明鏡   

鏡のごとく

テレビは外で見るもの

2010-06-18 13:10:59 | 小説
 しばらくして、家内の父親がやって来た。
古びたブラウン管のテレビと一緒に。
本当にテレビをしょってやって来たのだ。
 

 いやいや、お世話になりますたい。


 家内の父親が、杖をつきながら、傍らに家内を引き連れてやって来た。

 実際、お世話とお相手をするのは、テレビと家内であるかもしれないが。と思いながら、


 いえいえ、こちらこそ、どうぞよろしくお願いします。


 等と、通り一辺倒のことを言って、とりあえず、家内の父親が椅子に座るのを見つめていた。


家内は手慣れたように、父親を椅子まで誘導し、子どもに話しかけるようにして言った。


 ねえ、夜ご飯はなんがいいね。
 だいたい昔みたいに何でも食べられるとやろうもん。


なぜか、急に、お里の方言を放言し出した。
家内の父親は田舎もしょってやって来たらしい。


 なんでん、よか。
 ちきーとしか喰われんけんね。
 手間はかけんでいいけん。
 たべられるもんなら、なんでんよか。


 そうね。それじゃあ、魚の煮物でもしようかね。
 最近、家ではあんまり食べとらんけど、ああいうものの方が食べ易かろう。


 おらあ、なんでんよか。なんでんよかって。


 家内の父親は、遠慮なのか、本心からなのか分からないが、そういって訳も分からず、にやにやしていた。
結婚した当初に会ったときの、目だけがぎらぎらした人を見透かそうとした警察官の尋問官のようないかつさは消え、げっそりした頬には、何でもかんでも喰い荒らしていたという、かつての面影は消え失せていた。



 こどもたちはどうしたあ。


 ああ、子ども達は、剣道の練習が終わって、近所の友達と外でサッカーをしてますよ。


 こどもはそれでよか。それでよかとって。勉強もせないかんけどな。
 わしがおった警察で、若いときは機動隊で柔道ばしよって、ケツから血が出るまで練習ばしよったですもんね。
 剣道もしよったが、柔道がばさりこ強かあ。なんてえいっても素手で戦えるけんねえ。


 ははは、そうですね。
 ちなみにお父さんは何段なんですか。


 七段までいったばってん、高校出て警察に入ったけん、柔道だけできても、身体壊したらどうしようもなかと。
 ひとつひとつ階級試験ば受けていかないかんかったけん、そらあ、大変やったばい。
 その点、最初から大学出は、警部補ぐらいからの出発やから、スタートからおまけつきたい。
 おれみたいなもんは、なかなか上に行かれんように、できとうけんな。
 それでもくさ、毎日、夜中まで勉強して、警部補試験受かったけんな。あれから、おれの運が廻って来ったったい。


 その後、国際交流基金から、柔道の講師として、中東のイランに行かれたんですよね。


 そうたい。一年だけ、警察ば休業してからくさ、イランに行ったったい。
 こいつらも一緒に連れて行こうと思ってな。
 まだ小さかったけん、ようわからんかったかもしれんがな。


 家内が口をはさんできた。


 そうそう。わりと面白いことしか覚えていない。最初に行った、イランでのことって。
 週末になったら、近くの緩やかな坂を上っていってさ。公園で焼いてるトウモロコシとか、綿菓子やバスタニー、あ、バスタニーはペルシャ語で、意味はアイスクリームなんだけど、風船なんかも買ったりして、用もないのに、ぶらぶらしてたよね。


 あの時は、まだ、王政でくさ。イランも景気がいいとこはそこそこ景気が良かったと。
 酒もあったし、チャドールを着とる女の人と着とらん人の割合は3/7くらいやったかなあ。


 ときたま、公園とか道を歩いておると、顔を隠した女の人が赤ちゃんをのけぞらせて抱きかかえて、
 プール ベデェ お金くれ 
 って言われても、どうしていいか、わからんかったけど。


 イラン・イスラム革命後、今度は警察の試験に受かって警察から外務省に出向する制度が出来たての時に、また、イランに4、5年行くことになったろうが。
 あの時、王の別荘といわれとる家に行ったのば、覚えとるかあ。お前。


