たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

僧侶も模索する <生老病死、四苦に立ち向かう~僧侶・高橋卓志>を見ながら

2019-01-31 | 宗教とは 神社・寺・教会 信仰

190131 僧侶も模索する <生老病死、四苦に立ち向かう~僧侶・高橋卓志>を見ながら

 

今日は終日雨模様。しかもかなり強い雨の中、和歌山まで往復しました。ちょっと車の具合が悪かったので、とくに帰りは慎重に運転しました。

 

昔カナダ滞在中、友人の教授が訪ねてきたので、カルガリーから250km離れたところにある自然保全委員会に案内して既知の委員長との会談をセッティングし、そのドライブ途中で天候が急変して、前も見えないほどアラレだったか雨だったか襲ってきて、道路上で立ち往生したことを思い出しました。友人2人は恐怖を感じていたようでしたが、私も案内した手前、落ち着いたふりをしながらどうなることやらと不安を覚えたのを思い出しました。

 

時折フラッシュバックのように、過去の一瞬が思い出されることがあります。人の一生は長いようで短く、短いようで長いかもしれません。家康のように重い荷を背負っていくのが人生とまでは思いませんが、なかなか厄介なようで、気楽でもあるようで、不思議なものかもしれません。そんな人の一生、とくに死後にかかわる仕事のプロと言えば僧侶ですね。

 

NHKの<プロフェッショナル 仕事の流儀>番組は時折見ていますが、昨夜録画していた<生老病死、四苦に立ち向かう~僧侶・高橋卓志>を見ました。現代は葬送のあり方もいろいろで、檀家離れ、葬儀離れ、墓離れなどなど、お寺、住職にとっては大変な状況かもしれません。他方で、葬儀業者というのでしょうか、どんどん進化して昨日ブログで書いたエンバーミングもしっかり取り入れたり、故人の生き様などを遺族からしっかり聞き取り、告別式・葬儀のプロローグとして演出に入れ込むくらいは普通のようです。僧侶は葬儀業者を通じて派遣されるプロ?という役割を担っていることも少しずつ普及していますね。僧侶もなかなか大変な時代となっているようです。

 

そんなときNHK番組は、僧侶高橋卓志氏の僧侶として、人としての仕事の流儀を披露してくれました。これは一見の価値がありました。

 

高橋氏のお寺では檀家が700軒というのですから、最近の減少傾向に反する多さです。では高橋氏の人気はどこから生まれるのか。番組はいくつかの家族の死への旅立ちに高橋氏がどうかかわるかを密着取材で、紹介しています。私の記憶でそのいくつかを取り上げたいと思います。

 

高橋氏はお経を上げるのが僧侶の仕事と固執していません。彼は葬儀というものを死者の旅立ちであるとともに、残された遺族への死者の思いと遺族の新たな旅立ちの契機となる舞台を提供するものといったとらえ方をしているように思いました。

 

そのために、高橋氏は、遺族、とくに喪主となる人から丁寧に時間をかけて、故人の生き様、それに対する遺族の思い、残念に思っていることなど、必要な情報を聞き取ります。そして葬儀の前日深夜まで、原稿を校正しながら、写真などビジュアルデータを合成して、自らスライドデータを作り上げるのです。つまり手作りの葬儀シナリオであり映像なのです。

 

それだけではありません。葬儀の式場全体を自分が故人や遺族のことを考えて設定するのです。それは業者に依頼すると費用がかかることをも考慮するだけでなく、故人・遺族に寄り添うスタイルを貫こうとするのです。

 

それはある意味、葬儀のマニュアル化、儀式化したものに対する、仏教徒としての思いもあるのでしょうか。

 

高橋氏自身、元々は寺の跡取りとして、いやいや仏教大学を出て、小さいころから父である住職について葬儀に連れられていた延長上に、自分の僧侶、住職としての仕事も型どおりに行い、ある種心のないお経を読み続けていたようです。彼の転機は第二次大戦の遺骨収集団の一員として参加したときに経験した遺族の取り乱しにお経を読めなかった自分に渇を入れられたことでした。

 

それから初めて本気で、生老病死の四苦に立ち向かう必要を感じ、その一つである死を弔う、葬儀の場で、故人・遺族・会葬者が納得できるような死の苦に直接対応する心構えになったようです。

 

ですので高橋氏の取り組みは、死者や遺族に対することにとどまりません。生きる苦しみ、病気や老齢の苦しみにも目を閉ざさず、取り組んできたのです。たとえばNPOバンクを立ち上げ、社会のために事業をしたいが資金の乏しい団体に貸付をするのです。あるいは末期がんでしたか、病気で苦しむ高齢者に付添い、ユマニチュードのようにその人に触れながら笑顔で語りかけるなど、病苦や高齢に苦しむ人に寄り添うのです。

 

たしかデイケアセンターとか、配食サービスとかの事業もやっているとか・・・?いろいろな事業を展開しているとのこと。

 

僧侶は決して葬儀や法要を行う人と行った偏った見方はしていません。私自身、道昭、行基といった本来の仏教徒が、生きる人のために、薬の処方、橋の建設、困窮者への救済など、多様な慈悲的活動を行うことこそ、本来の行いではないかと思うことがあります。その中に法要も含まれるでしょうけど。

 

で高橋氏は、寺の新しいあり方も追求して、その持続性を考え、副住職にその地位を継承したのです。この場合お子さんではなさそうな感じでした。その寺の業務を継ぐのに適切な人格、能力を持った人が適切ではないでしょうか。住職の地位は相続されるといった見方もあるようですが、本来仏教はそのような教えではないですね。妻帯自体禁止でしたからね、すい最近、明治維新くらいまで・・・親鸞みたいな人は一応、例外中の例外だったはずですね。

 

最期に、高橋氏は、住職の地位を退いた後、仏教国、タイに渡り、新たに仏教というものを勉強しているそうです。今後の高橋氏の動向を注視し、期待したいと思います。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。


命の後を考えてみる <「別れ」支える修復技術 遺体と向き合うエンバーマー>などを読みながら

2019-01-30 | 人の生と死、生き方

190130 命の後を考えてみる <「別れ」支える修復技術 遺体と向き合うエンバーマー>などを読みながら

 

今朝の毎日記事はいろいろ興味がそそる記事がありましたが、結局選んだのが<いのちのほとりで/10 「別れ」支える修復技術 遺体と向き合うエンバーマー>というところが私らしい選択かなと思うのです。

 

本題に入る前に一言触れますと、やはりサッカーアジア杯のイラン戦です。残念ながら試合日時間を失念して寝てしまい、その後ニュースで勝ったことは分かっていますが、ビデオなどゴールシーンを含め相当なつばぜり合い、すべて見るチャンスを失しました。たしかに結果は30ですから一見圧倒しているように見えますが、イラン監督が指摘するちょっとしたミスが招いた結果で、それまでの接戦状況を見たかったと思うのですが、後の祭りですね。大迫選手が入ることにより、どのような変化があったか、それまでの試合がとても緩慢なプレーのように見える状態がどう変わったのか興味深いのですが、とこの試合に関する記事を見るたび思うのです。

 

さて本論に入ります。上記記事は、エンバーマーと呼ばれる「遺体衛生保全師」の処置内容を割合リアルに取り上げていて、とても興味深いものでした。以前少し紹介した曹洞宗僧侶でもある枡野俊明著『あなたのお墓は誰が守るのか』では、墓は誰が守るのかとか、死に支度を調えるとか、「心のエンディングノート」を書き残すとかに言及する大事な内容の他、「生と死を見つめる禅のことば」の紹介もあり、参考になります。

 

僧侶らしい死に向かう当人におくる言葉かなと思いつつ、では命が尽きた後は戒名とか、墓とか、供養とか、いわゆる従来の仏教の世界で終わっているのが少し残念に思っています。

 

すでに納棺夫という仕事というかその遺体処理は、映画「おくりびと」で相当に人口に膾炙しているかと思います。私自身、「おくりびと」を通じて遺体処理の神聖さを感じ取り、遺族なり関係者への配慮として一つの選択かなとも思ったりしたところですが、では仏教徒なり、宗教者の立場ではどう考えているのか知りたいところでしたが、取り上げていません。

 

仏教会は、そういえば明治維新で廃仏毀釈を(いやいやながらも)受忍しながら、火葬禁止令については強い反対をして、2年後に廃止に追いやっています。火葬にはこだわっていたのですね。元々700年に行基の先輩?道昭が最初に行ったのが日本初ともいわれていますね。仏教の世界では火葬は当然ですが、わが国ではその後広まっていませんでした。

 

毎日記事でも<ほぼ100%火葬される日本では、葬儀が行われるまでの、数日のための処置であることが多い。>というのですが、?と思うのです。本題と関係しませんが、いま話題の統計では、たとえば<衛生行政報告例>の平成91月から3月の埋火葬率では全国的にはそれなりの埋葬率を維持しています。

 

私も四半世紀以上前調べたことがあり記憶があいまいですが、戦後初期くらいまで埋葬は地方ではかなりの割合であったと思います。大正末期の<火葬と土葬の比率(1925年・大正14年)>が簡単に見つかったので取り上げますが、だい都市圏と真宗信仰の強い石川、富山、新潟3県を除き、50%未満どころかなかに数%の火葬率というくらいで、地方では火葬は長い間不人気だったのです。

