たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

橋本市というまちについて 隅田八幡神社人物画像鏡などから

2016-12-29 | 地域力と多様な価値

161229 橋本市というまちについて 隅田八幡神社人物画像鏡などから

 

今朝の毎日は、一面に「安倍首相 オバマ氏と慰霊 真珠湾、和解の地に 不戦の誓い堅持」の見出しで、真珠湾慰霊について取り上げ、安倍・オバマ両氏の演説全文を掲載しています。沈没した戦艦アリゾナが相当数に船員とともに海底に横たわったまま75年間も保存されていることに驚きを感じます。その上に建つアリゾナ記念館を背後に両首脳が演説した内容は、改めて戦争による影響の甚大さを感じさせ、今日はまだ触れないこととします。

 

<「原発で数千億円損失?」東芝またも債務超過の危機>との毎日記事も、その会計不正に匹敵するかそれ以上に問題が大きく、原子力事業の海外展開や海外子会社の統治能力など多くの懸案事項を含んでおり、無視できないと思いつつ、もう少し様子を見てから言及してみたいと思います。

 

他方で、今年もいろいろな大きな話題がありました。トランプ氏の大統領選勝利も驚きですが、なにか私にはレーガン氏のときと似たような印象を感じています。天皇退位のお言葉も大きいですね。いずれも私の日常には直接関係しませんが、後者は今日とりあげようかと悩みつつ、いずれは口火を切ろうとしていた隅田八幡神社人物画像鏡の解釈と関係するかもしれません。素人の私がまだ勉強のとば口にいる身として、あまり斟酌するような事柄でもないので、とりあえず書き始めようかと思います。

 

さて和歌山県橋本市という町、首都圏に居住し仕事をしてきた身としては、まったく知らない場所で、こちらに移ってくる際も、だれもどこにあるか知らない有様でした。相模原市にある橋本(駅)は、私がよく利用していた横浜線でも八王子に次ぐ大きな都会のイメージで、首都圏ではよく知られていますが、和歌山の橋本だと、どこという返事がきそうです。

 

しかし住めば都、至る所青山あり、云々は別にして、ここ橋本はいいところだと思います。心の開拓、日本(人)の文化歴史を考えるのに、なにかと参考になるものが隠れ潜んでいるようにも思うのです。といって私がこの地を特別研究したわけではないので、ほんの足がかりをみつけ、今、第二の人生を歩む気持ちで一歩ずつ不確かな道を進んでいるような気持ちです。

 

そのきっかけは、一つは江戸時代橋本から和歌山での潅漑用水を開設するなど畑地を水田に変え、米増産による藩財政の建て直し、藩主吉宗が将軍になる大きな一助となった、当地の庄屋で農業土木者であった大畑才蔵です。もう一つは隅田八幡神社人物画像鏡にかかわる諸説の解説、とりわけ最初に手に取った林順治著「隅田八幡鏡」です。人物画像鏡については橋本市で唯一?の国宝程度しか知らなかった私には、分厚いこの本は一体、何が書いてあるのだろうと興味本位で読み始め、理解できないところが多かったのですが、驚愕するばかりでした。

 

林氏は、石渡信一郎氏を師として、その理論を基に、編集者としての視点から、議論を展開しており、著名な考古学者や歴史学者の議論とは異なる斬新な見方ではないかと思うのです。記紀に記載された天皇の系譜は見事に否定されています。これには当然、いろいろなところから反論があるかと思いますが、とりあえず、人物画像鏡の銘文をどう読むことができ、それがどんな意味をもつのかを林氏の解説(石渡説)を援用したいと思います。

 

〔隅田八幡鏡銘文〕

癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長奉遣開中費直穢人今州利二人尊所白上同二百旱所此竟

 

〔石渡信一郎解読文〕

癸未年(五○三)八月、日十(ソカ)大王(昆支)の年(世)、男弟王(継体)が意柴沙加宮(忍坂宮)に在(いま)す時、斯麻(武寧王)は男弟王に長く奉仕したいと思い、開中(辟中)の費直(こおりちか)(郡将)と穢人今州利の二人の高官を遣わし、白い上質の銅二百旱を使って、この鏡を作らせた。