 覚えとるよ。
 あの時、イメルダ婦人の靴の話じゃないけど、王の奥さんの靴の話も聞いたんよね。
 革命が起こって、国外に亡命する時、持っていけないくらいの靴が山積みになってたって。
 記念館みたいになってる王の別荘の管理人のおじさんが言うとったよね。 


 そうたい。
 履ききれないほど靴が山積みにされたところには、いずれ革命か政変が起こる。っちゅうことや。


 そういえば、イラクの現状を泥沼化させたことに対する怒りのあまり新聞記者に靴を投げつけられた、アメリカの大統領もいましたね。
 銃をとれ。ではなく、靴をとれ。っていう感じですかね。


 まあ、そういうことたいね。
 素性はどうあれ、革命防衛隊かもしれん学生や若者、その前の王政の秘密警察的なサバクにおったかもしれないものも、関係なく、可愛い生徒やったけんね。


 イランの大学でも柔道、教えとったもんね。そういえば。


 そうたい、ミスタージャポネっち、よばれとったったい。
 なんか、生意気なことしよると、ばたばた、なぎ倒してやるけんな。
 だあれも、かかってこんかった。
 イランの人は、そもそも、礼儀がなっとうけんな。
 昔の日本人が少しばかりは気にしとったものを、彼らは持っとった。


 そうやね。みんな、人なつこかったよね。
 日本に帰って来て、何がそんなに怖いと思われとうのか、さっぱり分からんかったもんね。
 そこにいったことがないものにとっては、テレビや報道で聞いたことが全てやけんね。
 少なくとも自分の目で確かめてからやないと、無闇に判断できんなあと、身に染みたけどね。
 あれから。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テレビは外で見るもの

2010-06-18 10:19:14 | 小説
  それにしても、君のおやじさんは、いつやってくるんだい。
 そろそろ、やってくる時間ではないのかい。

家内は淡々と言った。

 そうね。もうすぐ迎えに行く時間。
 こっちにきたら、車高の低い車を改造してね。
 自分で運転できるようにしたいんだって。
 私が横に乗っていたら、いざという時にブレーキが利くようになるかなとも思ってるけど、半身動かない状態だから、どこまで動けるかが、鍵になるわね。
自動車教習所みたいに、助手席にも、ブレーキペダルが欲しいところだけどね。


 我が家の車を改造するのかい。
 まあ、別に、普段それほど僕は乗らないからいいけど。


 差し当たり、手元にあるもので、代用できるものは、代用すればいいと思って。
 長年使ってぼろぼろだから、多少の傷も気になりにくいしね。
 リハビリも兼ねての車だから、ちょうどいいかなと。


 構わんよ。僕は。


 それじゃあ、私、ちょっと行ってくるわ。


 家内がとあるところに預けていた父親を迎えにいくということで、自分は、新しい年老いた家族を迎える為に、部屋を片付けるながら待つことにした。
 自分の両親も、そのうち、世話になることもあるかもしれないので、お互い分担しておけることは分担することが、暗黙の了解であった。

 人一人死ぬまでに、どこで、どのように過ごすか等、考えたこともなかったが、彼女の父親を見ていると、あれだけ、家に寄り付かない、登校拒否の子どもがいると言って相談に乗り、そのままその女の口車と肢体にのってしまった、母親の苦労も知らない、外面ばかりのよい父親であったと家族からののしられながらも、最後は病院ではなく、家で思うが侭に暮らしたいと思うのであるから、不思議ではある。
 最小にして最大の自由。
 あるがままの生活。
 原則はあるのかもしれないが、規則はない。
 がらんどうの自由。
 自分の自由。
 時分の自由。

 生の最後に向かうものは、もしかして、そういったことなのかもしれないが、たとえそうだとしても、今の自分には、これといって自由が見当たらない気がしている。
 家に居ながらにして、家内に占拠されて、反旗を翻してみてもどうということはなく、家外から帰ってくると子どもがいることで、自由はないかもしれないが、がらんどうではないことは確かだが。
 
「生活」は善かれ悪しかれ、どろどろと赤黒く流れて来た溶岩が固まったと思ったら、その裂け目からぱっくり赤々と煮えたぎったマグマを吹き出し続けて、休む暇さえないものであった。

 我が家には、時間をつぶすと言われているテレビという箱もない。

 家という時間箱だけではなく、家族がそこに蠢めき続けていることが、今の僕の「生活」であった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする