たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

生活道路のあり方 <通学路に可搬型ハンプ>などを読みながら

2019-02-28 | 事故と安全対策 車・交通計画

190228 生活道路のあり方 <通学路に可搬型ハンプ>などを読みながら

 

昨日のNHKおはよう日本で、道路上に置かれた奇妙な形のハンプが取り上げられていました。途中から見たのと、他の用をしながらちらちらと見たので、あまり内容を把握できないままでした。いまどきハンプかという思いと、ようやくハンプかという思いなどが錯綜しつつ、終日仕事で忘れていて、今日も少し長めのミーティングが終わり車で事務所に帰ってくる中、生活道路を走っていてふいに思い出しました。

 

一昨日付の朝日記事<滋賀)通学路に可搬型ハンプ 速度抑制効果を実験>に、概要が掲載されていました。

 

<滋賀県東近江市五個荘地区の旧中山道で25日、路面に設置して段差をつくり、通過車の速度抑制を図る「可搬型ハンプ」の実効性を測定する実験が始まった。>

 

五個荘地区というと聞いた記憶があるなと思ってウェブ情報をみると、<近江商人発祥の地!東近江市・五個荘金堂地区を歩く>では、やはり近世・近江商人が活躍していた他の地域同様、すてきな堀割にまちなみが残っていることがわかります。まちなみ保全への取り組みがしっかりしていることがうかがえます。ちゃんとそれを担う組織もありました。<五個荘地区まちづくり協議会>です。

 

ところが、そんなすばらしいまちなみを残してきた五個荘地区の一画にある生活道路では、<朝夕のラッシュ時には多くの自動車が抜け道として利用する。一帯は制限速度30キロだが、国土交通省などの分析で大半が50キロ以上で走っていることが分かった。>というのですから、こまったものです。まちづくり協議会に交通政策をも担う機能を委ねていないところに一つの要因があるでしょう。

 

北米で私が体験したのは、地域の団体が、生活道路を交通リスク(スピード超過による事故や通り抜け道路化による交通混雑など)をいかに回避するかについて、さまざまな提案をして実現しているコミュニティーのあり方でした。それが90年代半ばの話です。すでにハンプは普通にありましたし、後で紹介します様々な物理的なスピード制御手法を各地で採用していました。当時市議会で問題に話題になっていたのは一旦通り抜けできるような分譲地(90年代に開発される計画ではほとんどなかったと思いますが)で、closing(だった記憶)という道路閉鎖措置を議会で審議して実施することがよく話題になっていて、その審議を傍聴したり、閉鎖した現場を見学したりしていました。

 

北米の道路はフリーウェイで有名ですが、生活道路となると分譲地内に入るには一つだけの出入り口で通り抜けができない構造に90年代のものはなっていた記憶です。A分譲地からB分譲地につながる道も、バスといった公共交通機関以外は通ることができず、大きな迂回をしないといけない交通システムが作られていました。

 

ところがわが国の場合、なかなかそういった生活道路をハードとシステムで守るという仕組みができないまま、今日に至っているように思うのです。

 

ようやく始まったのが可搬型ハンプという奇妙な、まさしく試験的な装置でしょうか。

<今回は、タテ6メートル、ヨコ4メートル、最大高10センチのゴム製のハンプを五個荘北町屋町~五個荘石塚町間(約1キロ)の3カ所に設置。3月15日まで置いて効果をみる。設置場所で観察していると、確かに通過車はブレーキをかけて一定の減速をしているのが分かった。>

 

どおりで、いつでも分解できますし、移動できる構造になっています。おそるおそるやるということでしょうか。残念な思いと、それが日本の現状かと改めて思うのです。

 

ところで国交省はこれまで手をこまねいていたのかというとそうでもないのですね。

 

国交省のウェブサイトでは<生活道路対策における物理的デバイス>と銘打って、平成259月に、いくつかの対策を提案しています。

 

そのうち物理的デバイスとして、<ハンプ、狭さく、シケイン>等の設置をあげています。

 

道路は通常、一定の幅員を維持することが望ましいのですが、スピードを制御するのに、一部狭隘部分をつくるアイデアはときに有効です。次の「シケイン」とは耳慣れない用語ですね。どうやら自動車レースで使われる用語で人工的にジグザクなどの構造にしてスピードを調整するようにしている手法のようですが、カーレースで使われている用語を使うのはどうかと思います。ジグザグ道路という名称があいまいであれば、たしか90年代とか2000年代ころまでに割と使われてい欧州の技術用語があったと思います。ちょっと思い出せませんが、いずれにしてもシケインはいかがなものでしょう。

 

とはいえ国交省が平成25年に提唱し、その後実施した実例を紹介しています。

生活道路対策エリアの取組(具体事例)>によると、物理的デバイスとしてはハンプの実証実験だけのようですね。シケインとか「狭さく」はないのでしょうかね。

 

ここでいろいろ書いてきましたが、私は横須賀で、2000年代初めに、ジグザグ道路に変更した実例を知っています。当時横須賀は、ネット情報を先進的に発信したりなど、さまざまな新しい試みをしていました。こういった交通政策も一つだったのでしょう。また、分譲地ではこれはたしか昭和時代の造成ですが、すでにハンプを埋め込んで一体的な道路として利用していました。多少は米軍基地からの風の便り?にも影響されたのでしょうか?先進的な気風がありました。

