たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

延命治療と終焉作法 <延命治療中止 医師葛藤 過酷な判断>などを読みながら

2018-05-31 | 医療・介護・後見

180531 延命治療と終焉作法 <延命治療中止 医師葛藤 過酷な判断>などを読みながら

 

今日も会議などで気づくともう6時半を過ぎています。今日も簡潔にまとめてみたいと思いますが、話題が少し重いので、淡々と書いてみようかと思います。

 

先日も書いたような気がするのですが(記憶がすぐ薄れてしまいます)、ある後見事件で、施設入所に際して、延命措置や水分・栄養補給についての意思確認を求める文書を説明して、ご本人に確認を求められました。私はその文書と言葉による説明では本人は理解できない、写真とか図示で説明してもらいたいというと、担当者はちゃんと用意してもってきて説明しました。ご本人もおおよそ理解できたようでした。そのうえで意思を表明しましたので、私も結果はどうあれ、ご本人の気持ちをある程度的確に示してもらえるよう配慮できたかなと思いました。

 

しかし、多くの方は、私のような意見を言われていないようですので、これまでは口頭説明だけで意思確認書が作られてきたようです。

 

上記だけでも十分ではないと思いますが、単なる口頭説明だけだと、用語の意味も理解できないままで、書面ができあがってしまいますね。

 

さて、毎日朝刊では<毎日新聞調査救急拠点、終末期の患者への延命中止7割>と報じられ、延命治療などの実態が放映されたり、身近な家族や友人でその治療を見聞きしたりして、自らの選択として選んだのかと思ったら、どうやら多くは家族の意思のようですね。ご本人は意思を表明できない状態が少なくないからでしょう。

 

延命治療中止7割の実情は<調査では、救命救急センターを備える全国288(1月末現在)の病院に対し、昨年、延命治療を途中で中止したり最初から差し控えたりした取りやめのケースについてアンケートし、113病院から回答を得た。取りやめの有無を答えた73病院のうち、「ある」と返答したのは67%に当たる49病院。「ない」は24病院だが、うち10病院が取りやめを検討していた。残る40病院は「微妙な問題」などと回答を控えた。>とのことです。

 

そのような判断理由としては、<「患者や家族の希望」が89%で最も多かった。「家族への負担考慮」は34%。>興味深いのは、<意思確認の方法(同)は「患者の家族が決定」と「家族が推定した患者の意思」が8割に上ったが、「本人から確認」は2割にとどまった。>ということです。

 

その意味で、事前に本人の意思を確認することを積極的に進めることが各施設ですすめられているのでしょう。

 

では延命治療の中止などを表明された場合の医師はどう対応するか、そこが<クローズアップ2018延命治療中止 医師葛藤 過酷な判断>として悩める医師の姿を示しています。

 

<全国最多の年間1万3000人超の救急搬送者を受け入れる湘南鎌倉総合病院(神奈川県鎌倉市)の救命救急センター。1日40台近い救急車が滑り込み、待ち受ける医師は死と隣り合わせの患者の治療に追われる。6割以上が高齢者だ。>だいぶ以前ですが、ここの病院長や副院長にはいろいろとお世話になりました。でも全国最多とは知りませんでしたね。

 

いくつかの延命治療中止を望む例を示しつつ、<家族が経済的な思惑を優先しすぎていないかも見極める必要がある。この救急医は「終末期の意思確認に関する教育なんて受けていないのに、『現場で判断しろ』と言われる。葛藤の連続だ」と悩む。>と医師の苦境を取り上げています。

 

また、<治療の取りやめも決断し、「みとり」も担うようになった救急医。誰にも最期が訪れるからこそ訴える。「自分は、家族は、どう生きたいのか。全ての人に考えてほしい」>という訴えは、いまからでもすべての人が考えて欲しいということだと思います。

 

世の中は、健康長寿や若返りとか、若く見えるとかいった宣伝文句だけが氾濫しているようで、それはそれで前向きというか、明るくていいかもしれませんが、いつ私たちは死を迎えてもおかしくないと考えることも大事ではないかと思うのです。

 

少なくとも鎌倉仏教が勃興した頃は、まさに死は日々直面する現実だったのだと思います。そこまでリアルに考えなくても、なにがあってもよい心構えは、心の健康としても、家族のことを思うにしても、必要なことではないでしょうか。

 

私がこのブログを書いている一つの理由はエンディングノートであることは以前も書きましたが、死から逃れないのですから、そのときの対処法、作法というものも常々考えていてもいいというか、考えておくものと思っています。逆に財産処分といった現代版遺言などはたいした問題ではないと思うのです。

