たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

<ノートルダム大聖堂火災><ボローニャ大学>そして<紀ノ川にあった『3大学』>などを考えてみる

2019-04-16 | 景観の多様性と保全のあり方を問う

190416 遺産の活かし方 <ノートルダム大聖堂火災><ボローニャ大学>そして<紀ノ川にあった『3大学』>などを考えてみる

 

今日の花は数日前からこれに決めていました。<ボロニア・ピナータ>という名前のカラフルで気持ちを明るくさせてくれそうな花です。その花言葉は<心がなごむ、的確>とのこと。前者は納得ですが、後者は?ですね。

 

実のところ、ボローニャという西欧最古のボローニャ大学のまちで、歴史的景観をまちづくりに活かしてきた町の名前から来ていると勘違いしていたのです。前者はBoronia pinnataというスペル、後者はBolognaですから、全く違っていました。ただ、ボロニアという名前は、イタリア植物学者の名前が由来とのことですので、かすかに糸が繋がっていそうともいえましょうか?

 

ボローニャは、四半世紀前、日弁連で西欧のまちづくりを学ぶと言うことで、調査団を派遣したところでしたが、私は当時いろいろ掛け持ちしてて、この調査には参加しませんでした。その後たしか20年くらい前、ボローニャの近くを流れるポー川を今度は湿地保全の調査をすることになったときも、都合が付かず参加できませんでした。なんとなく気になりながら、もういまでは飛行機に乗ることも、遠距離旅行することもとても体調的に無理な状態になってしまいました。それで少しボローニャの面影を追っていたのかも知れません。

 

ボローニャを思い出してしまったもう一つは、今朝のノートルダム大聖堂が火災で炎上し、あの尖塔が崩壊するショッキングな映像を見たからかもしれません。ここには45年以上前一度だけその前に立った記憶があります。パリではルーブルが一番印象に残りましたが、この尖塔も、他の様々な教会を見てきましたが、教会の中の教会のように感じさせられるものでした。私自身はルターのように教会というものにあまり関心がないのですが、この景観要素は別かも知れません。

 

ボローニャ大学も、ノートルダム大聖堂も、ほぼ似たような時期にできた(後者はその後長い時間をかけて完成したようですが)そうですね。日本で言えば平安末期でしょうか。

 

そんな古い歴史があるノートルダム大聖堂、なんで火で燃えるのと不思議に思いました。目の前で見た建築物は石造りであったはずと、いい加減な記憶ながら、はてなと思っていました。

 

するとFNNが<世界遺産ノートルダム大聖堂火災“石造り”なのになぜ炎上したのか?>という記事で、その疑問に答えていました。

 

火災の経過については<現地時間、415日午後7時前に尖塔がある屋根の付近から出火。その後、火は屋根全体に広がり1時間後には高さ約90mあるシンボルの尖塔も焼け落ちてしまった。>というのです。

 

構造・材質について、<巨大石造りでゴシック建築の代表作として知られるパリのノートルダム大聖堂。なぜここまで火が燃え広がってしまったのだろうか?>と疑問を提起しています。

 

一部木造だったのですね。<外壁や中部の柱など多くの部分は石でできており本来火には強いはずだが、屋根の一部には上記のように木が使われており、そこから火が広がってしまった可能性がある。>まだ出火原因や箇所が特定できたわけではないでしょうから、推測の域を出ないとは思いますが、掲載された写真では屋根裏はまさに日本家屋並みですね。石造り、中身は張り子の虎だったとはいいませんが、案外そんなものかもしれません。

 

仮に屋根裏の木材部分から出火したとしても、なぜそのようなところに発火要素があったのでしょう。わが国では多くの世界遺産に登録された歴史的建築物は木造がほとんどをしめているでしょうから、防火対策は念には念をいれて行われてきたように思います。他方で、石造りを基本前提としているような西欧の歴史的建造物の場合、意外と落とし穴があったかもしれません。

 

それにしても残念な結果です。今後の原因調査を待ちたいと思います。そしてどのような復元が今後検討されるのかも注視したいと思うのです。

 

さてボローニャ大学を思い出したのは、もう一つ理由があります。『きのくに荘園の世界』上巻で、編者の山陰加春夫氏が冒頭で、「総論 中世紀伊国の位置―キリスト教宣教師の二つの記述を手がかりに」と題する論考を載せています。

 

フランシスコ・ザビエルが書いた手紙の中に、「ミヤコの大学のほかに他の五つの主要な大学があって、(それらのうち)高野、根来、比叡山、近江と名付けられる四つの大学は、ミヤコの周囲にあり、それぞれの大学は三千五百人以上の学生を擁しているといわれています。」と書かれていたのです。

 

山陰氏は、高野は高野山金剛峯寺、根来は根来寺、比叡山は比叡山延暦寺としつつ、近江は園城寺ではないかと指摘しています。前2者はいずれも9世紀に始まっているわけですから、西欧最古よりも古い歴史を持っているといってもよいかもしれません。

山陰氏は、ザビエルが日本国内有数の大学として、紀州国に2つをあげていることに着目しています。

 

さらにルイス・フロイスの『日本史』では、紀州には四、五の共和国があったと指摘されていることをとりあげます。それは高野、粉河、根来衆、雑賀の四つであり、もう一つは熊野に違いないと山陰氏は指摘しています。

 

多くの日本人も、高野、根来、雑賀、熊野は理解できるかも知れませんが、粉河となると近畿の人は別にして、それどこと疑問をもつかもしれません。でも山陰氏は、他の四つの共和国に匹敵する、粉河寺を中心とする共和国の内容を掘り下げています。

 

高野山金剛峯寺は山内には町というか都市国家といえそうな雰囲気もありますが、どうも領域が狭いですね。根来寺も当時の境内が広大であったと思いますが、どうもまちづくりとしては秀吉によって壊滅された後は跡形もないですし、現在の周辺の町との関係も素人的には判然としません。それに比べて粉河寺は粉河町の領域をまちづくりとしていかしていたのではないかと思われるほど、その残影を感じさせてくれます。

 

今週末、粉河寺を訪れる予定ですが、そんなこともあって、山陰氏の指摘になるほどと思ってしまいました。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日といいたいところですが、明日は日程が混んでいておそらく書ける時間がとれそうもないので、明後日となるでしょう。


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