 

でも国交省の実証実験の対象外でしたから、具体例には取り上げられていません。

 

他の地域でもいろいろな交通対策を行っているところがあると思います。国交省の取り上げ方は少し先駆け事例に対して失礼な印象を抱きます。対策を提唱すること自体は望ましいことですが、先駆的な事例も丁寧に取り上げながら、各地に啓蒙してもらいたい思いです。

 

ちょうど一時間となりました。この辺でおしまい。

 

 

 

 


災害・スポーツ・宗教 <楽しんで“世界一”山口茜選手>と<宗教者と大災害>を見たり読んだりして

2019-02-27 | 人間力

190227 災害・スポーツ・宗教 <楽しんで“世界一”山口茜選手>と<宗教者と大災害>を見たり読んだりして

 

辺野古移設をめぐる県民投票の結果は重いものがあります。沖縄県以外の国民は座していてよいのか、問いかけているようにも思えます。もう少し整理できた段階で取り上げたいと思っています。

 

話変わって、昨夜そろそろ寝ようかと思ったら、たまたまTV画像に信じがたいような動きをするバドミントン選手がいて、これはなんだと思いつい引き込まれてしまいました。

 

NHKの<グッと!スポーツ 「楽しんで“世界一” バドミントン 山口茜選手」>でした。私自身、相葉さんという歌手も知りませんでしたが、そこに登場した山口茜さんは初めてお見かけする印象です。

 

40年ほど前、テニスとバドミントンに少し凝り、後者は私には思ったよりハードすぎてすぐに辞めてしまった思い出があります。で、バドミントン選手と言えばすらっとして細身で身長が高い人が有利ではないかと勝手に考えていました。むろん桃田選手の例があるようにやはり瞬発力や強靱な筋力があれば世界一になれることは理解しつつも、最近の女性選手のほとんどがすらっとした感じでしたので、この選手が大丈夫かと一瞬思いました。

 

とんでもない誤解でした。その弓のようにしなる足の先から胴体、さらに手の先までほれぼれする姿勢を瞬時に作り、弓がはじけたように新幹線並みのスピードでシャトルを突き刺すのですから、これは凄いです。それだけではありません、相手選手から体を狙われたシャトルが自分の脇を過ぎ去り、その進む方向が見えない位置で、見事にラケットの面で鋭く打ち返すのです。彼女には目だけでなく、体全体に認知機能があるかのように動くのですね。

 

たしか身長は1m50台半ばだったと思います。代表選手でも一番小柄だというのです。当然、防御には不利ですね。ところが身長や手足の長さで足りない部分は、ジャンプ力でまるで回転レシーブのように遠くを狙われたシャトルに飛びつくのです。そして反射的に立ち上がり次の防御スタイルをとるのです。これは見ていて面白いですね。感動します。

 

で、興味深い場面がさらに用意されていました。山口選手のショットはそのスピードが凄いだけではないのです、相手選手が反応できないほど、コートのどこに飛んでくるか判断できない、まあ結局、棒立ち状態となっているのです。なんでかなですね。

 

さすがNHK、技術者に解析してもらい、映像を通じて(本人もあまり意識していなかった)一連の認識、選別動作を解明するのです。その内容は、山口選手が、まずスマッシュを打つ直前、相手選手のシャトルを目で追いかけながら、一瞬、相手選手の位置・動きに視線をやった後、再びシャトルに目を向ける選手でもできない離れ業をしていたのです。その上、シャトルを打つ瞬間(それは秒で測れない)、最低でも3つの選択を瞬時に行い、相手選手がその動きを読めない状態にしてしまうのです。スマッシュ、ドロップショット、スライスでしょうか。きっと他にもあるのでしょう。凄いですね。

 

とここまで冗長な前置きになりました。なぜ彼女を紹介したかというと、この世界ランキング1位になった技量ということではなく、まあそれもありますが、その彼女の郷土愛、人への心遣いです。彼女は福井県勝山市生まれと言うことで、地元にとても愛着を持ち大事にしています。性格はとてもシャイということで、おとなしい、引っ込み思案でありながら、仲間との協調を自然に醸し出すのです。そして地元や家族友人の支援に対して応えたいということについて、義務と権利ということばで彼女なりに心構えを述べるのです。

 

そういう支援に応えるという義務感で試合に臨むと楽しくない、応える権利という気持ちになれると楽しくできるというのです。21歳の若い彼女に教えられました。

 

人のために何かをやるといった義務感で望んでいると、心からすなおに取り組めないかもしれません。でも私はその人に応える権利があると思えば気持ちよく、楽しむことができるかもしれません。

 

災害を受けた地域や住民のところを訪れボランティアをする場合でも、山口選手の義務と権利という独特の使い方は別にして、心から楽しむ気持ちになって臨むことができれば、いいのかなと思ったりするのです。それはあの尾畑春夫さんの言動が如実に示しているように思えます。それは尾畑さん流の行動原理というか、心構えでしょうけど。

 