 

だいたい墓地埋葬法は5条で「埋葬、火葬又は改葬を行おうとする者は、厚生労働省令で定めるところにより、市町村長(特別区の区長を含む。以下同じ。)の許可を受けなければならない。」と規定していて、両者に優劣をつけていません。むろん埋葬禁止なんていっていません。ただ、条例等で禁止地域を定めていることが多いかと思います。法律は埋葬も火葬も平等に扱ってきたのですね。

 

また余分の話に飛んでしまいました。変なところにこだわっているようです。

 

遺体修復という面では、私が体験したのは中国上海市が案内してくれた火葬場での中国人の見事なほどの遺体の美しい措置というのか、これはびっくりでした。中国というか上海では、自然体というのは気に入られないのでしょうか、まあ私の印象ではどぎつく化粧したというか、きらびやかな印象でした(まあ昔の記憶ですので半分差し引いて読んでください)。

 

参列する人、身内の人、どんちゃん騒ぎのように賑やかでした。まあ祭りのようなというといいすぎでしょうけど、明るく騒いで黄泉の世界(といっているかは知りませんが)におくることがよいとされているのでしょうか。

 

こういったことは日本ではありえないなと当時は思っていました。でも<日本遺体衛生保全協会(IFSA)によると、日本では1988年以降、一般でも実施され始めた。>そうバブル時期に始まっていたのですね。でもその心はバブル的ではなく、とても精神性の強いもののように以下の内容から感じます。

 

その遺体の修復技術を記事から見てみましょう。まずおまじないからスタートです。

<処置台に載せられた遺体を前に、エンバーマーの馬塲泰見さん(51)は必ず手を合わせる。そして、「自分のやることで誰も傷つきませんように」と心の中でつぶやく。>こういった心がけで医師・看護師も患者に対していると思うのですが、忙しすぎて心が落ち着かないのではと心配します。

 

まず<エンバーミングの目的は「防腐」「殺菌」「修復」の三つ。>であることを知っておく必要がありますね。

 

そのため防腐・殺菌措置を早急にする必要があるのでしょう。

最初に血液を採るのですね。<ステンレスの処置台の枕元に箱形の機器があり、ホースが延びている。このマシンでホルマリン系の薬液を動脈から注入し、血液を排出する。><それから胸部や腹部の残留物を吸引していく。>

 

<遺体は時間の経過とともに腐敗が進み、感染症などのリスクも高まる。その処置をしながら、傷んだ部位を整えていく。>

 

傷んだ部位だけでなく汚れたりしたところをきれいな形に調えるというのもあるのでしょうね。

<処置台の近くの小さな台には「七つ道具」が整然と並べてあった。大きさも形状も違うハサミやピンセット。「トローカー」は先がとがった長い筒状の吸引器具。S字にカーブした大小の縫合用針で、開いたままの口を縫いつける。そのほか、歯ブラシ、ひげそり、爪やすりも。口の中は細菌だらけだから、必ず歯を磨く。男性の遺体は病院でひげをそっても、保湿しないと翌日には青く腫れる。お尻の床ずれ(褥瘡(じょくそう))を放置すれば、すぐにそこから体液が漏れ出す。見えない部分の処置でも手は抜けない。>

 

血液を取った後、今度は防腐剤と色素を注入して生きているに近い外観を形成するのでしょうか、荒事が待っているようです。

<遺体の中の血液を防腐剤の薬液に入れ替えるための、全身を使った「荒事」。その作業の一方で、注入する薬液に色素を混ぜて肌の色味を変える「内側からの化粧」を施したり、歯磨きや口の縫合などの細やかな作業を同時にこなしたりする。>

 

これだけでも大変な作業ですね。機械的にやっては心が欠けますね。

その点さすがです。

<馬塲さんは処置の最中、遺体に声をかける。「お待たせしました」とか、「ここを縫っておきましょうね」とか。「対話」が必要だと思う。>むろん遺族とも。これを読んでいると、まるでユマニチュードの死後版のような印象を持ったのは飛躍すぎでしょうか。

 

おまじないの意義を記者は改めて確認するのです。

<馬塲さんが処置前に言うオマジナイの意味がわかった。「誰も傷つきませんように」は、故人と遺族、ともに不用意な処置で傷つけてはならない、その戒めの言葉だった。>

 

こういったエンバーミングについて異論があることは確かでしょう。

ただ、<「死」の意識は変容する。葬送の現場は多様性を認めて大きく変わりつつある。いまは、最後の別れの場面で「生きているような姿」を見せてほしいと考える人がいてもいい。それにかかる十数万円の費用が高いかどうかは、遺族の判断だろう。>と【滝野隆浩】記者は指摘しています。

 

