日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2016-07-19 02:24:52 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(371)近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その12)

 8 人生の幸・不幸は良き者の上にも、悪しき者の上にも等しく降りかかる。

来たるべき世において、義しき者のために良き物を備えることは、神の摂理にかなうことであった。義しからぬ者がそれを享受することはない。不信心な者

のためには悪しき物が備えられる(前回ここまで)が良き者はそれによって苦しむことはないであろう。しかし、この世の禍福は両者に等しく与えられることを、

神の摂理は欲される。それによって人が良き物を余りにも熱望することなく(なぜなら、悪しき者もそれを所有する)、悪しき物を余りにも戦々恐々と避けること

がないためである。なぜなら、良き者もしばしばそれによって苦しめられるからである。

 しかし、もっとも大切なものはわたしたちがいわゆる順境・逆境をどのように用いるか、ということである。良き者はこの世の幸いによって高ぶることもないし、

の世の禍いによって打ち砕かれることもない。しかし、悪しき者はこの種の不幸によって罰せられる。なぜなら、彼はこの世の幸いによって堕落しているから

である。もっとも、神は現世の禍福を分かたれる方法によって、そのみわざの働きを十分明らかに示される。もし神がすべての罪をいま・この世で罰せられる

とすれば、最後の審判の日には何も残らないと思われるかも知れない。他方、もし神の力が明らかに介入して罪を罰しない (つづく)(教団出版「神の国」出村彰

1968


聖書研究

2016-07-19 02:23:22 | 大分中央ウィークリー

創世記23章13節である。「国の民の聞いているところで、エフロンに頼んだ。『わたしの願いを聞き入れてくださるなら、どうか、畑の代金を払わせてください。どうぞ、受け取ってください。そうすれば、亡くなった妻をあそこに葬ってやれます。』」という。「どうか、~を払わせてください。」とは、エフロンが使った「差し上げます」(11節「ナーターティ」)の言葉「与える」(「ナーサン」の完了形の)と全く同じ言葉「ナーターティ」である。相手エフロンが使った同じ言葉によって実に敬意を表している。 

そのお値段をいくらご要求されても「お支払いします」という意味である。また同時にこの取引をどうしても成功させて、その地所を獲得したいという気持ちを伝えている。相当な高額を求められていたのであろう。その意味の決意といってよい。 

14節である。「エフロンはアブラハムに答えた。『どうか、~』」という。大勢の前での話し合いであるから、エフロンは側近の者らと打ち合わせした上でのことのようであるが、「アブラハムに答えた。」という。重々しい返答のようである。アブラハムがそのような返答を通して具体的にどのような高額を要求されても動揺しないように、この短い言葉の間にも十分な心の準備をしていたと考えられる。 

とにかく4節で言われているように、アブラハムは全くのよそ者であった。「わたしはあなたがたのところに一時滞在する寄留者」にすぎないといっている。「一時滞在する寄留者」としてその土地の一画を取得するのは簡単なことではなかった。その上相手方のエフロンから見て、遊牧民であるアブラハム自身が相当な財産の持ち主であることがよく見えていた。エフロンにとって都合の良い客人であったといえる。


牧 会 通 信

2016-07-19 02:10:46 | 大分中央ウィークリー

ダンテの「神曲 地獄」編 第14歌(カッコ内は筆子、その3)  (原 光訳 2000年、沖積舎)

◯やがてわたしらは第二(参照3月20日号、第13歌、その5)と第三環(道、みち)を分つ境に来たが、そこでは正義の恐ろしい技術(たくみ)が見られた。

新奇なことがよく分るやうに言ふと、わたしらはいかなる植物も生え育たぬ荒地に着いたのだ。

   悲痛な森はそこを取巻く環をなしてゐる、たぎる血の堀が森を取巻いてゐるやうに。まさにこの境でわたしらは立止まつた。(前回ここまで) ◯この平地は

乾いてびつしりした砂で、かつてカトンの足が踏みつけた(前47年)、あの熱砂(アフリカのリビアの砂漠)とそつくりだ。

  おお、神の復讐よ、わたしの眼に示されたものを読むすべてのものに、どんなにおんみは恐れられることだろう!

  まる裸の霊たちの多くの群が見られたが、みんな実に惨めに哭(な)き叫んでゐて、互に異なる掟に服しているやうに見えた。(つづく)

 

◯本日は、2016年7月17日は第二十九主日、三位一体後第八主日となる。日聖協「聖書愛読こよみ」は「真の平和」という主題である。聖書はエフェソ2・

11~17、その14節、「敵意という隔ての壁を取り壊し」といわれている。どなたが、どのようにして「隔ての壁を取り壊」されるのか、よくよく考えたい。敵意と

いう隔ての壁は、表に出てこないのが普通であるから厄介である。内に秘められた「隔てに壁」を誰が破壊できるのか。この世界に一人だけ。

 

◯写真は、教会の南側の緑の「蔦」は今が盛ん。通行人に親しまれている。7月15日撮影