そういったことは古い時代より私たち先祖は経験してきたと思うのです。いつからかは分かりませんが、文献では道昭が早い段階で災害や飢餓、病気などへの対応を唐から持ち帰った高度な技術と仏教思想の元、行っていたのだと思うのです。そのたしか弟子になるかと思うのですが、行基もさらに発展、巨大な組織として各地で施業を行い、東大寺大仏建立まで手がけるようになったわけですね。それが庶民にとっての仏僧の本来の姿ではなかったでしょうか。

 

昨日の毎日記事<岐路の風景宗教者と大災害 「無常」の中にぬくもり、東日本大震災での実感 追悼とは愛情の継承>では、現在の葬式仏教という社会通念の中で生きる住職の苦闘といいましょうか、大災害を目前にして従来の僧侶の衣を脱ぎ捨て、心の僧侶を目指しているようにも思える姿を見せてくれています。

 

<多くの命を奪った大災害は、宗教者たちが自身と向き合う転機にもなった。【花澤茂人】>と、ある僧侶の心の変化を追っています。

 

<丁寧に広げた手紙を、浄土真宗本願寺派・真覚寺(神戸市中央区)の鍋島直樹住職(60)は大切そうに見つめた。龍谷大の教授でもあり、死への不安や死別の悲しみに対する仏教の救済観の研究を続けている。東日本大震災の被災地も繰り返し訪れ、遺族らと交流を続けてきた。手紙は津波で夫を亡くした宮城県気仙沼市の女性からのもの。「被災者の方たちから、宗教者に役割があることを教えてもらったのです」>

 

鍋島住職は、阪神大震災では被災したものの、僧侶としての役割を認識できず、ただ一般のボランティとして活動し、他方で、心のケアは僧侶の役割ではないとの見方を共有していたようです。それは東日本大震災でも当初は同じだったそうです。

 

<宮城県南三陸町の避難所に物資を届けた時のこと。大学名から僧侶と察した避難所長から「お勤めをしてほしい」と依頼された。寒さをしのぐためがれきを燃やしたいが、亡くなった人に関わるものかもしれず抵抗があるという。車にしのばせていた法衣をシャツの上からまとい、がれきを燃やすドラム缶の前に花を供えた。簡単なお勤めだったが、振り返ると多くの人が合掌していた。「やっと手を合わせられた」。そんな声も聞こえた。>

 

人の遺体だけでなく、ものにも魂とか命に関わることを感じる人が少なくないのでしょうか。

 

<冒頭の女性からの手紙には、鍋島さんとのやり取りで気づいたこととして「逃れられない悲しみは抱えて生きるしかない。でもその悲しみはいつの間にか夢や希望に変化すると感じています」と書かれていた。「悲しみは亡き人からもらった愛情の裏返し。いつか生きるための光となると教えてもらった」。「無常」の教えの中にあるぬくもりを感じた。>

 

大災害を契機に、僧侶の新しい役割が期待されるようになったようです。実際はもっと前からあったはずですが、それでもその動きは期待したいです。

 

< 苦悩のただ中で宗教者に求められる役割があると実感した人たちの間で、震災後に新たな動きが起こる。「臨床宗教師」の養成だ。布教や勧誘を目的とせず苦悩を抱えた人に寄り添う宗教者で、被災地だけでなく医療や教育などの場で活動することを期待されている。>

 

臨床宗教師とは、ちょっと堅いことばですね。でもそういう多面的な活動をしてもらえると大いに助かる人が増えると思います。

 

鍋島住職のことばはよりいいですね。<「亡くなった人や失った物を通して気づいた愛情を、自分のものとしてきちんと受け継ぐ。追悼とは、それを忘れずに次の世代へと伝えることです」。それが、宗教者の使命だと感じている。>そういう宗教者が増えてくると、世の中よりよくなると思うのです。

 

今日はこれにておしまい。また明日。


天皇陵と記紀 <そこが聞きたい 天皇陵古墳の将来像・・白石太一郎氏>を読みながら

2019-02-26 | 古代を考える

190226 天皇陵と記紀 <そこが聞きたい 天皇陵古墳の将来像・・白石太一郎氏>を読みながら

 

昨夜、録画していたNHKの古代史の番組、名称は忘れましたが、正月の特別番組のようでして、磯田道史氏が考古学専門家と現場で話しながら日本の礎というか分明の成り立ちを語るといった磯田氏らしい巧妙なトークで展開します。2時間でしたので少々疲れてけちんと見たわけではありませんが、面白かったです。

 

それを見て余韻が残る中、今朝の毎日記事<そこが聞きたい天皇陵古墳の将来像 大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長 白石太一郎氏>を読んで、歴史学、考古学の先達がいろいろ述べられることに素人的な発想では気になるところがあり、少し書いておこうかと思い本日のテーマにしました。今日は終日仕事で忙しくしたので息抜きかもしれませんが。

 

NHKでは当地の発掘を長年されて著名な考古学の専門家・橋本氏の案内で、初期前方後円墳とされる纏向石塚古墳や纏向勝山古墳を見た後、3世紀半ば築造でしょうか箸墓古墳や周辺の紹介となりました。ここでも当然ながら、日本書紀の「箸墓」築造の伝承が紹介されていました。ただ、被葬者については卑弥呼かどうかの議論はさまざまな研究者の説を紹介していたかと思います。

