明鏡   

鏡のごとく

久津媛・比佐津媛・ひむかひめ・卑弥呼・神功皇后

2022-08-28 01:04:51 | 詩小説
久津媛・比佐津媛・ひむかひめ・卑弥呼・神功皇后が、同一人物ではないかということを考察しながら、物語っている「悲恋の女王 久津媛」福本英城著を拝読。

その後、暑い最中、日田に住みながら日田の歴史を紐解くことがなかったと思い至り、時間を作り、会所山(よそやま)にある久津媛神社まで登った。

鳥居の前に、社のような、茅葺か板葺かの屋根の江戸時代くらいに作られた石灯籠のようなものがあった。

よく見ると、ところどころ、古い石が積まれている。石垣と、石垣が崩れた跡と。

船型の水桶が、久津媛を祀っていると思われる小さな社を目指しているように置かれていた。


前書きによると。〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ひさつひめとは日田のひめという意味であるが、日田はかつては日向(ひむか)と呼ばれていたらしい。日向という字は、日高、そして日田と転化した。だからひさつひめはかつてはひむかひめと呼ばれていたに違いない。久津媛とは卑弥呼のことだという論拠の一つである。

ところが、卑弥呼と景行天皇とが同時代であろうはずがない。
卑弥呼神が「人と化為(な)って」というのは、卑弥呼神が「景行天皇の時代に、ある人物に乗り移って現れた」と解くべきだろう。

「景行天皇の時代」というのも、史実としては明らかではない。

ところで、日田の会所山(よそやま)に伝わる伝承には、神功皇后についての説話がほとんどで、あたかも久津媛とは神功皇后であるかのようだ。しかも、山中には、「皇后天皇の手洗いの泉」とか「皇后の腰掛椅子」などと呼ばれる遺跡が現存する。

神宮天皇といえば、日本古代史に燦たる女帝として、まさに卑弥呼神が「人と化為(な)って現れる」にふさわしい人物である。

しかし、この神功皇后についても、史実としては明らかではない。

特に、常識では、景行天皇と神功皇后との間には、二代にわたる時代差があることから、二人の取り合わせに異議を唱える人は多かろう。

ところが、拙著「記紀が伝える邪馬台国」で詳しく述べたが、景行天皇とその孫とされる神功皇后の夫、仲哀天皇とは実際には実の兄弟であったらしい形跡が見える。

そして、何よりも筆者が日本古代史の秘密を解く極め手となったのは、仁賢紀にある
「母(おも)にも兄(せ)、吾(あが)にも兄(せ)、吾が夫はや」
という絶妙なキーワードがある。
(「記紀が伝える邪馬台国」参照のこと)


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

筑紫の『天津日継(あまつひつぎ)』の神事を務めていた当時の皇后は、会所山の社に篭って、神に仕えてさえいればよかったが、仁賢天皇が皇后に『天津日継(あまつひつぎ)』の鏡を含めた神宝を携えて都に来るようにと促したと思われる。

日女大神すなわち天照大神が「この鏡は、もはらわが御魂として、わが前を拝(いつ)くがごと拝きまつれ」と後代に伝えた鏡が、金銀玉をちりばめて竜が絡み合った模様を掘り出した鏡で、『天津日継(あまつひつぎ)』の鏡といわれ、この鏡が皇后と日田にある限り、『天津日継(あまつひつぎ)』の神事は、日田で行われていた。筑紫の天皇のために。
日田まで、出向いて『天津日継(あまつひつぎ)』の神事をすることがはばかられるようになったのは、筑紫から中央へとその当時の中央が動いたことが影響していると思われる。
日田の会所山(よそやま)は、もぬけの殻のように、ひっそりとし、誰もこない草深い小山は、その影を帯びているように見えた。

筑紫に渡来した民族の走りの物部氏は、その当時、筑紫のあちこちに勢力を築いていた。
「日の河」と呼ばれる筑紫大川の流域に広がる日向地方には、古来日の神信仰が普及しており、日の神を奉る霊山があり、その聖域は「いわくま」あるいは「いわい」と呼ばれる列石で囲まれていた。「奥津(おきつ)余曽」と言われる日田の会所山、「中津余曽」の朝倉の杷木山、「辺津余曽」と言われる高良山の神域にいれば「日の神」の加護が受けられ、同じ日の神を信奉する渡来系の物部に対する圧力ともなると思われたが。

こちらも渡来したと思われる日田のたしまの日鷹の娘が神宝が「奥津(おきつ)余曽」と言われる会所山(よそやま)を発とした時に、隠したものが、日田に残っており、その神事を本当の意味で受けるために筑紫の血を引く譽津別(ほむちわけ)皇子はわざわざ日田までやってきた。
一年中で一番太陽の力が弱くなる時、新しい帝が立つ時、この日の朝に、『天津日継(あまつひつぎ)』を受けるのが筑紫の天皇の習わしという。

丸太作りに茅葺の屋根。筵の壁。のような伊勢神宮にも反映されていると思われる当時の神殿で神事を行ったであろうが、二棟のうち一棟にある神殿の「真床おぶすま」で皇子は媛(皇后)を待ち、石座の「天の八道股」に一筋の光が差した瞬間に媛は羽織っていた襲(おすい)の前を光を見に受けるようにはだけ、その足で、神殿の皇子の待つ「真床おぶすま」に入るという。

