日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2016-10-31 22:28:28 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(386)   近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その25)

⒖.マルクス・レグルスは、宗教的信仰のゆえに喜んで捕囚に堪えた人々の偉大な範例である。しかし彼の異教的信仰は、彼からその益を奪い取ってしまった。

有名な異教徒の間にも、宗教のゆえに進んで捕囚に堪えたきわめて崇高な実例が存する。ローマ軍の司令官だったマルクス・レグルスは、カルタゴに捕われの身であった。彼を捕らえた者たちが捕虜の交換を望み、その交渉のため代表を

派遣した際、彼らはレグルスを一緒に送った。しかしその前に彼らは、もしも交渉が失敗に終わった場合には、レグルスがカルタゴへ帰るという約束を取りつけた。ところがレグルスが元老院に出頭したとき、彼は正反対の論を立て、捕虜の

交換はローマにとって好ましくないと述べた。ローマ人は彼の論議を受け入れた。彼らはレグルスがカルタゴへ帰るように強制したわけではないが、彼はひとたびそれを誓ったからには果たさなければいけないと言って帰還した。カルタゴ人

は恐ろしく巧妙に工夫された拷問によって彼を殺した。彼らは小さな木箱に彼を閉じ込めたが、箱はたいへん小さかったので彼は立っていれなければならなかった。箱の各面には鋭い釘が打ちつけてあったので少しでも依りかかろうとすれ

ば、彼は恐ろしい苦痛を味わわねばならなかった。かくして彼は睡眠を奪われて、殺された。

 このような勇気はまさしく賞賛に値する。これが示されたのが、恐るべき状況の下に~ (つづく)(教団出版「神の国」出村彰訳1968より

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聖書研究

2016-10-31 22:17:21 | 大分中央ウィークリー

創世記24章7節である。「天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を

連れて来ることができるようにしてくださる。~』」という。このアブラハムの言葉は、嫁探しに行く息子イサクをその行き先の故郷に残してきてはならないという理由を述べている。

 

その理由は何んといっても、その昔はハランを出てカナンの土地に入ったときの神の約束の「あなたの子孫にこの土地を与える」(12・7)という言葉にあった。ここでもその言葉がそのまま、寸分たがえずそのまま繰り返している。ここに彼に

与えられた神の約束を信じるその心の堅さをあらわしている。それゆえ彼の確信は、必ずや嫁が神の力によって与えられ、嫁を連れて戻ってくると考えていたようである。

 

8節である。「もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は、わたしに対するこの誓いを解かれる。ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。」という。確かに神の約束を信じて待つという堅い信仰があ

るが、それにもかかわらず、何が起こるか実際にはわからないというのが、われわれの人生とこの世の現実である。

 

それゆえ「もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、」と前置きが必要になって来る。こちらの思いや願いがかなわなかったときのことを考えておかねばならない。女の側に連れて行かれることだけは避けてほしいと。願いでは

ない、「この誓いを解かれる。」という。そこで僕の嫁探しの勤めは終わるのであった。 

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牧 会 通 信

2016-10-31 22:01:57 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第14歌(カッコ内は筆子、その17)

◯レテはやがて見るだろうが、この地獄穴の外にあつて、悔悟して罪が取除かれるとき、そこへ霊が身を洗ひ浄めに行くのだ。」

 それから言つた、「いまや森から離れねばならぬ、さあ、わたしについてくるがいい、焼けてゐないこの緑が道で、

 この上では落ちかかる火がみんな消えてしまふのだ。」(前回ここまで) ダンテの「神曲 地獄」編 15(カッコ内は筆子、その1)

◯いまやわたしらは堅固な緑に支えられて行く、小川の水蒸気が上に蔽ひかかり、火から水と堤を守つてゐる。

 フィアミンゴ人はグイツァンテ(現在フランス領、北東地域の、カレーの近く、西端)とブルヂア(現在ベルギー領、東端)の間(約65哩)で、襲ひかかる波浪を恐れて、海が押し返されるように堤防を築き、