 

いろいろ諸説があることは当然でしょうけど、書紀で箸墓とされているのは倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)ですけど、卑弥呼とは違いますね。それはどう考えるか、突然ここでは(よくあることですが)魏志倭人伝の記載を持ち出されます。「箸墓」の謂われの伝承というか、書紀の記載を根拠としているにもかかわらず、被葬者になると飛躍するように思えるのです。

 

それがわが国の文明の始まりとか、都市の始まりといわれても、その可能性はうかがえるものの、それを裏付ける書紀や魏志倭人伝の記載はありませんね。考古学的な考察でしょうね。そうだとすると、それだけの文明を形成しながら、なぜ書紀を含めてそれを示唆するような記述がないのでしょう。不思議です。誰かが抹殺したのでしょうか。不比等による書紀の創作(すべてねつ造とは思いませんが)という説に魅力を感じる一つです。

 

次に今朝の毎日記事で紹介された白石太一郎氏は著名な考古学者で一度だけ講演を拝聴したことがあります。著作は何冊か読んでいましょうか。考古学の先達に異論を差し挟むなんて暴挙は素人だから言えるのでしょうね。

 

白石氏は天皇陵について宮内庁の厳格な立入禁止措置や被葬者の指定に、専門家として宮内庁の立場に配慮しつつ、将来国民的合意形成によりそのあり方を検討する必要を提案されているかと思います。

<一般の方への公開、研究者の研究のための公開、どちらも必要です。中心的な埋葬施設の場所は見当が付きますから、尊厳を保った上で差し支えない部分を公開することは十分可能と思います。

 現在、宮内庁というか天皇家が祖先の墓として天皇陵古墳も含めて祖先祭祀(さいし)を丁寧に行っておられることについては、国民の多くが支持していると思います。天皇家の祖先祭祀の場としての陵墓である一方で、日本の歴史を考えるための極めて重要な歴史遺産としての意味ももっているわけです。こうした点については宮内庁も、歴史遺産として保全・調査し、公開や活用もより積極的に考えていかなければいけないという認識をもっておられることは間違いないでしょう。>

 

また<天皇陵古墳の今後のあり方については、やはりもっと幅広い議論と、バランスのとれた国民的合意形成がどうしても必要です。世界遺産登録への運動が議論のきっかけになれば、こんなに良いことはないと思います。>

 

こういった提案は、これまでの天皇と国民との関係を背景にすると、穏当な方法かと思います。個人的にはもっとドラスチックな方法で根本的なあり方を検討してもいいのではと思うのですが、時期尚早かもしれません。

 

こういう一般論を書くつもりで、白石氏の言葉を引用するつもりではなかったのですが、書き出すとついつい、冗長になりました。今回白石氏の発言を取り上げるのは、誉田御廟山古墳と大山古墳の被葬者について、白石氏が考古学的な考察から、前者を応神天皇陵、後者を仁徳天皇陵として、とりわけ前者の害脆性は高いとし、こうしゃも可能性が極めて大きいというのです。この論述に違和感を覚えたのです。考古学の最近の研究成果をまったく知らない素人がもの申す話ではないので、こっから先は笑いの種にして結構です。

 

白石氏が根拠とする一つに前者につき<応神天皇を祭神とする誉田八幡宮が平安時代から隣接して存在している>ことをあげています。八幡宮の隣接はたしかに意味があるかもしれませんが、平安時代の設置ですから、5世紀初頭の築造としてもちょっと違和感を覚えます。8世紀初頭に成立した記紀の影響を感じてしまいます。

 

また<考古学的には、埴輪(はにわ)や須恵器(すえき)(古代の土器の一種)を使った最新の古墳の年代研究から5世紀の第1四半期の築造が確実>であることと、<文献史学の研究による応神天皇の在位(4世紀終わりから5世紀初頭)>と一致することとだけで、判断できるのかどうか、疑問を感じます。

 

世界最大級の前方後円墳、日本で第一、第二の規模を長期間かけて築造したことは間違いないわけですが、だれがなぜこの場所に築造したかはあきらかではないように思うのです。少なくとも、記紀は何も語っていません。応神天皇の崩御を簡単に触れながらも、陵については一切言及がありません。あの半分くらいの大きさの箸墓でさえ、変わった伝承を記載しているにもかかわらずと思えるのです。

 

白石氏は<天皇陵級古墳の築造順の研究から、誉田御廟山古墳の次に築かれたのが大山古墳です>と指摘されていますが、私がこれまで学んできた考古学の通説ではそうではないと思うのですが、どのような根拠なんでしょうね。

 

また応神天皇の次が果たして仁徳天皇かどうか、記紀にはそう書かれていても、信頼性があるのか気になるところです。だいたい書紀には仁徳天皇の即位前から即位後もいろいろ変わった話をてんこ盛りのように展開していますが、あの雄大な墓をつくったにしては、天皇の崩御の他には、書紀では「葬于百舌鳥野陵」、古事記では「御陵在毛受之耳上原也」と墓の場所のみ記載があるのみです。現代語訳では「百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)」と両者を総合したような名称が一般でしょうか。

 