この神事は、五穀豊穣を願いつつ、日の神の力をもっとも太陽の力が弱まった日の、次の朝に生まれ変わる太陽の再生を体現するかのようであるが。

ここにきて、ものがたりの中であれ、この国の、見えなかったものが、日のもとにさらされていくようで、今の状況も、当時とさほど変わらないことを何とはなしに思う。

そもそもそこにいたであろう、縄文を生きてきた人々はどうなっていたのかが、何より、知りたいことではある。



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天草島原の物語

2022-08-18 08:20:15 | 詩小説
昨日、柳川文芸誌「ほりわり」の会議があり、ほりわり三十六号の合評会があった。

天草本「いそっぽの物語」の絵本を書いておられる、かとうむつこさんのお話をお聞きした。「ほりわり」の表紙絵を描かれていることもあり、とても暖かい天国をモチーフにしたような柔和な絵面。おじゃる言葉のイソップ物語、百話の「いそっぽの物語」の朗読版をいただいて、帰りの車の中で、はるみさんと聞いていた。
やはり、お声も優しく、賛美歌のような、どこか聖書を読み聞かされているような、心持ちがしていた。
いそっぽの物語の後に、格言のように、「下心」というものが入っていて、それは、当時のいそっぽものがたりを編集したかとうさんの旦那様の家系の伊丹一族の女性が、書き加えたものということで、天下を切るような、あからさまな批判もあり、物語の物語たる姿が浮かび上がってきて、物語らずにはおれないものの叫びのようで、滅ぼされたもの、食われたものの悲しみのようなものが、物語る際には、動物に姿を変えてはいるものの、残響のように今に伝わっているようでもあった。

この本を現代でも読んだり聞いたりできるように、編集され自作自演で臨まれた、優しげなかとうさんの声に、ご先祖様が乗り移ったように、流暢なおじゃる言葉が車内に響いていた。さしすせそ、は、しゃしぃしゅしぇしょ、で表現されていて、博多ん言葉も、当時の面影が残っとるということで、当時の言葉の響きを楽しむだけでなく、今も生きている言葉の再生力というか、持続力、変化しながらも意味を変えたりしながらも、残っていくものの底力のようなものを思った。

偶然、前日まで、長崎で、キリシタンの拠点である外海の出津(しつ)集落の、結婚前の若い女性が働いていたそうめん工場やマカロニ工場跡、寝泊まりしていたところの祈りの場なども拝見していたので、全体像とまではいかなくとも、貧者と裕福なものへの関わり方のようなものがぼんやりと見えてきた気がした。
貧しい生活を強いられたものたちにはそうめん作りの機械やマカロニ製造を教えて、西洋の食生活を浸透させていったり、祈ることで救われるというような思想を植え込んで行ったとも言えるかもしれないと。
また、キリシタンの精神性を浸透させようとしていた宣教師たちが日本語を習う手立てとしての、いそっぽものがたりでもあったというが、文字を堪能することができて比較的生活に余裕があったであろう、当時の公家や武家のものには、ものがたりを持ってきて、当時貴重で画期的なグーテンベルグの印刷機で3,000冊も刷って、公家や大名などにも配られたそうである。ヨーロッパでは、三百冊ほどしか印刷できなかったというので、日本人の器用さが際立っていたとおっしゃっていた。北斎などの版画にも通じるものがあり、日本人には、印刷的なるものは、それほど、馴染みがないわけではないものだったとも言えそうであるが。

マリア像やヨセフ像、貧者の父ヴィンセンシオアポロ像が立ち並ぶ寝泊まりし祈りの場でもあったところに、やはり、当時珍しく、高価であったオルガンがあり、音が鳴らなかったのをなおして、弾けるようになったということで、案内役のシスターが慈しみ深い曲を弾いてくださった。当時もこの音を聞いていたのだろうと思うと時が重なったような、時間を超えているような、心持ちなった。
ここは、余計なものがない。と思った。祈りはあったにしろ。最低限度の生活の場。と言って仕舞えば、そうなのかもしれないが。
お茶室に感じるものが、そこにはあった。
余計なものがない。という一点に置いて。

遠藤周作の母を巡る旅のようなものも外海で拝見した。
キリスト者でいながら、母から訳も分からず洗礼されていた遠藤の、キリスト教との距離感を知り、彼がユングをよんでいたと知り、ユングは、道教など東洋思想にも共感していたので、キリスト教的なる西洋の一神教的宗教と無為自然的な東洋の森羅万象的宗教感の間を行き来するには、いい道先案内だったので、彼も、どどくらい道にあっても、どこか、自分の見てきた道を、キリシタンの小西などに投影しながら物語る術を身につけていき、そこで、物語とともに、自分を昇華していったのだろうと思うと、今の自分もまた、そこを通りながら、自分の見てきた道を物語ることで、今のコロナの騒ぎ立てすぎる時代の悪露のようなことどもを超えていけるような気がしていた。

旅行者がPCR検査を受けたら半額になるというホテル代のことを聞き、里に帰るついでや、旅に出るものがこぞって、検査をして、この頃、やたらと感染者数がうなぎ登りに大きくなっている意味がわかった気がして、気持ちが悪いと思っていたのもあるが、税金であろうとすればするほどお金は生まれるというのに、PCR検査を受けさせたいがための取り決めなどいらない。皆に税金をかけず、幸福を行き渡らせるならいざ知らず。
 目先のことだけに踊らされたくないものは、ただ淡々と、余計なものがなくとも、居心地の良いものを、作っていくだけであると思わずにおれなかった。
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