 

厚労省もようやく四角四面から、実態に即した指針に改訂するようです。

 

<厚生労働省が2007年に策定した終末期医療の指針は、医療側を「規制」する意味合いが強かった。延命治療の取りやめは患者本人の決定が基本だとし、医師や看護師など多職種によるチームで判断することを柱としていた。>と医療側で決定することに重きを置いていたのでしょう。

 

尊厳死協会が長年訴えてきたことが、その会員数の伸びもあって、世の中に次第に自然な死を迎える意識が受け入れられてきたのではないかと思うのです。

 

<患者にとって「尊厳ある最期」をいかに迎えるかという観点で終末期医療のあり方が議論されるようになった。>

 

また、<厚労省の17年度の調査では、心臓や呼吸が止まった場合に、心臓マッサージや人工呼吸器などを望まない国民は7割に上っており、各医学会は既に独自の指針を策定している。終末期には延命治療が必ずしも患者のためにならないとの考え方があるからだ。>というのです。

 

今回の改訂は、みんなで何度も話し合いをしようという、結論の出ない話ですが、現段階ではそれでいいのではと思うのです。その中で、各施設で独自の指針を用意し、患者・家族との話し合いにより、その意思を明確にするようにしていくことが大事かなと思うのです。

 

<厚労省が3月末に指針を改定し、患者と家族、医師らに繰り返し話し合うよう求めたのは、延命治療の取りやめの判断はそれぞれにとって重いためだ。新指針では、話し合いの結果を文書に残す必要性も強調した。4月に改定された診療報酬は、みとりなどの報酬算定要件に「指針を踏まえた対応」を追加し、医療機関に取り組みを促してもいる。>

 

なによりもそれぞれの治療内容・その後のケアの大変さを知ることも大事ではないかと思うのです。それを事前によく知った上で、どのようにすべきか、個々人が前もって意思を家族と話し合い、また医療側とも理解し合うことが重要でしょう。

 

参考までにある施設(芳珠記念病院)の書式を引用します。この内容は結構わかりやすいと思います。こういう書式を各施設で工夫してより理解できるようにすることが大事かなと思うのです。

 

書式例

1.水分・栄養補給の方法についての説明書

2.延命治療に関する説明書

3.意思確認書  (人工呼吸などの延命治療について)

4.意思確認書  (水分・栄養補給の方法について)

 

わたしは基本、医療に頼らず、自らの終焉を自らの作法で行いたいと希望しています。誰かのように他に頼ったりするのではない、自然な終焉です。それはそれぞれが崇高な気持ちで選ぶことだと思います。

 

30分を過ぎてしまいました。今日はこれにておしまい。また明日。


プラスチックの行き先 <マイクロプラスチック “見えない”汚染の実態>を垣間見て

2018-05-30 | 廃棄物の考え方

180530 プラスチックの行き先 <マイクロプラスチック “見えない”汚染の実態>を垣間見て

 

今日はなにかと忙しく、いつの間にか依頼人との電話が終わったら7時を過ぎていました。これからブログを書くのは少し頭が痛いですが、30分程度で仕上げたいと思います。

 

話題は新聞を見てもとくに興味をそそるものがなかったので、先日ちらっと見たマイクロプラスチックによる海洋汚染の放送から、少し考えてみたいと思います。

 

マイクロプラスチックという用語はいつ頃から使われるようになったのでしょうか。放送はどんな番組だったかとネットを見たら、<クローズアップ現代+ マイクロプラスチック “見えない”汚染の実態>というのがありましたが、この番組自体は15年放送ですので、再放送をみたのか、これと異なるものだったか、たしかニュース番組で少し取り上げられた程度であったような記憶です。ただ、このウェブサイトは割と情報があるので参考になります。

 

ところで、私がプラスチックによる海洋緒性に注目したのは90年代初頭だったと想います。その後ナホトカ号事件を調査していく中で、石油流出汚染がもたらす被害の累積影響が生態系に与える影響が甚大であることを多くの関係者からのヒアリングで徐々に身にしみて感じるようになりました。プラスチックも石油精製品ですが、石油自体が問題ですね。

 

その調査の延長で、アラスカ・バルディーズ湾まで飛んでいって、エクソンバルディーズ号油流出事件の顛末を地元で住民などからヒアリングしたり、現場を訪れたりしたのですから、物好きと言えば物好きでした。