記紀の記載からは生前に築造したと推測できますが、そのような大事業を行ったにもかかわらず、一切の記述がないことは他の多くの土木事業に関する記述との関係でも違和感を禁じ得ません。

 

ともかく文献資料からは大山古墳に仁徳天皇が葬られたとされる根拠としては十分とは言えないと思うのです。仁徳天皇の存在も疑問視する見解があり、結構説得的ですが、ここでは取り上げません。

 

私が気になっているのは、仮に白石氏や宮内庁の被葬者像を採った場合、なぜ書紀で書かれている仁徳天皇のような謙譲の美徳や臣民への徳の厚い人が、父親より大きな墓を築造するのか、理屈に合わない(記紀の中でよくあるといえばあるのでそれを取り上げるのもなんですが)ように思うのです。そもそも応神天皇と仁徳天皇やその後を継いだ天皇の古墳が大阪にあのような形で散在するようになったのか、これまた不思議です。

 

中途半端ですが、この程度にして今日はおしまい。また明日。

 

 


精神科医とコスパ <「精神科医は見た!“コスパ社会”のジレンマ」>を見ながら

2019-02-25 | 医療・医薬・医師のあり方

190225 精神科医とコスパ <「精神科医は見た!“コスパ社会”のジレンマ」>を見ながら

 

昨夜、録画していたNHK Eテレ<新世代が解く!ニッポンのジレンマ「精神科医は見た!“コスパ社会”のジレンマ」>を見ました。

 

精神科医がなにをどう見るのかと興味本位に深夜番組を録画していたのです。だいたいコスパ社会といってもぴんとこない世代というか私ですので、精神科医が登場するのは面白いと思いつつも、何を見たのでしょうと不思議な感覚でした。

 

いま番組のネット情報を見ると、<2019年元日も若者たちのユニークな言葉が飛び交ったジレンマ。そんな対話を通して、ニッポン社会の深層に巣くう空気を浮かびあがらせるべく3世代の精神科医が集まった。テクノロジーが世界を結び、ますます価値観が流動化しつつある今、「コスパ」の内面化が心の「遊び」を奪う?ふだんは「聞く」ことを専門とするエキスパート3人も本音を吐露。さまざまな対話からどんな時代の価値観が見えてくるのか?精神科医は見た!>とのキャッチフレーズです。

 

元旦の番組は見ていませんが、おそらく気づいても録画する気持ちがわかなかったでしょう。だから現代を理解できない、ということの一面かもしれません。精神科医のトークで、コスパ社会が少し分かってきました。コスパというのはコストパフォーマンスの略語なんですね。なんとなくそうかと思いながら、そんなことばが若者世界で定着していることに驚きです。だいたい国を含む行政の活動について、費用対効果をしっかり考えることを求めて80年代後半ころから弁護士会や民間団体の意見書づくりに片隅でうごめいてきましたので、なにやら不思議感覚です。

 

埋立や道路などさまざまな公共事業について、費用対効果が適切に検討されていないと議論してきたのですが、その前提として行政は将来予測の数値を適当に算定したり、費用計上も杜撰だったりして、計画決定ありきで物事が進んでいたことに強い疑問を感じていましたが、なかなか状況が変わらないという挫折感を味わっていました。

 

費用対効果、コスパでしょうか、それが現代の若者では日常的に当たり前になっているかのような議論を聞いていると、私が現実社会をしっかり見ていなかったのかと思ってしまいます。とくに当地にやってきて10年になりますが、この間行政の動きにも社会の動きにもあまり関心が及ばなかったかもしれません。

 

そんな私事をぐだぐだ述べてもしょうがないので、そろそろ本題に入ります。

 

登場したのは精神科医3名で、番組情報では<土岐友浩,熊代亨,泉谷閑示>の方々でした。たしか?60年代、70年代、80年代生まれの世代差を意識して選ばれたようでした。

 

興味深いかかったのは70年代生まれと80年代生まれの二人は、勤務医で患者さんの話を聞く時間がない、とれない、また聞いているとコスパがよくない?、とりわけアメリカで成立した世界標準の精神科医が採るべきマニュアルに則って診療することが優先されるといった話でした。

 

えっ、精神科医が患者さんの話を聞かないで、どうするのかとびっくりしました。私自身、とくに刑事事件で精神的な問題を抱えている人には精神面のケアをしてもらうために、とくに特定の医師を紹介することはむろんありませんが(多少は知っていても、そのような判断をする能力もないので)、近隣の医療機関を知らなければウェブ情報一覧を示す程度に情報提供をします。弁護士の仕事の一面はクライアントの精神面を楽にしてあげることが付随的効果としてある場合があり、結構な時間をかけて聞き取ることがあります。当然、精神科や心療内科の医師は相当な時間をかけて聞いてくれているものと思っていました。そこは他の診療科と異なり、施設・設備をもたない医師のある種重要な役割かと思っていました。

 

だいたいアメリカの映画に影響を受けたのでしょうか、古くから刑事コロンボでも、最近とは言えませんが「グッド・ウィル・ハンティング」などでも、精神科医はいかに丁寧に時間をかけて患者と一対一で話し合うか、をいつも感じていました。

 

