出してみましょう。マルコ2章14節にはこういう話がありました。「(イエスは)通りがかりに、アルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。」
イエスは、ザアカイには「わたしに従え」と要求しませんでした。ザアカイもすべてを捨ててイエスに従うとは言いません。ザアカイは徴税人をやめないのです。ただ自分の置かれた場で精一杯、正しいことを行い、貧しい人を大切にして生きようと決意するのです。イエスはその決意を受け入れ、「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言しています。
きょうの福音の箇所には「今日」という言葉が2回出てきます(5,9節)。この「今日」という言葉は、ルカ福音書の中では特別な重みのあることばです(ルカ2章11節、4章21節、23章43節など参照)。「今日」とは、今まさに人が神の愛とゆるしに出会うその時であり、今まさに神の救いが実現しているその時なのです! わたしたちも、神の救いが実現している「今日」を感じることがあるでしょうか?