 

その調査の中で知り合った佐和和子氏も、高田馬場にある海洋工学研究所を訪ねていろいろ助言を得たり、彼女も来てもらって情報交換したのはもう20年以上前でしたか。佐和氏とはそれ以来、生態系豊かな各地の写真を掲載したカレンダーをいただいていますが、とくに編集された『プラスチックの海』という書籍はこの分野の先駆的な作品ではないかと想います。当時は、プラスチック粒子といういい方をしていたかと思います。

 

小笠原諸島父島に打ち上げられたプラスチック片を整理して撮影した写真なども、20年以上前でしたが、問題の深刻さをよく訴えていました。

 

広がる海のプラスチック汚染という章では、漂流物としてのプラスチック、プラスチック粒子を取り込む海鳥、ウミガメ、海のほ乳類やミズウオなどがとりあげられています。

 

私と同期の海渡雄一さんも、海の法律というテーマで関係する内外の法規の概要をまとめています。いまは原発問題でとても時間がないでしょうけど。

 

ところで、なぜ20年以上前の本を取り上げたかというと、問題の本質がほとんど変わっていないことを改めて指摘したかったからです。

 

プラスチックは非常に便利で多様に製品化したり、工業部品など多面的に使われてきました。しかし、その後始末が簡単ではないのに、まるでリサイクルでクローズドシステムであるかのような法制度の整備で対応できているかのような傾向を感じるのです。

 

容器包装リサイクル法といったものが一定程度、プラスチックの一部について生活部門で一定のリサイクル効果があることは私も否定しません。それは大きな前進でしょう。しかし、それが適切にさらにクローズドにリサイクルできている状況をつくれているかは疑問です。単に圧縮して埋立処分する状況が変わっていないのではないでしょうか。

 

昔、私の同期の一人が国会議員で、彼を訪ねるとプラスチック製の背広を着て、リサイクル社会に貢献している前向きの姿勢を見せていましたが、最近よくTVにも映っていますが、別の背広を着ているようで、貫禄も出たようです。ま、国会議員も長くやっていて役職にも就けば、プラスチック製の背広はなかなか似合わないかもしれませんね。相当の哲学というか意志が高くないとだめでしょう。話は違いますが、安倍首相や麻生財務相の背広は、別格です。生地も仕立ても、英国紳士に負けない立派なものですね。

 

で、リサイクル製品は、残念ながらなかなか市場性を勝ち得ず、結局、廃棄物として処分されるのが大半ではないでしょうか。それでも排気部処理が適切に行われていればまだいいのですが、豊島事件をはじめ、不法投棄は各地で蔓延しています。

 

私が30年前にボルネオを訪れたとき、そこにもプラスチックボトルなどがすでに先住民の世界に入っていました。陸の孤島で、ボートでしか行けないようなところでもです。そしてその集落のはずれにはプラスチックのゴミが無残に捨てられていました。彼らにはプラスチック製品を購入し使うことはできても、その廃棄処理については一切教わっていないし、行政もそこまで及んでいませんので、少なくとも河の汚染は先住民の世界でひろがっていました。

 

他方で、先進国・AIなど最先端の技術を駆使できる都市住民は、ほんとうにプラスチックの使用後の廃棄について理解しているでしょうか。スーパーではいくらでも包装袋として渡されます。それはどこにいくのでしょう。マイクロプラスチックになる前に、いくらでも発生抑制する手法があるにもかかわらず、私たちは等閑視し、あるいは必要な手段を講じないで、先住民の世界と大きな違いがない!状態で、生活を送っていることを改めて感じてしまいます。

 

容器包装リサイクルとして分別排出すればそれでよい、というのも一つかもしれません。少なくとも的確に出している限りは生活者としては一応セーフと言いたいですね。でも、その後の収集、中継、処理までの過程についてしっかり配慮して、社会の仕組みがこれでよいのかを考えることこそ、社会人として求められる知見、意識ではないかと、このマイクロプラスチック問題を見ながら、そして数十年かけて意識しつつ、自らも有効な手立てをとれていないふがいなさを感じながら、今日は筆を置きます。ちょうど30分でした。

 

また明日。


リーダーとしての資質・識見・品格 <森友学園、加計学園問題 首相、説得力欠く>を読みながら

2018-05-29 | 国・自治体のトップ 組織のあり方 民主主義とは

180529 リーダーとしての資質・識見・品格 <森友学園、加計学園問題 首相、説得力欠く>を読みながら

 