ところがそのマニュアルでは、うつ、統合失調症などさまざまな症状をあるかないかでチェックし、その数が一定数あれば、処方なり治療方法が決められているといった風になっているようです。それで患者が抱えている生活環境や歴史的な背景などを聞き取ること自体がそのマニュアル違反となるようです。ですので、1100人とかの患者対応を迫られて、患者一人にすると数分ということになり、コスパ的にもそれ以上のことはできないというようです。

 

それが患者にも社会にも有効であるかの物言いでした。むろんこれは二人の若い医師のことばを一面的に捉えただけかもしれません。ただ、開業医の60年代生まれの方は、自分も勤務医時代同じだったこと、それがいやで辞めて、現在の診療スタイルになったというのです。開業医だから、また自由診療だから、時間をかけて患者さんの話を多方面に聞くというのです。ただ、それでも30分ないし1時間というのですから、私の感覚ではとても短く感じます。自由診療ですから、裕福な人から十分な費用をもらえばいいでしょうし、そうでないひとは保険並で対応することも可能ではないかと思うのですが、それは公平でないとでも言うのでしょうかね。

 

だいたいコスパなんてことは、もう少し本質的な部分からスタートしてもよいのではと思うのです。いまの多くの診療スタイルだと、行列ができるほど待合室が混み合い、診療時間は2時間ないし3時間待ちで数分で終わりということも少なくないようではないかと思うのです。それでその患者に固有の対応ができるのでしょうか、医療というのは薬の処方も含め、患者の体が十人十色であるように、その処置処方も皆違うはずです。治療効果を個別に丁寧に見て次は変化をつける必要があるかどうかチェックしながら時間をかけてみないと、型どおりの定型的な治療・処方をしていたのでは、とても患者の病気回復には近づかないというか、時間がかかることになりかねないように思うのです。

 

それはとりわけ心の問題を扱う精神科医、心療内科医などはそうだと思うのですが、コスパということで、かえって反コスパになっていないか心配です。また証拠に基づく医療といっても、疫学調査を踏まえた因果関係だけでは、個別性の高い心の問題には適切に対応できるとは思えないのではと懸念します。

 

精神科医に時間を余裕をと思ってしまったのです。3名の医師、それぞれ詩であったり、ブログであったり、音楽であったり、余暇を楽しんでいるようですが、それが診療時間に患者との対話の中で活かせないようだと残念な気がします。そう努力しているようにも見えるので、放送の中で言えない部分もあるかもしれませんね。学会などでは基準診療に目を光らせている人もいるでしょうから。

 

脱線気味で転覆しかねない状況になりましたので、このへんでおしまい。また明日。

 

 


歩く道(その11) <橋本市妻から紀ノ川岸辺、大和街道を歩く>

2019-02-24 | 人間力

190224 歩く道(その11) <橋本市妻から紀ノ川岸辺、大和街道を歩く>

 

今朝、自宅の庭で花を植えていると、ウグイスの囀りが聞こえてきました。今年初めて聞きました。初めて登場したわけではないかもしれませんが、10時近くになって聞こえてきましたから、朝出かけた後やってきていたのかもしれません。fbではなんどかウグイス物語的なものを書いた記憶がありますが、手の具合が悪く足がなんとか動いたので足の運動のつもりで平坦な山道を毎日散策してウグイスはじめいろんな動植物の出会いを書いたことがありました。

 

さて今日は恒例の?歩く道、どこを歩こうかと昨晩から考えていたのですが、どうも浮かびません。今読んでいる有吉佐和子著『助左衛門四代記』の舞台、和歌山市の木ノ本まで行くのは少し億劫だと思ったりその他の案も少々遠いことを理由にして、なかなかいい案が浮かびませんでした。でも週に一回くらいは運動のため歩こうと思っていますので、手軽なところとして、当地の妻から、以前は東に向かって大和街道を歩いたので、今日は西に向かって歩くことにしました。

 

妻(つま)という地は、隅田八幡神社人物画像鏡が発見された場所として文献で指摘されていたり、万葉集でも歌われているため、気になる場所ですが、車で入りにくいためなかなか近寄りがたい印象があります。24号線から紀ノ川側に小さく広がる妻の南側をまず歩き出しました。住宅地の中を歩くとぎっしり家が詰まっていて、道路も縦横に走っているのですが、狭いのです。紀ノ川河畔よりを歩くと、空き家とおぼしき家がずっと並んでいました。とても多いなという印象です。

 

後でPCで橋本市の<認定道路>を調べると、24号線南に位置する妻部分の中に縦横に走る道路のうち、ほぼ東西と南北一本のみ、認定道路(2級かそれ以外)となっています。つまり他の道路とおぼしき道は私道なのでしょう。これだと建築確認も簡単にはとれないかもしれませんね。

 

住宅は紀ノ川の川岸までだいたい連担しています。その先はどこも竹藪状態です。一部開けたところから南海電鉄の鉄橋を見通すことができました。妻から東に向かってずっと自然の川岸というか竹藪状態の斜面地となっているようです。ときどきスマホについている地形図アプリの標高を見るとたしか90mくらいの高さでしたか。先週、小田井と藤崎井の用水路を歩きましたが、そのときYさんから小田井の川底が60mくらいと聞いた記憶です(これは最近の官僚答弁より怪しいかもしれません)。妻は小田井から結構上流ですから70mかもしれないですね。と思いながらアプリで調べると、小田井はほぼ60m、妻は80mがそれぞれの川底の標高のようです。これは驚きです。妻から小田井までは5kmからせいぜい7km内でしょうから、結構な勾配です。