 

斯麻が贈ったこと、斯麻が武寧王であることは、かなり明確になってきたのではないかと思うのですが、といって断定はされていないようです。問題は、男弟王とその前の日十大王が誰(何)を意味しているかは百家争鳴?では。

 

で、この解読がどういう意味を持つかが、それこそ重大な話です。林氏によれば、

①古墳時代に朝鮮半島から多数の渡来者があったとする人類学者の新しい学説

②応神陵の年代を五世紀末から六世紀の初めとする地理学者日下雅義氏の学説

この①②に基づいて日本古代史の謎の解明を試みた結果、日本古代国家を建設したのは、朝鮮から渡来した古墳人だと考えるのが自然であるというのです。

 

そして人物画像鏡銘文の「昆支(こんき)」が百済から渡来した応神天皇であり、「男弟王(おほどおう)」は応神の弟である継体であり、「斯麻」は応神の子というのです。

 

また、応神陵(誉田陵)は五世紀~六世紀初めの倭国王の墓であり、応神が比定されるとしています。仁徳陵(大仙陵)は応神の弟である継体の墓に否定されるというのです。それを裏付けるのが人物画像鏡というのです(応神の諱も、天皇呼称も記紀による後付けですね)。

 

それを上記の著書を含め、いろいろ論証を書かれているので、読み出すと興味津々です。

 

で、それを今回語るのが本題ではありません。いずれ私なりに考えてみたいと思いますが、それよりは、橋本市という町の歴史と現状について触れてみたいと思うのです。

 

隅田八幡人物画像鏡は、橋本駅の東方にある「妻」の古墳?の中から発掘されたという伝承があります。妻という地名は、古くからあり、万葉集にも歌われたとも林氏は指摘しています。紀ノ川北岸の河岸段丘上にある小さな地域です。なぜここでというのが不思議です。

 

他方で、隅田八幡神社では記紀に名高い神功皇后から下賜されたという伝承が伝わっています。神功皇后は、卑弥呼にも比定されるように記紀が作り上げた人物と言われることもありますが、ともかく日本各地にさまざまな伝承が残っており、興味深い人です。記紀にでてくる天皇には存在感のない人物が多くいる中で、何本かの指に入るほど快刀乱麻というかすごい活躍をした人物として描かれており、その皇后からの賜り物ですので、それだけ人物画像鏡の価値がめちゃくちゃ高いはずですが、あまり注目されていないのも不思議です。

 

というのは仮に神功皇后ないしはそれに匹敵する天皇家あるいは百済王朝の人物から当地の誰かに下賜されたのだとすると、当時、当地はそれだけの何かがあったのではないかと推測することも一つの考えです。

 

そこに橋本駅の裏山、丸山という丘陵地の末端に、陵山古墳という和歌山県最大の円墳があり、それに注目している日根野氏という方もいます。名称自体、天皇陵を臭わすものですが、それはそれとして、古墳時代には一定の評価がされる勢力がこの地にあった可能性を感じさせます。

 

少し離れますが、橋本市の隣、かつらぎ町中飯降の和泉山脈麓で、縄文中期の西日本最大の大型建物遺跡が発見されたニュースが最近報道されました。三内丸山遺跡の巨大建築物ほどではないですが、これはこの地方に有力な勢力が古くからあったことを証明しているように思えます。

 

少なくとも紀ノ川上流に位置する橋本市やかつらぎ町の北岸には、相当高い文化をもつ人々が5000年の古い時代から居住していた可能性を感じています。

 

そして、かなり話は飛んでしまいますが、紀ノ川の南岸には、高野山に続く山並みが見事なほど整然と広がっています。高野の奥にも延々と連なる紀伊半島の森が広がっています。9世紀初めには空海がなぜか高野山に真言密教の拠点として開山し、その後の当地の発展の基礎を作ったように思います。