毎日朝刊余録では<明治の末に「円形デッドボール」という球技が…>という書き出しで、当時すでに流行になったドッジボールの意味合いを踏まえながら、モリカケ問題での安倍首相の対応をダブらせています。

 

たしかにドッチボールは私が小学生の頃も人気がありましたし、いまでも人気があるようです。投げたボールに当てられないよう、身をかわしたり、それを予想して玉突きではないですが、反対方向の仲間に投げて相手の背後から狙うなど、いろいろ子供ながら戦術を考えるのも楽しいかったように思います。

 

ところが余録によると<「ドッジ=dodge」は「身をかわす」「避ける」という意味である。むろん球だけではなく、質問や責任追及を巧みにすり抜ける意味でも用いられる。>とのことで、それがモリカケ問題における安倍首相の答弁ということのようです。いや、その前々段階といって良い、<記録文書の改ざん・隠蔽(いんぺい)、説明の食い違い>といった官僚の対応も含まれるのでしょう。

 

しかし、それは<質問や責任追及を巧みにすり抜ける意味>といった「巧み」さが見られるのでしょうかね。

 

<愛媛県文書の首相と加計学園理事長の面会情報が自分らの捏造(ねつぞう)だという学園側発表>について<こんな重大な“背信”にも、首相は「コメントのしようがない」と怒る様子もない。>としつつ<かわし上手にもほどがある>と評しています。これはかわし上手といえるのでしょうか。横綱の品格が問われる白鵬ですが、それ以上に総理の品格を疑わざるをえず、日本国の総理として恥ずかしい限りです。

 

<首相を球から守るために犠牲になったのは役人の規律や矜(きょう)持(じ)、公文書への信用、行政への国民の信頼だった>し、<民主主義の統治の中枢を改ざん、隠蔽、見えすいたウソまみれにした政治指導者の責任である。>という点は正鵠を射ています。それはドッジボールでうまく身をかわしたり、質問から巧みにすり抜けることととは違うレベルではないかと思うのです。「ドッジ」ボールに失礼です。

 

愛媛文書について、「伝聞の伝聞」として信憑性も疑義を呈すること自体は、一般論として許容されるでしょう。しかし、ことは加計学園の担当者が獣医学部の新設をめぐって愛媛県・今治市の担当者に首相と加計氏が面談して話し合ったことなどを説明したことを認めつつ、それが虚偽だったというのですから、それだけで2重の意味で問題でしょう。

 

少なくとも盟友ともいうべき加計氏が経営する加計学園担当者が首相の名前を無断で使って学部新設を有利に進めることをやったということです。その意味では、その後の県市を同行して柳瀬首相秘書官などと会談や資料提供した一連の流れも、虚偽説明による誤導と言われてもやむを得ないのではないでしょうか。

 

しかも虚偽説明であるにもかかわらず、担当者の責任が問われたか明らかでありません。担当者が勝手に首相の名前を持ちだし、それを責任者の加計氏に報告もしないという組織であれば、加計学園自体、極めていい加減な組織と非難されても仕方がないのではないでしょうか。

 

実態は野党が追及するように、安倍首相と加計氏が、日大アメフト部前監督のように背後で指示したか、コーチのように直接指示したかで、実際に柳瀬首相秘書官や加計学園担当者が実働部隊で動いたのかもしれませんが、今のところ明白な証拠は出ていないようです。今後野党のこれまでのような追求(ほとんど見ていないので、ほんとはコメントできませんが)ではこれ以上、事実が明らかになるのかわかりませんね。

 

毎日記事<クローズアップ2018集中審議 森友学園、加計学園問題 首相、説得力欠く>では、国会議論を整理しながら、次のような指摘をしています。

 

<28日の衆参予算委員会で安倍晋三首相は、愛媛県文書に記載された学校法人「加計学園」の加計孝太郎理事長との面会を改めて否定し、「森友学園」への国有地売却問題でも自身や妻昭恵氏の関与はなかったと強調した。「新事実はない」と強調して幕引きを図りたい首相だが、矛盾点を指摘する野党の追及は続き、疑惑の払拭(ふっしょく)には至っていない。>

 

加計学園が虚偽説明を認めたことから、県文書の正確性が裏付けられたことになりますね。そのことから<県文書には、学園側の説明として「2月25日の面会を受け、柳瀬(唯夫)首相秘書官から資料提出の指示あり」との記載や、面会時に学園側が首相に提供した資料を基に文部科学省がアンケートを実施したと読める部分もある。学園側は面会を前提にしたうその情報を県や愛媛県今治市に提供し続けていたことになる。>加計学園と県・市の動きとして、柳瀬首相秘書官や文科省の動きには、県文書に残した正しい説明内容が虚偽だったとするとはたして整合性があるか疑念は残るでしょう。

