日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック 

2017-08-23 12:01:00 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(425)    近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その65)

  最終篇に入ります。

第二十二篇 神の国の永遠の浄福に

5.肉のよみがえりについて、世界の大部分 

の人はこれを受け入れているのに、中に

はこれを否認する者もいる。

  キリストがこの世という大海に、信仰の網とともに漁師として送り出されたのは、ごく少数の、一般的教養の理論と実際には全く未熟で、文法も習わず、論理学も知らず、修辞学の訓練もない人々であった。彼らを通してキリストはあらゆる種類の魚を集められ、さらに驚くべきことには(なぜなら稀少なものであるから)、哲学者までも捕えられたのである。それゆえに、喜ぶべきことには、上に述べた二つの信ずべからざることに、(前回はここまで)第三のことを付け加えなければならない。

  そこで、全部で三つの信ずべからざることがあることとなる。そして、それらはことごとく生起したのである。キリストは肉においてよみがえり、肉をもって天に上げられた。このような信ずべからざることを世界が信じた、という事実がまことに信ずべからざることである。さらに、世界中が、ことに学者たちが、少数の素朴で身分も低く、学問もない人たちによって全く説得されたということも、信ずべからざることである。……

  6.ローマハロムルスを神としたが、それは彼を建国者として敬愛していたからである。教会がキリストを愛するのは、キリストを紙として信ずるからである。(つづく)~(「神の国」出村彰訳)

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聖書研究

2017-08-23 11:53:14 | 大分中央ウィークリー

創世記24章49節である。「あなたがたが、今、わたしの主人に慈しみとまことを示してくださるおつもりならば、そうおっしゃってください。そうでなければ、そうとおっしゃってください。それによって、わたしは進退を決めたいと存じます。」といった。長々と34節からこの48節までの事情説明が終わると。ここにアブラハムの僕から、その相手、リベカ一族への問いかけがはじめられた。「今、わたしの主人に慈しみとまことを示してくださるおつもりならば、そうおっしゃってください。」という具合である。

 

もし、相手が断るということも考えていたのである。しかし、誠実で、謙遜な問いかけにどのように応じるのか、全く相手方の問題であった。従ってその対応も用意していた。「それによって、わたしは進退を決めたいと存じます。」という問いになった。

 

50節である。「ラバンとベトエルは答えた。「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。」といったという。「ラバン」はイサクの嫁となろうとしている「リベカ」の兄である。彼はリベカの身につけていた豪華な贈り物に驚いて、町外れの泉のほとりまで走ったのは、当然のことながら、どちらかと言うと物質に関心の強い男のようであった(15節参照)。

 

そして「ベトエル」は、「ラバン」とその妹「リベカ」の兄妹の父である。アブラハムとの関係は、ベトエルの伯父に当る。つまりアブラハムの弟ナホルとその妻ミルカとの子であった(22・20~23)。従ってイサクの嫁になる予定の「リベカ」は、再従兄弟との結婚になる。現代的には血縁関係はかなり近いのであるが、古代では普通であった。かえって衆生がよく分かって安心できたのであろう。

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牧 会 通 信

2017-08-23 11:42:47 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 17歌(カッコ内は筆子、その13)

◯腰から翼が離れるのを感じ、道から逸(そ)れたぞ! と父親が絶叫したのだが、その時の恐怖とて、  いたるところ空気ばかりで、獣だけしか見えなくなつた時の、わたしの恐怖ほど大きくはなかつただらう

  獣は泳ぐやうにしてゆつくりと進んでいく、回つて下りていくのだが、顔に当り下から吹く風がなければ、それも分らぬほどだ。(前回ここまで)

