日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

次週の礼拝説教の予告

2017-10-10 18:00:31 | 大分中央ウィークリー

2017年10月15日朝礼拝10:20.

説教「パウロを監禁したままにしておいた」

聖書:出エジプト記20章8~21節,使徒言行録24章1~27節.交読文42讃美歌211,277,436,28.

 

同夕礼拝18:30

説教「回 心」

聖書:詩編69編2~16節、マタイによる福音書21章28-32節、夕讃美歌149,431,436,28.

 

 

2017年10月22日朝礼拝10:20.

説教:、「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭」

聖書:エレミヤ書38章1~9節,使徒言行録25章1~12節.交読文43.讃美歌11,169,433,29.

 

同夕礼拝18:30

説教「刈り入れの時」

聖書:ハバクク2章1~4節、マルコによる福音書4章26-29節、夕讃美歌492,300,449,29.

 

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プロテスタントとカトリック

2017-10-10 17:50:02 | 大分中央ウィークリー

 

五、「教会とわたしたち」(431)        近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その71)

  最終篇に入ります。  第二十二篇 神の国の永遠の浄福に

  7.この世がキリストを信じるに至ったのは、人間的な説得の結果ではなく、神の力の結果である。

  8.この世をキリストの信仰へと獲得するためになしとげられ、世界が信ずるに至った今でもなされている

      奇跡について。

最近のわたしたちの間でも、一つの奇跡が起こった。それは前に起こったほど大きな奇跡ではないが、しかしきわめて有名で広く知られているので、ヒポの人であるならそれを直接目にするか、または耳にするかしなかったはずはない、とわたしは(前回はここまで)考える。だれもこれを忘れることができないのは確かである。カパドキアのカエサリアから来た七人の兄弟と三人の姉妹がいた。彼らの父親は最近世を去り、母親は貧乏なままで取り残されたのである。子どもたちは残された母親に対しまことに不親切だったので、母親は貧乏のまま取り残されたのである。子供たちは残された母親に対しまことに不親切だったので、母親は立腹のあまり子どもらに呪いをかけた。たちどころに神の裁きが彼らを捕え、彼らは手足が震える恐ろしい病に取りつかれた。町の人々の好奇のまなざしに耐えることができず、彼らは衝動の命ずるままに各地をさまよい、かくしてローマ世界のほとんど半分を経巡って来たのである。

  彼らの二人、パウロとパラディアという兄妹は、わたしたちの町へやって来た。わたしたちは他所から達し (つづく)(「神の国」出村彰訳)

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聖書研究

2017-10-10 17:44:42 | 大分中央ウィークリー

創世記24章56節である。「しかし僕は言った。『わたしを、お引き止めにならないでください。この旅の目的をかなえさせてくださったのは主なのですから。わたしを帰らせてください。主人のところへ参ります。』」といっている。アブラハムの僕が考えて行動してきたことは何事によらず、彼自身の考えではなかった。必ず祈って行動していたと思われる。従って、短時間の一瞬の判断には違いないが、祈りによるその答を現している

 

10日間の猶予も許されないとは、人間的な意味では厳しいが、神の御心への応答とはそういうものである。これは旧約聖書全巻に通じる、基本的なわれわれの理解であり、判断といわねばならない。今日の考古学的な作業の結果が、全て聖書に記されたとおりであるということは、ただただ驚きであり、神のみ心が後からわれわれに追確認させられるのである。ここの歴史的事実も後の作業の進展が期待されるところである。

 

57節である。「娘を呼んで、その口から聞いてみましょうと彼らは言った。」と。もともと、彼らが「娘をもうしばらく、十日ほど、わたしたちの手元に~」(55節)といったのは、娘本人のこれからの生活を思って、心置きなく、その育った家を出て行く準備をさせたいし、また、準備をしたいからであったと思われる。しかしその気持ちを受け入れられないなら、これは娘本人の気持ちを聞いてみる以外の残された道はない。

 

当然のことながら、娘は娘でこの年頃にはどうすべきかを考えているのが普通である。今日といえども、時代、民族、国籍は違っても同じである。つまり人の世界は同じ、ということができる。従ってリベカの両親と兄は、リベカ本人をこのところに呼んで、「その口から聞いてみましょう」と、当の本人に聞いてみる方法を取った。

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牧 会 通 信

2017-10-10 17:33:59 | 大分中央ウィークリー

ダンテ(1265-1321)の「神曲 地獄」編 18歌(その5)   (原 光訳 2000年、沖積舎、)

◯最初の鞭打ちで罪人たちの踵がなんと高く上がつたことだろう!第二、第三の鞭打ちを待つものは一人もゐなかつた。

  進むうちにわたしの眼は一つの霊に出会つたが、わたしはすぐにかう

言つた。「たしかにこのものは見たことがあります。」

  それでわたしが熟視するために立止まると、優しい先達もわたしとともに立止まり、いくらか後戻りするのを許してくれた。(前回ここまで)

◯鞭打たれるそのものは顔を伏せれば隠れられると思ひこんでゐたが、それもむだだった。わたしは言つた、「おお、眼を地に伏せてゐるものよ、

  そなたの顔形が贋(にせ)でなければ、そなたはヴェネディコ・カチャネミコだ、だがなぜこのヅキヅキする責苦を受けてゐるのだ?」

  すると言つた、「これは言ひたくないのだが、もとゐた世界を思ひ出させる、そなたの明確な言葉のために言はずにはゐられぬ。 (つづく)

 

◯本日、10月8日(日)の日本聖書協会の聖書本文はマタイ4・17~22で、その主題は「招きのことば」と。18~19節、イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、『わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう』と言われた。」と。よく知られているペトロとアンデレの二人の若い漁師の召命、主の招きの場面。「人間をとる漁師」との「ことば」がすばらしい招きとなった。

写真は、上野が丘教会墓地にある一本の大木(左、高さ約20m)を伐採してほしいとの要望が住民(右)から出ていると土地共同管理の聖公会大分教会から報告を受けた。

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プロテスタントとカトリック

2017-10-04 01:02:35 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(429)

近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌ

ス著「神の国」(1968.教団出版)(その69)

  最終篇に入ります。

第二十二篇 神の国の永遠の浄福に

  7.この世がキリストを信じるに至ったのは、人間的な説得の結果ではなく、神の力の結

      果である。

8.この世をキリストの信仰へと獲得するためになしとげられ、世界が信ずるに至った今

    でもなされている奇跡について。

であるから、わたしたちが聖書のうちに読むような奇跡を行われた神は、今日でもそのみこころにかなった人を通し・方法によって、多くの他の奇跡を行っておられるのである。ただ、これらは余り広く知られていないだけである。それらは砂利道の小石のように、繰り返し読むことによって記憶の中に固定するまでにはなっていない。近来(前回はここまで)わたしたちは、このような〔ふしぎな〕わざによって益を受けた人々の物語を公衆の面前で読み上げる習慣を始めた。しかしそこに居合わせた者でも、ただ一度耳にするだけであり、しかも信者の大部分はそこにはいないのである。数日も経つうちに出席していた者も聞いたことの記憶を失い、祖金出席していなかった他の人に、自分の聞いたことを話して聞かせうる者は、ほとんどいない。

最近のわたしたちの間でも、一つの奇跡が起こった。それは前に起こったほど大きな奇跡ではないが、しかしきわめて有名で広く知られているので、ヒポの人であるならそれを直接目にするか、または耳にするかしなかったはずはない、とわたしは(つづく)(「神の国」出村彰訳)

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