 

12世紀半ばからは西行法師が高野山に庵を設け、30年近く拠点としています。高野山では壇上伽藍の一角に西行桜と看板を立て、そのそばにある三昧院あたりが庵ではという説明もあるようですが、私は白洲正子説の、はずれに位置する櫻池院あたりが裏山に櫻があったということで、当たりではないかと愚考しています。西行が賑やかな壇上伽藍の一角に庵を設けるとはどうしても考えられません。

 

でその西行は、高野山を行き来しているわけですが、当然、紀ノ川を渡った、それはどこかというと、登り坂は慈尊院のそばを通る町石道だったと思われるので、その対岸、小田付近から渡し船で九度山・慈尊院へ渡ったのではというのが白洲説です。小田付近は氾濫原でどちらかというと少し低地で、大坂や奈良から来るとしても、うまく渡れたか気になりますが、多少上流になるし、川の流れに沿って下るのには都合がよかったかもしれないと思ったりしています。

 

その後16世紀末、応其上人が現れ、秀吉の高野山攻めを防ぎ、その功績で橋本当たりに知行地をもらったように記憶していますが、ともかく彼が紀ノ川を渡る橋を作り(すぐに流れてしまったそうですが)、橋本という名前の由来になったそうです。この上人も土木技術が優れ、紀ノ川沿いのため池を多く修復して、その活躍ぶりが記録として残っています。

 

そして次に現れたのが17世紀後半、高野弾圧に調査役として活躍した後、17世紀末の元禄期から18世紀初めの享保ころまで、潅漑事業などに奉仕したのが大畑才蔵です。

 

でこういう話をするつもりでなかったのが、なかなか終わりません。現在の橋本市に若干、触れて整理できないまま、この次に回します。

 

橋本駅を出ると、駅前はロータリー的に車の動線が割合うまくできていて、駐車場もあり、駅前広場とまでいえないですが、かなり開放的なスペースとなっています。最近まで神戸市内のある駅前開発について助言を求められ、計画内容について検討していましたが、それに比べると駅を出た瞬間の周りの様子は一見、整備ができているとの印象を受けます。

 

しかしながら、なんとも魅力のないというと失礼だが、この駅周辺を散策したくなる雰囲気は残念ながら感じません。サラ金の看板が林立する首都圏のいくつかの駅に比べれば、それがほとんどないのはまだいいですが、塾の看板がなんの統一感もなく、ただ開放的な空間に目立つばかりで、これでは他の地域から訪問した人にとってはこの町に魅力を感じることは容易でないでしょう。

 

しかし、ちょっと駅の広場からのぞく、山並みは魅力にあふれます。坂を下りると、紀ノ川が悠然と流れています。ほんとうは長良川などのように、滔々とした水量があるとより魅力が増すのではと思うのですが、か細い流れです。私が以前、川岸でフォールディングカヌーを組み立てていると、(この浅瀬で)漕げるんですかと不思議がられた、あるいはおもしろがられた?のですが、カヌーイストにとっては、日本の川では今のところ仕方がない状況ですので、それでも漕いだり担いだりして、川下りは可能なのです。

 

言い忘れましたが、この駅からの坂道沿いは、古い大和街道が東西に走っていて、そこにはぎっしりと古い家並みが詰まっていたのですが、いわゆる危険な木造密集地帯として、再開発の対象となり、現在、大きな変貌を遂げつつあります。残念な思いと、新たな町並みに再生の息吹を感じてみたいと思ったりしています。

 

この山の木々、森や川を上手に使って、魅力的なまちづくり、そして歴史豊かなまちの再生を通じて、心豊かな町になれないかと期待しています。やはり思いつきで書いているので、脈略のないまま終わりになりそうです。今年はこれでおしまいになるかもしれません。明日からしばらく冬季休暇で、PCをたたく環境でなくなりそうです。ではとりあえず今年はおしまいとします。

 

 

 

 


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