 ◯わたしはすでにわたしらの下の右手で、渦が恐ろしい轟(とどろ)きを立ててゐるのを聞きつけたので、眼を下に向けて顔を突出した。

  すると火が見え哀哭(あいこく)が聞こえたので、下るのがますます恐ろしくなり、体ぢう震へて腿(もも)と脚(あし)をぎゆつと縮めた。

  いままでは眼で見なかつたのだが、いまや大きな悲惨が八方からせり上つてくるので、ぐるぐる回つて下りていくのがはつきり分つた。(つづく)

◯本日、8月20日(日)の日本聖書協会の聖書本文は、マルコ1・29~34で、その主題は「いやしの力」であ

る。その31節「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした。」という。よ

く知られた主イエスによる最初の病のいやしである。しかも、弟子のシモンのしゅうとめであった。たちどころに

イエスの評判が広まった出来事であった。

 

◯写真は、恒例の夏期学校である。六年生の加藤優里さん(左から2番目)が朝の礼拝から初めて参加した。

 

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プロテスタントとカトリッ

2017-08-15 23:17:08 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(424)    近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その64)

  最終篇に入ります。

第二十二篇 神の国の永遠の浄福に

5.肉のよみがえりについて、世界の大部分 

   の人はこれを受け入れているのに、中に

   はこれを否認する者もいる。

  この二つの信ずべからざることのうちの一つは、すでに起こっている。すなわち、信じられないと考えられることを世界中が事実信じているということである。そうであるならば、もう一つに絶望する理由があるだろうか。すなわち、世界がかつて信ずべからざるものと考えていたことを(前回はここまで)今や信じているように、信ずべからざるものと信じられていたことが、実際に起こるという可能性に絶望する理由があるだろうか。世界が信仰を持つまでに導かれた聖書においてそのように明言されているからには、特にそうである。そして、世界がいかにしてこのような信仰に導き入れられたかを考慮すると、それはいっそう信ずべからざることであるように思われる。

  キリストがこの世という大海に、信仰の網とともに漁師として送り出されたのは、ごく少数の、一般的教養の理論と実際には全く未熟で、文法も習わず、論理学も知らず、修辞学の訓練もない人々であった。彼らを通してキリストはあらゆる種類の魚を集められ、さらに驚くべきことには(なぜなら稀少なものであるから)、哲学者までも捕えられたのである。それゆえに、喜ぶべきことには、上に述べた二つの信ずべからざることに、(つづく)~(「神の国」出村彰訳)

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聖書研究

2017-08-15 23:14:13 | 大分中央ウィークリー

創世記24章48節である。「わたしはひざまずいて主を伏し拝み、主人アブラハムの神、主をほめたたえました。主は、主人の子息のために、主人の一族のお嬢様を迎えることができるように、わたしの旅路をまことをもって導いてくださいました。」という。一方的な長い話はここまでです。その締めくくりが大事です。「主は、~わたしに旅路をまことをもって導いてくださいました。」と締めくくりました。

 

一千キロに及ぶ旅路のいろいろなことが思い出されたようである。しかしそのどの部分をとっても主なる神ご自身の導きであり続けたといっているのであり、それ以外のことは考えられないと、神ご自身との完璧な一体性を語っているのである。これは、わたしたちの人生の旅路のすべてについていえるのであり、詩人の言葉90編の最後の言葉を思い出す。彼は「生涯の日を正しく数えるように教えてください。」という。

 

49節である。「あなたがたが、今、わたしの主人に慈しみとまことを示してくださるおつもりならば、そうおっしゃってください。そうでなければ、そうとおっしゃってください。それによって、わたしは進退を決めたいと存じます。」といった。長々と34節からこの48節までの事情説明が終わると。ここにアブラハムの僕から、その相手、リベカ一族への問いかけがはじめられた。「今、わたしの主人に慈しみとまことを示してくださるおつもりならば、そうおっしゃってください。」という具合である。

 

もし、相手が断るということも考えていたのである。しかし、誠実で、謙遜な問いかけにどのように応じるのか、全く相手方の問題であった。従ってその対応も用意していた。「それによって、わたしは進退を決めたいと存じます。」という問いになった。

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