 

<今治市は獣医学部の校舎建設費(約192億円)の半額までの補助を決め、県もうち31億円を負担する。>このことを福山氏は<政府をだまして事業をやろうとした犯罪的行為に等しい>と糾弾していますが、これは論理の飛躍があるのではと思います。ただ、市・県が巨額の補助を決めた経緯を詳細に検討して、上記の誤導がどう働いたかによっては、福山氏の指摘が妥当する余地もあるかと思います。

 

他方で、福山氏の糾弾に対して<首相は「透明なルールにのっとって特区の民間議員が判断した。特区の認可と私が加計氏と会ったことは関係ない」と切り返した。>のだとしたら、質問の内容をすり替えて答弁しており、首相の説明責任を果たしたとは到底いえないでしょう。ま、福山氏の質問があまりに大上段に構えすぎて、安倍首相に適当な逃げ道を作ってあげたのかもしれないというのは少しきついでしょうか。

 

このブログを書き終えようとまとめをかく段階で、相手方弁護士から電話があり、40分近くさまざまな協議をしたため、何を書こうとしていたのか、はっきりしなくなり、福山氏のような怒りから発する問題提起とは異なりますが、この内容の結末もあいまいになったまま、終わりとします。

 

また明日。


国内最悪の河川? <古川 「国内最悪水質」“汚水返上”へ県町始動>を読みながら

2018-05-28 | 農林業のあり方

180528 国内最悪の河川? <古川 「国内最悪水質」“汚水返上”へ県町始動>を読みながら

 

和歌山は農産物が豊かです。北部の紀ノ川沿いは柿やモモなどさまざまな果物が盛んです。中部の有田だとみかんでしょうか。そして南部はというとやはり梅が有名ですね。自然豊かな田園風景を思い浮かべてしまいます。

 

ところが、まるで都市河川の代名詞のような汚い川として、日本最悪の河川がみなべ町の古川だと聞いて、驚きました。

 

毎日記事の27日版では<古川「国内最悪水質」“汚水返上”へ県町始動 「排水は下水道」近隣業者に要請 みなべ /和歌山>とその内容を紹介しています。

 

<環境省が全国の主要河川を対象に行った調査では、水質汚濁を示す生物化学的酸素要求量(BOD)の年間平均値は、古川が1リットルあたり23ミリグラムで、環境基準値(3ミリグラム)の8倍近く。ワースト2位だった茨城県の早戸川(6・8ミリグラム)と比べても汚染が際立っていた。>いずれも20年前だと話題にも上らなかった河川名でしょうね。

 

古川自体、とっても小さな河川で、航空写真を見ても小水路といった感じです。記事では

<古川は同町晩稲から同町山内までの約4・5キロを流れる2級河川。南部湾に注ぎ込む直前で、町内を並行して流れている南部川とつながる。 ・・・

 古川は主な源流が池で、水量が元々少なく、汚濁しやすい。さらに川沿いには、梅加工などの工場から洗浄水が川に流れ込んでいる。>

 

たしかに源流がため池ですが、小規模なものです。そこから流れる水路も幅2mくらいでしょうか、ほぼ同じ幅で下流の南部川までの合流点まで流れています。人工水路でしょうね。

 

水量が少ないと汚濁しやすいというのは、一応納得できるようで、それだけでは汚濁しやすいことにはなりません。水路に排水される排水の水質が問題でしょう。こんな狭くて水量が少ない河川だからこと、排水の水質に心がけが働いていれば、日本最悪の水質になるはずがありません。Google Earthで水源から合流点まで辿ると、なかなか感じの良い田園風景です。これがイギリスなどの田園風景だともっとゆったりとした河川が蛇行しながら流れていて、川幅もゆったりしててすてきですが、この古川は肩身が狭いくらい窮屈に、しかも直線的に、いわば排水路的に敷設されているかのような作り方です。ただ、コンクリートの三面貼りではなく、土で盛ったような土手も随所にみられ、生態系に気を配ればすてきな小川になれるような河川にも見えます。

 

この最悪の水質汚濁に対処する方策として、<県と町が対策に乗り出した。流れる水量を増やしているほか、汚染の要因とみられている工場排水を川ではなく、下水道に流すよう一帯の梅加工業者などに求めている。【山本芳博】>というのです。

