日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2016-07-13 01:29:43 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(370)

近代から現代へ(宗教改革とその後)はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その11)

 8 人生の幸・不幸は良き者の上にも、悪しき者の上にも等しく降りかかる。

 ある者はこう言うであろう。「あなたが言うところの神の憐れみが、不信心で忘恩の輩にも与えられるのは、何としたことであるのか」と。それが日毎に良き者

の上にも悪しき者の上にも太陽を上らせ、義しい者にも義しくない者の上にも雨を降らせる方によるのでなければ、いったい何であろうか。そのように考えて

前非を悔い、自らの所行を改める者もなくはない。しかし他の者は、使徒パウロも言うように、「神の慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛

と忍耐と寛容との富を軽んじ、かたくなな、悔改めのない心のゆえに神の正しいさばきの現れる怒りの日のために神の怒りを自分の身に積んでいるのであ

る。神はおのおの(前回ここまで) そのわざにしたがって報いられる」(ローマ二・四~六)。それにもかかわらず、ちょうど神がそのむちをもって良き者を忍耐

へと訓練されるように、忍耐をもって悪しき者を悔い改めへと招かれる。それは神の憐憫が良き者を包み抱き、その峻厳が悪しき者を罰するために彼らの上

に与えられるのと同じである。

 来たるべき世において、義しき者のために良き物を備えることは、神の摂理にかなうことであった。義しからぬ者がそれを享受することはない。不信心な者

のためには悪しき物が備えられる(つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968


聖書研究

2016-07-13 01:12:32 | 大分中央ウィークリー

創世記23章12節である。「アブラハムは国の民の前で挨拶をし、」という。「国の民の前で」とは、7節と同じ状況である。「国の民であるヘトの人々に」挨拶したのであった。そのときは「ツォハルの子、エフロンにお願いして、あの方の畑の端にあるマクベラの洞穴を譲っていただきたいのです。」とお願いした時であった。今度は、相応の代価を払って譲っていただいたという公的なお礼という挨拶を述べるのであった。 

「挨拶をし、」とは7節と同じ言葉であり、その言葉の直訳的意味は「ひれ伏す」である。今日でも公的な取引はこの形である。特に不動産に関してはそうである。また、ある特定(指定献金のような)の、高額な資産を動かすときもまた、このような公的な、丁寧な挨拶が必要。教会の場合は大会、中会、総会を開いて協議した結果を受けて実行するという形である。すべてを治める神に応える姿勢なのである。 

13節である。「国の民の聞いているところで、エフロンに頼んだ。『わたしの願いを聞き入れてくださるなら、どうか、畑の代金を払わせてください。どうぞ、受け取ってください。そうすれば、亡くなった妻をあそこに葬ってやれます。』」という。「どうか、~を払わせてください。」とは、エフロンが使った「差し上げます」(11節「ナーターティ」)の言葉「与える」(「ナーサン」の完了形の)と全く同じ言葉「ナーターティ」である。相手エフロンが使った同じ言葉によって実に敬意を表している。 

そのお値段をいくらご要求されても「お支払いします」という意味である。また同時にこの取引をどうしても成功させて、その地所を獲得したいという気持ちを伝えている。相当な高額を求められていたのであろう。その意味の決意といってよい。


牧 会 通 信

2016-07-13 01:07:18 | 大分中央ウィークリー

 

ダンテの「神曲 地獄」編 第13歌(カッコ内は筆子、その17)(原 光訳 2000年、沖積舎)

◯アッティラ(伝説ウンニ人の王)が残した灰燼の上にあの都市を再建した市民たちは、むだ骨折をしたことになるだろう。

おれはおれの家を自身の絞首台としたのだ。」

ダンテの「神曲 地獄」編 第14歌(カッコ内は筆子、その2)

◯湧きつのる故郷にたいする愛情に強ひられて、わたしは散らばつてゐた葉をかき集め、すでに声の弱つてゐたものに返してやつた。(前回ここまで)

◯やがてわたしらは第二(参照3月20日号、第13歌、その5)と第三環(かこい)を分つ境に来たが、そこでは正義の恐ろしい技術(たくみ)が見られた。

新奇なことがよく分るやうに言ふと、わたしらはいかなる植物も生え育たぬ荒地に着いたのだ。

悲痛な森はそこを取巻く環をなしてゐる、たぎる血の堀が森を取巻いてゐるやうに。まさにこの境でわたしらは立止まつた。(つづく)

 

◯本日は、2016年7月10日は第二十八主日、三位一体後第七主日となる。日聖協「聖書愛読こよみ」は「自然と歴史の主」という主題である。聖書はヨブ3

8・1~7、その4節、「わたしが大地を据えたとき お前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。」と、神はヨブに問う。果たして

ヨブは答え得たであろうか。

 

◯写真は、札幌北一条教会の小集会室に展示、大分県(豊後)のキリシタン迫害の立札(元禄2年、1689年閏正月)。7月6日撮影