水の門

体内をながれるもの。ことば。音楽。飲みもの。スピリット。

歌集『カインの祈り』

澤本佳歩歌集『カインの祈り』
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#通読 2018年10月分まとめ

2018年10月31日 04時24分32秒 | 黙想・聖書通読・礼拝聖句
◆10月2日
テモテ⑵1:7。テモテを奮い立たせようと「神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです」と書くパウロ。テモテにわきまえが無いとは思えない。思慮分別はNIVではself-discipline(自己鍛錬、自制力)で、こちらの方がパウロらしく、しっくりくる

◆10月4日
エゼキエル15:3「ぶどうの木から、何か役に立つものを作るための木材がとれるだろうか」。5節「完全なときでさえ何も作れないのに…」。ヨハネ15章で葡萄の枝に喩えられる私達は、そのような者でしかない。実を結べるのは主に繋がっていればこそ。思い違いをせぬよう自戒したい。

◆10月5日
テモテ⑵4:3-4「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます…人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くように…」教師たちはNIVではa great number of(大勢の)teachers。己を利するため何でもする人間の愚かさ

◆10月18日
ヘブライ5:11「このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません」。主が苦しみにより従順を学ばれ、救いの源となったことを理解しようとしていない、と書くNIV(because you no longer try to understand)に息を呑む

◆10月19日
新改訳エゼキエル34:12「牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする」。人間の羊飼いは日中に羊を世話するが、神は暗闇に散らされた羊を捜し出す。この違い!

◆10月19日
ヘブライ人6:4,6「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい…その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」。侮辱がNIVではpublic disgrace(晒し者)なのが、一度教会を離れた身には堪えた

◆10月23日
ヘブライ8:3「すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません」。供え物≒生贄と捉えていたが、NIVではgifts and sacrifices(贈物と犠牲)。giftsって主から頂くだけでなく献げる物でもあるんだ

◆10月31日
ネブカドネツァルの夢を当て解き明かしたダニエルに「ネブカドネツァルはひれ伏してダニエルを拝し、献げ物と香を彼に供えさせた」(ダニエル2:46)。王に崇拝されて高慢になる誘惑はどれ程だったか!ダニエルが日に三度祈りを守ったのも頷ける。最近教会で称揚されがち。気をつけたい。
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頭痛に効くというので…

2018年10月25日 16時59分08秒 | 気分・体調にあわせて
後頭の痛みのじゅんとした嵩に気休めほどのあめんどう噛む
(とど)

2015年12月18日 作歌。
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しばらく寝かせました。

2018年10月22日 13時58分07秒 | その他
二日間晒したあとに取り下げる自己陶酔の一首鑑賞
(とど)

2017年8月30日 作歌。
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一首鑑賞(61):三浦光世「トラクトを渡し来りぬ」

2018年10月15日 13時05分07秒 | 一首鑑賞
バアの前に嘔吐する男の背をなでてクリスマスのトラクトを渡し来りぬ
三浦光世『夕風に立つ』


 トラクトとは、伝道目的の小冊子で、私の教会で言えば『小窓から…N教会だより』のことである。トラクト作成に今携われているのは不思議な巡り合わせで、恵みという他ない。東京の母教会は熱心に伝道に取り組んでいたが、私はそのやり方にいささか疑問もあり劣等生だった。トラクト作成や教会ホームページの担当を務めているため、過日の研修会では伝道の推進力であるかのごとく称揚されてちょっと苦笑したが、日常の生活で伝道らしきことは、トラクトの一首鑑賞を教会の【説教、メッセージ】ブログに転載することでネット検索対策に若干寄与していることと、キリスト教放送局・FEBCラジオの番組表を人に渡すこと程度である。
 そんな「一首鑑賞」だが、歌集を読んでコツコツ書き溜めていく中で実は迷いや葛藤もある。私は二十年前、母教会のある姉妹から「あなたは自分の方に話を持っていく癖がある」と指摘されたが、当時はピンと来なかった。自覚が芽生えてきたのはつい最近である。会話の中でそのような性向が出てしまうだけでなく、短歌の鑑賞を書く上でも、ともすると掲出歌はそっちのけで自分語りに走ってしまうのがたびたびで、自分でも手を焼いている。ただ、そうして自分寄りに書き上げた鑑賞の方が、解りやすいからなのだろうか教会員の方から反応が良く、私としては日々ブレながら鑑賞の構想を練っている。
 先日、砂子屋書房のホームページにかつて一首鑑賞を執筆していらした方がご自身のブログに書いた記事を読んで、私はぐうの音も出なくなった。大意はこうだ。限定された部数出版されて、ごく限られた読者に向けて密やかに発せられた(短歌の形の)メッセージを、歌を読みつけていない大勢に対して、聞きやすい言葉による論評にして安易に届けてしまったら、それは暴力に近いものにならないか——。
 トラクトは、信徒の方のためのみならず、信仰を持たない方がイエス様に関心を抱いてくださることを願って作成している。そして新しいトラクトに載せる一首鑑賞を決める際にも、これを掲載することが御心なのかいつも祈りながら選んでいる。トラクトの15号に岡野大嗣さんの<消しゴムも筆記用具であることを希望と呼んではおかしいですか>の鑑賞を載せた時も、直前まで迷いに迷った。その三ヶ月後に刊行された『NHK短歌』2018年5月号の若手歌人紹介ページの掉尾に据えられた歌集未収録の短歌に私は戦慄した。

  信仰を持たない僕は祈るときイオンの吹き抜けを仰ぎます /岡野大嗣

 Twitterで「エアリプ」という用語がある。特定のユーザーに返信をする意図があるにも関わらず、直接返信をせずに普通にツイートすること(エアリプライ)である。岡野さんの上の短歌が私の鑑賞へのエアリプなのかは知りようもない。自分に都合の良い一首鑑賞を書くことで、非信者の方の心を傷つけてしまうのだとしたら——?誰のために私は一首鑑賞を書くのか。生き甲斐もなく痛飲してしまうような人達に向けて、ではないのか?——私は明確な答えを持たぬまま、歌集を読み、鑑賞を書き続けている。ただ、イエスの顔を仰ぎつつ歩むしかすべはない。
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