 

前者は<県と町は3月から、地元水利組合の協力を得て、南部川から古川へと流れる農業用水路の水門を絶えず開放し、水量を増やしている。>きれいな水で希釈効果を計ると言うことですね。

 

後者は<町内の下水処理施設の変更により、今年度から工場排水も家庭用と同様に下水道につなぐことができるようになった。県や町は工場など小規模事業者に対し、排水を古川に直接流さず、下水道に接続して処理するよう求めている。>

 

河川の水質汚濁については、あの公害国会で成立した水質汚濁防止法、さらに各地で作られた条例で、当時とても公害の原因となったり、悪臭や汚濁で著名だった全国の河川、大和川とか、綾瀬川とかいろいろ、はかなり改善されたのでしょうか。最近の実情は私もわかっていませんが。

 

ただ、この排水規制は、一定条件を満たす特定施設からの排出を対象として、多くの小規模施設は除外されてきました。ここで登場する梅加工施設は、以前は海洋投棄が容認されていましたが、それが禁止された以降、さまざまな排水処理を検討してきたと思います。でもあまりうまくいっていないようですね。

 

たしかにみなべ町は梅加工施設が多いと思いますが、Google Earthで見る限り、古川のそばにそれほど多くが集まっているようにも見えません。梅加工の廃液を問題にしていますが、汚濁物質は検査すればだいたいは特定できるはずで、それを取り上げてもらいたいものです。

 

他方で、下水道に排水することで解決との話もどうでしょうか。下水道にも排出基準があり、一定の排水処理をしていないと、排水基準をクリアしないまま放出されることになりますね。この場合下水道だと、その排出源がわかりにくくなるので、その当たりの手当をどうするのでしょうかね。

 

少し古い技術資料ですが<梅調味廃液の処理技術の開発 化学技術部 環境技術担当 >というのがありました。

 

<梅加工排水の特徴は㏗が 3.5 以下と非常に低く、CODも 2,000 mg/L程度で通常の生活排水の十倍以上の濃度であり、 処理するには大掛かりな設備が必要です。中でも調味廃液はCODが100,000mg/L以上と特に濃厚で処理が非常に困難>とあり、梅加工排水の水質が公共水域の水質に与える影響が大きいことを示しています。

 

ここでは実験段階ですが、酵母を使って小規模化をはかっています。<調味廃液分解酵母を培養した槽(酵 母槽)を設置して、その酵母槽において5倍程度に希釈した調味廃液を2日以上曝気処理することによって 活性汚泥槽での処理負荷を低減させる>と。でもその後成功したのかどうかはわかりません。

 

どうも梅加工廃液の処理を効率的に処理する技術とかの情報が少ないように思えます。他方ではいまはやりの発電とか、別の道を探るような記事が目につきます。

 

いずれにしても排水原液を適切に処理せず、大量の水で希釈化を図るとか、下水道に排出するという手法は、抜本的な解決とはいえないでしょう。この排水処理の分野にもっと注力を傾けるべきではないでしょうか。

 

ああ、それにしてもイギリスので田園都市を流れる河の清らかなこと、またケンブリッジなどの大学の中を流れる河も水辺を楽しめる程美しいこと、私たちは河とともに生きることの重要性を再考してみたいものです。

 

ちょうど時間となりました。また明日。

 


高野・町石道を歩く <高野参詣道トレッキング 町石道>に参加して

2018-05-27 | 空海と高野山

180527 高野・町石道を歩く <高野参詣道トレッキング 町石道>に参加して

 

昨日寝るまで体調がひどい状態で、今日予定されていた上記のトレッキングには参加できないと思って早く眠りにつきました。

 

するとどうでしょう、朝目覚めると、外は上天気、体の熱もなく、ふらふら感もどこか飛んでいき、すがすがしい気分で朝を迎えました。まだ足はすこしふらついていましたがなんとかなる程度でしたので、結構を即断。

 

ただ九度山町役場に集合ということと、時間は8時頃というくらいのあいまいな記憶で、その募集記事が掲載された地元の広報誌も行かないとおもっていたので、捨ててありません。ま、現地行けばなんとかなるだろうと出発を決め込みました。

 

ただ、たしか駐車場がなく公共交通機関を利用してということでしたので、近くにある「道の駅」を思いついたものの、混雑して迷惑をかけると思い、事務所に車をおいて、そこから最寄りの南海高野線・学文路駅まで歩いて、電車に乗って九度山駅まで行くことにしました。