 

そんなこととも知らずに、南海高野線をまたぐ小さな橋を渡り、妻の空き家風の家並みを抜けて、24号線を行こうとしたら、小さな川が流れていて川岸に小さな住宅地があったので、少しよっていこうとスロープを降りていきました。するとその小河川に手作りの小さな橋があり、丸木だったか2本渡して、歩きやすいように小さな板を縦に並べていて、途中で折れている部分を針金で補強していました。おっかなびっくりで揺れる橋を渡り、竹藪の中につくられた小道を行くと、誰かが伐採して結構なスペースが広がっていました。かなり以前に放置されたようで、誰かが利用しているようには見えませんでした。それでも平坦なところの面積は1反くらいはある感じでした。

 

その後、再び小さな住宅地をゆらゆらと歩いていると、行き止まりで引っ返そうとしたら、川岸のそばに結構なスペースがあり、そこへ歩いて行ける感じでしたのでちょっとした高さのスロープを上がると、そこは公園でした。ちょっとした遊具がおいてあり、桜木が結構な数植わっていました。でも何の表示もなく果たしてどのような意味合いの公園かしらと不思議な感じでした。でもそこから橋本橋を望むとなかなかいい景色でした。公園とは数mくらいの擁壁の上にマンションが建っていましたが、構造的にマンションの敷地とはいえない感じでした。

 

不思議だなと思いつつ、地図アプリで確認すると、マンションは橋本市再開発住宅となっています。するとあの公園も再開発で開発されたものかしらと思いつつ、地図上でも公園であることがはっきりしません。まあ、そんなことは別にして駅前の密集地帯を走る大和街道を歩こうと思ったら、ひょいと24号線沿いにある喫茶店敷地を支える擁壁が目に入りました。

 

ちょうど自然の岬の突端のような形状で、下部は石組みで、上部がレンガ造りとなっていました。面白いなと思いつつ、その下に降りていけるスロープがあり、ちょっと近くまで行ってみようと思ったのです。下まで降りると、ロータリークラブの看板があるものの、なにもない状態で、その突端では少し段差があるものの、岩盤がむき出しで飛び出している紀ノ川の水辺に降りれそうでしたので、沢登りでの経験がついでてしまい、ひょいひょいと降りていきました。今日はくっつき虫にやられないと思っていましたが、案の定、すぐにくっかれました。

 

岩場がしばらく続いていて、その先の当地にやってきたころから始まった護岸工事が終わったところが目に入りましたので、そこまで行くことにしました。階段状の護岸となっていて、散策路が2段に作られていました。あまりこの散策路や階段で休んだり歩いたりしている風景を見た記憶がありませんが、散策路にある壁が垂直で、ちょっと気になりますね。

 

北米でいろんな川辺や海辺にある散策路を歩くことを楽しんだ私としては、自然を身近に感じる、自然と触れ合う散策路としては残念ながらその基準を満たしているとはいえないでしょうね。おそらく国交省の河川管理の立場からはまずは洪水対策が一番で、破堤とか越堤とかそういう事態を回避することに注力しているため、水辺に親しむという視点はなかなか相反するので二次的になるのでしょう。

 

北米では海辺でもさっき私が通ったような岩場をそのまま維持して、結構危ないような感じの散策路が作られています。たしか横須賀の海岸(相模湾側)でも似たような散策路が作られていて、子どもを連れて歩いたことがありました。結構、自然を満喫できるものでした。

 

階段状の護岸を登っていくと、24号線に沿って新しく立ち並ぶ建物の中に大きなスペースがあり、まるでちょっとした休憩所のようにベンチが置かれています。そこは動線的には駅前からの道路が24号線を渡ったところにあり、その先に紀ノ川の流れや南岸に広がる山並みが一望できるビューポイントとなっています。そういう配置は悪くないかと思うのです。

 

ただ、なにか垢抜けない印象をもつのは欲張りでしょうかね。地域の特徴というか、市民目線があまり感じられない作りに思えるのです。そこに看板があり、「紀の川の自然とふれあう散策マップ」との表示で、応其上人によって開発されたまちであることと、橋本市の目玉を紹介していました。あの前畑さんが紀の川で小さいころ飛びこみ練習したという岩場も紹介されていました。なんとさっき私が通ってきた少し高さのある岩盤でした。いまは水深がないので、とても飛び込むことができませんが、水深があってもあの高さだと飛び込みというよりただ泳ぐための拠点くらいの意味しかなかったかもしれません。全国にまだ川がしっかり生きている(ダムがない)川には高い岩場が残り、水深の深いところは少なからずあり、NHKなどで放映された、たとえば郡上八幡(長良川上流)では子どもたちの威勢のいい飛び込み場なっています。

 

帰って「紀の川の自然とふれあう散策マップ」と橋本市で調べたのですが、どうも適当な情報が見当たりません。見つかったのが唯一<橋本地区かわまちづくり>でした。奇妙なネーミングなので、調べてみると、国交省の「かわまちづくり事業」として全国で展開していることがわかりました。それで画一的なものである印象をすぐに感じたのでしょうか。市民意見の反映は簡単ではないと思うのですが、あまりに画一的すぎないか、せっかくの予算執行ですので、残念な気がします。遅かりし由良之助でしょうか。