他方で、遺体に向き合う関係者は<プロとして、ご遺族に何ができるのかを真剣に考えているのです」>というのも事実でしょう。

 

で命の後は、誰がどう判断するか、死者は何か言えるか、遺族の領域かをいま考えています。生前、エンディングノートでその意思を残すも一つでしょう。でもそれをどう考えるか遺族が自分で対応することかもしれません。命尽きた後何かを期待するのもどうかと思うのです。

 

他方で、命の収まり方はその人が最期にできることでしょうね。

 

今日はこんなところでおしまい。また明日。

 

 


永代供養と宗教 <本堂再興 興福寺貫首><NHKファミリーヒストリー▽伊東四朗><NHK拡大家族>などを見聞して

2019-01-29 | 宗教とは 神社・寺・教会 信仰

190129 永代供養と宗教 <本堂再興 興福寺貫首><NHKファミリーヒストリー▽伊東四朗><NHK拡大家族>などを見聞して

 

今日はうれしい発見がありました。図書館で何気なく書籍をスキャンしていたら、先般、私がまるで前方後円墳と指摘した場所が遺跡調査で古墳とされていることがわかりました。最近10年くらいは何かを見て古墳の形状を思い浮かべるくらいですから、ちょっと思い過ごしと思っていましたがばっちりでした。ただし、円墳で、方墳に匹敵する部分は別の遺跡だったようです。たしか霜山城趾だった記憶です。で、円墳はというと、上兵庫古墳ないし岡山古墳として比定されています。

 

歩く道というテーマは私の運動不足を補うために始めた思いつきのプロジェクト?ですが、私にとっては意外な発見(むろん私自身の)があり、毎回面白く取り組んでいます。この岡山古墳についてもいつか調査記録を読んでみたいと思います。なお、<遺跡ウォーカーβ 上兵庫古墳/岡山古墳>でも掲載されています。ついでにすぐ南方、紀ノ川河岸段丘の直上には、「血縄遺跡」があり、縄文時代とも言われていますが、別の文献では弥生時代のものとの調査資料もあり、いずれにしても古代の生活が偲ばれます。

 

その血縄遺跡に関係する民話があり、<隅田地方に伝わる民話>の筆頭に取り上げられています。興味深い地域です。中世・隅田党の武士団が活躍する以前、万葉時代に和歌の舞台になる以前、そして神功皇后が人物画像鏡を下賜するさらに前に、豊かな文化を彩る生活があったのかと思われるのです。

 

さて、古墳の話とは直接関係ないですが、永代供養の話を少しだけしたくなりました。こういった古墳は日本各地に膨大な数で残されていますが、その供養が永続的に今日まで続いているという話は聞いたことがありません。日本最大の仁徳天皇陵や次点の応神天皇陵(今回は通称?を使います)でもそうですね。

 

ところが、ほとんどの日本人は、宗派を問わず、むろん神道、仏教はもとより、キリスト教など異教?とされる宗教の信者も、おおむね供養という宗教行為を行っているのではないでしょうか。法要も当然ながらそれぞれの宗派、地域の慣習に従って行っているのではないかと思うのです。むろん最近は次第に簡略化される傾向にありますが、その顕著な例として永代供養があるのかもしれません。このような供養さえしないことは考えられないと思う人が普通かもしれません。

 

でもそれは宗教が要求していることでしょうか。だいたいキリスト教の信者も供養するというのですね。祈る行為は本来、イエスキリストに対してだけのはずですが、どういう祈りでしょうか。そういう意味では、仏教も釈迦・仏陀に対してさえ祈ることがどうかと思うことがありますが、あるいは宗祖くらいはと思うのですが、それが祖先崇拝ということで細かな法要ルールどおりとか、それができないから永代供養とかが最近広がっていますが、どうして供養にこだわるのでしょう。そこが私にはどうも分からないのです。

 

そういう考え方がおかしいと論難する人もいます。でも先祖崇拝というのですが、3代前くらいの先祖ですら知らない人が多いのではないでしょうか。それ以前となると、まったくどんな人かも知らないということが普通ではないでしょうか。

 

私は仕事柄、ときに4代以上前に遡る調査をしますが、その人柄までを理解できる資料に出くわすことは希です。せいぜい古文書があれば少し推測できる程度です。墓が残っている家も少ないと思います。明治維新以降、それまで個人墓か共同墓で遺体埋葬が主流だったのを、政府が家の墓制度を持ち込もうとしましたが、都市圏はともかく地方では従来通りで、火葬導入も地方では遅々として進まなかった記憶です。

 

共同墓(埋葬)だと、誰がどこにといった特定が容易でないですね。両親、祖父母まではお参りするかもしれませんが、それ以前の代だとどうでしょうか。

 