 

ところが、体力が落ちているというかどうしようもないほどでして、一応電車の時刻を調べた記憶があり730分すぎ?40分前といった感じで、事務所から歩きで25分くらいかかるということで、事務所に早く着かないといけなかったのですが、いろいろ用事を済ませていると、事務所に着いたのが715分すぎ、ちょっと用を済ませて出るとたしか20分ころ、10分はともかく、裁定でも15分で到着するには、田中陽希さんのように走らないといけない、ま、少しだから大丈夫だろうと走り出し途端、けいれん気味になり、呼吸はみだれ、とても走れる状態ではないのです。

 

それでも電車に間に合わないといけないと必死に歩き、少しだけ走るという繰り返しで、九度山駅にたどり着いたときに下り電車がすでにホームに、あ、間に合わないかと思いきや、単線ですので、上り電車を待っていて、滑り込みセーフでした。

 

しかし、この15分くらいですべてのエネルギーを出したためか、九度山町役場で受付して慈尊院についたときには、もうこれ以上歩けない状態でした。途中一緒に会話が弾んだ高齢者(私より6歳上)は一緒に登ろうと言ってくれたのですが、慈尊院の階段で私は座り込み、マッサージをしながら、先に行って欲しいというと、先に行って待っているよとのことでした。ところが私はここで20分くらいはマッサージしていたのでしょうか、その後彼には追いつかないままでした。

 

町石道は<ウィキペディア>によると、<高野山上の壇上伽藍・根本大塔を起点として慈尊院までの約22キロメートルの道中に180基、大塔から高野山奥の院・弘法大師御廟まで約4キロメートルの道中に36基の、合計216基の町石が置かれてい>るので、長い道のりですが、私の(若い頃の)歩くスピードであれば、容易に追いつくと思ったのですが、途中、結構若い人はもちろんのこと、高齢者、とくに女性には抜かれることがたびたびでした。

 

矢立が第一のゴールでしたが、ここは九度山からの曲がりくねって走る国道370号線と、かつらぎ町から(というかバイパスから)バス道としてほぼ一直線様な国道480号線が合流する地点でした。私はこの地点でギブアップの状態でした。ここの受付の前ではおのおのが軽い昼食をしていて、私は予定を考えず壇上伽藍で昼食を考えていたので、事務所にあった小さなパン3個しかありませんで、ともかく少し腹の足しにしました。そのとき私の隣に座った方は10歳以上年上で、とても元気そうでしたが、これまで10回くらい参加しているが、今回はここでリタイアするとのこと。これから先がきついから、私にも初めての参加ならリタイアしたらいいよといいながら、チョコレート2個を分けてくれました。

 

彼は結局、そこでリタイアしたのですが、私は逆に、チョコ2個で元気が出て、頑張ってみようと思ってしまったのです。しかし、それからは、まさにその助言が至言ということを嫌と言うほど思い知らされました。

 

そこから歩き出した途端、足がつり気味でなかなか前に進まないのです。しばらく様子見でゆっくり歩いていたのですが、次第に調子が出て、途中までは順調に歩行を進め、前の人を追い抜く状態になりました。ところが次第にきつくなり、疲れて休んでいる高齢者(80代前半)と疲れの点で意気投合し、一緒に話しながら歩くことになりました。が大門手前の長い坂(最初は緩い坂、その後ジグザグの急坂)に入った途端、突然、足がつって前に進めなくなり、その方には前に行くよう進め、しばらくマッサージをして、ようやく歩くことができました。

 

そしてようやく壇上伽藍の前でゴールの受付をすることができたのですが、30分以上立ち上がれず、むろん歩くこともできない状態になりました。スタッフの人は温泉?風呂に入れるからどうぞと言われたのですが、立ち上がれないのですから、すぐそばの風呂といわれても、ただそこで横になるしかありませんでした。

 

すると、男性も女性も、次々とゴールの受付にやってきて、相当の高齢者から小学生まで、皆さん、しっかり歩いているのです。これは参ったと思いました。私の体力のひどさは相当なものと情けない思いでした。ま、それでひるまないところが私なのですが・・・

 

ところで、私が町石道を歩く上でいくつか関心を持って、観察していました。世界遺産としての環境整備・保全がどの程度できているかという点です。その意味では、沢筋の谷町系では道の法敷が崩れたのでしょう、しっかりした蛇籠が丁寧に段積みされていました。また別の場所では丸太積みをしているところもありました。沢を渡る木橋なども、相当痛んでいましたが、すべてを取り替えるといよりは、応急処置と言うことで、穴が開いた床を残しながら、手すり部分はかなりしっかりと取り替えていました。