 またバドヴァ人はブレンタ川に沿つて、キアレンタナが熱を感じて雪解する前に、自身の市(まち)と城を守るためにさうしたが、 (つづく)

 

◯本日、2016年10月30日は、第四十四主日となる。日聖協「聖書愛読こよみ」は「最終の戦い」という主題。聖書はⅠペトロ5章8ある。Ⅰペトロ5・8~11節、その8節である。「身を謹んで目を覚ましていなさい。」といいう。その理由は

一つである。続けていう。「あなたがたの敵である悪魔がほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。」と。もし失敗して禍があれば、その敵の罠にかかっただけである。気をつければ避けられる。失敗を繰り返しな

がら人は成長する。失敗を恐れてはならない。

◯写真は、新しく取り替えられた立看板であるが、この下が、ネットゲーム、ポケモンのバトル場にされた。

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プロテスタントとカトリック

2016-10-27 15:03:06 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(385)   近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その24)

⒕ キリスト信者が捕らえられたときも、彼らは霊の慰めを奪われることがなかった。

彼らがその神を見いだすことができない所へ連れ去られてとしたならば、それはもっとも悲しむべき(前回はここまで) ことだっ

たであろう」。しかし聖書はそのような災難の中にあって与えられる大いなる慰めについて、多くの実例を示している。三人の

若者も捕われの身であったし(ダニエル書三・一以下)、ダニエルも、他の預言者もそうであった。神は彼らと共にいまして、彼

らすべてを慰められた。神はその信仰者を見捨てられなかったことは、たとえ野蛮・未開であっても、やはり人間の手に彼らを

委ねられたことからも知られる。神は怪獣の腹中においてさえ、その預言者を見棄てられなかったのである(ヨナ物語)。

ところが、わたしたちの討論相手は、このような物語を信ずるどころか、嘲笑するだけである。それにもかかわらず、彼ら自身

がその文学作品[ヘロドゥトゥス]の中の物語を信じている。それによれば、優れたハープ弾き、メティムナのアリオンが舟から

投げ落とされたとき、いるかの背中に乗せられ、無事に岸まで運ばれたという。預言者ヨナについてのわたしたちの物語は、

いっそう信じ難い。それがいっそう驚くべきことであったので、いっそう信じ難いのも確かである。しかしその不思議さはそこに

示されている力の大きさと釣り合いが取れている。 (次⒖.マルクス・レグルスは、~つづく)

(教団出版「神の国」出村彰訳1968より

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聖書研究

2016-10-27 15:01:08 | 大分中央ウィークリー

創世記24章6節である。「アブラハムは答えた。『決して、息子をあちらへ行かせてはならない。』」という。「行かせてはならない」ときっぱりと答えた。それは神の約束の厳しさを表現しいるといわねばならない。人間的には、どちらでもよいと言えないわけでもない。しかしアブラハムにはそのような考えは全くない。なんとしてもカナンの地に連れて来なければならないといっている。 

家を継ぐ者がいないので、アブラハムが『家の僕(エリエゼル)があとを継ぐことになっています。』といったときに、主なる神は言われた。15章7節です。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」といわれたのでした。この約束が、それからのアブラハムの行動と、その全生涯を決定しました。それゆえ断固として決意を披瀝した。 

7節である。「天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。~』」という。このアブラハムの言葉は、嫁探しに行く息子イサクをその行き先の故郷に残してきてはならないという理由を述べている。 

その理由は何んといっても、その昔はハランを出てカナンの土地に入ったときの神の約束の「あなたの子孫にこの土地を与える」(12・7)という言葉にあった。ここでもその言葉がそのまま、寸分たがえずそのまま繰り返している。ここに彼に与えられた神の約束を信じるその心の堅さをあらわしている。それゆえ彼の確信は、必ずや嫁が神の力によって与えられ、嫁を連れて戻ってくると考えていたようである。

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