昨夜放映された<ファミリーヒストリー▽伊東四朗~思いがけず平氏と源氏 たどりついた喜劇の道>では、伊東四郎さんは祖父母になると少し知識が怪しくなり、それ以前は皆目見当がつかない印象でした。彼のことはてんぷくトリオ時代から知っていますが、あまり目立った印象がなかったのですが、役者として芸達者なイメージを持っていました。昔の同級生や仕事の同僚などの話だと、すごい記憶力だったようですね。演ずる役者の台詞をすべて覚えていたというのですから、なかなか努力家であり、芸への熱い情熱を感じます。

 

それだけの記憶がある彼も、先祖となると危ういのですね。藤原鎌足につながる伊藤という家系とか、源義経に仕える熊井なにがしという家来の血流とか、NHKもいろいろ調べるものです。きちんとした過去帳でフォローできたのかは知りませんが、飛鳥天平に遡ったり、そこまでいかなくても平安末期まで遡れば、誰もがなにかつながってくるのかもしれません。いや逆に遠くでは、などにたどり着くのかもしれません。

 

ともかく、私たちの血はたしかに連綿とアダムとイブ?からなんらかの形でつながっているのでしょう。でも先祖崇拝、血のつながりをどういう形で崇拝するのでしょう。それがいまひとつわかりません。いや分かる人、そういう秩序を大事にしようとする人は沿う会って欲しいですし、私もその理解を尊重したいと思います。しかし、そういう気持ちはひとそれぞれに委ねてはどうかと思うのです。

 

社会秩序やしきたり、慣習などで、なんらかの形で強いるものではないと思うのです。

 

興福寺中金堂の再興を祝う<そこが聞きたい300年の悲願、本堂再興 興福寺貫首 多川俊映氏>では、多川氏のことばが私なりに響いてきました。

 

興福寺は法相宗の大本山で、多川氏は< 法相宗の根本教義は「唯識」という考えです。一言でいえば、「私たちが今、見ている世界はすべて見ている人の心の反映である」「人間は自分が知りえた限りの世界に住んでいる」ということ。>というのです。そして <「唯識」の思想に立てば、お互いの違いを知り、尊敬しあい、自分にない違いを取り込むことで発展することができます。>と。

 

人間の認識を大事にすると言うことでしょうか、それは他の何者にも影響を受けない心を大事にすると言うことでしょうか。勝手な論理かもしれませんが、そこには祖先崇拝とか、さらには永代供養とかという考えはむろん本質的なことではないでしょう。

 

興福寺では、唐に留学して一切経を持ち帰った玄昉を日本人としてかず少ない宗祖の一人とされているとのこと。彼は奈良時代、一時代を作った政治力もあった僧侶ですが、最後は左遷され誰にも知られない形でなくなっています。長く弔う人もいなかったのかもしれません。

 

話は変わりますが、今朝のNHKで、「拡大家族」というテーマを取り上げていました。縁もゆかりもない何十人かの人たちが共同生活をしている様子を報道していました。親子も一組いましたが、ほとんどが単身です。それぞれ自室があるのですが、だれもが勝手に出入りするのです。そして話し合いでそれぞれが役割分担をするのです。食事や買い物、おそらく掃除、洗濯とかの家事でしょうか。そして可能な範囲で共同して食事をとるのです。一人の生活をエンジョイしつつ、暫定家族を演じるのです。それぞれの血脈家族と少し離れて。

 

こういった家族も成立していくのでしょうね。さらに発展するかもしれません。むろん死に至る過程、死後のあり方も今後さまざまな有り様を模索するのでしょう。それは私たちに多様性のある生き方、死に方を相互に尊重する社会づくりを受け入れる用意を迫っているように思うのです。

 

 

今日はこのへんでおしまい。また明日。


性差と生き方 <人生相談 夫とセックスレス><性別変更訴訟 「手術条件」合憲><人間ってナンだ?超AI入門>などを見聞して

2019-01-28 | 差別<人種、障がい、性差、格差など

190128 性差と生き方 <人生相談 夫とセックスレス><性別変更訴訟 「手術条件」合憲><人間ってナンだ?超AI入門>などを見聞して

 

毎日の125日付け朝刊<性別変更訴訟「手術条件」合憲 最高裁決定 「残念だが区切り」申立人><性別変更訴訟「手術条件」合憲 最高裁決定 2判事「違憲の疑い」><性別に関係なく制服選択可能に 東京・中野区立中 小6アンケきっかけで>を読みながら、なにかもやもやしたものが残っていました。

 

LGBTに対する理解は私の頭の中で理解しようとしても必ずしもすっきりしているとはいえないというのが偽らざる事実です。とはいえ一人ひとりの個人の人格を尊重したい気持ちは揺るぎない思いですので、自分の中でなんらかの違和感があってもLGBTの人たちの考えは尊重したいですし、守られるべきとの思いも揺るぎないのです。