 

他方で、道の維持には、排水処理が肝要で、たしかに道を横断する溝は多く設置され、しかも石組みや木工もあり、一般の登山道や自然公園よりはましかなとおもいました。ただ、相当数は、枝葉でほぼ詰まっていて、これだと大雨の時の排水が適切になされないことをしめしています。これは残念でした。

 

また、これは場所を必ずしも特定できるわけではないですが、おおよそ範囲を絞れますが、いくつかの町石道沿いの杉木立は、丁寧に間伐されていましたが、他方で、あまり間伐がされていない、せいぜい切り捨て間伐あるいは治山間伐程度が施行されているにすぎないところも少なくなかったと思います。

 

町石道の世界遺産的価値の重要な構成要素は、216基の町石でしょうけど、それだけで十分かと思うのです。ほとんど手入れができていないスギ林があったりすると、残念な思いになります。また、眺望の点でも、町石道の周辺は丁寧な間伐、枝打ちがされていて、とても見通しがいいのですが、その奥(下方)になるとほとんどされておらず、見通しがきかないところもあります。

 

いや、町石道は、あくまで町石が基本であり、周辺景観まで考慮しなくて良い、あるいはそこまで面倒見えないよという声が聞こえそうですが、道を歩くことの意味を考えてもらいたいと思うのです。世界遺産登録されるような道は、いずれもその周辺景観が評価されていると思います。

 

で、長々と書いてきましたが、これから私がこのテーマを取り上げた意図を書きます。

 

私は、この道を歩いてほぼノックアウトされましたが、それでも言いたいのは、これは空海が上り下りしたような道ではないと感じたのです。はっきり言って、ほぼ平坦で、勾配も優しく、最後の坂が少しきつい程度ですが、これが空海が修行道場としての高野に通ずる道として往還したとは到底思えないのです。

 

九度山(慈尊院)のいわれについてここではウィキペディアを参照しますが、古い文献でも同様の指摘がされています。

 

<高齢となった空海の母・阿刀氏(伝承では玉依御前)は、讃岐国多度郡(現:香川県善通寺市)から息子の空海が開いた高野山を一目見ようとやって来たが、当時高野山内は7里四方が女人禁制となっていたため、麓にあるこの政所に滞在し、本尊の弥勒菩薩を篤く信仰していた。空海はひと月に9度(正確に9度というわけではなく、それだけ頻繁にということの例えだと言われている)は必ず20kmに及ぶ山道(高野山町石道)を下って政所の母を訪ねてきたので、この辺りに「九度山」という地名が付けられた。>

 

この時期は判然としませんが、空海が高野山に定住したのは最晩年で、重い病気を抱えていた頃ではないかと思います。その空海の体調を気遣って、このような優しい道を作ったのでしょうか。私の勝手な見方として、空海の思想には合わないと思うのです。このような優しい道を作ることは。それでは女人禁制を守るため、女人のために作ったのでしょうか。空海が生きていた頃、それほど女人が訪れたとは考えにくいのです。

 

では空海が壇上伽藍を建設するため、物資運搬のために作ったのでしょうか。それには堀割などではせいぜい幅が90cm未満のところが随所にあり、疑問を感じます。

 

これだけの道作りは相当な資本・人手が必要です。空海にはそのような余裕がなかったはずです。天皇からの支援をも断ったとも伝えられており、かなり経済的には厳しかったと思います。

 

では誰が何のため。ま、私の独断と偏見ですが、摂関家として最初に高野山詣でをしたのは、飛ぶ鳥を落とす強大な権力者、藤原道長ですね。この親子が高野山に多大な経済的支援を行ったとされていますが、彼らが参拝するとき、道があったでしょうか。あの平坦で優しい道は、平安貴族のあまり歩いた経験のない男女を連れて参拝するのであれば、ちょうどいい具合なのではと思うのです。ま、私の体力も、平安貴族の体力とたいして変わらないほど貧弱であったことで、そういう着想になったのです(経済力はむろん比較の対象ではないですが)。

 

そんなところ約1時間、ひとつの仮説を提供しました。九度山町民はなんて言うでしょうかしら。九度山の九度は竈といった見方もあったと思います。以前読んだ本ですが、私はなぜか惹かれます。

 

今日はこれにておしまい。また明日。