 

24号線沿いの橋本市の市街地再開発事業は長期間にわたって行われてきたようですが、最近、計画が縮小したそうです。財政難ですから、やむを得ない判断かもしれませんね。

 

さきほどのかわまちづくり事業は、再開発事業と護岸事業との総合的な計画事業のようです。詳細は見ていないのでどう総合したのかは分かりませんが。

 

橋本駅前はとても密集していて、大和街道がその中を突き抜けています。今日はさきほどの広場から大和街道に入り、道幅2m程度の道を西に向かって歩き、相賀神社まで行って、少し高台に出て再び下っていきました。

 

興味深いのはほぼ標高90m前後の位置を通っていて、おそらく橋本市内ではそれほど大きな高低差がなく、西に向かって少し下がっていくものの、結構な標高の位置に道路が作られていたことがわかります。それはなぜかといえば、紀ノ川が氾濫するとき現在の堤防内の平坦なところはほぼ水没する氾濫源であったからでしょう。

 

大和街道が成立した位置こそ、氾濫源を避けた安全な場所として、紀ノ川の歴史に学んだ先人が作り上げたのでしょう。

 

その大和街道ですが、道沿いの住宅は歴史のある建物もわずかに残っていますが、手入れが大変なようで、今後維持されるのか心配されるような状態です。道幅が2m程度しかないので、現在の交通事情からすると、生活・商売に便利とは言えないでしょうね。その意味で、駅前再開発事業を計画されたことは、出発点として理解できるところでしょう。

 

少しその計画を見ますと、<中心市街地第一地区(第2期)都市再生整備計画>で、一応、進行状態が分かります。実際、今日もその再開発でつくられた家並みを見ましたが、火伏医院など、文化財指定のある建物は見事に残されています。通りも測りませんが幅員6mくらいあり、歩道もあって、ゆったりとした感じです。そういう再開発事業で大和街道の古い家並みが復活というか新たな息吹を与えられるという点では評価されてよいのでしょう。他方で、気になるのは、<中心市街地第一地区土地区画整理事業の事業計画変更>で見るように、ひとまとまりの地区のうち、そもそも駅前のど真ん中が計画の対象から外れ、新たに、計画されていた東側地区が計画縮小で対象から外れた点です。

 

これらの密集住宅地は、今日も歩きましたが、幅1尺かせいぜい2尺程度の道が縦横に走っていて、空き家も相当あり、とても駅前の住宅地・商業地とは思えない状態です。都市計画をついで見ますと、これは<橋本マップ>でわかりますが、これによれば、再開発事業地を含め一帯はすべて容積率400%・建ぺい率80%の商業地域に指定されています。とても都市計画にマッチングしているとはいえない(別に橋本市だけでなく全国たいていこんな状態ですね)のですね。

 

ただ、残念なのは、24号線沿いの新たに建築された建物が結構、住宅利用に特化していると思われ、再開発事業の計画趣旨がどうだったのか、気になるところです。少なくとも一回が店舗2階が住居といった兼用住宅であって欲しいと思うのは私だけではないかもしれません。

 

最近は都市計画に関心を持っていなかったので、あえて橋本市のそれを見ることがなかったのですが、商業地域も24号線に沿って途中まで路線式に展開して、その他は大和街道沿いも含め容積率200%・建ぺい率60%の第一種住居地域(昔の住居地域)に指定されています。これもだいたい全国的にそういった配置をする傾向にありますから、とくに気になる話ではないですが、それにしても実態や将来の方向性とも異なる印象を拭えません。

 

そんな都市計画といった大きな話よりも、今日の歩きで目についた空き家の多さに、いま行政がどう対応しているのか、少し気になりウェブ情報を見ますと、橋本市では平成284月<橋本市空家等対策計画の策定について>ということで、対策をおこなっているようです。そういえば私の依頼人にも橋本市から照会文がきたという話を以前、資料とともに、伺ったことがあります。 

 

市内全域空家等実態調査の実施について>では平成28年度に一年間かけて実施されると言うことでしたが、調査結果はどうなったのか興味ありますね。

 

空き家問題は全国の自治体が抱えている重要な一つでしょうから、簡単に解決できる話ではないでしょうけど、目に見えるような施策と実践があれば、より住みやすい町になるでしょう。

 

空き家は空き地、耕作放棄地、荒廃する森林と同様に、悩ましい問題ですが、いずれも共通する根っこがあるように思えますし、一歩ずつ前進していくことも大事ではないでしょうか。

 

そういえば昨年、20年以上いろいろな機会で教えを頂いてきた北村喜宣氏から著作『空き家問題解決のための政策法務』を頂いたものの、なかなか読む機会がないままですので、この機会に少し読もうかと思ったりしています。

他方で、国交省の縦割り行政の施策の一環みたいに、細切れに対応していてよいのか、自治体それぞれの立場で総合的な対策を講じた方がより実効性があがらないかなどとも考えています。雑念止まないきょうの散策でした。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。