 

ですので、現行法に則り性別変更の手続をすることは当然ながら認められるべきですし、そこに何らかの制約的な圧力がかかるようなことがあってはならないとも思うのです。といっても私自身、この手続のことはこの訴訟で初めて知ったくらいですから、まだ実体を知らないままで書いています。

 

性同一性障害特例法は、同法3条で、性同一性障害者が以下の要件すべてを満たす場合、家庭裁判所に性別の取扱いの変更の審判をもとめることができるとしています。

それが次の5要件です。

一 二十歳以上であること。

二 現に婚姻をしていないこと。

三 現に未成年の子がいないこと。

四 生殖腺せんがないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること。

五 その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること。

 

今回の性別変更訴訟では、4号要件に関連して、最高裁決定要旨によれば、<審判を望む場合、一般的には生殖腺除去手術を受けていなければならない。性同一性障害者によっては手術まで望まないのに審判のためやむなく手術を受けることもあり得、身体への侵襲を受けない自由を制約する面もある>と当該規定が自由を制約する面を認めています。

 

それは申立人には酷な要求ではないかとも思いつつ、LGBTの方で心と体の一致する手術をされている方も以前から相当いたかと思います。でも取り除くとか付け加えるとか、いずれも大変でしょう。

 

ところで性同一性障害特例法は、2条において、「性同一性障害者」の定義規定を置いていますので、LGBTの方がすべてこの主体要件に該当するわけではないでしょう。

 

その定義は「生物学的には性別が明らかであるにもかかわらず、心理的にはそれとは別の性別(以下「他の性別」という。)であるとの持続的な確信を持ち、かつ、自己を身体的及び社会的に他の性別に適合させようとする意思を有する者」といういわばその人の革新的な意思を必要としています。まあこれはそれほど難しくないかもしれません。

 

他に専門医?2名以上の診断を必要としています。法文は「そのことについてその診断を的確に行うために必要な知識及び経験を有する二人以上の医師の一般に認められている医学的知見に基づき行う診断が一致しているものをいう。」としています。

 

最高裁決定では、主体要件は問題になっていないようで、上述の法文が身体侵襲という要件を課していることに一定の合理性があるとして合憲としていますが、急速な時代風潮の変化からいえば、このような決定も暫定的なものにとどまるかもしれません。

 

4号の規定がないと、性別変更後に変更前の性別の生殖機能により子が生まれた場合とか、生物学的な性別に基づく男女を区別してきた社会に急激な変化をもたらすなどとして、<規定の憲法適合性については不断の検討を要する>と留保付きながらも、最高裁決定は合憲と判断しました。

 

他方で、少数意見は合憲性に疑義を指摘し、<性同一性障害者の性別に関する苦痛は、性自認の多様性を包容すべき社会の問題でもある。一人一人の人格と個性の尊重という観点から各所で適切な対応がされることを望む。>としています。

 

同法は平成15年成立し、昨年改正されたようで(関心が薄いのでしょうね恥ずかしい限りです)、今回の最高裁決定を受け、そう遠くない時期に見直しが検討されるように思われます。ただ、自民党政権が安泰だと?どうでしょうね。

 

と今日の話題がどうも最高裁決定みたいになってしまいましたが、これはさわりでして、これからが本題です。

 

実は今朝毎日記事<人生相談夫とセックスレス=回答者・高橋源一郎>を読みながら、夫婦ってナンだというより、男女とは何か、人間とは何かをふと考えてしまい、つい先日の最高裁決定を思い出したのです。

 

セックスレスの夫婦、妻からの悩み相談です。それに対し、源一郎さんは<夫婦の問題を、とりわけ、夫婦のセックスの問題を大きなテーマとしたアップダイクには、「若い無知な女の子を誘惑するのは難しくないのに、妻を誘惑することはひどく難しい」という一節もあったと思います。お互いを求め合うことから始まる関係も、いつしか変化を強いられます。しかも、別々に。>と書いています。

 

夫婦はセックスするものとの、原始以来の?考え方は必ずしも妥当しないこと、それは夫婦間でも、男女間でも、さまざまな交流のあり方の一つのようでもあるかもしれません。それは男性も女性も個々の自由が確立していく中で、それぞれの求めるものが微妙に変化し、それに応じて順応していかないといけないのかもしれません。

 

とはいえアップダイク氏の短編小説では<「夫妻はセックスが苦痛だったので、やめることにした」という一行で始ま>り、<一見、平和で落ちついた日々が続きます。けれども、そこには、なんともいえない「悲哀」のような感情が流れていました。それをのみ込んで、ふたりは静かに生きてゆくのです。>ということで、納得ずくながら単純ではないようです。

 

最後に源一郎さんは、<どのような関係も更新しなければ続けることはできないのですから。>と素直に話し合うことをアドバイスしています。緩やかな更新には意思疎通が不可欠ですね。

 

それだけ男女の仲、夫婦の関係は、昨今単純でなくなっているのかもしれません。それが結婚したくない人たちが増えている、孤独というのか一人生活を望むひとが増えているのかもしれません。

 

あるいは男女の性差を前提に、男女が一緒になるといったことが当然の前提とする考え方、土台が揺らいでいるのかもしれません。子どもを産むことが人口減少社会で望まれるとしても、それは個々の選択を制限するものであってはならないでしょう。

 

男女の仲、夫婦の関係も、セックスが必須でなくなってきたのかもしれません。精神の進化はいまそこまでたどり着いた?のかもしれません。

 

ここで先日も紹介したNHK人間ってナンだ?超AI入門 シーズン2 3回「発想する」>で登場したAIのことを少し取り上げたいと思います。AIはマンガの外観から男女差がわかるような彩色などさまざまな要素で当然のように区別した結果を示します。でもAIエンジニア?の話では、AIは性差を理解していないとのことです。人がその画像を見てさまざまな区別をしていることがビッグデータとして入力されているため、その結果として男女の違いが現れるようです。

 

まだ人間の細やかな心理状態には到達できていないようです。さて私たちは生物学的な性差をどこまで受け入れ、その機能をどう取り扱っていくのか、ますます混沌としそうですが、それぞれの自由な考え、生き方を大事にする世の中になってほしいと考える一人です。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。

 

 


歩く道(その7) <中世名手荘と丹生屋村を歩いてみる>

2019-01-27 | 心のやすらぎ・豊かさ

190127 歩く道(その7) <中世名手荘と丹生屋村を歩いてみる>

 

昨日は当地も雪が断続的に降りました。たまにしか歩かない高齢者にとっては年寄りの冷や水以上に危ない橋を渡ることになるかもしれないと早々と歩きを断念しました。

 

今日は曇り空でしたが風が冷たく少しきつかったのですが、平日ほとんど歩いていないので、昨夕の大坂選手の元気をいただき、歩くことにしました。いや粘り強くなりましたね。我慢強くなりました。その冷静さを失わないようちょっとした仕草で気持ちを展開する様子が素直で、彼女が23歳から4歳になったと優勝記者会見でユーモアたっぷりに話していたのを見て自己分析もしっかりしていますね。

 

むろんラケットさばきはどんどん進化していることが素人でも少しはわかります。バックハンドでは、あの腰を低くしたスタイルで相手のボールを引きつけ、ためをつくって鋭く相手コートに打ち込むのは美しいですね。フォアハンドではどのように打っているのかわかりませんが、ヒッティングポイントがいいのでしょうか、強烈にサイドラインぎりぎりを狙いますね。相手のベトラ・クビドバもすばらしい集中力を見せましたね。第2セットでは大阪選手にマッチポイントを3度も握られながら連続ポイントを勝ち取りそのセットを奪い取ったのですから、さすがと思いました。この時点で、大坂選手のショックもあり、これは勝てないなと思ってしまったほどです。それを建て直して全豪オープン優勝を勝ち取ったのですから、見事でした。

 

まあこれだけの大坂選手の素晴らしい精神力・技術力を見せてもらったわけですから、私も少しは元気になろうと思った次第です。関係ないですが、私も含めすばらしい元気というプレゼントをいただいた気分ではないでしょうか。

 

さて今日の歩く道は、粉河と名手の中世時代の紛争地を訪ねることにしました。ただ、前回、文覚井の場所を見ようと思って山の中に入ったものの、事前に地図も見ずきちんと検討しなかったため簡単に見つけられると思ったところ、見当違いの獣道?歩きをしてしまったので、今度はできれば井堰のあるところを見つけようと思い、そこは車で近くまで行こうと考えたのです。

 

ところが地形図を見ないで、グーグルマップなど普通の地図を見ただけでしたので、近くまで行ったのですが、どうやら見当違いで、改めて地形図を見てから出直すことにしました。

 

だいたいグーグルマップだと、道路は割合正確に表現されていますが、川や水路となると当てにならないことが少なくありません。まあ利用者で私のような見方をする人は希でしょうから仕方ないですね。

 

桛田荘という紀ノ川北岸の、現在で言えばかつらぎ町笠田全体に近いでしょうか。現在で言えば笠田東、笠田中、萩原、窪当たりに通水していたと思われるのですが、それには北川にそびえる小高い山の背後を流れる、当時で言えば静川、北川、あるいは四十八瀬川(現在の穴伏川)のどの当たりに井堰を設け取水し、用水路をどのように通したかは興味深いところです。現在も続く誰がいつ開削したかの議論も興味深く、その領地支配の構造も気になるところです。

 

今回訪ねたところはおそらく少し上流まで行きすぎたようです。実は穴伏川を車で下っていく途中、たまたまその谷間景観を写真に撮ろうと、道路上で下車して一枚盗ったところ、自宅広場から私の方を見ている人がいて、どちらからともなく声をかけて30分近く話をすることになりました。その方Hさんから、おおよその文覚井の記念碑的な表示がある場所をうかがい、だいたいの見当がつきました。さすが地元の方、文覚井のこと、私が関心を持つ大畑才蔵のこと、よくご存知でした。小田井用水の功績の偉大さも。他方で、当時も今も農民は田んぼ一枚をとても大事にする(最近は違うという人もいるかもしれませんが、農家の意識はさほど変わっていないと私は思っています)ことを踏まえて、才蔵だけの手腕でできることではない、多くの地元の有力者なりが地元の意見を調整して協力したからできたのだと話してくれました。私も同感です。

 

帰りに、ハッサクとネーブルをたくさん頂きました。まるでNHK人気番組の鶴瓶さんや関口知宏さんみたいでしたが、まあ私の場合は普通の通りがかった歩き人(今回は車でしたが)にすぎないのですが、農村では結構そういうことがあり、そんな雰囲気が農村の良さでしょうか。

 

さてそれから1時間くらい元の名手荘の一部を歩いてみました。歩いたのは大和街道を東から西に、名手川にぶつかり、右岸側を紀ノ川まで下り、その後紀ノ川沿いを遡りました。

 

大和街道では、途中に名手谷川という幅数m、実際の水流は50㎝ほどでしょうか、小さな川を横切り、次に名手川という川幅50mくらいはあるのでしょうか、そこまで西に行ったのです。大和街道の途中にある旧名手宿本陣が国指定史跡で、その妹背家住宅が国指定重要文化財になっているところを訪ねました。

 

重要文化財ですから、表にはよくある看板に説明書きがありますね。その説明書きを見て、ふと気になってしまいました。冒頭にある「妹背家は、中世以来紀伊八庄司の一つに数えられた名家で、当時名手荘及び丹生谷を領した土豪であった。」です。

 

この「当時」が気になるのです。中世以来長く名手荘と丹生谷(村)は水、土地、山の境界を争って暴力沙汰、訴訟沙汰を繰り返しているはずです。そして私が今日訪れたのも、その争論の源である名手川を見たい、その川の東西をまたいで争った両者の土地柄を見たいと思ったからです。

 

たしかに近世初頭には両者は統合されていて、妹背家が支配していたかもしれません。しかし、それまでは両者の対立は尋常でなく、その争いは鎌倉期の朝廷、幕府を困惑させるほどでした。まあこれもいくつか文献を読んだ程度の生半可な知識ですが。たとえば服部英雄氏の<名手・粉河の山と水  ー水利秩序はなぜ形成されなかったのかー>はこの当たりを丁寧に考察していますので、関心のある方は参照ください。

 

服部氏が指摘しているように、名手川は水無川だったのですね。現在も川幅はある程度ありますが、水量はわずかです。服部氏によれば、丹生谷村は丹生屋氏が支配し、他方で名手荘は高野山が支配して、旱魃が起こると、水争いが深刻化したようです。現在の温暖化以上に厳しい炎熱状の旱魃だったのかもしれません。

 

で丹生谷村は粉河寺が背後にいて、名手荘は高野山がということで、両寺が支配権をめぐって争っていたようです。その争いが収束したのは、それまでに朝廷の裁許があっても一向に解決されなかったのですが、秀吉による粉河寺殲滅と高野山の降参ではないでしょうか。

 

高野山は名手荘の立場で、先に触れた静川(現在の穴伏川)の水利をめぐって、神護寺領?の桛田荘とも繰り返し争っています。中世は決して平和ではなく、僧侶は荘園支配を強化しようと戦い続けていたように思います。中央では鎌倉幕府の地で決着する争い、室町幕府も無秩序状態を生み出し戦争に明け暮れていましたが、紀ノ川沿いでは命の源、水利をめぐる争いをいつ終わるともしれず続いていたと思われます。それは田畑だけでなく山も。

 

そんなことを思いながら、歩きつつ、農地の多機能化の一つ、高さ3mを越えるような太陽光発電の建設中の現場を見たり、地べたを這わすような枝づくりをする柿畑を見たり、現代的な変化もまぶたに残しました。

 

いつかこの水利紛争の顛末について、整理できればと思っていますが、いつになることやら。

 

今日はこの辺でおしまい。また明日。